前回まではルクレティウスの『物の本質について』とボッティチェリの《ヴィーナスとマルス》との関係を調べてみました。『物の本質について』の冒頭にあるウェヌスを讃えている文章を意図的に違う意味になるように翻訳すると、絵に落書きする人の独白になることが分かりました。そしてこの記述がまさに《ヴィーナスとマルス》の描写そのものだと示せました。今回はアナクレオンテアの一つの詩と《ヴィーナスとマルス》との関係を示します。絵に落書きをするからには、落書きの対象となる絵が前もって存在しなくてはなりません。今回示すのは落書き以前のその絵の典拠となるものです。
アナクレオンテアのこの詩については以前もここに書いたのですが、そのときはとてもいい加減な翻訳をしていました。一つの詩の言葉遊びが絵の描写の典拠となりうるという、他のボッティチェリの神話画の解釈にとっても重要な手掛かりとなるものですが、当時の私の古典ギリシャ語文法の知識に限界があって正確には訳出できませんでした。断片的な解釈では、この絵との対応を指摘できていましたが、細かな詰めの部分では完全に証明できていませんでした。今回はできるだけ厳密に単語の意味を調べ、絵との対応を深めていこうと思います。
その前に言葉の説明です。アナクレオンテアとは紀元前六世紀に活躍した古代ギリシャの詩人アナクレオンの作風に似た詩のことです。16世紀に詩集が出版されると西洋の芸術に大きな影響を与えました。この詩の一つに、クピドが蜂に刺されて母ウェヌスに泣きつくと、ウェヌスが彼に人の痛みについて諭すという内容の作品があります。ちなみにこの詩に近い内容のものとしてテオクリトスの『牧歌』第19歌『蜂蜜泥棒』(偽作)があり、この詩をもとにルーカス・クラナッハはヴィーナスとクピドの絵を描いています。さて、アナクレオンテアのこの詩と《ヴィーナスとマルス》の絵の共通点は、「ウェヌス」と「蜂」だけです。記述されるべきマルスがいません。そして従来の解釈では描かれていないはずのクピドがいます。しかしこのアナクレオンテアの詩を真面目に誤訳していくと、この絵を見ながら書いた詩であるかのような内容に変えることができます。
Ἔρως ποτ΄ ἐν ῥόδοισι
κοιμωμένην μέλισσαν
οὐκ εἶδεν, ἀλλ΄ ἐτρώθη
τὸν δάκτυλον. Πατάξας
τὰς χεῖρας, ὠλόλυξε·
δραμὼν δὲ καὶ πετασθεὶς
πρὸς τὴν καλὴν Κυθήρην,
ὄλωλα, μῆτερ, εἶπεν,
ὄλωλα, κἀποθνήσκω.
Ὄφις μ΄ ἔτυψε μικρὸς,
πτερωτὸς, ὃν καλοῦσι
μέλισσαν οἱ γεωργοί.
Ἡ δ΄ εἶπεν· εἰ τὸ κέντρον
πονεῖ τὸ τῆς μελίσσης,
πόσον δοκεῖς πονοῦσιν,
Ἔρως, ὅσους σὺ βάλλεις;
これがその詩のギリシャ語原文です。記号付のギリシャ文字を使っているので、スマホなどでは正しく表示されない可能性があります。以下の文章内でのギリシャ文字も同様です。原文を確認したい場合は次のリンク先にある画像化したものを見てください。[画像化したテキスト]
それでは、まずこの詩の本来の意味を解釈してみます。なお古典ギリシャ語の詩を解釈するため、神々の固有名詞はギリシャ神話のものを使います。対応が必要なローマ神話での名前は括弧内に記しています。
Ἔρως ποτ΄ ἐν ῥόδοισι κοιμωμένην μέλισσαν οὐκ εἶδεν, ἀλλ΄ ἐτρώθη τὸν δάκτυλον.
