今回は次の8行です。この絵に新しい登場人物が出現します。
Vallis erat piceis et acuta densa cupressu,
nomine Gargaphie succinctae sacra Dianae,
cuius in extremo est antrum nemorale recessu
arte laboratum nulla: simulaverat artem
ingenio natura suo; nam pumice vivo
et levibus tofis nativum duxerat arcum;
fons sonat a dextra tenui perlucidus unda,
margine gramineo patulos incinctus hiatus.
最初の行から、素晴らしい言葉遊びです。
vallis erat piceis et acuta densa cupressu,
本来の意味を調べます。まず構造の情報として、vallisは女性名詞vallis(渓谷、谷)の単数主格/呼格/属格か複数対格。eratは動詞sum(ある)の三人称単数未完了過去。pieceisは女性名詞picea(スプルース、トウヒ、蝦夷松)の複数与格か奪格。etは接続詞。actutaは形容詞acutus(鋭い)の中性複数の主格/呼格/対格か女性単数の主格/呼格/奪格。densaは形容詞densus(濃い、密集した)の中性複数の主格/呼格/対格か女性単数の主格/呼格/奪格。cupressuは女性名詞cupressus(糸杉)の単数奪格。
これらをまとめていきます。主語はvallisで、動詞はeratです。形容詞densaは女性単数主格で主語を修飾しています。piceisは複数奪格、cupressuも単数奪格で女性単数奪格の形容詞acutaによって修飾されています。そして接続詞etは奪格のpiceisとcupressuを等位で結んでいます。これらの奪格は密集している内容を示していて、「スプルースと鋭い糸杉が茂っている渓谷があった。」となります。この文は、まださらに続きますが、絵に合わせた解釈では、ここで区切って考えます。
さて、絵の中での意味です。まずこの絵には渓谷が描かれていません。ここではvallisは谷を意味しません。日本語や英語に訳された『変身物語』をいくら詳しく読んでも、これ以上先には進めません。しかし自分でラテン語の単語を調べてみると面白い表現が見つかります。vallisという変化形になるのは、vallis(谷)の他にいくつかありますが、中性名詞vallumの複数与格/奪格もvallisとなります。この単語vallumにはイタリア語でpalizzate(柵)という意味があります。柵はまさに女神の右横に描かれているものです。そしてpiceisがこれを修飾します。piceisは形容詞piceus(松脂の)の中性複数の与格か奪格です。柵のところに松脂そのものは描かれていませんが、「松脂色の」と考えればこの柵の色となります。

しかしvallisのこの解釈を採用すると、問題が一つ起きます。主語であるvallisが与格か奪格になってしまうので、代わりの単数主語が必要になります。候補としてはacutus(鋭いもの)かacutus densus(密集した鋭いもの)です。これだけでははっきりしませんので、少し先を調べてみます。
cupressusは糸杉です。ここにはどうやら描かれていないようです。しかし辞書を見ると、とてもいい意味が見つかります。cupressusそれだけで「糸杉でできた槍」を表します。この絵には見落としようのない立派な槍が描かれています。何故糸杉と槍が関係があるのかというと、『変身物語』10巻にキュパリッソス(Κυπάρισσος)の悲しい物語があります。彼は可愛がっていた鹿を誤って投げ槍で殺してしまいました。彼はその悲しみのために、いつまでも嘆き悲しむことを望み、やがて彼の姿は糸杉に変わってしまいました。所有から材料へ変わっていますが、この物語が糸杉と槍を結びつけられた由来であると思います。cupressuは単数奪格なので、処格的用法と見なし、「糸杉の槍のところに」という意味で使えます。

acuta densaもしくはその一部が主語となるはずですが、それが何を表しているかを理解するために、この文の構造の可能性を考えてみます。etという接続詞の存在から、cupressuと同様にvallis piceisも奪格となります。動詞がeratなので、これらの奪格が主語の存在する場所を表していることになるでしょう。つまり、acuta densaとは柵と槍に共通する何かということになります。
