今回は第21行目から第27行目までです。これで以前(2012年2月)解釈した部分の直前まで進みます。
Quae quoniam rerum naturam sola gubernas:
Nec sine te quicquam dias in luminis oras
Exoritur: neque fit laetum: neque amabile quicquam:
Te sociam studeo scribendis versibus esse:
Quos ego de rerum natura pangere conor
Memmiadae nostro: quem tu dea tempore in omni
Omnibus ornatum voluisti excellere rebus.
以前の解釈で何故この部分を含めなかったのかというと、固有名詞が使われていたりと、絵の描写に変換することがとても難しくてできなかったからです。本来の訳すら構文が難しくて以前はできませんでした。今回もそうとう手こずりましたが、なんとか、この絵らしい解釈ができたと思います。
quae quoniam rerum naturam sola gubernas
quaeは疑問代名詞quisの女性複数主格か中性複数主格/対格、疑問形容詞quiの女性単数主格か女性複数主格か中性複数主格/対格、関係代名詞quiの女性単数主格か女性複数主格か中性複数主格/対格。quoniamは接続詞「するやいなや、だから」。renumは女性名詞res「物、事象」の複数属格。naturamは女性名詞natura「出生、自然、本質」の単数対格。solaは中性名詞solum「底、地面、床」の複数主格/呼格/対格、もしくは形容詞solus「ひとりの、仲間のいない」の女性単数主格/呼格/奪格か中性複数主格呼格対格。gubernasは動詞guberno「導く、支える、支配する、水先案内する」の二人称単数現在。
冒頭の関係代名詞quaeは、接続詞と代名詞として解釈します。女性単数主格なので、「そして彼女が」となります。もちろん彼女とはウェヌスのことです。動詞が二人称単数なので、ここで三人称の代名詞を使うのはちょっと奇妙ですが、そのウェヌスに二人称で呼びかけているので、これでいいでしょう。quoniamは接続詞で、この節が理由を表していることを示しています。rerumは次のnaturamを修飾する名詞属格と考えて、合わせて「物の本質」とします。もちろんこのrerum naturamこそが、この文書のタイトルである『DE RERUM NATURA』に使われています。この節の動詞はgubernasです。これは二人称単数現在で、主語は前の行までの内容からウェヌスを指す省略された二人称tuとなります。そしてそのまえのsolaはその主語を修飾する形容詞となり、「たったひとりのあなたが」となります。まとめると「そしてウェヌスよ、あなたおひとりが物の本質を支配しているのだから、」となります。
それでは絵に合わせた解釈を考えます。本来の解釈と同じ構文になっているとします。そうすると、女性形のsolaのために、主語は女性である必要があります。この絵で女性となると、ウェヌスか右下にいるハルモニアのどちらかにです。solaの意味からすると、ウェヌスよりもハルモニアの方が合っていそうです。ウェヌスのそばには寄り添うようにクピドがいます。しかしハルモニアは画面の右下の角とマルスの左腕と突き棒でできた矩形の中に閉じ込められて描かれています。ハルモニアのこの様子がsolaと言えるでしょう。
次は動詞の意味を考えます。gobernoのイタリア語の意味はgobernare「治める、統治する」です。さらにこの単語には「世話をする、飼育する、耕作する」という意味もあります。この意味で思い出すことがあります。以前アナクレオンの詩の解釈を行ったとき、ハルモニアが農業をやっていることが分かりました。動詞gubernasの意味はこの解釈に合致します。ここまでで「あなたはひとりで世話をしています。」となります。
あとは残ったrerum naturamで植物を表せればいいわけです。naturaの意味はイタリア語でもnatura、このnaturaには天然物という意味があります。resの意味にaveri「財産」(名詞avereの複数形)があります。これを使うとrerum naturamは「naturare averi(財産の天然物)」となります。これがハルモニアが左手で抱え込み所有権を主張しているかのようにみえる緑色の植物の実を表せます。
問題はquaeです。これは今まで解釈した部分でどこかハルモニアを解釈した部分もしくは解釈しなければならなかった部分が必要でしょうが、とりあえずは単に「そしてそのあなたが」と訳しておきます。まとめると次のようになります。
