今回は38行目からです。 これで『物の本質について』の冒頭のウェヌスを讃えている部分が終わります。
Hunc tu diva tuo recubantem corpore sancto
Circumfusa super suaveis ex ore loquelas
Funde petens placidam Romanis incluta pacem.
Nam neque nos agere hoc patriai tempore iniquo
Possumus aequo animo: nec Memmi clara propago
Talibus in rebus communi deesse saluti.
現在流布されている『物の本質について』のラテン語原文は、この後に数行挿入されてから、二人称の相手がウェヌスから切り替わった次の段落に続いていきます。しかしgoogle booksで調べてみると、ルネサンス期に近いものは、いわゆる『ウェヌスの讃歌』の部分がこれで終わっています。19世紀以降でないとその挿入は現れません。挿入されたものの方がルクレティウスが書いたものに近いのかもしれませんが、ここではボッティチェリの時代に読まれていたものに近いほうがいいわけですから、とりあえず、ここで終わりとします。
hunc tu diva tuo recubantem corpore sancto circumfusa super suaveis ex ore loquelas funde petens placidam Romanis incluta pacem.
まず単語の情報をまとめておきます。huncは代名詞、対格男性単数、意味は「これ」。tuは代名詞、主格/呼格男性/女性単数、意味は「あなた」。divaは女性名詞diva「女神」の主格/呼格/奪格単数、もしくは中性名詞divum「天空」の主格/呼格/与格複数、もしくは形容詞divus「神の、神聖な」の主格/呼格/奪格女性単数、主格/呼格/対格中性複数。tuoは形容詞tuus「あなたの」の奪格/与格男性/中性単数。recbantemは動詞recubo「横になる、寄りかかる」の現在分詞の対格男性/女性単数。corporeは中性名詞corpus「身体、肉、胴体」の奪格中性単数。sanctoは動詞sacio「承認する、制定する」の完了分詞の与格/奪格男性/中性単数、もしくは名詞sanctus「聖人」の与格/奪格男性単数、形容詞sanctus「神聖な」の与格/奪格男性/中性単数。circumfusaは動詞circumfundo「まわりに注ぐ、取り囲む」の完了分詞の主格/呼格/奪格女性単数、主格/呼格/対格中性複数。superは動詞supo「投げる、まき散らす」の接続法受動態現在一人称単数、もしくは副詞super「上に、上から、上で、さらに」、もしくは前置詞super「(奪格)の上で、の上に、の時に、について」「(対格)の上に、の上へ、を越えて、の向こうに」。suaveisは形容詞suavis「甘い、柔らかい、耳に快い」の主格/対格男性/女性複数。exは奪格支配の前置詞、意味は「から、より、に由来する、のために」。oreは動詞oro「懇願する、祈る、論じる」の命令法二人称現在、もしくは中性名詞os「口、話、表現、顔、発音」の奪格単数、もしくは中性名詞aurem「黄金」の呼格単数。loquelasは女性名詞loquela「言葉、話」の対格複数。fundeは中性名詞fundus「底、基礎」の呼格単数、もしくは動詞fundo「注ぐ、こぼす、ぬらす、(言葉を)発する」の命令法二人称単数現在。petensは動詞peto「向かう、攻撃する、追う」の現在分詞の主格/呼格単数、対格中性単数。placidamは形容詞placidus「静かな、穏やかな」の対格女性単数。romanisは男性名詞Romanus「ローマ人」の与格/奪格複数、もしくは形容詞Romanus「ローマの、ローマ人の」の与格/奪格複数。inclutaは形容詞inclutus「よく知られた、有名な」の主格/呼格/奪格女性単数、主格/呼格/対格中性複数。pacemは動詞paco「平和にする、平定する、開墾する、静める」の接続法一人称単数現在、もしくは女性名詞pax「平和、調和」の対格単数。
分詞句を複雑に含んだ長い文章です。分かりやすく主文だけを抜き出すと、tu diva suaveis loquelas ex ore funde です。そしてこの文に含まれている分詞句は、現在分詞対格男性単数のrecubantemを使ったhunc tuo recubantem corpore sanctoと、さらにこれを目的語に持つ完了分詞主格女性単数circumfusaを使ったcircumfusa super、そして現在分詞主格女性単数petensのpetens placidam Romanis incluta pacemです。
主文から解釈します。動詞は命令法二人称単数のfundeです。主語はtuで確かに二人称単数です。これは文脈から女神ウェヌスを表しています。divaは呼格で、主語の強意になっています。目的語はsuaveis loquelasで「甘い言葉を」です。oreは奪格で、ex oreは「口から」になります。fundo「こぼす」の意味は、これらの「言葉」と「口」から「(言葉を)発する」と考えられます。女神への命令なので祈り、懇願の表現になります。したがって主文だけまとめると、「女神よ!甘き言葉を発したまえ」です。
