2011年08月27日

《パラスとケンタウロス》の解釈(1)

ちょっとアイデアをひらめいたので、書き留めておきます。それほど自信はないのですが、我ながら面白い解釈だと思います。まだ思いついて五日目ですので、詰めが甘いかもしれません。

まず、絵を見てもらいましょう。下はGoogleのアートプロジェクトのUffizi美術館の画像へのリンクです。拡大縮小思いのままに《パラスとケンタウロス》を見学することができます。

Pallas and the Centaur (Sandro Botticelli) : Uffizi Gallery : Art Project, powered by Google

ボッティチェリのこの絵は縦向きの絵で、二つの人物が描かれています。向かって左側にいるのは、上半身が人、下半身が馬のケンタウロスです。右側には槍を立てて持っている女性がいます。

ケンタウロスは右手に弓を持っていて、肩にかけた矢筒が背中にあります。髪は隣の女性につかまれています。髪は乱れて、髪と同じくらいに伸び放題の髭とつながっています。大きく波打つ髪と髭に囲まれた顔の表情は何か情けなく、髪をつかんでいる女性のほうを畏れるように見つめています。縮こまった左手と左の前足の仕草が、いっそう女神への恐れを際立たせているようにみえます。

一方、右側にいるのは女性はというと、おそらく彼女は女神でしょう。まずは女神の姿勢や持ち物を見てみます。女神は右手でケンタウロスの髪をつかんでいます。力強く引っ張っているのではなく、やさしく指をからめているだけのようですが、ケンタウロスの表情からとても威圧的な行為に見えます。ケンタウロスを見下ろしている女神の表情はボッティチェリのほかの絵と同じように、表情に乏しく、物憂げです。女神の右手はケンタウロスの頭にありますが、左手は体の左側で矛槍をつかんでいます。まっすぐに立てた金色の彼女の身長よりも長い大きな矛槍を、腕をからめて腰のあたりで持っています。この武器から、一般的にこの女神はパラス・アテナ(ローマ神話ではミネルヴァ)とされています。パラス・アテナは兜をかぶり、盾と槍を持つ武装した姿で描かれる女神だからです。この女神は背中に、金色の縁取りのある黒い何かを背負っています。金色の縁取りが曲線的なので、かなり立体的な構造をしたものに見えます。左肩に薄い赤い帯のようなものがあるので、これでこの荷物は固定されているのではないでしょうか。この女神がパラス・アテナならば、これはアイギス(盾)となります。

今度は女神の服装を見てみます。まず、足元ですが、女神は丈夫そうなオレンジ色に輝く靴を履いています。親指と人差し指の間で止められていて、足の指は全部出ていますが、足首よりも高くブーツになっています。体のほうを見ると彼女は薄い白い服を着ています。腕は手首まで、足は試掘靴にかかっていますが、右足は少しめくれ上がって脛が見えています。よく見るとこの服には金色の丸い輪を組み合わせた刺繍があります。体と足の部分にあるのは三つの輪、腕にあるのは四つの輪を組み合わせたもので、それぞれの頂点にはダイヤと思われる宝石の飾りがついています。つまり体や足では三角形に、腕では菱形にダイヤが配置されています。襟の部分には、この指輪状の金色の輪とダイヤがきれいに並んでいます。その白い服の上を、緑色のローブが、右肩から腰を回して左足の後ろへと伸びています。女神の白い服には蔦がとても美しい曲線を描きながらと装飾として巻きついています。この植物はこの女神がアテナであることから、アテナの植物であるオリーブとされています。蔦が交差するところには、ダイヤ付きの金の輪が留め金として使われています。白い服の胸の左右には、ちょうど乳首の上あたりには、金色で四方に広がったヨモギの葉の飾りがあり、それを台座として尖ったダイヤが載っています。このヨモギの葉のような飾りは矛槍の飾りにも使われています。緑のローブの上にも蔦がありますが、これは帯のようにローブを体に固定するために巻きついているようです。女神の頭を見ると、金色の髪の上からも蔦が三重に巻きついて冠を作っています。蔦からは細かな枝がいくつも伸びて、さらにその枝からいくつもの葉が生えています。その冠の正面には、やはり金色のヨモギのような葉が四方に伸びた台座の上に尖ったダイヤが飾られています。このように、足元から頭まで、この女神の服には輝くものが散りばめられています。

風景にも何か意味があるのでしょうが、まだよくわかりません。とりあえず、登場人物の姿を説明すると以上のようになります。

この絵は、《パラスとケンタウロス》と呼ばれています。パラスはパラス・アテナの意味なのでしょう。槍で武装した女神がそこにいて、見間違えることのないケンタウロス族もその隣にいるのですから、通常そのように解釈されています。しかし、この解釈には難点があります。これはよく知られていることです。まずこの二人の関係を示した神話がありません。そのため一般的にはボッティチェリが勝手に創作した物語だと考えられています。また、いつも完全武装しているはずのアテナが兜をかぶっていませんし、槍の形も装飾的なものに置き換えられていて、同じく重要な目印であるはずの盾も一見よく分からない描かれ方をしています。全体的にアテナらしい武装とは言えません。それに、女神の服の細かな装飾は、神話の中のアテナの描写に見つけることができません。代わりにメディチ家との関係という神話とは別の文脈を使わなければ解釈できません。このような難点があっても、ボッティチェリがアテナを「そう描いた」とする以外に、この絵を解釈する方法はありませんでした。

しかし、思いついてしまいました。そうすると割と説明できてしまいます。ちょっと古典ギリシャ語の辞書を使って言葉の意味を考えないといけませんが、《プリマヴェーラ》のときのように言葉遊びでこの絵を読み解くことができます。

眠くなったので、今回はこれまで。残念ながら説を披露するところまでいけませんでしたが、次回その説と、その根拠を書こうと思います。



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2011年08月28日

《パラスとケンタウロス》の解釈(2)

そういうわけで、前回の続きです。《パラスとケンタウロス》に描かれている特徴と、一般的な解釈、そして問題点を示しましたが、今回はそれを踏まえての新しい解釈です。

さて、先ほど指摘したように、この絵をよく見てみると、このケンタウロスは弓を持っています。矢筒を肩にかけていることから、この弓はただ持っているのではなく、このケンタウロスが自分で使っているものだとわかります。弓とケンタウロスと言えば、いて座のケイロン(Χειρων)を思いつきます。ケイロンだけしか弓を持たないとは限りませんが、まず最初にケイロンを思い浮かべることは悪くないと思います。ケンタウロスというのは、半人半馬の生き物の総称で、必ずしも一つの種族ではありません。一般的なケンタウロスは野蛮な種族ですが、ケイロンは賢人と呼ばれ、数多くの英雄を育てた特別なケンタウロスです。