ここで使われている単語は次の通り。Ἔρωςは男性名詞Ἔρως「愛、エロス(クピド)」の単数主格。ποτ΄はποτε「あるとき、かつて」の母音省略。ἐνは与格支配の前置詞ἐν「の中で」。ῥόδοισιは中性名詞ῥόδον「バラ」の複数与格。κοιμωμένηνは動詞κοιμάω「眠らせる」の中動態現在分詞の単数女性対格。μέλισσανは女性名詞μέλισσα「蜂」の単数対格。οὐκはοὐ「英語のnot」。εἶδενは動詞εἶδον「見る」の三人称単数アオリスト。ἀλλ΄は接続詞ἀλλά「そして、しかし」の母音省略。ἐτρώθηは動詞τιτρώσκω「傷つける」の受動態三人称単数アオリスト。τὸνは冠詞ὁの単数男性対格。δάκτυλονは男性名詞δάκτυλος「指」の単数対格。
この文の主節はἜρως ποτ΄ μέλισσαν οὐκ εἶδενで「あるときエロスは蜂を見ていなかった。」となります。ἐν ῥόδοισι κοιμωμένηνは分詞句でκοιμωμένηνは中動態なので「眠っている」となり、合わせて「バラの中で眠っている」となります。この分詞は女性単数対格なので、蜂μέλισσαと性数格が一致して、これを修飾しているのが分かります。そのあとに接続詞ἀλλάに導かれて従属節「ἐτρώθη τὸν δάκτυλον」が続きます。動詞が受動態なので「彼は指を傷つけられた。」という意味になります。全体をまとめると、「あるとき、エロスはバラの中で眠っていた蜂に気付かず、指を刺されてしまった。」となります。
Πατάξας τὰς χεῖρας, ὠλόλυξε· δραμὼν δὲ καὶ πετασθεὶς πρὸς τὴν καλὴν Κυθήρην, ὄλωλα, μῆτερ, εἶπεν, ὄλωλα, κἀποθνήσκω.
πατάξαςは動詞πατάσσω「叩く」のアオリスト分詞の男性主格単数。τὰςは冠詞ὁの単数女性属格もしくは複数女性対格。χεῖραςは女性名詞χείρ「手」の複数体格。ὠλόλυξεは動詞ὀλολύζω「大声で泣く」の三人称単数第2アオリスト。δραμὼνは動詞τρέχω「走る」のアオリスト分詞の単数男性主格。δὲは接続詞「そして、しかし」。καὶは接続詞「そして」。πετασθεὶςは動詞πέτομαι「飛ぶ」の受動態第2アオリスト分詞の単数男性主格。πρὸςは対格支配の前置詞「の方へ」。τὴνは冠詞ὁの単数女性対格。καλὴνは形容詞καλός「美しい」の単数女性対格。Κυθήρηνは名詞Κυθηριάς「キュテレイア、アフロディーテ(ウェヌス)の別名」の単数女性対格。ὄλωλαは動詞ὄλλυμι「失う、死ぬ」の一人称単数完了。μῆτερは女性名詞μήτηρ「母」の単数呼格。εἶπενは動詞εἶπον「言う」の三人称単数アオリスト。κἀποθνήσκωは動詞ἀπόθνήσκω「死ぬ」の直説法か接続法の一人称単数現在。
ὠλόλυξεが主動詞で、その省略されている主語は文脈からエロスとなり、意味は「彼(エロス)は大声で泣いた。」です。πατάξας τὰς χεῖραςの分詞は男性主格単数なので、このエロスを修飾していると考えます。まとめると「両手を叩きながら彼は泣き喚いた。」となります。
δὲは前の文との接続詞。そのあとのκαὶが二つの分詞をつなぐ等位接続詞。δραμὼνは分詞の単数男性主格、πετασθεὶςも分詞の単数男性主格で、両者ともエロスの動作を表しています。πρὸςはこれらの動作の方向を示す前置詞で、その目的語が単数女性対格のτὴν καλὴν Κυθήρην「美しいキュテレイア(アフロディーテ)」です。ここでπετασθεὶςは受動態の活用語尾をしていますが、能動態のないデポネント動詞なので、受動態でも「飛んで」と訳します。ここまでをまとめると、「そして、彼(エロス)は走ったり、飛んだりして美しいキュテレイア(アフロディーテ)の方に向かった。」となります。
εἶπενは三人称単数アオリストで、この前後にある言葉がエロスの台詞であることを示しています。ὄλωλαは一人称単数完了の動詞で、エロスが自分を主語にして話している言葉です。同様にκἀποθνήσκωも一人称単数の動詞で、これもエロス自身の言葉です。ただしこれは完了形ではなく、現在形です。ὄλωλαは蜂に刺されたさっき起きた出来事を表していて、κἀποθνήσκωは死ぬほど痛くてたまらないという現在を表しています。ὄλλυμιもἀπόθνήσκωも「死ぬ」という意味がありますが、前者は刺されたときの様子なので、「怪我をした」と訳してみます。途中にあるμῆτερは呼格で「お母さん!」、これもやはりエロスの台詞です。まとめると、「『僕怪我しちゃったよ、お母さん、怪我しちゃったよ、僕死んじゃうよ』と彼(エロス)は言った。」と訳せます。
Ὄφις μ΄ ἔτυψε μικρὸς, πτερωτὸς, ὃν καλοῦσι μέλισσαν οἱ γεωργοί.