acutusは「aguzzo(鋭い)」という意味ですが、これは工夫しなくても、柵にも槍にも描かれています。柵は縦の板がことごとく折れ、その先が鋭くなっています。槍は当然先端が鋭いですが、この槍には片方が鋭い斧の刃のようなものが横から取り付けられています。一方のdensusですが、denso(濃い、密集した)という意味では柵にも槍にも描かれてないようです。他の意味を探すと、その中にcontinuo(連続した)、fitto(打ち込まれた)があります。柵は尖った切り口の板がいくつも並んでいるのでcontinuoという言葉で表現できます。槍の先端付近には、片側が尖った斧の刃のようなものが横から打ち込まれているようなので、fittoとなります。
そして動詞eratです。これは直説法能動態三人称単数未完了過去です。Botticelliの他の神話画の解釈では未完了過去が不完全な描写になっていました。これもそうなっています。柵の板の中で、一番背が高いものの先端は微妙ですが、丸みを帯びたような描写になっています。槍に関しては、もっと分かりやすく反対側の斧の刃のようなものが丸みを帯びている描写が不完全さを表しています。
まとめると、「連続した鋭いものが松脂色の柵のところに不完全にある。打ち込まれた鋭いものが糸杉の槍のところに不完全にある。」となります。
nomine Gargaphie succinctae sacra Dianae,
この文の本来の意味を調べます。nomineは中性名詞nomen(名前)の単数奪格です。gargaphieは女性単数の主格/呼格/奪格です。地名のガルガフィエ渓谷のことで、上の行に出てきたVallisとそのものです。この節全体がこの渓谷の説明となっています。succinctaeは動詞succingoの完了分詞で女性単数の属格か与格もしくは女性複数の主格か呼格です。この意味はディアナ(アルテミス)の特徴である帯をしめた姿を表す形容詞です。この語は少し後ろのDianaeを修飾しています。Dianaeは女性名詞の単数の属格か与格もしくは複数の主格か呼格ですが、ディアナは一人ですから、succinctae Dianaeは単数属格か単数与格です。形容詞sacer(宗教的な、神聖な、献げられた)の女性単数の主格/呼格/奪格、もしくは中性複数の主格/呼格/対格ですが、ここでは主語と同格の女性単数主格とします。この語は与格もしくは属格を伴って信仰の対象を表します。「(ここは)ガルガフィエという名前で、帯を締めたディアナに献げられている。」となります。
これを絵に合わせた解釈にします。Gargaphieという固有名詞の解釈がなかなか難しかったです。Gargaphieは本来ここでは地名として訳されますが、ギリシャ神話でΓαργαφία(ガルガフィア)はこの地に住むニンフの名前も意味していました。彼女は河神アソポスの娘で泉の精です。この絵を見て以前から疑問に思っていたものがあります。それは女神の右側、槍との間にある顔のような描写の存在です。下書きが透けて見えているのだろうかと思っていましたが、やっと意味が分かりました。ここまで計算ずくで描かれた絵でこのような過失を起こすわけがありません。彼女が泉の精ガルガフィエです。

nomineは名詞nomenとしてではなく、まれに使われる副詞nomine(nominally)とします。Gargaphieはsacraに結びつきます。sacerの意味でこの絵の中のGargaphieに合うものがなかなか見つかりません。しかし一つ英語でcelestial(天上の、空の)という意味を見つけました。調べるとラテン語のcaelestisの意味の一つに英語celestialがあります。《Primavera》のゼフュロスの解釈の時にラテン語caelestisから空色(イタリア語のceleste)を導いたことを思い出しました。確かにガルガフィエは空と同じ色をしていますから、その存在が分かりにくかったのです。したがってラテン語scaerから英語のcelestialが導かれるので、さらにここからceleste(空色)も導けるはずです。つまり、もはや翻訳ではありませんが、sacerはceleste(空色)に変換できます。
Dianaeはsuccinctaeと結びついていますが、succinctusの意味はディアナの描写の中にいろいろ見つかります。イタリア語に訳すとsuccinto、cortoとなります。succintoは服の用語としてあるようですが、それではなく、cortoの「短い、不足している」の意味を使います。彼女の袖は少し短くなっています。彼女は肘のところを金色の針金のようなベルトで長すぎる袖をたくしあげ固定しています。Oxford Latin Dictionary(OLD)のsuccinctusには「having one’s clothes gathered up by a belt, girdle, or sim.」とあり、腕はこの意味の描写となります。OLDにはまた「(of trees) bushy-topped」という意味も載っています。実際、女神の頭に巻いてある蔓から葉が伸び外へと広がっています。彼女は高く帯は締めていませんが、まさにsuccinctusなディアナが描かれています。