そしてその隔離されたあなた(ハルモニア)が財産の天然物を管理しているのだから、
and therefore you (Harmonia) isolated govern the natural object of the property,
nec sine te quicquam dias in luminis oras exoritur: neque fit laetum: neque amabile quicquam:
necは副詞/接続詞neque「ではない」。sineは奪格支配の前置詞「〜なしに」。teは代名詞tu「あなた」の単数対格/奪格。quicquamは代名詞quisquam「any、anuone」の単数主格/対格、これは冒頭の否定詞necと一緒になって「誰も/何も〜ない」となります。diasは女性名詞dia「女神」の複数対格、もしくは形容詞dius「神々の、神聖な」の女性複数対格。inは奪格/対格支配の前置詞。luminisiは中性名詞lumen「光」の単数属格。orasは女性名詞ora「縁、海岸、領域」の複数対格、もしくは女性名詞ora「大綱」の複数対格、もしくは動詞oro「懇願する」の二人称単数現在。exoriturは動詞exorior「出現する」の三人称単数現在。nequeは副詞「ではない」。fitは動詞fio「なる、生じる」の三人称単数現在。laetumは形容詞laetus「太った、繁茂した、愉快な」、もしくは男性名詞laetum「喜び」の単数対格。amabileは形容詞amabilis「愛す価値のある、可愛らしい、甘い」。quicquamは代名詞quicquam「何か」の中性単数主格/対格。
この文の動詞はexoriturで、主語は否定詞necを伴ったquicquamです。これだけで「何者も現れない。」という意味になります。sine teで「あなた(ウェヌス)無しに」です。名詞の属格luminisもorasを修飾していて、対格支配の前置詞inの目的語になっています。このluminis orasは意味が分かりにくいですが、orae luminis「光明の世界、生あるものの世界」として辞書に載っていて、私たちのいるこの世界を意味しています。形容詞diasは前置詞よりも前にありますがoraを修飾しています。まとめると、「何ものもあなた無しには神々しい光の領域に現れることはない。」となります。たったひとりで世界を支配しているので、ウェヌスがいなくなれば、すべてが存在しないというわけです。次の語句は、neque fit laetum quicquamとneque fit amabile quicquamという二つの文を省略したものだと考えます。主語はそれぞれlaetum quicquamとamabile quicquamで、動詞fitは受動態で「作られる。生じる。」になり、それがnequeで否定されています。まとめると、「喜びも一切無いし、愛すべきものも一切無い。」です。
これも絵に合わせた解釈をします。ここでもteはウェヌスではなく前の行と同じで右下のハルモニアを表すとします。sine teは「あなた(ハルモニア)無しでは」となります。次に、in luminis dias orasの意味ですが、これは以前やったようにlumenの意味に「目」があることを利用します。すると、「目の神々しい縁に」となります。彼女は神同士の子なので、神です。したがって目の縁も、自動的に神々しいものになります。この句の残りは本来の解釈のままにします。これは否定の文ですが、非現実な否定なので、結局現実に存在していることを表しています。つまりハルモニアの目の縁には何かがあるわけです。実際ハルモニアの目には確かに何かがあります。金色の目やにのようなものです。他の人物の目の周りを見てもこんなものは描かれていません。
あとはlaetumとamabileの意味を少し変えるだけで済みます。laetumのイタリア語の意味にはrigoglioso「繁茂した、生い茂った」があります。そしてamabilisはイタリア語でamabileですが、これにはワインの味などで使う「甘い」という意味があります。laetum quicquamは葉の茂ったものとなり、ハルモニアの左肘にかかっている葉の茂った植物を表します。そしてamabile quicquamは先ほども出てきた左手で抱え込んでいる何かの果実です。これはメロンやスイカのような甘い実なのでしょう。
まとめると次のようになります。
あなた(ハルモニア)がいなければ、目の神々しい縁に何も存在しない。葉の茂ったものも作られない。甘いものも作られない。
without you (harumonia) anything does not exist in divine edge of eye. anything leafy is not made. anything sweet is not made.