ケイロンはティターンのクロノス(Κρονος)とニンフのピリューラ(Φιλυρη)の子です。彼はテッサリアにあるペリオン山(Πήλιον)の洞窟に住んでいます。アポロン(Απολλων)とアルテミス(Αρτεμις,Diana)から狩猟、医学、音楽、武術、予言を学びました。そしてケイロンはギリシア神話に欠かすことのできない多くの英雄たちを育てました。有名なのがアルゴ船探検隊の隊長イアソン(Ἰάσων)、その探検に参加したペレウス(Πηλεύς)、そしてその子アキレス(Ἀχιλλεύς)です。へびつかい座となった医師アスクレピオス(Ασκληπιος)も彼の弟子です。ケイロンは不死でしたが、弟子のヘラクレス(Ηρακλής)の射た毒矢を誤って膝に受け、永遠に続くその苦しみから救われるために、ゼウスによって死が与えられました。

この情報を踏まえて、この絵を見ると、ここに描かれているのは、ケイロンとその狩猟の師アルテミスではないでしょうか?

まず、ケイロンに関して。弓矢と矢筒はアルテミスの弟子である徴だと言えます。前足を曲げている様子は、彼がヘラクレスから受けた矢で膝を負傷したことを連想させます。そうすると彼の情けない表情が、死を望むほどの痛みによるものだと推察できます。そして、彼の後ろにある船。これはアルゴ船となるでしょう。ケイロンの愛弟子たち、イアソン、ペレウス、アスクレピオスたちが乗り組んで探検をしたあの船を連想させます。神話画において時系列はそれほど厳密である必要はないでしょう。また彼の後ろの岩は、よく見ると、中に入っていけそうな隙間があいています。これは、ケイロンの住処であるペリオン山の洞窟を表しているのではないでしょうか。以上のように、このケンタウロスがケイロンであると同定することは、問題を生じさせるどころか、今まで理由を見いだせなかったものに、明確な意味を与えてくれます。

一方、女神に関して。アルテミスは古代から弓矢とともに描かれる狩猟の女神です。ゼウスとレトの子で、アポロンは双子の弟になります。彼女は山野と野生動物の神でもあります。処女神の出産の神であり、アポロンと同じように、自分の矢を使って人や動物に疫病や死を与える神でもあります。また月の神ともされています。ローマ神話ではディアナが対応します。

アルテミスは弓矢という狩猟のための武器を持っているのですが、残念ながらこの絵で描かれるような槍は、どの神話を探しても持っていません。あっさり挫折です。アルテミスは槍を持っていません。だから、この女神はアルテミスではない。本当に?

それでは、《プリマヴェーラ》の解釈でやったように原典をあたってみましょう。Theoi Project のアルテミスのページを参考にします。
ARTEMIS : Greek Goddess of Hunting & the Wilderness | Mythology, w/ pictures | Roman Diana
これを見ると、ホメロス風讃歌の第27番「アルテミス讃歌」とカリマコスの「アルテミス讃歌」がいろいろくわしく書いてあるようです。

Perseus Digital Library で、それぞれの古典ギリシャ語とその英訳を眺めてみます。それぞれ次のリンクです。
Hymn 27 to Artemis, Εἲς Ἄρτεμιν
Callimachus, Hymn to Artemis, εἰς Ἄρτεμιν

また、先の Theoi には、カリマコスの英訳があります。第三巻がアルテミス讃歌です。
Classical E-Text: CALLIMACHUS, HYMNS 1 - 3

沓掛良彦訳の『ホメーロスの諸神讃歌』では冒頭部は次のようになっています。

アルテミスをば歌わん。
黄金の矢たずさえ、獲物追う叫びをあげる女神、
鹿射る女神、矢をそそぎかける畏しき処女神、
黄金造りの太刀帯びるアポローンのまことの姉君(はらから)を。

ここで「黄金の矢を持って」と訳されているギリシャ語は「χρυσηλάκατος(khryselakatos)」です。これは合成語で後半は「軸、紡錘、糸巻き棒」という意味になります。通常、矢と訳されているのですが、これを槍の柄と解し、「金色の矛槍の柄を持って」と解釈します。多少強引ですが、こうするとうまくいきます。ちなみにここでは単数形なので、文法的に問題はありません。

ホメロス風讃歌よりも、カリマコスの讃歌の方がアルテミスについて詳しく語られています。冒頭では、アルテミスは父ゼウスの膝の上に乗り、永遠の処女であることともに、弓矢や矢筒、多くの侍女たちなどをゼウスに求めている場面が描かれています。この付近に、絵に出てくる描写があるようです。

弓矢や矢筒は、この絵の女神は持っていません。しかし、二人とも持っていると画面がうるさくなるでしょう。どちらか一方が持つとすれば、ケイロンです。ケイロンは弓矢がないと他のケンタウロスと区別がつきませんし、弟子の方が持っていることで技術が伝えられたということも示せるからです。

この女神は《プリマヴェーラ》のメルクリウスが履いているものと、色は違いますがとても似た形の、少し長い靴を履いています。アルテミスは靴専属の侍女がいますが、カリマコスの記述では靴を表す単語は ἐνδρομίς となっています。これは英語で high shoes や buskins と訳されるものです。この絵にあるオレンジの色の靴の高さを表すのにちょうどいい言葉だと思います。

服に関する記述として、「刺繍の縁飾りがある膝まで届くチュニック」とあります。チュニックと訳した言葉は χιτών で、これを古典ギリシャ語辞書で調べると、「下着、チュニック、鎖鎧、コート、ジャーキン」で、幅のある言葉ですが、チュニックでいいでしょう。絵では膝どころか足首に届きそうです。裾の方には縁飾りはありませんが、首周りには、とてもきれいな飾りがあります。刺繍は縁だけでなく、服のいたる所にあって、美しく彼女を飾っています。

チュニックの上からかけてある緑色のローブに関しての記述はわかりません。植物の巻きついた描写もわかりません。しかし、これは彼女が山野の女神であることで解釈できると思います。山野を駆け巡るにはちょっと動きにくいようにも見えますが、肘のあたりの留め金は動きやすさを考慮に入れた描写なのかもしれません。

次は、女神が背中に背負っているものです。これが一番難しい。盾のようにも見えますが、こんなに、縁がくねくね曲がっている盾もなんだか変です。この曲線的な構造は馬の鞍のようにも見えます。でもやっぱり、これは何だかわかりません。