この文には動詞がありませんが、動詞eratが省略されているとします。もちろん未完了過去なのでこの絵では不完全な描写です。そして与格のDianaを所有の与格であるとします。まとめると、「空色のガルガフィエを腕をまくったりしているディアナが名ばかりで(不完全に)伴っている。」とします。
cuius in extremo est antrum nemorale recessu arte laboratum nulla
これは関係節で、cuiusは関係代名詞quiの単数属格です。先行詞は単数の女性名詞なのでVallis、cupressu、Gargaphie、Dianaeの可能性があります。まだ分からないので保留とします。
前置詞inは対格か奪格を支配します。extremoは形容詞extremum(最後の、端の)は単数の与格か奪格です。これはinの目的語を修飾している形容詞かもしれません。estは動詞sumの三人称単数現在です。antrumは中性名詞antrum(洞穴、岩屋、岩)の単数の主格/呼格/対格です。もしかするとinは奪格支配ではなく対格のこれかもしれませんが、単数主格なので主語の可能性が高いでしょう。nomeraleは形容詞nemoralis(森の)の中性単数の主格/呼格/対格か単数奪格です。recessuは男性名詞recessus(奥)の単数奪格です。これとextremoが結びつきそうです。arteは女性名詞ars(技術、芸術、人工物)の単数奪格です。laboratumは動詞laboroの完了分詞の中性単数の主格/呼格/対格か男性単数対格もしくはスピーヌムの中性単数対格です。nullaは形容詞nullasの女性単数の主格/呼格/奪格か中性複数の主格呼格対格ですが、arteを修飾しているので女性単数奪格となり、合わせてlaboratumを修飾して行為者を表しています。arte laboratum nullasは、否定語のnullaが付いているので、「人工物ではない、つまり自然が作り出した苦心の作である」という意味になります。
全体の単語を見通すと、inの目的語は奪格単数のexteremo recessuのようです。そしてこれが関係代名詞cuiusに修飾されていて、その先行詞はVallisだと分かります。この関係節の主語はantrumで、これがnomoraleとlaboratumから修飾されています。まとめると、「その谷の最も奥には森で覆われていて、人が作った物では無い苦心の作である洞窟がある。」となります。
さて、これをこの絵に合わせて解釈してみます。まず、antrumについてです。ケンタウロスの後ろにあるのは、彼の足下では隙間は見えていて「洞窟」のようにも見えますが、上の方で繋がっているとは断定できません。しかし「岩」ではあるので、その意味では確かにantrumです。またnemoralisの「森の、木の」は使えませんが、意味を「木のような」と考えるとうまく行きます。ケンタウロスの後ろの岩は、見えない部分で繋がっている可能性はありますが、手前と奥で二つに分かれているように見えます。そして奥の方の岩が上の方に広がっていくようになっていて、木と呼べなくもない形をしています。手前の岩も上に行くほど大きくはなっていますが、それほど広がっていません。そもそもantrumは単数なので、奥の岩だけで十分です。antrum nemoralisを「木のような岩が」と解釈できます。

主語がこの奥の岩だと分かると、他の言葉の意味も分かってきます。in extremo recessuはそのまま「最も奥に」でも問題ありませんが、extremoには「端の」という意味もあるので、それを使ったほうがこの絵の状況に似ています。つまり「端の奥に」とします。arte laboratum nullaも誰かが積み上げたようにも見えますが、確かに本来の意味通り、人工の物ではなく自然が作り上げた物のようです。あとは先行詞です。この岩の前にはディアナの右手がかかっていて、確かにディアナの端の奥にあります。つまり、先行詞をディアナにするとうまくいきます。
したがって、この文は「ディアナの端の奥に人が作った物ではない木のような岩がある。」となります。
simulaverat artem ingenio natura suo;
