今から書くことは、去年Facebookに書いたものの転載です。思い立って書いてみたものの、そのときは続きを書けませんでした。 今回はうまくいくと思います。この解釈は以前示した、兜をした子供はクピド、鎧の中にいる子はハルモニア、残りの二人のサテュロスは、デイモス、フォボスであるということを前提にしています。
次の引用は『物の本質について』のラテン語冒頭です。
Aeneadum genitrix hominum divumque voluptas
Alma Venus: caeli subter labentia signa
Quae mare navigerum: quae terras frugiferenteis
Concelebras: per te quoniam genus omne animantum
Concipitur. visitque exortum lumina solis.
それでは、ラテン語の『物の本質について』を言葉遊びで意味を変えて、《ヴィーナスとマルス》の絵の描写の説明をしてみましょう。様々な要素が描きこまれている絵に対して、それに合うように単語の意味の都合よく選んでいけば、こじつけでどこかにぴったりなものを見つけ出すことができるかもしれません。まあそうかもしれません。しかし、これから示すように数十行にわたって絵に合わせられるという事実は、ただの偶然やこじつけだけでは説明できないのではないかという話です。その中には言葉遊びでできあがる表現にしか、その奇妙な描写の理由を見つけられないようなものも見つかります。
Botticelli と依頼者は当時のフィレンツェの言葉で絵の意味を考えていたことでしょう。偉大なるダンテのおかげで現代イタリア語は古いトスカナの言葉が基礎になっています。したがって、ラテン語の意味を現代イタリア語に訳せば、この絵の描かれた当時の意味にかなり近似させることができます。当時の言葉の厳密な研究をすれば、もう少し正確な答えになるかもしれませんが、それは現代イタリア語を使った解釈が分かってからやれば十分でしょう。なお今回はイタリア語は単語の意味調べだけで、それを日本語に訳して文の意味を確定します。補足的に英語による解釈も添えておきます。
まず、最初の行です。
Aeneadum genitrix hominum divumque voluptas Alma Venus:
本来の意味は次のようになります。
アイネイアスの子孫(ローマ人)の母であり、人と神々の悦びである、命を育む女神ウェヌスよ!
Aeneadum は男性名詞Aeneadesの複数属格です。Aeneadesの複数形での意味はイタリア語でdiscendenti di Eneaです。Eneaというのがイタリア語でのアイネイアスのことで、つまりこの語はアイネイアスの子孫たちという意味になります。アイネイアスは、人間アンキセスと愛の女神ウェヌスとの間の子で、ローマ建国の英雄です。ローマ人はその子孫ということになりますから、Aedeadesという言葉はローマ人全体を表す呼び名として使われます。しかし、この絵にはローマ人もアイネイアスも描かれていません。この意味ではこの絵を作ることはできません。そこで Aedeadesの別の解釈を言葉遊びで考えなくてはいけません。しかしもしかするとこの変換がこの絵の中で一番難しい言葉遊びかもしれません。
ここでイタリア語でのこの語の意味を考えます。discendenti di Eneaです。このdi Eneaはラテン語ではAeneiusです。この言葉と近い綴りの言葉にaeneusがあります。「i」が一つ足りないだけの言葉です。この語の意味は di bronzo(ブロンズでできた)です。Aeneiusをわざとaeneusと間違えて、Aeneadesの意味をdiscendenti di bronzoと解釈し、「ブロンズでできた子孫たち」と変換します。なお、aeneusはブロンズだけでなく銅そのものや銅を含んだその他の合金を表すこともあります。
この絵の中には金属製の防具が描かれています。確実にブロンズ製かどうかははっきりしませんが、ブロンズは金属の比率でいろんな色になるので、どれもaeneusであると考えます。金属製の兜をかぶっているのはクピドで、画面右下で鎧の中に入っているのはハルモニアです。彼らは防具を身に着けているので、aeneusという形容に合っています。そして彼ら二人はともにウェヌスの子どもなので、彼女の直接の子孫であることに違いありません。したがって、discendenti di bronzoの意味で解釈したAedeadesの複数形は「ブロンズの子どもたち(ブロンズを身に着けた子どもたち)」という意味に変換できます。