ὄφιςは男性名詞ὄφις「蛇」の単数主格か複数対格。μ΄はμεの母音省略で、人称代名詞の一人称単数対格。ἔτυψεは動詞τύπτω「叩く、刺す」の三人称単数アオリスト。μικρὸςは形容詞μικρός「小さい」の単数男性主格。πτερωτὸςは形容詞πτερωτός「羽のある」の単数(男性/女性)主格。ὃνは代名詞ὅς「」の単数(男性/中性)対格。καλοῦσιは動詞καλέω「呼ぶ」の三人称複数現在。μέλισσανは女性名詞μέλισσα「蜂」の単数対格か複数属格。οἱは冠詞ὁの複数男性主格。γεωργοίは男性名詞γεωργόςの複数主格。
主節はὄφις με ἔτυψεで、ἔτυψεは蛇による攻撃なので「噛まれる」として、子どもの台詞っぽくして「蛇が僕を噛んだんだ。」となります。ここも前の文からの続きで、エロスの台詞と考えています。μικρὸςとπτερωτὸςはともに単数男性主格で主語のὄφιςを修飾しています。ここまでで「小さくて、羽の生えた蛇が僕を噛んだんだ。」とします。実際はエロスは刺されたわけですが、蜂のことを知らないので、蛇をたとえに出したのでしょう。蛇を知っているエロスは、おそらく蛇の毒のことも知っていて、そのために彼は自分が死んでしまうと考えたのかもしれません。単数男性対格のὃνは人称代名詞ですが、ここでは関係代名詞の役割をしています。先行詞はὄφιςです。関係節の主語は複数男性主格のοἱ γεωργοίで、意味は「農家の人たち」です。動詞はκαλέωで、この動詞は二つの対格をとるとき「AをBと呼ぶ」という意味で訳せます。この文ではὃνとμέλισσανがその二つの対格です。関係節をまとめると、「農家の人たちが蜂と呼んでいる〜」となります。全体で、「農家の人たちが蜂と呼んでいる、小さくて羽の生えた蛇が僕を噛んだんだ。」となります。
Ἡ δ΄ εἶπεν· εἰ τὸ κέντρον πονεῖ τὸ τῆς μελίσσης, πόσον δοκεῖς πονοῦσιν, Ἔρως, ὅσους σὺ βάλλεις;
ἡは代名詞ὅςの単数女性主格。δ΄は接続詞δέの母音省略。εἶπενは動詞εἶπον「言う」の三人称単数アオリスト。εἰは接続詞εἰ「英語のifに相当」。τὸは冠詞ὁの単数中性(主格/呼格/対格)。κέντρονは中性名詞κέντρον「刺激、針、突き棒」の単数(主格/呼格/対格)。πονεῖは動詞πονέω「(自動詞)苦労する、(他動詞)苦しめる」の能動態三人称単数現在か受動態/中動態二人称単数現在。τῆςは冠詞ὁの単数女性属格。μελίσσηςは女性名詞μέλισσα「蜂」の単数属格。πόσονは疑問の相関代名詞πόσος「どれだけ?」の単数男性対格か単数中性(主格/呼格/対格)もしくは副詞。δοκεῖςは動詞δοκέω「考える、思う」の二人称単数現在。πονοῦσινは動詞πονέω「(自動詞)苦労する、(他動詞)苦しめる」の三人称複数現在。Ἔρωςは男性名詞Ἔρως「エロス(クピド)、愛」の単数主格。ὅσουςは関係の相関代名詞ὅσος「〜と同じくらいであるところの」の複数男性対格。 σὺは人称代名詞σύの二人称単数主格。βάλλειςは動詞βάλλω「投げる、攻撃する」の二人称単数現在。