そこで、カリマコスの記述です。この文章の中に、「φαεσφορία」という言葉があります。一般的な語形だと「Φωσφορος(Phosphorus)」となります。これは「光をもたらす者」というアルテミスの呼び名の一つです。この言葉をちょっと読み変えます。英語では「light bringer」ですが、これを 「shining bearer」と解釈するわけです。つまり「輝ける運び人」となります。この言葉を頭に入れて、この絵を眺め直すと、この女神がこの言葉の通りの姿に描かれていることがわかります。女神は、背中に金色の縁取りをした何かを背負っています。これが何かは問題ではありません。何かを運んでいれば十分です。そして、金色の髪をして、ダイヤの飾りと金色の刺繍を散りばめた服を着て、金色の矛槍を持っています。靴も輝くようなオレンジ色をしています。まさしく、彼女は輝ける運び人です。Phosphorus という言葉がアルテミスの別名の一つだと分かっている人が見れば、ははん成程と分かる高度な言葉遊びです。結局、これがアルテミスだという情報が失われてしまった現代では誰も気付けなかい意味不明な描写となったわけですが。

そして、もう一つ。まだはっきり断定できませんが、この女神がアルテミスであることを示す暗号があります。チュニックと冠のダイヤの台座や、矛槍の飾りに使われている金色のヨモギの葉のような形ですが、ヨモギ属のラテン語名は Artemisia であり、これもアルテミスを連想させる言葉になっています。学名が決められるのは、この絵が描かれてずっと後になるのですが、この学名の元になる呼び名は昔からあったのではないかと思います。

下記の画像は、1489年の書物の中でのartemisiaの使用例です。詳しく訳していないのでヨモギの意味で使われているかまではわかりません。

※ 追記 2011.09.06
プリニウスの『博物誌』に artemisia の記述があるようですので、既に紀元1世紀にはヨモギがこの名前で知られていたことが分かります。

 

以上のように、単語の意味の読み換えに頼った解釈になりますが、このように考えると、この女神をアルテミスと考えることができるようになります。今までのこの女神をパラス・アテナとする説よりも、深い解釈が可能となります。

この女神がアルテミスであり、このケンタウロスがケイロンであったならば、この絵は何を描いていると導かれるでしょうか。

それは、つまり、この絵は不死なるケイロンに死を与えに来たアルテミスを描いています。思ってもみなかったほど、この作品は壮絶な場面が描かれていました。死を望むほどの苦しみの中にあるケイロンに対し、望み通りゼウスは死を与えます。この場面を詳しく描写した物語はありませんが、ボッティチェリは死を与える役をケイロンの師匠であるアルテミスに選んだわけです。同じく彼の師匠であり、同じ死を与える能力を持つアポロンでもよいのですが、ここは同じ弓矢というアトリビュートを持つアルテミスとなっています。この苦しみの原因もやはりケイロンの弟子であるヘラクレスの毒矢なのですから、因縁ある弓矢の師匠アルテミスこそ、この役目にふさわしいと考えたのでしょう。女神アルテミスは、やさしく弟子の髪を掴みます。やがて女神は金色の矛槍を振り上げその弟子の命を奪うのです。

本来の金色の矢の形をした khryselakatos ではなく、女神よりも大きく存在感のある武器がどうして描かれているのか、これでわかります。それは、これが不死なるケイロンの命を奪う道具だったからです。偉大な賢者がこの世界からいなくなってしまうという破壊的な出来事を表すには、それだけ大きな力を作りだす物を描かなくてはならないからです。

ケイロンと女神の体によって囲まれた景色の中に、アルゴ船らしき船が見えています。冒険へと向かう弟子たちの船を描くことで、死によりすべてが失われてしまうのではなく、継承されていくものが確かにあることも、この絵は主張しています。

この解釈にふさわしい絵のタイトルは、《ケイロンの最期》、《師匠と弟子》、《アルテミスとケイロン》などが思いつきます。

こんな解釈はどうでしょうか。



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2011年09月12日

《パラスとケンタウロス》 典拠の探索

先日までに、この絵に出てくるのはアルテミスとケイロンであることを示し、そしてそれから導かれる物語を想像して、この絵に何が描かれているのか解釈をしてみました。

このとき、ギリシャ語を語源的に解釈して、何かを背負って光り輝いているとしましたが、今はわざわざそう解釈しなくてもいいと思うようになりました。背負っているのは、金色の光で飾られた盾でいいと思います。盾を持つアルテミスは稀ですが、ないことはないようですし、槍を持つアルテミスも同様です。片手に既に槍を持っているために、これ以上物が持てないので、光をもたらす者を示すトーチを持たせるのではなく、女神の服を光り輝かせてそれを示しただけだと考えます。

 

さて、今までのこのブログでの考察により、ボッティチェリの神話画は、どれもが古代の芸術作品に対抗するために描かれてきたことが次第にわかってきました。《ヴィーナスの誕生》に関してはずっと言われてきましたが、他の作品についてもそう考えられます。

《ヴィーナスの誕生》はルキアノスが残した文章そのものを元に描かれた「浮上するヴィーナスVenus Anadyomene」でした。《プリマヴェーラ》も、古代に描かれた三美神に対抗するために、フィチーノの哲学的な言葉を元に描かれたものでした。《ヴィーナスとマルス》を分析してみると、アナクレオン風歌謡の『蜂』という詩を元にして、母なるヴィーナス Venus Genetrix を描いていました(なお、先日は気づきませんでしたが、子供をサテュロスとして描いたのはラテン語 satura (英訳mixure)を意識したからだと思われます)。

このようにボッティチェリの三つの神話画は、古代作品への挑戦シリーズということになるのですが、《パラスとケンタウロス》もやはりボッティチェリにその目的があって作られたものだと考えられます。古代のアルテミス像、おそらくスコパスがアルカディアのアルテミス神殿に作った彫刻に対抗したものでしょう。そして、きっとこの絵にも典拠となる文章があるはずです。

 

そして、かなり時間がかかりましたが、一つの候補を見つけました。ウェルギリウスの牧歌詩VIIの一部分です。アルカディア人の羊飼いテュルシス(Thyrsis)と、同じくアルカディア人の山羊飼いのコリュードン(Corydon)が道で出会って、交互に詠んで競い合っている詩です。やはり原文を解釈しないと、解読できませんでした。今までのように、明快に解読できるものではないので、この記事のタイトルに「解答」と付けられなかったのですが、この詩はこの絵に関連するいくつもの面白い表現を含んでいるのが分かります。

そのラテン語の文章がこれです。

Pastores, hedera nascentem ornate poetam, 
Arcades, inuidia rumpantur ut ilia Codro;
aut, si ultra placitum laudarit, baccare frontem
cingite, ne uati noceat mala lingua futuro.