te sociam studeo scribendis versibus esse:
teは代名詞tu「あなた」の単数対格/奪格。sociamは女性名詞socia「仲間、妻」の単数対格か、形容詞socius「仲間の」の女性単数対格。studeoは動詞studeo「強く願う、専念する、支持する」の一人称単数現在。scribendisは動詞scribo「書く」の動形容詞複数与格/奪格。versibusは男性名詞versus「一行、詩、溝」の複数与格/奪格。esseは動詞sum「be、exist」の不定法現在、もしくは動詞edo「食べる」の不定法現在。
この文の動詞はstudeoなので、主語は一人称でルクレティウス自身になります。この動詞が不定詞句te sociam esseを目的語にとっています。この不定詞句の構造は、ウェヌスを表すteが不定詞の意味上の主語で、対格で表されていて、さらに補語のsociamが主語と同格になるため、これも対格になっています。この不定詞句の意味は「あなたが仲間であること」です。そして動形容詞scribendisで修飾された奪格名詞versibusが目的「書かれるべき詩のために」を表しています。まとめると、「書かれるべき詩のために、あなた(ウェヌス)が仲間であることを私は強く願う。」となります。
絵に合わせた解釈してみます。構文はとりあえず本来のものと同じに考えます。まずこの文は一人称で書かれています。ここでversibusという言葉を調べてみます。するとイタリア語訳にsolcoがあります。solcoの意味には「畝、額の皺、轍、溝、割れ目」があります。この絵の中でこの単語が描かれている場所を探すと、ウェヌスの服にあるたくさんの襞が目に付きます。teは今の解釈の流れではハルモニアとなるでしょう。scriboは今回のversusの意味から、「書く」ではなく「描く」と訳すことにします。
次にscribendis versibusが奪格なのか、与格なのか、奪格ならば文の中でどのような役割かを考えてみます。そこでじっくりウェヌスの服の襞の部分をよく見てみると面白い描写があることが分かります。ここには人の姿が描かれています。いくつかの場所に分かれて、それぞれ複数の人物が描かれているように見えます。人々が騒いでいるようにも見えますし、男女が戯れているようにも見えます。もっと高い解像度の画像が手に入ればはっきりするでしょう。そうすれば、他にも描写が見つかるでしょう。
まだはっきりはしませんが、この描写からscribendis versibusを二つに分けて考えるアイデアが浮かびます。つまり、versibusを場所を表す奪格とし、scribendisを手段を表す奪格と解釈します。つまり「襞のところに描かれるべきものよって」とします。そしてte sociam esseの解釈ですが、sociamは「女性の仲間」や「妻」と訳せますが、この描写から「妻」と訳し、「あなた(ハルモニア)が妻であること」とします。ところで、この動形容詞は未来のことを語っているわけで、そこに既に人影が描かれているというのはちょっとつじつまがあいません。これを解決するにはもう少し先に進まないといけないようです。
この文の解釈の問題は一人称の主語です。これはいったい誰でしょう。登場人物の中の誰かでしょうか。登場人物で一番の候補はウェヌスです。しかし登場人物以外にも可能性があります。絵を描いているボッティチェリや、詞の内容を考えている人物です。もっと他の人物の可能性もあります。ここまでの情報では判断が付かないので、それが分かるまでは「私は」とします。
わかりにくいので、さらに拡大してみます。
じっくり見ていくと、襞の間にいくつも人の姿に見えるものが見つかります。マルスの指が大切なものを指さしていたように、ウェヌスの指先を注意深く見ると、何かが見えてきます。左手の指先にも奇妙な描写があります。人差し指と中指の間に人影のようなものが見えます。
右手の指先には、顔らしきものがいくつかかたまって見えます。その右には口を開けた二匹の蛇が向き合っている模様に見えます。ハルモニアとその夫カドモス王は晩年蛇に変身してしまうことを暗示する描写なのかもしれません。ということはここに描かれている描写は、ハルモニアのカドモス王との結婚の物語がその場面場面で描かれているのかもしれません。さらに右の方には二つの顔が寄り添うような人影もあります。
さらに右の方を探してみると、人のように見える模様が見つかります。母子像のようにも見えますが、男女を描いたものにも見えます。どちらにしてもこれはとても意図的な模様でしょう。偶然の色の濃淡が人の顔に見えているだけには思えません。もっと解像度の高い画像が必要です。
他にも、ウェヌスの内ももには次のような模様があります。
scribendis versibusというラテン語がなければ、こんなにウェヌスの服の襞の中をじっくり見ようなんて思ってもみませんでしたが、この言葉が示すとおりに、この襞にはいくつもの何かが確かに描かれています。もっと細かく見られれば、その内容ももっと詳しく分かるでしょう。
解釈をまとめると、こうなります。
私は襞のところに描かれるべきものによってあなた(ハルモニア)が妻となることに専念します。
I desire you (Harmonia) to be a wife by what should be expressed on the folds.