次にhunc tuo recubantem corpore sanctoを考えます。huncとrecubantem、tuoとcorporeと sanctoがそれぞれ結びつきます。そしてhunc recubantemは対格男性単数で、名詞化されて「このもたれている者」となります。これはウェヌスの膝の上に横になり下からウェヌスの顔を見上げているマルスを表しています。tuo corpose sanctoは与格中性単数で 「あなたの聖なる体に」となります。もちろんこれはウェヌスの体です。この与格は動詞としてのrecubantemの間接目的語になっていて、この分詞句全体で「あなたの聖なる体にもたれている者を」となります。これらはさらに完了分詞circumfusaの目的語になっています。
次はhunc tuo recubantem corpore sancto circumfusa superの意味を考えます。circumfusaが主格女性単数と解釈できるので、主文の主語であるウェヌスのことを表す語句であることが分かります。hunc tuo recubantem corpore sanctoは対格男性単数の目的語となり、意味は先ほどの通り「あなたの聖なる体にもたれている者を」です。superは前置詞の可能性もありますが、直後のsuaveisは既に示した通り主文の一部として考えた方がうまくいくので、ここでは副詞として解釈します。circumfundo「取り囲む」の意味が少し難しいです。これは受動態が中動態として解釈される動詞です。つまりここで使われているcircumfusaは完了分詞の形をしていますが、受動ではなく能動に訳されます。自分の体で囲んでいるわけですから、分かりやすく言い換えれば、「抱きしめている」と訳せます。それに副詞superがついて、「上から抱きしめている」となります。まとめると「あなたの聖なる体にもたれている者を上から抱きしめて」です。
次はpetens placidam Romanis incluta pacemです。petensも主格女性単数と解釈できるので、これもウェヌスについて記述された語句だと考えます。inclutaは呼格女性単数として、この語句が修飾しているものを強調しているとします。意味は「よく知られた女性よ!」です。placidamはpacemと結びついて、対格女性単数となり、意味は「穏やかな平和を」とします。Romanisは与格で、「ローマ人のために」とします。現在分詞petensは主動詞と同時と考えて、「請い求めながら」とします。まとめて「よく知られた女性よ!ローマ人のために穏やかな平和を請い求めながら」とします。
全体を合わせると、「女神よ!あなたの聖なる体にもたれている者を上から抱きしめながら、よく知られた女性よ!ローマ人のために穏やかな平和を請い求めながら、甘き言葉を発したまえ!」となります。マルスはウェヌスに膝枕をしてもらいながら、その愛の女神の美しい顔に見とれています。そして著者ルクレティウスは、ウェヌスに対して、あなたの膝の上に横になっている戦いの神マルスを上から抱きしめて、甘ったるい声でローマを平和にしてちょうだいっておねだりしてくれませんか、と願ったわけです。
絵に合わせた解釈を考えます。当然、この絵の中には本来の記述は描かれていません。他の解釈を考えます。この文で最初に分かるのはpacemです。以前paxに「調和」の意味があるので、右下の女の子ハルモニアを表していると解釈しました。ギリシャ神話のイレーネに相当する平和を司る女神パクスがいますが、ここでは調和の意味を優先させてハルモニアを指し示す言葉とします。そしてpacemがハルモニアを表すとなるとplacidam romanis pacemという語句はromanisが奪格と解釈できるので、「複数のローマ物のところにいる穏やかなハルモニア」と解釈できます。placidam pacemは対格単数になるので、何かの目的語になるのでしょうが、この段階ではまだ分かりません。ただこの解釈が正しければ、ハルモニアの周囲にローマと呼べるものがあるということになります。
そして見つけたローマと呼べるものが、ローマ秤(romano)とローマン・ヒヤシンス(giacinto romano)です。ハルモニアのすぐ前にある丸く凹んだ金属は、こちらにそこの部分を向けて置いてあるローマ秤のおもりだと思われます。正直この秤のおもりという解釈には自信がありません。他にローマと呼べるものがあるのかもしれませんが、とりあえず現時点ではこう解釈します。農業をやっているハルモニアならば、収穫物を測る秤ぐらい持っていてもおかしくありません。一方のローマン・ヒヤシンスとしているのは、ハルモニアの左手の前にある葉の茂った植物です。あまりヒヤシンスらしくありませんが、同じくボッティチェッリが描いた《春》の足下に生えているヒヤシンスが参考になります。
《春》の地面には少なくても三株のヒヤシンスが生えています。この中で一番分かりやすいのが上の図のものです。確かに《ヴィーナスとマルス》の右下にある植物と似ています。ちなみに《春》のこの植物の葉には「OI」という文字が刻まれているように見えます。これはオウィディウス『祭暦』5巻224行および『変身物語』10巻215行に記述されているヒアキントスが刻んだ嘆きの言葉を元にした描写だと考えられます。この文字は《春》のこの植物がヒヤシンスであることを示しています。