simulaveratは動詞simulo(真似る)の三人称単数大過去です。artemは女性名詞ars(人工、芸術)は単数対格です。ingenioは中性名詞ingenium(本性、才能)の単数与格か奪格です。naturaは女性名詞nature(自然)の単数の主格/呼格/奪格です。suoは所有代名詞suusの単数の男性/中性の与格/奪格です。主語となるのはnatureしかありません。suoはingenioを修飾しています。したがって、「自然はその才能によって人工を模倣していた。」となり、洞窟の見事さについての補足説明となります。
絵に合わせた解釈です。まずここでsimulaverat artemという言葉から、この作品が過去の芸術作品を模倣している事実を表現しているのではないかと考えました。実際Botticelliの神話画は、古代の名作をリスペクトし、さらにそれを超える作品を作ろうとしています。この作品においても、パウサニアスが『ギリシャ案内記』で書いているプラクシテレスの作ったアルテミスと牡鹿(獣)からこの作品の構図を得、それを発展させたものではないかと以前導きました。artemはこのことを記述していると解釈できるかもしれないと思いました。しかし主語はnatureもしくは省略された三人称とならなくてはいけません。それだとうまくいきません。
そこでこれは諦め、次にケンタウロスの顔から、ラオコーン像を模倣したのではないかと考えました。この場合、主語をケンタウロス自身とすれば、ケンタウロスが自分の意志で自分の表情をラオコーンに似せているとできます。artemのあとで文を切り、そこから3語を別の文とする必要があります。しかし、うまい具合に、natureは生殖器の意味があり、格も奪格とみなせます。suoは動詞suo(縫い合わせる、一緒にする)の一人称単数と解釈することができます。主語をケンタウロス自身とすれば、いかにして彼は自分の腰から下に馬の足を持ったかを告白する文と解釈でき、また主語をBotticelli自身とすれば、これを描いたことの宣言と解釈できます。
この解釈はとても見事に描写に適合したので、これ以上確認することはしていませんでした。しかし記述と描写においては大きな問題は無いのですが、歴史的な事実からすると大いに問題がありました。ラオコーン像はBotticelliの生きていた時期に発見されましたが、それは1506年でした。1480年代とされるこの絵の制作時期と大きくずれています。また神話画の古典語による言葉遊びを考えたであろう依頼者のLorenzo di Pierfrancesco de' Medici及びその弟Giovanniは既に亡くなっています。つまりラオコーン像を考慮に入れた言葉遊びは不可能ということになります。自分で指摘しておきながら、この解釈が成立する可能性はとても小さいと思います。
ではこの行は何を意味しているのでしょうか。先ほど指摘したnatureが生殖器官という訳は使えそうです。以前指摘したように、ケンタウロスには陰嚢が描かれています。この意味にするとnatureを主語にはできません。おそらく場所を表す奪格です。代わりの主語は彼、ケンタウロスとします。この付近は以前も観察しました。ここにarsが描かれているかもしれないと思って眺めてみると、以前は気付きませんでしたが、踊っている女性のような姿が見えました。arsは複数形の時、le Muse(ムーサイ)を表すことがあります。ここでは単数なので、彼女たちの一人を表すと考えます。最後のsuoはその奪格のingenioを修飾していると考えます。動詞は大過去なので、この位置に並ぶずっと前にケンタウロスが作っていたのでしょう。

まとめると、「彼は生殖器のところで彼の才能によってムーサを真似していた。」となります。他のに比べてもちょっと苦しいです。もっと解像度の高い画像が手に入れば、もっと分かりやすい解釈が見つかるかもしれません。
nam pumice vivo et levibus tofis nativum duxerat arcum;
namは接続詞です。「一方で、例えば」などの意味です。pumiceは男性名詞pumex(軽石、石、岩場)の単数奪格です。vivoは形容詞vivus(生きている、活発な、自然の)の単数与格か奪格です。etは接続詞。levibusは形容詞levis(軽い、機敏な)の複数与格か奪格です。tofisは中性名詞tofus(凝灰岩)の複数与格か奪格です。nativumは形容詞nativus(自然の)の男性単数対格か中性単数の主格/呼格/対格です。dexeratは動詞duco(引き出す、導く、考える)の三人称単数過去完了です。arcumは男性名詞arcus(弓)の男性単数対格です。