quos ego de rerum natura pangere conor memmiadae nostro
quosは疑問代名詞quis/関係代名詞qui/疑問形容詞quiの男性複数対格。egoは人称代名詞の一人称単数。deは奪格支配の前置詞「from、about」。rerumは女性名詞res「物、事象」の複数属格。naturaは女性名詞natura「出生、自然、本質」の単数主格/呼格/奪格。pangereは動詞pango「打ち込む、(詩を)作る、表現する」の不定法現在、命令法受動態二人称単数、受動態未来二人称単数。conorは動詞conor「試みる」の一人称単数。memmiadaeは男性名詞memmiadae「メンミウス家の者、メンミウスの子孫」の単数属格/与格か複数主格/呼格。nostroは男性名詞noster「私たちの人々」の単数与格/奪格か形容詞noster「私たちの」の男性/中性単数与格/奪格。
この文の動詞はconorで主語は一人称単数のegoです。動詞の目的語は不定詞のpangereです。de rerum naturaは先ほども出てきましたが、今回は前置詞deもあって、タイトルそのものの形をしています。memmiadaeは「メンミウス家の者」の意味です。ここで表されているメンミウス家の者というのはルクレティウスと同時代の詩人で彼の支援者のことです。オウィディウスの『悲しみの歌』によると恥ずべき、つまり官能的な内容の詩を書いたとされています。この単語は与格単数と解釈しこの詩を捧げる対象を表しているとします。最後に、対格のquosは動詞pangereの目的語を表す関係代名詞で、その先行詞は前の行のversibusと考えられます。まとめると、「そしてその詩を、私たちのメンミウス家の者に捧げて、私は物の本質について書こうと試みる。」となります。
絵の解釈です。de rerum naturaの意味を考えます。ウェヌスの服の上でハルモニアの物語が描かれているとするならば、この言葉がそれを表していることになります。resのイタリア語の意味の中にatto「行い」があります。naturaの意味にはaspetto「様子」があります。つまり、「行いの様子について」と解釈すれば、ハルモニアの身の上に起こった出来事を表せます。関係代名詞quosの先行詞は、この解釈では名詞化されたscribendisとすると、pangere「表現する」の目的語としてちょうどよいものになります。残るmemmiadae nostroは本来の解釈とほとんど同じでいいでしょう。官能的な詩を書いていた彼の信奉者として、この一人称の人物は、ウェヌスの服に書き込むものをメンミウスに捧げているわけです。そう考えるとこの言葉はそのまま使えます。
しかしここでおかしな事に気付きます。この襞に書き込もうとしている人物は、既にあるこの絵を見ながら、正確に言うと襞に何も書き込まれていない段階のこの絵を見ながら、この決意を表明していなくてはならなくなります。この一人称の決意の文章は現在形で書かれていて、そしてこれまでの絵の描写の文章も現在形で書かれていることから、この記述は絵の物語を語っているのではなく、絵を見て、そこから見て取れる様子を語っていることが分かります。この人物は絵を見ながら、絵の中のウェヌスやマルス、ハルモニアに対し、それぞれあなたと語りかけながら、この絵の描写を言葉にしています。その解釈自体は、この絵の本来の解釈とは違っているのかもしれませんが、この絵はそう見て取れるような形でこの一人称の人物の眼前にあります。そして彼はウェヌスの服の襞に、ハルモニアの物語を描き込もうとしているのです。その結果としてできあがった絵が、今私たちが見ているこの絵だという設定になります。