Saetosi caput hoc apri tibi, Delia, paruos
et ramosa Micon uiuacis cornua cerui.
Si proprium hoc fuerit, leui de marmore tota
puniceo stabis suras euincta coturno.

Sinum lactis et haec te liba, Priape, quotannis
exspectare sat est: custos es pauperis horti.
Nunc te marmoreum pro tempore fecimus; at tu,
si fetura gregem suppleuerit, aureus esto.

この絵の内容に近くなるように、最小限に格や綴りをわざと間違えて、訳してみます。

牧夫たちよ!成長している詩人をツタで飾りなさい!アルカディア人たちよ!嫉妬でコドロスは体が張り裂けてしまうかもしれないが、彼が賛美される者にさらに賞賛を与えたのならば、未来の詩人が悪評で傷つけられないよう、バッカスの葉を額に付けなさい!

ディアナに捧げられる毛むくじゃらの半獣の頭よ!枝分かれした者に小さく怯える長く生きる半獣の足よ!お前が成功を得続けたならば、つやつやした完全な大理石の外で、深紅の靴をふくらはぎに縛り付けることでしょう。

胸とペニスを自分自身で隠しなさい!とても期待していますが、これから毎年、お前はこの荒れ地の守人になりなさい!まず、私が大理石で住処を作りました。そしてお前です。お前が多くの教え子を育てるならば、お前は黄金のように輝く存在となるでしょう。

この翻訳の説明です。

最初の節は、アルテミスを詩人とみなした描写とみなします。そうすると、植物の蔓で飾られる様子、おでこに葉の飾りを付けている様子が見えてきます。

次の節。この説には猪や鹿といったアルテミスゆかりの獣が出てくるのですが、それを半獣(ケイロン)と読み換えています。「枝分かれした」という形容詞 ramosa は名詞の奪格とし、枝分かれした蔓に包まれた画面上のアルテミスとします。Micon は人名ではなく micant と綴りをわざと間違えて動詞として使います。cornua は ramosa で形容される「角」と訳されるべき言葉ですが、「蹄のある足」という意味もあるので、そっちに訳します。「深紅の靴」というのは、将来、ケイロンが負うことになる、足の負傷を表すとします。

三番目の節。Sinum lactis はミルクの入った容器のことですが、乳房と解釈して、ケイロンは男性ですが、わざわざ胸を隠した不自然を表すために使います。Priape は果樹園と精力の神のことですが、隠語でペニスという意味もあるので、わざわざ後ろ足の間に描きこんでいるケイロンの性器のこととします。住処を作るとはどこにも書いてありませんが、後ろに描かれているのは大理石の岩とみなし、そこにアルテミスが洞窟を作ったことを指しているとします。

 

以下は、この訳を踏まえた解釈です。

アルテミスが詩人というより、彼女が未来の詩人に詠まれるということにします。この女神の服の4つの輪や3つの輪は、四行連詩や三行連詩という詩の形式の言葉を図案化し、彼女のことを詠む人たちが作ったいくつもの詩を表していると考えます。

アルテミスには Artemis Hymnia という呼び名もありますので、詩とまったく無関係な女神ではありません。未来の詩人と言うのは、この詩が紀元前に書かれたものですので、誰でもいいです。ダンテやペトラルカでもいいです。

植物のツタで飾られたと訳しましたが、ここに描かれている葉はツタではなく、オリーブのようです。月桂樹のようにも思えますが、葉のつき方が違います(そこまで配慮しなかったと言えばそれまでですが)。これが月桂樹だったならば、アルテミスの属性の一つ Daphnaea になります。

またバッカスの葉を額に付けると訳しましたが、これは本来の訳ではお守りのためにキツネノテブクロを頭につけることのようです。神話でよくあるように過度の賞賛は災いを招くために、お守りが必要だったようです。baccare はバッカス Baccahus を連想させる綴りですが、関連語ではありません。これはわざと誤訳しました。

バッカスの冠はツタとする流儀もありますが、人々に葡萄を広めたお酒の神様なので、まず葡萄と考えた方がいいでしょう。それを踏まえると、先日宝石の台座の植物はヨモギとしてましたが、これを葡萄の葉とします。こちらの解釈の方が合理的だと思います。

 

以上のように、全体を眺めて見ると、この絵は修業が修了した後の、アルテミスとケイロンを表していることになります。アルテミスの双子の弟アポロンは予言の神ですが、ほとんど同じ能力を持っているはずのアルテミスは予言の神とは言われていません。それでも、ここでアルテミスは二つの予言をしています。深紅の靴と黄金の予言です。深紅の靴の予言は、黄金の予言が実現されることによって引き起こされるとも言っています。

以前解釈したときは、ケイロンの表情や、前足を曲げた様子から、この絵に描かれているのはケイロンがヘラクレスの矢を受け、死を望む場面としました。さらにアルテミスによって死が与えられるとまでしてしまいました。しかしこういうふうに詩を訳してみると、これはどうやら違ったようです。それでも、なかなかいい線いってたと思います。

アルテミス神殿のアルテミス像はたくさんの乳房を持った独特の姿をしていたとされていますが、この詩の訳はその要素までちゃんと触れた文章になっています。この絵の乳房を蔓で強調した女神の描写もそう思ってみると、このエペソスのアルテミスを踏まえた描写と考えることができます。

 

目的を持って探せば、莫大な古代の詩があるのですから、それに合うものは何かきっと見つかるはずです。さらに、文法を無視して、本来の意味ではなく別な意味で解釈するのですから、いろいろと、こじつけられるでしょう。しかし、それでも、これほどこの絵を説明できるものは見つからないと思います。



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2011年09月16日

《パラスとケンタウロス》 もう一つの典拠

《パラスとケンタウロス》(Pallas and the Centaur)に描かれている女神がパラス・アテナではなく、アルテミス(Artemis)だと気付いたことで、いろんなことが分かってきました。

前回はこの絵の描写の元となるウェルギリウスの文章を指摘しました。それによって、ケンタウロスがもじゃもじゃの髪をしていること、年老いていること、胸を隠していること、そして女神については、体に植物が巻き付いていることなどが説明できました。