δέは接続詞。ἡは三人称単数の代名詞で、文脈からエロスに話しかけられているアフロディーテのことだと分かります。ἡ δ΄ εἶπενは「そして彼女(アフロディーテ)は話した。」となります。その内容がこの後すべてです。すぐ後のεἰで条件節τὸ κέντρον πονεῖ τὸ τῆς μελίσσηςを導きます。ここで分からないことが一つあります。πονεῖの前のτὸ κέντρονと後ろのτὸが同じものを表しているとしか考えようがないことです。この文法的な理由がよくわかりません。とりあえず詩としての構成の関係上、τὸ κέντρονをπονεῖの前に置かざるを得ないのだけれど、前に出してしまうと、それを修飾する属格との距離が離れてしまうので、属格の修飾を受けるために代名詞をそこに残した。そう考えてみました。間違っていたらすみません。つまり条件節をπονεῖ τὸ κέντρον τῆς μελίσσηςと考えて解釈します。πονεῖは受動態二人称と考え「あなたは苦しめられる」とします。従って、τὸ κέντρον τῆς μελίσσηςは「蜂の針」と訳せるので、「あなた(エロス)が蜂の針に苦しめられているのならば、」となります。
次に主節です。主節はπόσον δοκεῖς πονοῦσινです。動詞はδοκεῖς「考える、思う」です。その後にも動詞πονοῦσινが並んでいますが、δοκέωは独立節を目的語にすることができるので、考える内容を表す節の動詞だと分かります。先頭の疑問詞πόσονは英語のhow much?、how many?などに相当する単語ですが、この場合δοκεῖς ではなくπονοῦσινに付属する間接疑問詞と考えます。πονοῦσινは前に別の形で出てきた動詞ですが、ここでは自動詞の能動態で「苦労する、苦しむ」と解釈します。主語は三人称複数となりますが、これはここまでに出てきた言葉にはありません。ここでは単に「人々、みんな、他の人」とします。動詞を自動詞と考えるので、πόσονは副詞となります。「みんながどんなに苦しいか、あなたは考える?」となります。
次のἜρωςは呼びかけです。そのあとはὅσουςが導く関係節σὺ βάλλειςです。男性複数与格のὅσουςは英語のas much asやas many asなどに相当する言葉です。先行詞にあたるのはπονοῦσινの複数主語となるでしょう。そして、σὺ βάλλειςのσὺ(英語の単数主格のyouに相当)は、ここもまだアフロディーテの発言なので、エロスを表しています。そして主語がエロスならば、彼は常に弓矢を携行しているので、動詞βάλλειςは「矢を射る、矢を刺す」となります。もちろん同じように人を尖った物で刺す蜂との対比です。複数対格のὅσουςはこの動詞の目的語になるので、エロスの矢の餌食になるたくさんの人々のことを表しています。「同じようにたくさんの人たちにあなたは刺している。」となります。
まとめるとこうなるでしょう。
すると彼女は言った。「あなたが蜂の針に苦しめられているのならば、他の人もどんなに苦しいか、考えてごらん?エロス!同じようにたくさんの人にあなたも矢を刺しているのよ。」
少し推敲して全体をまとめるとこうなります。
あるとき、エロスは、バラの中で眠ていた蜂に気が付かずに、指を刺されてしまった。両手を叩きながら、彼は泣き喚いて、美しきキュテレイアへ駆けて飛んで、「僕ケガしちゃったよ、お母さん!」彼は言った。「ケガしちゃったよ、僕死んじゃうよ。」「農家の人たちがハチと言ってる、小さくて羽の生えた蛇が僕を噛んだんだよ」。すると彼女は言った。「あなたが蜂の針に苦しんだのならば、他の人もどんなに苦しいか考えてごらんなさい。エロス!同じようにたくさんの人にあなたも矢を刺しているのよ。」
このままだと《ヴィーナスとマルス》とは似ても似つきません。キュテレイア(ウェヌス)と蜂という単語があるだけの詩にすぎません。
今度は、絵に合わせた翻訳を行います。
Ἔρως ποτ΄ ἐν ῥόδοισι κοιμωμένην μέλισσαν οὐκ εἶδεν, ἀλλ΄ ἐτρώθη τὸν δάκτυλον.