pumex vivoは男性単数奪格、levibus tofisは中性複数奪格で、それらがetで結びついています。nativum arcumは男性単数対格で、これが動詞dexeratの目的語になっています。それぞれの意味はpumex vivoが自然の軽石で、levibus tofisが軽い凝灰岩です。nativum arcumは天然の弓状のもの、つまりアーチです。動詞ducoの意味が難しいですが、ここでは「描く」とします。つまり、「例えば、自然の軽石と軽い凝灰岩から天然の弓を描き出した。」となります。自然が作り出した人工的な物の具体例として、洞窟のアーチを示している記述です。
この記述がどこを描いているかは分かりやすいです。構造はそのまま使えます。pumex vivoは「生きている岩」とします。軽石のような穴はありませんが、たくさんのヒビがあり、そして天辺に生命である草の生えている岩場があります。ケンタウルスの頭から上の岩場です。levibus tofisのlevibusは活用が違う別の形容詞levisの意味を使います。これにはliscio(滑らかな)という意味があります。つまり「滑らかな凝灰岩」とし、さっきの岩のヒビの少ない滑らかな下の部分とします。これらが場所の奪格とします。arcumはそのままケンタウロスが持っている弓のこととします。

そしてducoの意味をallettareとします。このイタリア語には同じ綴りの別の言葉があります。ducoの意味としては「誘う、引きつける」のallettareなのですが、もう一つのものは「床(とこ)に付かせる、(雨風が穀物を)折り曲げる、倒す」というallettareです。雨や風で植物が倒れたり、地面に付くほど折れ曲がってしまうことを表しています。本来は植物が鋭く曲がって頭が地面に付いている様子の表現ですが、明らかに違う意味で曲がって地面に付いている姿を描いています。最後に主語は形容詞nativumを名詞化したものとし、ケンタウロスを指しているとします。意味としては、野生の姿をしているのでnatulale(自然の)、もしくは彼は孫の死を悼むカドモスなのでoriginario(最初の、昔の)という意味が使えます。
まとめると、「一方で、生きている岩と滑らかな凝灰岩のところで、生まれたままの姿の者(ケンタウロス)は弓を曲げ地面につけていた。」となります。
fons sonat a dextra tenui perlucidus unda,
fonsは男性名詞fons(泉、噴水)の単数主格か呼格です。sonatは動詞sono(音を作る、話す)の三人称単数現在です。aは奪格支配の前置詞です。dextraは形容詞dexter(右の)の女性単数の主格/呼格/奪格か中性複数の主格/呼格/対格です。もしくは女性名詞dextra(右、右手)の単数の主格/呼格/奪格です。tenuiは形容詞tenuis(微かな、薄い)の単数の与格か奪格です。perlucidusは形容詞perlucidus(透明な)の男性単数主格です。undaは女性名詞unda(波、流れ)の単数の主格/呼格/奪格です。この文の動詞はsonatで主語はfonsです。perlucidusは男性形なのでfonsと結びつきます。tenuiはundaに結びつき奪格であることが確定します。したがって本来の意味は「右の方では透き通った泉が微かな波によって音を立てている。」となります。微かな波を起こしながら湧いているとても澄んだ泉のせせらぎが聞こえる様子の記述です。
fonsという言葉でこれがどこを表しているのかすぐに分かります。先ほど出てきたガルガフィエは泉のニンフだからです。残念なことにfonsは男性名詞なので対策が必要です。ガルガフィエの顔の上の方には棒状の物が見えてみます。それから顔の下には直線の台状な物が見えています。このことから、これはガルガフィエの彫刻のある噴水ではないでしょうか。ガルガフィエは泉のニンフなので、ここにとても相応しい存在です。そう考えれば、女性名詞のガルガフィエでありながら男性名詞となり得ます。このガルガフィエの噴水は確かに透明に描かれています。そして確かにディアナの右に描かれています。それから、ディアナが背負っている物の横にある今まではディアナの髪の一本一本の髪の毛だと思っていた物が、微かな波だったことが分かります。

ここまではとても順調にこの文の記述を絵の中に見つけることができました。問題はsonatです。この描写は音を立てているようにも、誰かが話しているようにも見えません。そこでイタリア語を使います。ラテン語sonatの見出し語形はsonoです。イタリア語のsonoはessere(ある、いる)の一人称単数現在か三人称複数現在です。ラテン語のsonatは三人称複数なので、残念ながら人称と数が一致しませんが、ここは意味だけを借りて人称と数はラテン語の解釈通りにします。このようにすれば、sonatを「ある」に変換できます。
まとめると、「右側には透明な(ガルガフィエの)噴水が微かな波とともにある。」となります。
margine gramineo patulos incinctus hiatus.