しかし、これでは物足りませんでした。女神の持ち物の描写がありません。描写などはじめからなく、アルテミスの持ち物を持たせただけなのかもしれません。いや、でも、いままでボッティチェリの神話画を解釈してきた経験からすると、絶対にあるはずです。

アルテミスの武器として一般的ではない槍を持たせたり、あの曲がりくねった変な盾を背負わせたりするからには、理由となる文章が絶対にあるはずです。そう考えずにはいられませんでした。

そして、いろいろ探してみると、やはりありました。思った通り、ボッティチェリはその文章を謎解きのような解釈で描いていました。この文章はアルテミスにとってふさわしい物語の中に隠されていました。

その文章とは、次のラテン語の文章です。

Hic dea silvarum venatu fessa solebat
virgineos artus liquido perfundere rore.
Quo postquam subiit, nympharum tradidit uni
armigerae iaculum pharetramque arcusque retentos;
altera depositae subiecit bracchia pallae,
vincla duae pedibus demunt;

これは、オウィディウス(Ovidius)の『変身物語』(METAMORPHOSES)第三巻にある、アクタイオンの物語の一説です。この物語はティツィアーノの描いた絵画(《ディアナとアクタイオン》《アクタイオンの死》)などでも有名です。誰にも気づかれず、ボッティチェリもこの物語の一節を、この絵の中に描きこんでいました。

この文章の日本語訳を岩波文庫の中村善也訳『変身物語』から引用させてもらうとこうなります。

いつも、ここで、森の神ディアナは狩りに疲れると、ういういしい処女(おとめ)のからだに、きれいな水を浴びるのだった。今も、ここにやって来ると、妖精(ニンフ)たちのなかで、武器運びの役をしているひとりに、投げ槍と矢筒と、弦(つる)を弛めた弓とを手渡した。もうひとりが、脱いだ衣装を手に受け取る。ふたりが、はきものを脱がせる。

もちろん、ディアナはアルテミスのローマ神話での名前です。引用した部分の前には、ケイロンの後ろにある洞窟を思わせる、自然が人工を真似したような洞窟の描写ががあります。また、森で迷ったアクタイオンが見てはならないアルテミスの裸を見てしまうのは、この引用の後の方です。

 

さて、このラテン語の文章を、描かれている絵に合うような意味で訳してみましょう。どうしても原文のままではいけないときは、最小限の修正で文法的に成り立つようにします。

hic dea silvarum venatu fessa solebat.

dea silvarum というのは、森の女神であるディアナ(アルテミス)のことです。本来は主格ですが、ここでは奪格とし、「森の女神とともに」と訳します。代わりに fessa を名詞化して主語とします。

そこに森の女神(アルテミス)といっしょに狩りに疲れた者がいつものようにやってきました。

次の行。

virgineos artus liquido perfundere rore.

virgineos は形容詞で「処女の」という意味で、対格複数男性です。これは次の名詞 artus を修飾します。artus は意味がいろいろありますが、この場合は「手足、体の部分」という意味となります。ここらへんは本来の解釈と同じです。つまり、「処女の体を」となります。アルテミスは処女神ですから、問題ありません。

liquido は形容詞で、最後の名詞 rore を修飾します。rore は男性名詞 res の与格もしくは奪格の単数で、これはちゃんと形容詞と一致します。本来は rore は「露」を意味して、女神が水浴びをする様子を表します。しかし、この絵にはその様子は描かれていません。

これは無理なのかと思ってあきらめかけたのですが、近くに ros marinus という言葉が載っていました。これはちょうど地面を這う植物です。絵の中でも植物が這ってます。これにしましょう。つまり、「流れるようなローズマリー」です。

perfundere は動詞の不定法で、本来の文ではperfundoは「注ぐ、浴びせる」という意味で訳されています。しかし、他の意味として「覆う」という意味もあるので、これを使います。動詞sumが省略されているとします。

処女神の体を覆っているのは流れるようなローズマリーです。

この文章を採用するならば、なんと彼女の体を覆っているのはローズマリーでした。そして次です。

quo postquam subiit, nympharum tradidit uni.

これは、ちょっとだけ綴りを変えます。quo を 関係代名詞 qui にします。postquam は「after、as soon as」という意味の接続詞です。動詞 subeo は「下にいる」という意味があります。絵をよく見ると半獣がいるところは女神がいるところから一段下になっています。
※追記 quo に置き換えずに qui のままで、奪格を使って訳す方法もあるかもしれない。

nympharum はニンフの属格複数です。後ろの方のuniと一緒になって、「ニンフの一人」という意味になります。普通はニンフでいいのですがここにはニンフはいません。他の意味を探すと「処女、若い女性」というのもあるので、そう解釈します。アルテミスは処女神なので、「処女神の一人」とします。ギリシア神話には少なくとも他にアテナもいるので複数形でも問題ないでしょう。tradidit は動詞 drado の完了形三人称単数です。意味は、「渡す、降伏する」などの意味があります。uniは与格単数とします。

そして下にいる者が処女神の一人(アルテミス)に身を委ねました。

その次の文。

armigerae iaculum pharetramque arcusque retentos.

armigerae は「武器を身につけている者」の複数形で、絵の中の二人とも武器を持っているので彼らのこととします。そのあとが、対格の武器の羅列ですが、それぞれが分担して持っています。iaculum は一本の槍で、女神が持っています。pharetram は一つの矢筒でケイロンが持っています。なお-queは単語の後ろにくっつく接続詞です。

次の arcus は対格だと解釈すると複数形ではないといけなくなります。arcusは「弓」のことですが、他にも意味があって、英語だと「anything arched or curved」の意味があります。そう「(弓のように)曲がっている物」です。

このあとが少し技巧的です。arcusを修飾している retentos は二種類の意味に解釈できます。どちらも過去分詞の対格複数男性なのですが、動詞 retendo が元になっていると解釈すると「弛んだ」という意味、動詞retineoが元になっているとすると「背負った」という意味になります。

つまり、arcus retentus は「弛んだ弓」か「背負われた曲がっている物」となります。ケイロンの弓をよく見ると、弦の止める位置が、下は弓の先端ですが、上は弓の先端ではなく、そこより下に結び付けられています。確かに、弛んだ弓が描かれています。一方、女神が背負っている物は、金色の縁が曲がっていることを強調するかのように描かれています。確かにこれも言葉の通り「背負われた曲がっている物」です。うまい具合に、それぞれが、別々の意味の arcus retentus を持っています。

まとめると、次のように訳せます。

武器を持っている者たちは、槍(女神)、矢筒(半獣)、弛んだ弓(半獣)、そして背負われた曲がった物(女神)を持っています。※()内は所有者

では、次。

altera depositae subiecit bracchia pallae.

altera は二人のうちの一人、ここでは女神で、これを主語とします。pallae を修飾している分詞 depositae は動詞 depono の変化したもので、これは普通「置く」という意味なのですが、他に「植える」という意味もあります。「両手」を意味する対格の名詞bracchia は「枝」と訳せるので、これと一緒になって、「枝が生えているローブ」となります。subiecit は動詞subicio の完了形三人称単数です。これは「下に投げる、下に置く」という意味なので、このローブが地面に付いていることを表しているとします。

一人(女神)は枝の生えたローブを地面につけていました。

そして、最後。

vincla duae pedibus demunt.