ποτ΄はπότεの省略形ですが、名詞πότηςの省略と考えることもできます。πότηςは男性名詞で「酔っ払い、酒豪」という意味の単語です。語尾が省略されているので、いろんな格・数とみなすことができます。この絵で酔っ払いに見えるのは横になっているアレス(マルス)です。次にἐν ῥόδοισιです。本来「バラの中」と訳されますが、ῥόδοισιを「バラ色の物」と考えてみます。またἐνは英語のinだけでなくon、at、byでもいいので、ἐν ῥόδοισιは「バラ色の物の上で」と解釈できます。κοιμωμένηνは中動態現在分詞の「眠っている」ではなく、受動態現在分詞で「なだめられている」とします。したがって、πότε ἐν ῥόδοισι κοιμωμένην μέλισσανは、ピンク色の敷布の上にいる酔っ払ったアレスが暴れないようになだめている蜂を表すことになります。この絵のようにぐったりとする前のことでしょう。蜂をなだめるというのがちょっと奇妙な表現ですが、蜂が暴れ出したら大変です。
主節のἜρως μέλισσαν οὐκ εἶδενは本来「エロスは蜂を見ていなかった」となりますが、エロス(クピド)が大きな兜をかぶったサテュロスだとすれば、その兜が邪魔で周りが見えないのは絵のとおりです。まさに兜がいつもの布きれの代わりの立派な目隠しとなっています。エロスが矢でなく、槍で攻撃していることが奇妙ですが、矢は古典ギリシャ語でβέλοςであり、これは飛び道具全般も表します。イタリア語だとarma da lancioとなります。この絵の槍は投げない馬上槍試合で使うランスですが、これはイタリア語ではlancia da giostraであり、lanciaの一種であれば、投げる槍と同様にβέλοςの範疇となります。このように兜も槍もいつものエロスの装備の単なる言葉遊びになっているのが分かります。彼は確かにエロス(クピド)となります。
μέλισσανを修飾していた先ほど解釈した分詞句と合わせると、「酔っ払い(アレス)がバラ色の敷布の上でなだめている蜂をエロスは見ていなかった。」となります。これはアレスが起きているときの記述なので、この絵よりも前の出来事となり、この絵の中で見つけることはできません。やがて彼は眠くなり、この絵で描かれているように、そのバラ色の物の上で寝ているわけです。
ἐτρώθη τὸν δάκτυλονが、そのまま「指を傷つけられた」だとすると、エロスの指に傷がないといけません。しかしどの指にも見つかりません。そこで三人称単数の主語が、この絵の中の別の誰かと仮定して、一本一本丹念に探していくと、ウェヌスのこれ見よがしに放り出している左足の親指に傷があります。意味ありげにアレスの右の人差し指が、この傷を指さしています。なおこのアレスの指差しの描写は、この詩ではなく、『物の本質について』の記述の中で明らかになります。
この文をまとめると、次のようになります。
酔っ払い(アレス)がバラ色の敷布の上でなだめている蜂をエロスは見ていなかった。そして彼女(アフロディーテ)は指を傷つけられた。
Πατάξας τὰς χεῖρας, ὠλόλυξε· δραμὼν δὲ καὶ πετασθεὶς πρὸς τὴν καλὴν Κυθήρην, ὄλωλα, μῆτερ, εἶπεν, ὄλωλα, κἀποθνήσκω.
πατάξαςはπατάσσω「叩く、傷つける」の三人称単数アオリストとみなすことができるので、ここを分詞句ではなく節として考えます。τὰςを単数女性属格、χεῖραςを女性名詞χειράς「ひび」の主格と考えれば、この節の意味は「あなたは彼女のひびを傷つけた。」となります。これだとひびが既にあったように思えてしまうので、「あなたは彼女のひびをつけた。」とします。この「ひび」とは先ほど確認したアフロディーテの傷のことになります。ただこの主語は、この中に描かれた者でしょうが、まだ誰だかわかりません。ただアフロディーテを彼女と呼んでいるので、これはアフロディーテ以外の人物視点の言葉でしょう。そうなると傷を付けた者への批判の言葉となるでしょう。
次にὠλόλυξεです。これは「鋭い声を出す」という意味ですが、声代わりに音とすれば、これは右端のサテュロスが持っているほら貝の音を表していると考えることができます。イタリア語のvoceは声も楽器の音色も表すことができるので、この言い換えは可能です。つまり、ὠλόλυξεで「彼は鋭い音を発した。」となり、右端のサテュロスについての記述となります。
δὲは「そして」。δραμὼν καὶ πετασθεὶς πρὸς τὴν καλὴν Κυθήρηνは真ん中のサテュロスの描写と考えます。彼は足を大きく開いて、走っている姿をしています。またしっぽの様子から彼が飛び跳ねている様子もわかります。そして顔がアフロディーテ(ウェヌス)の方を向いていいます。アフロディーテはそれだけで美しく描かれていますが、念を押すために宝石を身につけています。καλόςのイタリア語の意味の中にglorioso「輝かしい」があります。ここをまとめると「輝かしいアフロディーテの方を向いて走って、跳ねていた」となります。
次はὄλωλαの意味です。彼はどこも怪我はしていません。しかし、見ようによっては右腕を槍が貫通しています。この描写に対して、僕は壊れたと訴えているわけです。そしてアフロディーテをお母さんと呼んでいて、なおかつこの子は男の子のようですから、アフロディーテとアレスの間の男の子ども、フォボスかダイモスになるでしょう。εἶπενはそのまま「彼は言った」と訳します。確かに彼は口を開いています。もう一つ、ὄλωλαがあります。これはただ繰り返しとします。そしてκἀποθνήσκωです。これは自動詞のままで「僕死んじゃうよ!」とします。彼の顔の表情から母親の気を引こうとしているだけのように思われます。
まとめるとこうなります。
あなたは彼女(アフロディーテ)のひびを付けた。彼(右端のサテュロス)は鋭い音を発した。そして輝くアフロディーテの方を向いて走って跳ねながら、「僕壊れちゃったよ!お母さん」と彼(真ん中のサテュロス)が言った。「僕壊れちゃったよ。」「僕死んじゃうよ。」
Ὄφις μ΄ ἔτυψε μικρὸς, πτερωτὸς, ὃν καλοῦσι μέλισσαν οἱ γεωργοί.