ところでAeneiusをaeneusと綴りを間違えて描いたのだと考えながら、ハルモニアを見てみると一つ面白いことに気付きます。それはマルスの左手が支えている金属の棒です。その存在はもちろん以前から気付いていますが、aeneiusからaeneusへ変換を踏まえてみると、この棒がいままでと全く違って見えてきます。これは綴りから脱落した「I」そのものを表しているのではないでしょうか。この棒が不自然に直立して描かれている理由は、それが「I」を表していることを明確にするためではないでしょうか。背後にあるハルモニアの防具に重なるように描かれているのも意図的なものに思えます。この解釈を採用すると、aeneusであるハルモニアと棒を重ねることで、本来のAeneiusを表していることになります。では一方のクピドはどうかというと、そこには垂直な「I」はありませんが、ちゃんと「I」に見えるものがあります。それはクピドがしっかりと抱きかかえている槍です。水平になっていますが、これも確かに「I」の形をしています。同じようにaeneusで頭を包んだ彼と「I」を重ねることで、Aeneiusを表していることになります。
「ブロンズの子どもたち」に変換されたAeneadumの複数属格がgenitrixを修飾することになりますが、ここにいるのは彼らの母親ウェヌスなので、意味的にも問題ありません。genitrixの格は主格か呼格となりますが、近くに動詞が見つからないので呼格とし、「ブロンズの子供たちの母親よ!」となります。
次はhominumです。意味は通常「人」という意味になりますが、この絵にはサテュロスと神ばかりで人は描かれていないようなので、別の意味を探す必要があります。探していくと、イタリア語でsoldati(軍人)やfanti(歩兵)の意味があることが分かります。確かにこの絵には兜をかぶったり、槍を抱えたり、勇ましくホラ貝を吹いたり、鎧の中に潜り込んでいる、かわいい子どもの兵士たちが描かれています。
次の単語はdivumqueです。後ろにくっついてるqueは接続詞で、前の語句と並列されていることを示しています。divumは通常は男性名詞 divusの主格か呼格か対格の単数ですが、詩的な表現ではその複数属格と扱われることがあります。本来の訳でもそのように複数属格と解釈されています。 volputasは女性名詞volputasの単数主格か呼格ですが、ここでは呼格と解釈します。hominum divumque volputasをまとめると「兵隊さんたちと神々の悦びよ!」となります。
問題はこの語句がこの絵で何を表しているかです。兵隊さんたちの悦びとは、おそらく無邪気な子どもたちの様子を表しています。クピドたちも本来は神々ですが、サテュロスの姿をしているため、この絵ではそうは呼べません。したがって子どもたちの様子は「兵隊さんの悦び」となります。実際に悦んでいる表情に見えるのは真ん中の男の子と、右下のハルモニアです。ちゃんと複数になっています。「神々の悦び」の方はというと、子どもたちは神として描かれていないので、必然的にウェヌスとマルスのことになります。ウェヌスの表情は笑顔に見えなくもないですが、マルスは眠っていて表情が分かりません。したがって二人に悦びがあるとすれば、それは二人の性的関係の暗示だと考えた方がいいでしょう。
残りは「Alma Venus」です。女性名詞Venusは単数主格か呼格です。それを修飾するalmaは形容詞almusの活用形ですが、確かに修飾する名詞と一致して女性単数の主格か呼格のなっています。この絵の中で彼女は自らの子どもたちに囲まれているので、形容詞almusの意味はイタリア語でche nutreと考えていいでしょう。つまり二つの単語からなる語句の意味は「子どもたちを育てるウェヌスよ!」となります。
この文章をまとめると、
ブロンズの子どもたちの母親よ!兵隊さんたちと神々の悦びよ!子どもたちを育てるウェヌスよ!
となります。
英語だと
The mother of children in bronze! Delight of the soldiers and Gods! Nursing Venus!