靴を脱がしている様子は見えませんので、違うことを表しているのでしょう。vincla は中性名詞 vinclum の主格か対格の複数で、意味は「chain,band,fetter」。duae は 序数 duo の主格、複数女性。pedibus は、男性名詞 pes の与格か奪格の複数で、意味は「足」です。demunt は 動詞 demo の三人称複数現在で、意味は「take away,subtract」です。

二人の足のあたりにvincla 「帯、紐、縄、、、」と呼べるものがないかじっくり見てみます。すると、ケイロンは一段下がったところにいますが、側面に地層のような帯状のものが見えています。これですね。これが二人の足で所々見えなくなっています。

pedibus を奪格と解釈するとうまくいきそうです。duae は、半獣と女神の二人のことで、これが主語になります。vincla は画面に見えている地層のこととします。ただ地層という用語のラテン名がこれだというわけではありません。そして、demunt は、二人の足で邪魔して、地層を見えなくしていることとします。

二人は足を使って帯状のものを隠しています。

 

まとめると、

そこに森の女神(アルテミス)といっしょに狩りに疲れた者がいつものようにやってきました。
処女神の体を覆っているのは流れるようなローズマリーです。
そして下にいる者が処女神の一人(アルテミス)に身を委ねました。
武器を持っている者たちは、槍(女神が所有)、矢筒(半獣が所有)、弛んだ弓(半獣が所有)、そして背負われた曲がった物(女神が所有)を持っています。
一人(女神)は枝の生えたローブを地面につけていました。
二人は足を使って帯状のものを隠しています。

女神の疲れた表情とか、ローズマリーが女神の体を服の上から這っている描写とか、武器を持っている描写とか、枝の生えたローブの描写とか、ケイロンが二本の足を持ち上げて地層を隠している描写とか、とても都合のいい描写が並んでいます。

特に「背負われた曲がっている物」というのが、はっきりと言葉として出てきました。この背中に背負っている物について最初に気づいた時から、ただの盾ではないだろうと思って、「金色の縁取りのある黒い何か」とか、「light bringer」という呼び名を表すために用意された「背負っている何か」だとか、でもやっぱり盾を持つアルテミスも稀だけどあるらしいので盾でいいやとか、紆余曲折しながら解釈してきたのですが、ここでようやく答えが見つかりました。arcus retentus です。本来「弛んだ弓」を表す言葉ですが、それの別訳で「背負われた曲がっている物」でした。

ウェルギリウスの詩の解釈で描ききれなかったいろいろな描写が、この文章できれいに補われています。でもオウィディウスの文章があるからと言って、ウェルギリウスの詩はもういらないというわけでもありません。ケイロンが胸を隠すしぐさなどを説明するためには、ウェルギリウスの詩が必要になります。

これで《パラスとケンタウロス》も、典拠を示すことができました。オウィディウスの『変身物語』にあるアクタイオンの物語とウェルギリウスの『牧歌七』の二つです。オウィディウスの物語は、槍を持つ珍しいアルテミスを記述しています。ウェルギリウスの詩は、アルテミス神殿があったのと同じアルカディアを舞台にしており、詩の中にはディアナ(アルテミス)を讃える言葉があります。どちらも、この絵の描写を作りだすのに、ふさわしい文章です。

もう、この女神はアルテミス以外に考えられません。



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2011年09月17日

《パラスとケンタウロス》 さらにもう一つの典拠

前回で全部そろったと思っていたら、さらにありました。

先日、この作品は紀元前四世紀の彫刻家スコパス(Scopas)に対抗して作られたのではないかと書いたのですが、調べてみると、もう一人アルテミスの関わる古代の彫刻家がいたことが分かりました。《クニドスのアフロディーテ》を作ったことで有名なプラクシテレス(Praxiteles)です。そう、あの「恥じらいのヴィーナス」の彫刻を一番最初に作った人です。彼のオリジナルは胸を隠してはいないのですが、ボッティチェリの《ヴィーナスの誕生》に描かれている女神も、その系譜上にある、偉大な彫刻家です。

このプラクシテレスの作ったアルテミス像そのものは残っていないのですが、パウサニアス(Pausanias)が2世紀に書いた『ギリシア案内記』の10巻37章に、その記述があります。アンティキュラ市について書かれた文章の一節です。

馬場恵二氏の翻訳した文章を岩波文庫から引用すると:

同市の右側、市からせいぜい2スタンディオンほど行ったところに高い岩がそびえ立ち、その岩は山の一部なのだが、その岩の壁面にアルテミスの聖所が建立されている同女神の像はプラクシテレスの作品のひとつで、右手に松明を持ち、肩には矢筒を背負う。女神の左脇には一頭の犬がはべっている。この祭神像はとびきり背の高い女性を越す程度の背丈がある。

見るからに誤訳しがいのある文章です。

ギリシア語は次の文章です:

τῆς πόλεως δὲ ἐν δεξιᾷ δύο μάλιστα προελθόντι ἀπ᾽ αὐτῆς σταδίους, πέτρα τέ ἐστιν ὑψηλὴ−μοῖρα ὄρους ἡ πέτρα−καὶ ἱερὸν ἐπ᾽ αὐτῆς πεποιημένον ἐστὶν Ἀρτέμιδος: ἡ Ἄρτεμις ἔργων τῶν Πραξιτέλους, δᾷδα ἔχουσα τῇ δεξιᾷ καὶ ὑπὲρ τῶν ὤμων φαρέτραν, παρὰ δὲ αὐτὴν κύων ἐν ἀριστερᾷ: μέγεθος δὲ ὑπὲρ τὴν μεγίστην γυναῖκα τὸ ἄγαλμα.