ハルモニアが左手で抱えている果物のようなものはよく見ていると、意外にでこぼこしていて、筋が何本も通っています。これはヒヤシンスの蕾の塊かもしれません。実物よりも丸々としていて、葉の大きさと比べて大きすぎるように思えます。しかしヒヤシンスは甘い香りがするので、以前この塊を甘いものと解釈したことと矛盾は起きません。ハルモニアはこの蕾の塊を手で押さえつけているとします。出所の分からない植物の実よりも、そこに生えている甘い花の蕾のほうが合理的な解釈になるでしょう。下の写真は以前育てたヒヤシンスの蕾の写真です。
今度は主動詞fundeを考えてみます。これは二人称単数命令です。主な意味は「注ぐ、ぬらす、(言葉を)口に出す」で、すぐ近くにex oreがあることから、しゃべっているか、口から何かを出していると解釈できます。絵の中で口を開いているのは、マルス、真ん中のサテュロス、そしてハルモニアです。この後の語句でハルモニアのことを記述しているので、おそらくこれもそうでしょう。ハルモニアは口を開き、舌を見せ、何かしゃべっているような様子です。
ただこの主文の中で本来の目的語になっているsuaveis loquelasは、そのまま「言葉」の意味では描写として使えません。他の表現を考えてみます。loquelaのイタリア語の意味にlinguaggio「言葉」があり、これはラテン語のlingua「舌、言葉」に由来する言葉です。イタリア語にも同じ綴りのlingua「舌、言葉」があります。このlinguaの「舌」の意味を使うと、これで絵として描けるようになるでしょう。ハルモニアは舌を見せています。この単語でこの様子を表せそうに思えます。しかし、そう簡単にはいきません。このloquelasは対格複数としてしか解釈できないので、舌は複数必要です。真ん中のサテュロスも口を開けて舌を見せているので、この舌を含めた表現なのかもしれません。しかしこれだと動詞fundoが単数であることと矛盾が生じてしまいます。ではこれは舌ではなく、舌のような物を表していて、ハルモニアのそばに複数の物が描かれているのかもしれません。探してみると、彼女のすぐ近くに複数の舌の形をしたものが描かれていました。ハルモニアの下にある植物です。名前は分かりませんが、四方に四枚の舌状の葉が広がっています。これが二株描かれています。この植物があればハルモニアの舌を使って文章を考える必要もありません。この植物にふさわしい形容詞suaveisの意味は「柔らかい」でしょう。この植物が特定され、甘いものだとはっきりすれば、「甘い」という意味もあり得ます。それでは動詞fundoの意味です。ハルモニアの顔をよく見てみると、左頬によだれが流れているような描写があります。そして舌状の植物の右側のものには、四枚の葉の間に白い何かがあります。これはハルモニアのよだれを表しているように見えます。まとめると、tu diva suaveis ex ore loquelas fundeは「女神よ!あなたは柔らかな舌状のものたちを口から濡らしたまえ!」と解釈できます。実際この絵にそう解釈できるように描かれていますが、そういう意味になるように落書きをして手を加えたというストーリーなのでしょう。ハルモニアの口の周りをよく見るとよだれが描かれているのも分かります。これも後から書き足した落書きのように見えます。
次は、hunc recubantem tuo corpore sancto circumfusa superの意味を考えます。circumfusa superという記述がそのまま使えそうです。ハルモニアは左手で蕾の塊(もしくは果物)を上から自分の方へ抱え込んでいます。suaveisはさっきの解釈で既に使ったので、superは前置詞ではなく副詞として使います。
ところが、circumfusaという言葉を踏まえて、この絵をよく見るとさらに重要なことに気付きます。他のサテュロスも上から抱え込んでいます。左端のクピドと真ん中のサテュロスは槍を上から抱え込んでいます。右端のサテュロスも法螺貝をやはり上から抱え込んでいます。circumfusaは複数と解釈することもできるので、この語句で子どもたち全員の仕草を表していると考えても文法的に問題ありません。ただそうすると主動詞が示す単数主語との関係が切れてしまうので、文全体の構造を変える必要が出てきます。
このアイデアに合わせて今度はtuo corpose sanctoの意味を考えます。本来これは与格ですが、場所を表す奪格と考えて、抱きかかえている仕草をしている子どもたちのいる場所を示していると考えます。そうすると、神聖な体はウェヌスではなくマルスと考えた方がいいでしょう。なぜならハルモニアが含まれているからです。したがって、tuo corpose sanctoは「神聖なあなた(マルス)の体のそばに」となります。残りはhunc recubantemです。本来は横になって膝枕をしてもらっているマルスを表現していますが、今回は子どもたちがそれぞれ抱え込んでいるものになります。つまり、左端のクピドと真ん中のサテュロスにとっては槍です。右端のサテュロスにとっては法螺貝です。そしてハルモニアにとっては蕾の塊(もしくは果物)です。これらの物に共通する性質は、recubantemまさに横になっていることです。circumfusa superを中性主格複数の名詞として主語とします。動詞はsum「いる」が省略されているとします。まとめると「あなた(マルス)の神聖な体のところでそこにある横になっている物を上から抱きしめている者たちがいる。」となります。