ὄφιςは蛇のことですが、この絵の中には描かれていないようです。ただこの絵の中に描かれているサテュロスたちがアフロディーテの子どもを表しているのならば、右下の子どもはハルモニアになるでしょう。服を着ている点が女性であることを示しているのかもしれません。彼女がハルモニアならば、彼女は蛇に関係ある存在です。なぜなら、彼女は将来カドモスと結婚しますが、晩年彼とともに蛇の姿に変えられてしまいます。とはいっても彼女はまだ人の姿をしています。蛇といえばイタリア語ではserpente、ラテン語でもserpenteです。この語はラテン語の動詞serpo「這う」に由来する言葉です。したがってὄφιςjは語源にさかのぼって「這うもの」と考えれば、これは右下のサテュロスの腹這いになっている姿を表していることになります。この子は他の子よりも小さいのでμικρὸςはそのまま「小さい」と訳します。πτερωτὸςは「翼のある」という意味ですが、これはサテュロスたちの耳の形のことだとします。με ἔτυψεはそのまま「私を叩いた」とします。主節の部分をまとめると、「小さくて、翼のようなものがある、這っている者が私を叩いた」となります。つまり、アフロディーテの足指の傷を作ったのは右下の小さなサテュロス、そしておそらく彼女はアレス(マルス)とアフロディーテ(ウェヌス)の娘ハルモニアです。
後半のὃν καλοῦσι μέλισσαν οἱ γεωργοίは関係節で、本来の解釈と同じで先行詞はὄφιςです。οἱ γεωργοίは農家の人たちを表しますが、この絵には複数の農家の人たちは描かれていません。ハルモニアの前には植物があるので、彼女は農家かもしれませんが、彼女だけだと単数です。そこで辞書を探してみます。γεωργόςに近い綴りの言葉にΓεώργιοςがあります。この語はγεωργόςを語源とするもので、綴りとしては「i」があるかないかの違いです。このΓεώργιοςはキリスト教の英雄、聖ゲオルギオス(セント・ジョージ)のことで、国名のGeorgiaジョージアや人名のGeogeジョージの由来となるものです。聖ゲオルギオスは槍を使って竜を退治したことで有名な聖人です。そしてこの絵にも立派な槍が描かれています。つまり槍を抱えて悪者退治をしている彼らは「聖ゲオルギオスたち」というわけです。ゲオルギオスの綴りに「i」が足りませんが、それはアレスが支えている立てた棒で補えということでしょう。そういう綴りの不整合も、子どもたちの可愛らしい未熟さとそれを見守る親の姿として表現されています。
本来のこの文ではκαλοῦσιは呼び名を表す動詞として使いますが、この意味を絵で表現することは難しそうです。そこで、今回はこの動詞の意味をイタリア語のconvocore「呼び寄せている」とします。蜂の方向を向いて法螺貝を吹いている右端のサテュロスの行為を表す言葉とします。しかしそうするとμέλισσαν「蜂」という単語の解釈に困ります。このままでは文法的にうまく訳せません。そこでまた別の意味を考えます。μέλισσαは動詞μελίζω「ばらばらにする」もしくは「歌う」のアオリスト分詞の中性(主格/呼格/対格)でもあります。つまり、この語を分詞と考え、関係詞を修飾する形容詞とします。μέλισσα「蜂」は本来μέλι「蜂蜜」が由来とされますが、頭・胸・腹とはっきりと分かれた姿はこの分詞を使って形容することができます。そしてこれは右下のハルモニアを表す言葉にもなります。彼女は鎧の二つの穴から別々に体を出しています。つまり「体が別々のそれ」は蜂もハルモニアも表していると考えることができます。ただし聖ゲオルギオスたちからは、ハルモニアはそのような姿になっていることは見えていないので、これは「私」つまりアフロディーテの視点でのハルモニアの描写になるでしょう。
さて、最初の文にもμέλισσανという言葉がありました。そこでは蜂をなだめると解釈していましたが、μέλισσανがハルモニアを表しているとすると、蜂と解釈するよりももっとこの絵にあったものになります。小さな子どもなので、「なだめる」でもいいですが、「あやす」とします。この修正は最後のまとめで行います。ただアレスがあやしているときも、ハルモニアが絵のように体が別々に出ていたとは考えにくいので、この絵が描かれている時点での彼女の様子で、過去の彼女のことを呼んでいるとします。