岩の記述の部分も関係がありそうですが、それより重要なのは、アルテミスの描写の部分です。ここを細かく別の訳にしていきます。

δᾷδα ἔχουσα τῇ δεξιᾷ

δᾷδα は対格単数の女性名詞で、「松明」のことです。ἔχουσα は現在分詞の主格単数女性で、元の動詞ἔχωは「bear, carry, bring」の意味です。τῇ δεξιᾷ は与格単数の女性名詞で、「右手」のことです。

δᾷδα の主格単数はδαίς ですが、これを辞書で調べると、同じ綴りの言葉で別の意味の言葉があります。その意味は banquet,feast;food です。これは「宴会、食べ物」という意味でいいでしょう。

しかし、さらにここで banquet の意味を調べてみると、イタリア語の banchetto が出てきます。意味は同じ「宴会」なのですが、この語の元の意味を調べると、banco 机の縮小辞です。つまり、「小さな腰掛け、小さな机」となります。(ただし、この連想は δαίς が宴会の意味の banchetto だと書いてある当時の辞書の存在を仮定しています。)

τῇ δεξιᾷ を「右手に」ではなく、「右側に」と訳します。すると、こうなります。

小さな台を背負っている女性が右側にいます。

次。

καὶ ὑπὲρ τῶν ὤμων φαρέτραν

καὶ は接続詞、τῶν ὤμων は属格複数の男性名詞で、意味は「肩」。この名詞は前置詞 ὑπὲρ の支配を受けて属格になっています。この前置詞は、「over,above,across」という意味になります。φαρέτραν は「矢筒」の意味で、対格単数の女性名詞です。

プラクシテレスの彫刻には矢筒を掛けられる肩を持っているのは女神だけですが、ボッティチェリの絵では、女神と半獣の二人です。ちょっとずるいですが、誰の肩かはっきり指定していないので、これは半獣の肩ということにします。

そして(半獣の)両肩の後ろには矢筒があります。

次。

παρὰ δὲ αὐτὴν κύων ἐν ἀριστερᾷ:

δὲ は接続詞。αὐτὴν の意味は「self」で、対格単数女性です。παρὰ は前置詞です。次に対格が続くので、意味は「beside」になります。κύων は主格単数の男性名詞です。意味は「dog,bitch;monster;」です。普通は「犬」と訳しますが、ここでは「怪物」とします。そしてἐν ἀριστερᾷ は「左側に」という意味です。

そして女性の左側に怪物がいます。

最後の文。

μέγεθος δὲ ὑπὲρ τὴν μεγίστην γυναῖκα τὸ ἄγαλμα.

δὲ は接続詞。μέγεθος は中性名詞の対数単数で、意味は「greatness, bulk, size; might, power, excellence; importance」です。μεγίστην は形容詞 μέγας 「large, great, big, grand」の最上級で、対格単数女性です。すぐ後の、γυναῖκα を修飾しています。これは対格単数の女性名詞で、意味は「女性」です。

ἄγαλμα は中性名詞の主格か対格で、意味は「ornament; splendid work; statue」です。通常はもちろん「彫像」と訳すのですが、今回はそうしません ここでは「宝石で飾られた者」と訳します。この名詞の輝いているイメージは動詞 ἀγάλλω (adorn,glorify)由来だと思われます。

宝石で飾られた者は、どんな女性よりも荘厳です。

 

文章としてつなぐと、ちょっとおかしくなるので、箇条書きにします。

・小さな台を背負っている女性が右側にいています。
・(誰かの)両肩の後ろには矢筒があります。
・女性の左側に怪物がいます。
・宝石で飾られた者は、どんな女性よりも荘厳です。

背負っている物は、原義としての banchetto ということになります。でも、波打つように曲がっていて、台にするにも、腰掛けにするにもちょっと使いにくそうですね。探せばボッティチェリの頃の家具に何か似たようなものがあるかもしれません。でも盾ではないことはこれで分かりました。

女神の服が宝石や指輪で飾られている理由も分かりました。彫像を意味する ἄγαλμα の別の解釈だったわけです。最上級をさらに越えているのですから、相当なものです。

 

このように、パウサニアスの文章から、人物の配置や、背負っている物が台であること、女神の服が宝飾品で散りばめられている理由が分かりましたが、何よりも重要なのは、これらの記述と絵との符合により、この作品がプラクシテレスが作った《アンティキュラのアルテミス》に対抗して描かれたと分かったことです。



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2013年09月15日

《パラスとケンタウロス》と『変身物語』(1) これまでのこと

いろいろ書きかけばかりですが、今回からしばらくルネサンス期フィレンツェのボッティチェリ(Botticelli)が描いた《パラスとケンタウロス》(Pallas and the Centaur)と呼ばれている絵と、二千年前の詩人オウィディウス(Ovidius)の『変身物語』(Metamorphoses)との関係についてまとめていこうと思います。

ボッティチェリの神話画は不思議な描写ばかりで、これらはどうやら古典ギリシャ語やラテン語の言葉遊びで描いているためのようだと、このブログで以前から指摘しています。今回は《パラスとケンタウロス》の解釈を完成させたいと思います。

この絵は2年ほど前に一度考察しました。まず、この女性がパラスつまりアテナには思えなかったので、ケンタウロスと結びつきのある女神を探し、アルテミス(Artemis/Diana)ではないかと考えました。ケンタウロスが野蛮なケンタウロス族ではなく彼女の師匠であるケイロンだとしました。さらに彼女にはヨモギの葉がいくつか飾られています。ヨモギのラテン名はアルテミスに由来するアルテミシアです。これも彼女がアルテミスであることを示す記号ではないかと考えました。

そして最初に見つけた典拠となる文章が、ウェルギリウスの牧歌詩の一節でした。この詩の解釈を工夫すると、アルテミスとケイロンのことを描いているように思えました。ケンタウロスが苦悶の表情で足を曲げている様子や彼の乱れた髪、女神の額の飾りやツタで飾られた描写が、この絵の元になった文章であるように思えました。ここで女神がアルテミスであると確信をもったことで、今となってみればその確信は偽物であったのですが、とても重要な次の文章を見つけるきっかけとなりました。

二番目の典拠は、オウィディウスの『変身物語』にあるアクタイオン(Actaeon)の話です。その中にあるディアナ(アルテミス)の姿の描写の部分です。

Hic dea silvarum venatu fessa solebat
virgineos artus liquido perfundere rore.
Quo postquam subiit, nympharum tradidit uni
armigerae iaculum pharetramque arcusque retentos;
altera depositae subiecit bracchia pallae,
vincla duae pedibus demunt;

