糸子が夏木マリになってから、昔の朝ドラの映像がネタ振りにしか思えないくらい何度も流されていたし、演出チーフのインタビュー記事に2011年まで描くと書いてあったので、最終回でドラマが始まる様子が描かれるのは、決まりだと思っていた。きっと、大半の人もそう思っていただろう。それが、こんな見事な使い方になるとは。これには本当にやられた。
半年間の物語を見てきた後に、初回でのあの「ふたりの糸子の歌」!これは実にうれしい。そして椎名林檎のオープニングテーマまで流れ出す。まさに初回の繰り返し。これが最終回のエンディングとなって、いつものお人形たちの映像の上に、印象深いシーンをちりばめた走馬燈が重ねられている。そして出演者やスタッフの名前の最後に「小原糸子 尾野真千子」の文字。さらに番組最後に、クランクアップのときの三人の糸子の笑顔の写真。ああ、終わってしまったんだ。
それにしても久々に、「ふたりの糸子の歌」で初々しい十代の糸子を演じている尾野真千子の姿を見ると、この人が見せる表情が素晴らしかったから、このドラマを好きになったんだと改めて実感できた。
最終回の話で、だんじりの日、末期がんの加奈子さんがまだ生きていたことは、予想が外れても、これはこれでうれしい。現実はそう都合良くはいかないのは知っているけれど、それでもキセキが起きることは願い続けたい。
病院で小走りの看護師が通り過ぎると、入り口の自動ドアが開き、優しい風が吹き込んでくる場面は、糸子が病院に入ってきたのを表しているのだろう。朝ドラお約束の幽霊表現になるのだろうが、ここでは糸子の姿をわざわざ映さない。それが、くどくなくていい。
看護師がロビーのテレビの前に連れてくるおばあちゃんは、すんなり奈津だと思った。解説音声で確認してもちゃんと、そう言っている。台詞ではっきり言っていないのは、解釈にわざと幅を持たせたのだと思う。奈津でもいいし、奈津や糸子と同じ時代を生きた女性でもいい。奈津の人生は極端すぎるけれど、それぞれのかけがえのない人生を歩んできたあなたたちに、同じ時代を駆け抜けた女性たちの物語を届けますという描写になるだろう。
きっと糸子は奈津と一緒にこのドラマを見たくて、この病院に来たのだろう。だんじりの日の洋装店二階のサロンでは三姉妹の誰もドラマ化の話に興奮する糸子の存在に気付かなかったけれど、奈津にはしっかりこの場に訪ねてきてくれた糸子の姿が見えているだろう。尾野真千子の最終回のとき、お母ちゃんにお父ちゃんの姿が見えていたように。そういうことを想像してしまう。
最後のおばあちゃんの世界で流れている「カーネーション」は、最終回になったとき、きっと今回のそれではなくて、尾野真千子の最終回で終わるのだろう。そう考えないと、このおばあちゃんは最終回の放送ではドラマの中に組み込まれた自分自身を見ないといけなくなるから。そして、夏木マリの演じた物語は、晩年の糸子を姿を描くと共に、尾野真千子が演じた朝ドラが生まれるまでを描いた違う階層の物語で、それを共通する出演者で引き続き放送していたと考えることにしよう。
もうこれでこのお話ともお別れかと思うと、喪失感も相当なものだけど、最終回の「ふたりの糸子の歌」の歌声をきいたせいか、不思議なくらい充足感を持っている。