この文章の解釈に戻ります。お母さんであるアフロディーテが傷つけられたことを知った彼らは、その犯人を退治しようとしているのでしょう。このときμέλισσανという言葉をそのまま「蜂」と理解してしまったようです。槍が蜂の巣の方を向いているので、エロスがちゃんと見えていないので断言はできませんけれど、その可能性が高いでしょう。しかし、そもそもアフロディーテは、ハルモニアが犯人だとエロスたちに気付かれないようにしたのかもしれません。そのため、小さくて、羽が生えて、体がばらばらな蛇が噛んだと言ったのかもしれません。神様が自分の子どもに対して嘘がつけないでしょうから、わざと難しい謎々の形で話したのでしょう。もちろん、この絵の謎解きをする人への問題でもあります。ところでμέλισσανという言葉がエロスたちに伝わっていなくてはなりませんが、アフロディーテは口を開いていません。厳密に考えると、同じ内容を子どもたちに少し前にしゃべっておく必要があるでしょう。
まとめると、こうなります。
小さくて翼のようなものが付いてる這う者(ハルモニア)が私(アフロディーテ)を叩いた。そして体が分かれているその者を聖ゲオルギスたち(男の子たち)が呼び寄せている。
Ἡ δ΄ εἶπεν· εἰ τὸ κέντρον πονεῖ τὸ τῆς μελίσσης, πόσον δοκεῖς πονοῦσιν, Ἔρως, ὅσους σὺ βάλλεις;
δέは接続詞です。ἡは三人称単数の代名詞で、この絵の中でしゃべっているように見えるのは真ん中のサテュロスか、右下のハルモニアです。今回はハルモニアとしましょう。ἡ δ΄ εἶπενは「そして彼女(ハルモニア)はしゃべった。」となります。
すぐ後のεἰで条件節τὸ κέντρον πονεῖ τὸ τῆς μελίσσηςを導きます。今回もこれを、πονεῖ τὸ κέντρον τῆς μελίσσηςと考えて解釈します。τὸ κέντρον τῆς μελίσσηςは本来「蜂の針」ですが、ハルモニアを体がばらばらな者と形容したので、τῆς μελίσσηςはハルモニアも表していると考えます。しかし、そうするとτὸ κέντρονの意味が「針」のままだとおかしくなります。そこで別な意味を考えてみるわけですが、κέντρονのイタリア語の意味を調べると、pungolo、stimoloという言葉が出てきます。英語ではgoadです。こらは刺激という意味を持ちますが、同時に家畜を追うときなどに使う「突き棒」を表します。これはハルモニアのすぐそばでアレスが左手で立てている金属の棒を表す言葉になるでしょう。この棒にハルモニアの手が触れた描写になっているので、それにより彼女に属する物という表現も可能になります。つまり、τὸ κέντρον τὸ τῆς μελίσσηςは「体がばらばらな者の突き棒」と解釈できます。この解釈は元々の蜂の針を表すこともできます。というより、これはハルモニアの台詞なので、自分への追及をかわそうと蜂へ転嫁した言いようだと考えた方がいいでしょう。そうするとこの節は、「蜂の針(体がばらばらな者の突き棒)が苦しめたのならば、」となります。
次にπόσον δοκεῖς πονοῦσινです。これは本来の解釈とほとんど同じでいいでしょう。πονοῦσινは自動詞とします。「みんながどれくらい困っているか、あなた考えてるの?」です。この場合、前も見ずに大きな槍を振り回しているエロスへの批判となります。構図的に槍はエロスの前の二人のサテュロスに刺さっているようにも見えます。アレスも槍に倒されたかのようになっています。ハルモニアは罪を犯しましたが、大騒ぎをしているエロスにも確かに非があります。こちらの節がこのような意味になると、前の節は条件よりも譲歩がいいかもしれません。ここまでをまとめると、「蜂の針(体がばらばらな者の突き棒)が苦しめたとしても、みんながどれくらい困っているか、あなた考えてるの?」となります。