この絵を表す詩の意味としてはとてもよい出だしとなります。
次の文です。
caeli subter labentia signa quae mare navigerum: quae terras frugiferenteis concelebras:
天の滑り行く星々の下、船の行く海を、実り豊かな大地をあなたは祝福したもう。
この文の意味をこの絵に合わせていきます。まず次の語句、「caeli subter labentia signa」を考えます。caeliは本来の解釈通り男性名詞caelumの単数属格とします。この語はイタリア語ではcieloになります。本来この詩では「空、天」の意味で使われますが、「神」という意味でもあるので、それを使います。labentiaは動詞laborの現在分詞で、signaは中性名詞signumです。前置詞subterの支配下にあるので、labentia signaは複数中性対格です。labentia signaの意味は、本来「滑るように進む星々」となりますが、この絵に合うような意味を探すと、laborはingannarsi「間違う、誤る」と意味、signumはsegno(記号)が見つかります。つまり「間違った象徴」です。caeliをこれらの語句を修飾すると考えると、「caeli subter labentia signa」の意味は「神の間違った象徴の下にいる」となります。この神をクピドだと考えると、目隠しの布の代わりの兜、矢の代わりの槍が、間違った象徴となります。
残りは「quae mare navigerum: quae terras frugiferenteis concelebras:」です。この文は、動詞を共有した関係節と考えます。つまり、「quae mare navigerum concelebras」と「quae terras frugiferenteis concelebras」となります。concelebrasは動詞concelebroの二人称単数現在です。二人称なので主語はあなた、つまりウェヌスです。mareは本来「海」と訳しますが、ここでは名詞mas「男性」の単数奪格と考えます。navigerumは形容詞navigerの単数中性対格とし、名詞とみなします。つまり、mare navigerumは「男性のところにある航行可能な物を」とします。この言葉と絵との対応はちょっと苦しいです。マルスの下にあるバラ色の敷布は左足の先で引っ張られ、船の縁のように曲げられています。つまりこのバラ色の敷布全体を航行可能な物、つまり船とみなすことができます。これは今回の解釈の中で一番苦しい変換だと思います。次は動詞concelebroの意味です。この単語にはいろいろな意味がありますが、この場合はfrequentare「通う、しばしば会いに行く」が合っているでしょう。したがって「quae mare navigerum concelebras」の意味は「あなたは男のところにある航行可能な物(バラ色の敷布)に通っている。」となります。
次は「quae terras frugiferenteis concelebras」です。terrasは女性名詞terraの複数対格で意味は「大地」です。frugiferenteisは形容詞 frugiferensの複数対格です。意味はfruttifero「実りの多い、生産力のある、多産な」です。まずウェヌスの左の足首が置かれているぎっしりと草の茂った地面は、確かに「多産な大地」の意味に解釈できます。しかしこれでは複数形を表せません。そこで少し意味をひねります。この語をイタリア語でsuolo(地表)と訳します。さらにこの語suoloのトスカーナ方言にある「層状のもの」の意味を採用します。そうするとウェヌスの体の下にあるクッションがこの意味に解釈できることに気付きます。このクッションには金色の三つの層状の模様が描かれています。そして表面には花柄の金色の刺繍が施されています。たくさんの花があるということはつまり将来多くの実をつける多産なものです。次は、動詞concelebroの意味ですが、先ほどの「通う」では意味が通じないので別な訳popolare(住みつく)を使います。つまり「quae terras frugiferenteis concelebras」は「あなたは多産な層状のもの(クッション)に居ついている。」となります。
これらをまとめると、次のようになります。
神の間違った象徴の下で、あなた(ウェヌス)は男(マルス)のところにある航行可能な物(バラ色の敷布)にしばしば通い、多産な層状のもの(クッション)に居ついています。
この文章はそれほど直接的ではありませんが、性的な意味合いになっています。
英語だとおそらくこうなるでしょう。
under wrong symbols of God, you go often to the navigable near man, you populate on the fertile stratified thing and ground.
次の文です。
per te quoniam genus omne animantum concipitur.