襞の上に何も描かれていないこの絵を描いた人物と、後から襞の上に描き込もうとしている人物が同一人物かどうかは分かりません。おそらく違うでしょう。分かっているのは、ただそのような経緯全体をこの一枚の絵にしたのはBotticelli(ボッティチェリ)だということです。襞に何も書き込まれていない元々の絵はAnacreontea(アナクレオンテア)のクピドと蜂の物語を題材に、言葉遊びで描いた壁画という設定でしょう。この絵の所々に見られる塗料の剥げたような描写はこれが壁画であることを示しているように思えます。この架空の作品を見にきたメンミウスの信奉者が、その壁画に描かれた神々に語りかけながら、メンミウスに捧げるために落書きをすることを決意します。メンミウスに捧げるのですから、多少官能的な描写も含まれるのだと思います。この架空の出来事を、その落書きされた結果の絵そのものだけで描ききったのがこの作品だと解釈できます。予想だにしなかった多重構造がこの絵の中に描かれています。
この行の解釈をまとめると次のようになります。
行いの様子についてその描かれるべきものを、私たちのメンミウス家の者に捧げて、私は表現しようと試みる。
(things should be expressed) which I try to compose about the aspect of the actions, dedicated to our Memmius.
quem tu dea tempore in omni omnibus ornatum voluisti excellere rebus.
quemは疑問形容詞quiの男性単数対格、関係代名詞quiの男性単数対格、疑問形容詞quisの男性/女性単数対格のどれか。tuは人称代名詞tu「あなた」の単数主格/呼格。deaは女性名詞dea「女神」の主格/呼格/奪格。temporeはtempus「時、季節」の中性単数奪格。inは対格/奪格支配の前置詞。omniはominisの単数奪格。omnibusは形容詞omnis「すべての」の複数与格/奪格。ornatumは動詞orno「装備する」の完了分詞中性主格/呼格/対格単数か男性対格単数かスピーヌム(目的分詞)の中性対格単数、もしくは形容詞ornatus「よく装備された、見事に飾られた、華麗な」の中性単数主格/呼格/対格、男性単数対格。voluistiは動詞volo「望む」の二人称単数完了、もしくは動詞volvo「転がす、這いつくばる」の二人称単数完了。excellereは動詞excello「突出する、卓越する」の不定法現在、もしくは受動態二人称単数、受動態二人称単数未来、命令法受動態二人称単数現在。rebusは女性名詞res「物、事象」の複数与格/奪格。
temporeは前置詞inの前にありますが、これはinの後ろの形容詞omniと一緒になって奪格支配の前置詞inに支配されます。この前置詞句の意味は「すべての時において」となります。この文の動詞はvoluistiで、主語は女神ウェヌスを指したtuです。そして離れていますがomnibusはrebusを修飾しています。これは動詞excellereを踏まえて比較対象を示す複数奪格と解釈し、意味は「すべての物よりも」となります。この不定法excellereの意味上の主語が男性単数対格の関係代名詞quemと考えられます。そしてそれを修飾するものとしてornatumがあるとします。つまりこれは動詞ornoの完了分詞男性単数対格か、形容詞ornatusの男性単数対格になるはずです。ここでは形容詞として「華麗な」とします。最後に、文の内容から考えると男性単数対格のquaeの先行詞は男性単数与格のmemmiadae、つまりメンミウスということになります。まとめると、「そしてその華麗なメンミウスが、あなたは、女神よ!いつ如何なるときも他の何よりも卓越することを望んでいた。」となります。
絵の解釈です。今回やっている部分はハルモニアに関する描写になっているのですが、ハルモニアの姿を見ていて、以前から気になる描写があります。それは彼女の左の角を消そうとしている線の存在です。
これは後世の人が誤って付けてしまった傷ではないかと考えましたが、《パラスとケンタウロス》の表面の汚しなど技巧的な加工を思い出すと、これも意図的なものだと思われます。角というのはそそり立つものです。つまり、動詞excelloで表現可能な描写です。この角を使ってこの文を解釈できないか考えてみました。
この文は比較を使って一番の何かを表しています。左側が否定されているわけですから、その一番とはハルモニアの右側の角ではないかと考えられます。実際、この角はとても立派な角です。槍の所にいる二人のサテュロスたちの角と比べてもこの角は一番の角と言えそうです。