次のἜρωςは呼びかけです。二人称の動詞の主語が誰であるかを示しています。そして次の文です。ὅσους σὺ βάλλειςは本来ὅσουςを関係詞として、英語のas many asのように訳していました。しかしこの語は感嘆文のhow many!やhow large!の意味でも使えます。ὅσουςは男性複数対格です。他動詞βάλλω「投げる」は、対格によって、攻撃する対象を表現する場合にも武器を表現する場合にも使えますが、その対格が男性複数ですから、この絵の場合は複数ある攻撃の対象と考えられます。つまり、絵で槍が二人のサテュロスとアレスを貫いているかのように描かれているので、これをこの言葉が表しているとするわけです。ちょうど全員男性です。「エロス!あなたはなんてたくさんの男の人を突き刺しているの!」という非難めいた台詞になっています。エロスは大きな槍まで持ち出して大騒ぎしていて、槍が人物に重なって描かれていますが、実際に刺さっているわけではありません。
まとめると、こうなります。
そして彼女(ハルモニア)はしゃべった。「蜂の針(体がばらばらな者の突き棒)が苦しめたとしても、みんながどれだけ困っているか、あなた考えてるの?エロス!あなたはなんてたくさんの男の人を突き刺しているの!」
絵に合わせてまじめに誤訳したものをまとめると次のようになります。
酔っ払い(アレス)がバラ色の敷布の上であやしているこの体が分かれている子(ハルモニア)をエロスは見ていなかった。そして彼女(アフロディーテ)は指を傷つけられた。お前は彼女(アフロディーテ)のひびを付けた。彼(右端のサテュロス)は鋭い音を発した。そして輝くアフロディーテの方を向いて走って跳ねながら、「僕壊れちゃったよ!お母さん」と彼(真ん中のサテュロス)が言った。「僕壊れちゃったよ」。「僕死んじゃうよ」。小さくて翼のようなものが付いてる這う者(ハルモニア)が私(アフロディーテ)を叩いた。そして体が分かれているその子を聖ゲオルギスたち(男の子たち)が呼び寄せている。 そして彼女(ハルモニア)はしゃべった。「蜂の針(体が分かれている子の突き棒)が苦しめたとしても、みんながどれだけ困っているか、あなた考えてるの?エロス!あなたはなんてたくさんの男の人を突き刺しているの!」
この詩を以前訳したものといくつか違ってしまいましたが、この記述が落書きされる前に描かれていたという設定の絵となります。ある日の日中の、夫婦と四人の小さな子どもたちの、ちょっとした事件の一コマという絵です。ぼーっと見ていただけでは絶対に気付かない内容です。『物の本質について』の文章はこの絵に対して落書きをする様子を記述したものとなります。アフロディーテに傷を負わせたのは、ハルモニアですが、彼女は既にアレスに捕らえられ、もうこれ以上悪さをしないように彼の鎧の中に閉じ込められています。彼女が罪を犯し捕らえられていることは、金属の棒とアレスの腕で作った牢屋がそれを表しています。
この詩の解釈だけでは、フォボス、ダイモス、ハルモニアという名前は推測できるだけで断定することはできません。しかし、サテュロスたちはそのような姿をしていますが、彼らはアレス(マルス)とアフロディーテ(ウェヌス)との間の子どもたちと考えてよいでしょう。大人のサテュロスは、暴力的な愛欲を象徴する存在なので、アレスとアフロディーテの子どもを表すものとしては、この姿は視覚的にとても的確なものと言えるでしょう。彼らが二人の子どもであるならば、それぞれフォボスかダイモス、そしてハルモニアとなります。またエロスはアレスの子ではありませんが、武器を持っているので暴力的な属性を満たしているとして彼もサテュロスのように描いていると考えられます。なおエロスのお腹が丸見えなのにおへそが描かれていない描写は、アフロディーテから生れたわけではないがアフロディーテの子どもとして扱われている、その特殊性を端的に示しています。
以前から「愛は力に勝つ」という、マルシリオ・フィチーノの『愛について』の金星(アフロディーテ)と火星(アレス)の説明から導かれるその思想が、この絵に描かれているということが言われていましたが、その解釈は当たらずといえども遠からずで、アレスを倒しているのは、アフロディーテではなく、本職のクピドです。もちろん、本当にクピドが槍で倒したわけではありませんが、そう見えるように描いていることに意味があると思われます。
書いている途中で度々新たな発見があったため、各投稿の間に不整合なところがいくつかありますが、以上のように今回と前回までの解釈により、《ヴィーナスとマルス》は『アナクレオンテア』の蜂とエロスの詩と『物の本質について』のウェヌスを讃える冒頭の部分の記述を重ねて描かれていることが説明できます。