この行はfonsを修飾している分詞句です。margineは名詞margo(端)の単数奪格です。gramineoは形容詞gramineus(草の)の男性/中性の単数の与格/奪格です。patulosは形容詞patulus(広い、開いた)の男性複数対格です。incinctusは動詞incingo(冠をかぶせる、巻き付ける、まとう)の完了分詞の男性単数主格です。hiatusは男性名詞hiatus(穴、割れ目)の単数主格か属格もしくは複数主格か対格です。形容詞gramineoは名詞margineを修飾して、margine gramineoは単数奪格の「草の端」となります。形容詞patulusは名詞hiatusを修飾して、patulos hiantusは複数対格の「開いた割れ目」です。これらの中心に完了分詞incinctusがあります。そして動詞としてのこの語にそれぞれのまとまりが結びついています。難しいのがpatulos hiantusです。これは限定の対格と呼ばれる用法で、まとっている場所を示しています。まとめると、「(その泉は)開いた割れ目のところを草の端によってまとわれていた」となります。大きな裂け目ができていて、その穴の周りの縁の部分に草がぐるりと茂っているという描写です。
この記述を知って、この絵を見てみます。「草の端」は後ろの岩の一番上の段に見えています。これを手がかりにこの絵に合わせていきます。この岩にはいくつもの裂け目が入っています。そしてその裂け目そのものは草に縁取られていません。草に縁取られているのは、裂け目ではなく、裂け目のある岩となっています。微妙に解釈を変える必要があります。patulosには比喩表現としてbanaleという意味があります。この意味は「平凡な、ありふれた」です。本来の記述が表しているような美しい裂け目ではなく、この岩にあるのは、まさにありふれたものです。つまりこの二語は「いくつものありふれた裂け目」となります。そして限定の対格ではなく、目的語そのものとします。したがって、patulos incinctus hiatusは、「いくつものありふれた裂け目をまとっていた」となります。そして、margine gramineoを随伴を表す奪格とみなすことで、裂け目ではなく、それをまとった岩に草をかぶらせることができます。
まとめると、「そして(岩は)草の端とともにいくつものありふれた裂け目をまとっていた。」となります。

これで2年前に解釈できた行につながります。今回もこの絵の謎の描写が一つ一つ明らかになっていきました。柵がことごとく折れてる理由も、槍の奇妙な付属物の理由も分かりました。ケンタウロスの後ろにある岩の説明もいろいろありました。それから、やっとガルガフィエの登場です。実のところ彼女はアクタイオンよりも先に見つけていました。これも高解像度の作品が手軽に見られるGoogle Art Projectのおかげです。彼女の存在を説明しうる唯一の解釈が、アクタイオンの物語を使ったこの言葉遊びです。
こじつけ感は否めませんが、こじつけだけで現時点の31行も連続してこの絵に合わせられる偶然はないと思います。こじつけ感は当然です。だってこじつけで本来の意味から別の意味を作り出して彼が描いたのですから。