ところが、ここまで解釈してみると、さらに hunc tuo recubantem corpore sancto circumfusa super という語句で表現できるものがあることに気付きます。それはマルスの左腕の描写です。
何度も指摘しているようにマルスの左腕は、突き棒と、絵の角とで矩形を作って、寝そべっているハルモニアを囲んでいます。動詞circumfundoの意味の一つ、accerchiare「取り囲む」を使えば、この描写を説明できます。確かにハルモニアは横になっていて、マルスの腕は上からハルモニアの体を囲んでいます。tuo corpore sanctoは随伴の奪格と考えて、自分の腕とともにハルモニアを囲んでいる様を表していると考えるわけです。腕とともにハルモニアを囲んでいるのは、突き棒ですが、これだけでは閉じません。絵の下の端まで届いていません。文法的に囲んでいる物が複数である必要があるので、この連結は必然となります。したがって「あなた(マルス)の聖なる体とともにこの横になっている者(ハルモニア)を囲んでいる物(突き棒と白い布)がある。」という解釈になります。
こうなると、次々に分かってきます。動詞circumfundoにはcingere「巻き付ける、まとう、身につける」という意味もあります。この絵の中で服を着ているのは横になっている者たちです。腰に布を掛けているマルスも例外ではありません。circumfusaは彼らが身につけている物を表すと考えます。服ですから体の上にあります。そしてウェヌス、ハルモニア、マルスはそれぞれ単数対格のhunc recubantemで表されるとします。複数の身につける物がありますが、それぞれは一人しか覆っていないからだと考えます。tuo corpore sanctoは場所を表す奪格として、マルスの体を表します。ウェヌスの服はマルスの足に接しています。ハルモニアの服も袖のところでマルスの指と接しています。そしてマルスの腰の布は当然マルスに触れています。この場合もsum「ある」が省略されているとします。したがって彼らの身につけている物を表す記述は「あなた(マルス)の聖なる体のそばにこの横たわっている者(ウェヌス/ハルモニア/マルス)を覆っている複数の物がある。」と解釈できます。横になっている者たちが体に何かをまとっている理由がこの記述にあるというわけです。
途中に節ではなく、文があることにしたので、tu diva suaveis ex ore loquelas fundeは、tu divaとsuaveis ex ore loquelas fundeは分断されます。後半は主語の代名詞は省略していると考えれば、そのまま使えます。問題は前半のtu divaです。tuoは呼格と考えます。直後にマルスの体を示すtuo corposeがあるので、tuoはマルスを示していると考えます。次にdivaは、あとからハルモニアへの命令文が出てくるので、ハルモニアとし、さらにこれを奪格と考えます。したがって、tu divaは「女神(ハルモニア)のそばにいるあなた(マルス)よ!」とします。
解釈が残っているのは、最後の分詞句にあるpetensとinclutaです。本来の解釈では、petensは「追い求めながら」という副詞節の一部になっていますが、残りの目的語などを別の意味に使っているので、これも別の使い方をしなくてはいけません。一方のinclutaですが、「有名な」という意味では絵になりません。他の意味を考えます。inclutusのイタリア語での意味は形容詞illustreです。この語の古語表現は現代のchiaro「明るい、輝く」、luminoso「明るい、光を発する」という意味と同じになります。この絵が描かれたルネサンス期ではこの表現は古語ではなかったでしょう。この語はラテン語の動詞illustro「明るくする」に由来しています。そこでpetensとinclutaを組み合わせます。inclutaを中性対格複数と考えれば、petensの目的語にすることができます。そうすると「複数の輝く物を追い求めながら」となります。これはハルモニアの視線のことを表していると考えます。ハルモニアのおでこの角は二つとも輝いています。これがinclutaです。そしてこれを見上げる視線によって、彼女がそれを追い求めていることを表しています。先日解釈したときは角を単数形にするために、片方の角を線で消している描写があると指摘しましたが、それがよく見ないと分からなかったのは、他の場面ではここのように複数として解釈可能でなくてはならなかったからだと考えます。
最後に、この文の最初で、placidam pacem Romanisをひとまとまりに解釈していましたが、petens inclutaの解釈が分かると、Romanisをこれに含めた方がいいでしょう。そして残ったplacidam pacemは対格なので、感嘆の対格と解釈して、「穏やかなハルモニアよ!」とします。
この文全体をまとめるとこうなります。
女神(ハルモニア)のところにいるあなた(マルス)よ!あなた(マルス)の神聖な体のそばに横になった物(槍/法螺貝/蕾の塊)を上からか抱え込んでいる者たち(子どもたち)がいる/あなた(マルス)の聖なる体とともにこの横になっている者(ハルモニア)を囲んでいる物(突き棒と白い布)がある/あなた(マルス)の聖なる体のそばにこの横たわっている者(ウェヌス/ハルモニア/マルス)を覆っている複数の物がある。穏やかなハルモニアよ!あなたは、複数の輝く物を追い求めながら、柔らかな舌状の者たちを口から濡らしたまえ!