あなたによって全ての種類の生命が妊娠させられます。
この絵に合わせてほんの少し意味を変えます。quoniamは接続詞か副詞で、ここでは英語のbecauseに相当する接続詞と考えます。この文の動詞は concipiturで、受動態の三人称単数現在です。本来の主語はgenus omneになりますが、この絵では代名詞が省略されていると考えます。したがって今回の解釈ではgenus omneは単数対格となります。animantumは形容詞もしくは名詞のanimans複数属格で、本来の解釈と同じでgenus omneを修飾しています。これらを絵の描写に合わせます。animansは本来、名詞だと「生命」、形容詞だと「生きている」になりますが、他に形容詞で「賑やかな」という意味があります。これはこの絵に描かれている子どもたちの様子にぴったりな言葉です。これを名詞化して「賑やかな者たち」とします。今度はこの語が修飾しているgenus omneを考えます。本来の詩の意味では「全ての種類」としていましたが、genusをnascita(誕生)と考えると、この絵に合います。つまり、 genus omne animantumを「賑やかにしている者たちの全ての誕生を」と解釈できます。
この絵に描かれている子どもたちは、クピドを除いて、デイモスとフォボスとハルモニアは三人ともマルスとウェヌスの間の子どもです。したがって今回の語句「genus omne」で示される子どもたちは「デイモス、フォボス、ハルモニア」でなくてはいけません。実際、クピドの顔が隠れていて表情から活発さがうかがえないことや、槍にしがみついているだけの仕草からも、彼がanimansに含まれない可能性を示しています。
なおクピドは一般にはウェヌスの子どもとされていますが、神話によってはウェヌスより先に存在した原始の神であり、ウェヌスの誕生とともにその従者となった存在です。クピドのお腹をよく見ると、体の向きのせいかもしれませんが、あるべきところにへそが描かれていません。似たような体の向きであるデイモスとフォボスのお腹を見てみると、しっかりとへそが描かれているので、クピドにへそがないのは体の向きなどではなく、女性から生まれていない属性を示していると推測できます。
したがって全体は次のようになります。
彼(マルス)は賑やかにしている者たちの全て(デイモス、フォボス、ハルモニア)の誕生をあなた(ウェヌス)によって得ています。
となります。英語だとこんな感じです。
he is received every birth of lively children by you.
次の文はこれです。
visitque exortum lumina solis.
そして彼らは生れ、太陽の輝きを目にします。
この文の意味を変えます。visitqueのqueは文をつなぐ接続詞です。visitは動詞viso(じっと見る)の現在時制か完了時制の三人称単数です。exortumは動詞exoriorの動詞状名詞supineか、完了分詞です。この動詞にはnascere「生まれる」の他にも様々な意味がありますが、ここではlaversi「起き上がる」とします。これを名詞化した単数主格と考えて、「起き上がった者」とします。この絵のウェヌスを表していると考えます。luminaは中性名詞lumen(光)の主格、呼格、対格の複数です。主格は既に決めたので、ここでは対格として考えます。
lumenにもいろいろ意味があるのですが、ウェヌスの視線の先にあるものと合致するものを探すと、occho(目)が見つかります。つまりウェヌスの方を見ているサテュロスの目ということになります。複数形なので、ちゃんと両目になります。ここまでで、「起き上がった者は両目を見詰めています。」。残るsolisですが、これは本来、男性名詞sol(太陽)の単数属格と解釈するのですが、今回は中性名詞solum(地面)の与格もしくは奪格の複数と考えます。奪格を処格として考えれば、ウェヌスの足は地面に触れているので「地面のところにいる」という意味で使えそうです。しかし、数が合いません。そこでもう一つ別の単語の活用形を考えてみます。それは中性名詞solium(椅子)の与格もしくは奪格の複数です。そしてウェヌスの体の下にあるクッションのことを指していると考え、これも奪格であるとします。意味は「玉座のところにいる」となります。しかしこれも数が合いません。ここで重要なのがウェヌスが両方に接していることです。地面とクッションの両方合わせて、複数とすれば、うまく数を合わせることができます。solumとsoliumは別の単語ですが、複数奪格のときは同じ形のsolisと表記できるので、このような言葉遊びが可能になります。いままでウェヌスに関する記述は二人称になっていたのですが、ここでは三人称の文で表記されています。
この文をまとめると、次の意味となります。
そして地面と玉座の上で起き上がった者は(サテュロスの)両目を見詰めています。
英語で示すと、次のようになるでしょうか。
and the person sitting up on the throne and the ground gazes at eyes.
まずは、5行訳してみました。所々苦しいところもありますが、言葉遊びによってこの絵の描写にすることができました。たった5行を説明するのにこれほどの言葉を尽くす必要がありますが、これだけ複雑だからこそ、今までこれが答えとして認識できなかったのだと思います。