この文が角の話だということなると、tempore in omni という語句の意味もちょっと違ってきます。tempus「時」には同綴異義語tempus「こめかみ、顔、頭」があります。角の生えている場所はこめかみではないので、「頭」という意味で使っていることになります。つまり、この部分の意味は「すべての頭の」となるでしょう。ここにいる登場人物すべての頭でというわけです。奪格のomnibus rebusは本来の意味と同じで、比較の奪格で「すべてのものよりも」とします。ここまででomnibus rebus in omni temporeは「すべての頭にあるすべてのものよりも」となります。
ここまではとても順調でした。しかし関係代名詞quemの解釈が難解です。これが「角」を表せなくては、どうしようもありません。そこで次のように考えました。まずこの関係代名詞の先行詞を探しました。先行詞がはっきりとあるならばそれは男性単数でなくてはなりません。残念ながら都合のいい単語は見つかりませんでした。そこで次は先行詞は省略されていると考えました。しかし何か関係代名詞が表す意味が無くてはなりません。そこで条件を緩くし、男性名詞を探してみました。そこで見つけたのが男性複数奪格のversibusです。本来の意味は「詞」で言葉遊びでは「襞」と訳したものです。quamは男性単数対格なので、これに置き換えるとすると、versumという語形になります。今度はこの形になる他の単語がないか調べてみました。すると動詞verto「回す、向きを変える」の完了分詞男性単数対格と解釈できます。完了分詞なので、「向きを変えられている」という意味になります。さらに名詞化すると、「向きを変えられているもの」、つまり「巻いているもの」となります。このようにすれば、quemでハルモニアの右の角を表せます。
versumが「巻いているもの」を表せるとなると、比較の対象は「すべての頭にあるすべての巻いてあるもの」と解釈できます。つまり、角だけでなく、髪の毛も含まれています。マルスの髪の毛が見事に渦を巻いている描写も、このことを踏まえているわけです。ウェヌスの額の左右に巻き毛が触れているのも同様です。髪の毛も角も描かれていないクピドに対しても、この言葉は影響を及ぼしています。彼のヘルメットにサテュロスの巻き上がったしっぽが触れている描写も、このversumの意味が関係していると考えられます。
versum ornatum は不定法excellereの意味上の主語になります。つまり「華麗な巻いたものが秀でている」となります。そうなると、ハルモニアの視線にも意味があることに気付きます。彼女は自慢の右の角を見ていたのです。
左の角に打ち消し線を描き込んだのは落書きをした人だということも分かります。それはこの文が過去形で書かれているからです。彼女の目が右の角への望み表しているとこの人物は思ったのでしょう。しかし絵である彼女は自分の意思でその望みを実現することはできません。神の身であるのだから自らの角の長さも自在に変えられるでしょうに、絵の中で固定された彼女は、ただ右の角を見つめるだけです。そこで、この人物は左目の上にある角を打ち消すことで、右目の上の角を唯一のものとし、彼女の望みを実現したわけです。線を引いた人物は、線が引かれる前に彼女の望みを受け取ったのですから、この文は過去形となります。
残りの単語は本来の意味で解釈します。全体をまとめると、こうなります。
そして女神!あなたは、すべての頭にあるすべてのものよりも一つの華麗な巻いたものが秀でることを望んでいた。
and you, goddess! wanted the ornate curling to eminent than everything in all heads.
なんとか解釈できました。以前できなくて当然です。《アペレスの誹謗》の背景や《パラスとケンタウロス》の解釈を経なければ、この発想はできませんでした。これでやっと、以前解釈した部分につながります。合わせると37行になります。次回は二年前に解釈した部分を、今の書式でやり直してみます。