You(Mars) near goddess(Harmonia)! The persons(children) who is holding the lying object(spear/conch/buds) from above are near your(Mars) sacred body/The objects(stick&loincloth) which is surrounding the lying person(Harmonia) from above are with your(Mars) sacred body/The objects(cloths) which is covering the lying person(Venus/Harmonia/Mars) from above are near your(Mars) sacred body. Desiring the bright objects(horns of Harmonia), calm Harmonia!, Moisten the soft tongue-like objects(four-leaf plants) from mouth!
nam neque nos agere hoc patriai tempore iniquo possumus aequo animo
namは接続詞で意味は「というのも、なぜなら、もちろん、確かに、一方、たとえば」。neque(nec)は、副詞「ではない」、接続詞「そして〜ではない」、もしくは接尾辞queの付いたne。neは動詞neo「紡ぐ、織る」は命令法二人称単数、もしくは副詞「しない、でない」、もしくは接続詞「〜しないように、〜するといけないから」、間投詞「本当に、実に、確かに」。nosは代名詞nos「わたしたち」の主格/呼格/対格男性/女性複数。agereは動詞ago「進める・・・」の不定法現在、命令法受動態二人称単数、受動態未来二人称単数、もしくは動詞agero「取り除く」の命令法二人称単数。hocは代名詞hic「これ」の主格/奪格/対格中性単数、奪格男性単数。patriai女性名詞patria「祖国」の属格/与格単数。temporeは中性名詞tempus「時間、時期」の奪格単数、もしくは中性名詞tempus「こめかみ、側頭部」の奪格単数。inquoは形容詞iniquus「平らではない、不満な」の与格/奪格男性/中性単数。possumusは動詞possum「できる」の一人称複数現在。aequoは形容詞aequus「平らな、水平な」の与格/奪格男性/中性単数、もしくは中性名詞aequum「平地、平等、正当」の与格/奪格単数、もしくは動詞aequo「平らにする、まっすぐにする、等しくする」の一人称単数現在。animoは男性名詞animus「精神、心」の与格奪格単数、もしくは動詞animo「生命を与える」の一人称単数現在。
動詞はpossumusで一人称複数現在で主語は一人称複数のnosです。hocとiniquoは奪格中性単数としてtemporeを修飾します。またpatriaiは属格単数としてtemporeを修飾します。aequoは奪格男性単数としてanimoを修飾します。hoc iniquo tempore patriaiは時期を表す奪格として「祖国の不安定なこの時期」となります。この本が書かれた時期は、岩波文庫の注釈には第一期三頭政治直前と書いてあります。ローマの歴史に明るくはありませんが、政情不安だったのでしょう。aequo animoも奪格ですが、これは手段を表し「平穏な心で」とします。問題は動詞agoの意味です。この語にはたくさんの意味が含まれますが、ここでは「行動する」としておきます。文の内容から考えて最初にあるnamは「なぜならば」とします。前の文をまとめると、「なぜならば、私たちは祖国の不安定なこの時期に平穏な心で行動できない。」となります。主語は私たちと複数ですが、ルクレティウス本人に限れば、平穏な心で行動することとは、この詩を書くことを指しているのでしょう。
絵に合わせた解釈を考えます。これはとても抽象的な記述なので、絵として描くのはとても大変だったでしょう。まず目に付くのがtemporeです。これは以前も出てきましたが、「こめかみ、頭」と同じ綴りです。これがiniquo「平らではない」というのですから、この絵の中で頭が平らではない人物を探してみます。すると、マルスの額だけがでこぼこしている描写であることに気付きます。これでこの記述全体がこの付近を表したものである可能性が出てきました。こうなるとpatriaiが表すものも限定されてきます。本来は「祖国」ですが、「起源となる場所」と考えるとマルスの頭のすぐ右に描かれている「蜂の巣」を表すと考えられます。この中から彼らは生れてくるわけですから。
次にaequo animoの意味です。aequoには「水平な」という意味があります。額のそばで水平と言えば、マルスの額と蜂の巣の間にある絵に付いた傷のような奇妙な直線が目にとまります。この存在には以前から気付いていましたが、保存中に絵が傷んでついたものだと思っていました。しかしこの記述があれば、この線も故意に描いたものになるでしょう。animusの意味を調べていくと、イタリア語で「inclinazione」という意味があります。この語には「傾斜」という意味があります。したがってaequo animoで「水平な傾斜」になります。またhoc tempore iniquoを奪格、patriaiを与格とすると、この直線の起点と終点を表していると考えることができます。あとは、これらの語をうまくまとめる動詞の意味を考えれば良さそうです。そこで蜂の巣の中を見ると、線の先端が一匹の蜂の体で終わっています。このことからagoは他動詞として、いままで奪格としてきたhocを単独の対格とし、この一匹の蜂を表すと考えます。そしてこの線がこの蜂のたどった軌道だとすると、動詞agoの意味として「導く」が使えそうです。
この文は本来否定文ですが、線が実際引かれているので否定文ではないようです。そのためnequeを副詞ne「一方」に接尾辞queが付いたものと考えます。主語のnosは、今まで通りこの絵に手を加えているミンメウス主義者の人物です。この言葉からすると落書きをしているのは一人ではないようです。この文は現在形ですが、蜂はたどり着いた後なので、蜂がたどり着いて可能性が確認された後の絵という解釈にします。まとめるとこうなります。
そして一方で本当に私たちはそれ(蜂)を平らではない額から起源となる場所に水平な傾斜のものによって導くことができる。
and on the other hand truly we can lead it(bee) from the bumpy forehead to the origin by using the horizontal degree.
nec Memmi clara propago talibus in rebus communi deesse saluti.
nec(neque)は、副詞「ではない」、接続詞「そして〜ではない」。Memmiは男性名詞Memmiusの呼格/属格単数。claraは形容詞clarus「はっきりした、明るい、傑出した、悪名高い」の主格/呼格/奪格女性単数、主格/呼格/対格中性複数、もしくは動詞claro「明るくする、明瞭にする、著名にする」の命令法二人称単数現在。propagoは女性名詞propago「取り木、挿し枝、子孫、世代」の主格/呼格単数、もしくは動詞propago「増殖させる、存続する」の一人称単数現在。talibusは形容詞talis「このような」の与格/奪格複数。inは前置詞「(対格)へ、の中へ」か「(奪格)の中に、において」。rebusは女性名詞res「物、物事・・・」の与格奪格複数。communiは中性名詞commune「共有財産、共同体、国家」の与格/奪格単数、もしくは形容詞communis「共有の、共通の、愛想のよい」の与格/奪格/処格単数、もしくは動詞communio「砦で固める、強固にする」の命令法二人称単数。deesseは動詞desum「不在である、欠けている、助力しない」の不定法現在。salutiは女性名詞salus「健康、無事、安全、挨拶、健康と安寧の神Salus」の処格/与格単数。
この文は前の文と対になっています。主動詞がなく、代わりに不定詞がありますが、これは前の文と同じようにpossumがあってそれが省略されていると考えます。Memmiは以前も出てきたルクレティウスの援助者のメンミウスのことです。Memmiは属格男性単数でpropagoを修飾しています。そして形容詞claraは主格女性単数で、名詞propagoを修飾しています。形容詞talibusは奪格女性複数で女性名詞rebusを修飾しています。前置詞inは奪格支配で、このtalibus rebusを目的語にしています。形容詞communiは与格女性単数として、女性名詞salutiを修飾しています。そしてそれぞれ次の意味のまとまりとなります。memmi clara propagoは主格で、「メンミウス家の有能な後継者が」となります。in talibus rebusは奪格支配です。resの意味がいろいろ考えられますが、「状況」という意味もあるので、「このような状況において」とします。政情不安な状況を指しているのでしょう。communi salutiは与格で、目的を表すとして「国家の安全のために」とします。deesseは「助力しない」として、それをnecで否定します。まとめると「メンミウス家の有能な後継者でもこのような状況においては国家の安全のために助力しないことはできない。」となります。国家の安全のために助力するということは、今まで二度もこの詩の中で兵役について触れてきたわけですから、戦場に赴くということになると思います。このメンミウス家の後継者というのが、ルクレティウスの支援者本人のことか、それともその子どものことかは分かりません。前の文と合わせて、これがウェヌスからマルスにこの国を平和にしてくださいと頼んでもらっている理由になります。
絵に合わせた解釈です。salusは安全、健康、挨拶を意味しますが、語頭を大文字で書くと健康の神の名前にもなります。彼女はギリシャ神話のアスクレピオスの娘ヒュギエイアに対応します。Wikipediaでこの説明を読むととても興味深い記述があります(Wikipedia ヒュギエイアから引用)
アスクレーピオス信仰が広がるにつれてヒュギエイアに対する信仰も強くなり、女性神格であったことも影響して後には女性の健康を守る神、特にいわゆる婦人病に関しては大きな権能を持つとされ、当時の女性の間に彼女の絵姿や小さな彫像を髪飾りにすることなどが流行した。
ここにヒュギエイアの髪飾りのことが書かれています。つまりSalusの髪飾りです。まさにこれは以前指摘したウェヌスの左肩の上の髪の中にいる人影です。彼女は幸福の女神Salusだったわけです。この部分は彼女を使って解釈していきます。communioには「愛想のいい」という意味があるので、communioとSalutiは本来の解釈と同じように結びつけられます。そしてこれを処格とすると「愛想のよいサルースのところに」となります。したがって、この文はウェヌスの周りを表していると考えられます。
この文の主語は本来の解釈と同じように、memmi clara propagoとします。ウェヌスの髪のそばにあるこの言葉から連想される物をいろいろ考えてみると、claraと呼べるものが見つかります。それはウェヌスの胸に飾られているおそらく水晶で作られた宝石です。一つの大きな玉の周りを小さな八つの玉が平面上に取り囲んでいます。この九つの玉には、白いハイライトが描かれ輝いている描写になっています。形容詞claraの一つの意味に「輝く」とあり、この描写と重なります。そしてこのハイライトをよく見ると人が写っているように見えます。これがmemmi propago「メンミウスの後継者」になるのではないでしょうか。つまり、これは密やかな犯行声明として意図的に、メンミウス主義者である落書きの首謀者とその協力者を自ら描き込んでいるということなのかもしれません。もしくは、ここにあるのは本来壁画ではないかと以前指摘しましたが、壁画であればこれは本物の宝石が埋め込まれたものと考えることもできます。それに落書きをしているメンミウス主義者である「私」がこの宝石の表面に映り込んでしまっているというわけです。例えば夜に明かりを持ってこの絵の場所に忍び込んで落書きをしているという設定が考えられます。この主語は単数ですが、ハイライトは複数あります。この矛盾の解決のためには、一人の人物が同時にそれぞれの表面に映り込んでいるか、または周りの玉に映り込んでいるのはメンミウス主義者ではなかったとか、考えればいいでしょう。とにかく、主語は「メンミウスの輝いている後継者が」となります。大きい宝石の中には胸のあたりに光を抱いた人物が描かれているように見えます。
talibus in rebusも本来の解釈と同じ組み合わせです。resにはいくつもの意味がありますが、ここでは「作品」や「品物」という意味で考えて、このウェヌスの宝石を表しているとします。inという前置詞を表すために、宝石の中に人物が描かれていると考えるわけです。talis「このような」という言葉は日本語と同じように、文脈によって素晴らしいものを表すときにも、ひどいものを表すときにも使われますが、ここでは宝石を表すので、「これほど素晴らしい」と訳します。これをまとめると「これほど素晴らしい品物の中に」となります。
残るは動詞desseです。これは「不在である」と訳して、それをnecで否定して、結局存在することを表します。この文にも省略されているpossumがあるものとします。したがって、「不在であることができない。」となります。犯行声明であるならば、それこそ自己主張せずにはいられないということでしょう。もしくは鏡面になっているものの前で落書きをすれば、映り込みは必至だということでしょう。この文全体をまとめると、こうなります。
輝いているメンミウスの後継者が愛想のよいサルースのところのこれほど素晴らしい品物の中に存在しないことはできない。
bright successor of Memmius cannot be absent in the excellent thing near sociable Salus.
さて、これでルクレティウスの『物の本質について』の冒頭43行とボッティチェリの《ヴィーナスとマルス》の描写とを対応させることができました。まだいくつか根拠のほしい描写がありますが、それが今回の解釈の間違いによるものか、他の典拠となる文章があるためなのかはまだ分かりません。いくつかまだ誤訳も残っているでしょう。以前はマルスの腰布の端にあるキク科の植物の存在も示していましたが、今回はその解釈を使いませんでした。しかしやはりこの植物を表す記述は必要だと思います。
簡単にまとめます。この文章を絵として表現するためには、ちょっと複雑な設定が必要です。もともとこの絵はアナクレオンティアの古典ギリシャ語で書かれた蜂とクピドの詩を元に描かれています。それもわざと言葉遊びをした解釈になっています。本来その詩にはクピドと蜂とウェヌスしか出てこないのですが、この詩を絵として描くためにマルスと、マルスとウェヌスとの間の三人の子どもたちも加えられています。この詩には指を怪我したクピドが出てくるのですが、それがずれた解釈によってウェヌスの指の傷に変換されています。他にも、クピドはバラの中で休んでいるのですが、それはバラ色の敷布の上で寝ているマルスになっていたりしています。《ヴィーナスとマルス》の絵の世界には、このような解釈をずらして描かれた絵がまず存在しています。その絵に対してメンミウスの後継者が落書きをしながら、元の絵についての彼の解釈や、絵に対してとった自分の行動、書き換えたあとの絵の描写などを語っています。その語っている内容が、このルクレティウスの『物の本質のついて』の冒頭にあるウェヌスを讃えている部分を言葉遊びをしてできる解釈です。このミンメウスの後継者の話の内容はすべて絵として表現可能なものなので、それによって表されているものは修正された絵の内容となります。そして同時にその絵は当然私たちが見ている《ヴィーナスとマルス》というわけです。《ヴィーナスとマルス》という絵が表わしている意味はルクレティウスの詩とはまるっきり違いますが、その内容をラテン語で表せば、ルクレティウスの詩そのものとなります。
上記の古典ギリシャ語の詩とラテン語の詩は以下の詩のことです。この二つの詩がこの絵の典拠と言えます。
Ἔρως ποτ΄ ἐν ῥόδοισι
κοιμωμένην μέλισσαν
οὐκ εἶδεν, ἀλλ ΄ ἐτρώθη
τὸν δάκτυλον. Πατάξας
τὰς χεῖρας, ὠλόλυξε·
δραμὼν δὲ καὶ πετασθεὶς
πρὸς τὴν καλὴν Κυθήρην,
ὄλωλα, μῆτερ, εἶπεν,
ὄλωλα,κἀποθνήσκω.
Ὄφις μ΄ ἔτυψε μικρὸς,
πτερωτὸς, ὃν καλοῦσι
μέλισσαν οἱ γεωργοί.
Ἡ δ΄ εἶπεν · εἰ τὸ κέντρον
πονεῖ τὸ τῆς μελίσσης,
πόσον δοκεῖς πονοῦσιν,
Ἔρως, ὅσους σὺ βάλλεις;
AEneadum genitrix hominum divumque voluptas
Alma Venus: caeli subter labentia signa
Quae mare navigerum: quae terras frugiferenteis
Concelebras: per te quoniam genus omne animantum
Concipitur. visitque exortum lumina solis.
Te dea te fugiunt venti: te nubila caeli:
Adventumque tuum: tibi suaves daedala tellus
Submittit flores: tibi rident aequora ponti:
Placatumque nitet diffuso lumine caelum.
Nam simul ac species patefactast verna diei
Et reserata viget genitabilis aura favoni
Aeriae primum volucres te diva: tuumque
Significant initum perculsae corda tua vi.
Inde ferae pecudes persultant pabula laeta:
Et rapidos tranant amneis: ita capta lepore
Te sequitur cupide: quo quanque inducere pergis.
Denique per maria: ac monteis: fluviosque rapaces :
Frondiferasque domos avium: camposque vireteis
Omnibus incutiens blandum per pectora amorem
Efficis: ut cupide generatim secla propagent.
Quae quoniam rerum naturam sola gubernas:
Nec sine te quicquam dias in luminis oras
Exoritur: neque fit laetum: neque amabile quicquam:
Te sociam studeo scribendis versibus esse:
Quos ego de rerum natura pangere conor
Memmiadae nostro: quem tu dea tempore in omni
Omnibus ornatum voluisti excellere rebus.
Quo magis aeternum da dictis diva leporem:
Effice ut interea fera munera militiai
Per maria: ac terras omneis sopita quiescant.
Nam tu sola potes tranquilla pace iuvare
Mortales : quoniam belli fera munera Mavors
Armipotens regit: in gremium qui saepe tuum se
Reiicit aeterno devictus volnere amoris:
Atque ita suspirans tereti cervice reposta.
Pascit amore avidos inhians in te dea visus:
Eque tuo pendet resupini spiritus ore.
Hunc tu diva tuo recubantem corpore sancto
Circunfusa super suaveis ex ore loquelas
Funde petens placidam Romanis incluta pacem.
Nam neque nos agere hoc patriai tempore iniquo
Possumus aequo animo: nec Memmi clara propago
Talibus in rebus communi deesse saluti.