ここには珍しく槍をもったアルテミスが登場します。アルテミスは水浴びをするために身に着けているものを、侍女の手を借りて外していくのですが、その描写を言葉遊びで変換していくと、この絵の女神とケンタウロスの描写に近づけていくことができました。水の滴が女神の体を伝う描写のラテン語は流れるようなローズマリーと訳すことができ、この絵の不思議なツタの絡まった女神の描写に変換できます。他にも枝が生えているローブ、ゆるんだ弓と背負われた弓状の物なども『変身物語』から導くことができました。言葉遊びで変換されたこれらの言葉は、まさにこの絵の描写そのものになりました。

さらにもう一つ文章を見つけました。それは2世紀に書かれたパウサニアス(Pausanias)によるギリシャの観光案内『ギリシア案内記』(Ἑλλάδος περιήγησις)に記述されたプラクシテレスの作ったアルテミス像の紹介部分です。

τῆς πόλεως δὲ ἐν δεξιᾷ δύο μάλιστα προελθόντι ἀπ᾽ αὐτῆς σταδίους, πέτρα τέ ἐστιν ὑψηλὴ−μοῖρα ὄρους ἡ πέτρα−καὶ ἱερὸν ἐπ᾽ αὐτῆς πεποιημένον ἐστὶν Ἀρτέμιδος: ἡ Ἄρτεμις ἔργων τῶν Πραξιτέλους,
δᾷδα ἔχουσα τῇ δεξιᾷ καὶ ὑπὲρ τῶν ὤμων φαρέτραν, παρὰ δὲ αὐτὴν κύων ἐν ἀριστερᾷ: μέγεθος δὲ ὑπὲρ τὴν μεγίστην γυναῖκα τὸ ἄγαλμα.

彼女が全身を宝石で飾られていることなど、この部分を言葉遊びで変換したものもこの絵に表れてきます。これにより、一連の作品と同じように、古典の文書の中にしか残っていない古代の偉大な作品を当時のフィレンツェに甦らせることを、この絵を描いた目的の一つとしていたと考えることができます。

2年前はここまでが限界でした。これだけの記述があれば、十分だと思っていました。他は分からないので、残りは画家本人が考えた描写であるとしました。しかし、その後、《ヴィーナスの誕生》や《春(プリマヴェーラ)》のように詩全体が細かく絵の中に描かれていると解釈できることが分かってくると、この絵についてもその可能性があるかもしれないと思えてきました。この部分だけを選択し描写したと考えるよりも、アクタイオンの物語全体を絵にしたと考えた方が合理的でしょう。

まだ現時点では完全には解釈が終わっていませんが、今終わっている部分だけでも面白い結果が出てきました。ケンタウロスの表情は昔からラオコーン像に似ていることが指摘されていますが、その根拠と言える部分も見つかりました。またこの絵全体は薄く茶色に汚れて見えます。しかし、これは忠実に言葉遊びによる表現を描こうとしたためだと解釈できます。以前提示したケンタウロスがケイロンで後ろに見える船がアルゴ船だとする説は間違いだったと認めなくてはいけないでしょう。

同様に《ヴィーナスとマルス》(Venus and Mars)も以前ここで示した部分だけでなく、『物の本質について』(de rerum natura)の冒頭にあるヴィーナスを讃える文章全体を基に描かれているようです。これについてもある程度解釈はできていますが、《パラスとケンタウロス》の解釈が終わった後にここに書くことにします。



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2013年09月19日

《パラスとケンタウロス》と『変身物語』(2)

オウィディウスの『変身物語』で、アクタイオンの物語が書かれているのは、3巻の138行から252行です。以下に引用します。

Prima nepos inter tot res tibi, Cadme, secundas
causa fuit luctus, alienaque cornua fronti
addita, vosque, canes satiatae sanguine erili.
at bene si quaeras, Fortunae crimen in illo,
non scelus invenies; quod enim scelus error habebat?
Mons erat infectus variarum caede ferarum,
iamque dies medius rerum contraxerat umbras
et sol ex aequo meta distabat utraque,
cum iuvenis placido per devia lustra vagantes
participes operum conpellat Hyantius ore:
'lina madent, comites, ferrumque cruore ferarum,
fortunaeque dies habuit satis; altera lucem
cum croceis invecta rotis Aurora reducet,
propositum repetemus opus: nunc Phoebus utraque
distat idem meta finditque vaporibus arva.
sistite opus praesens nodosaque tollite lina!'
iussa viri faciunt intermittuntque laborem.
Vallis erat piceis et acuta densa cupressu,
nomine Gargaphie succinctae sacra Dianae,
cuius in extremo est antrum nemorale recessu
arte laboratum nulla: simulaverat artem
ingenio natura suo; nam pumice vivo
et levibus tofis nativum duxerat arcum;
fons sonat a dextra tenui perlucidus unda,
margine gramineo patulos incinctus hiatus.
hic dea silvarum venatu fessa solebat
virgineos artus liquido perfundere rore.
quo postquam subiit, nympharum tradidit uni
armigerae iaculum pharetramque arcusque retentos,
altera depositae subiecit bracchia pallae,
vincla duae pedibus demunt;
nam doctior illis
Ismenis Crocale sparsos per colla capillos
colligit in nodum, quamvis erat ipsa solutis.
excipiunt laticem Nepheleque Hyaleque Rhanisque
et Psecas et Phiale funduntque capacibus urnis.
dumque ibi perluitur solita Titania lympha,
ecce nepos Cadmi dilata parte laborum
per nemus ignotum non certis passibus errans
pervenit in lucum: sic illum fata ferebant.
qui simul intravit rorantia fontibus antra,
sicut erant, nudae viso sua pectora nymphae
percussere viro subitisque ululatibus omne
inplevere nemus circumfusaeque Dianam
corporibus texere suis; tamen altior illis
ipsa dea est colloque tenus supereminet omnis.
qui color infectis adversi solis ab ictu
nubibus esse solet aut purpureae Aurorae,
is fuit in vultu visae sine veste Dianae.
quae, quamquam comitum turba est stipata suarum,
in latus obliquum tamen adstitit oraque retro
flexit et, ut vellet promptas habuisse sagittas,
quas habuit sic hausit aquas vultumque virilem
perfudit spargensque comas ultricibus undis
addidit haec cladis praenuntia verba futurae:
'nunc tibi me posito visam velamine narres,
sit poteris narrare, licet!' nec plura minata
dat sparso capiti vivacis cornua cervi,
dat spatium collo summasque cacuminat aures
cum pedibusque manus, cum longis bracchia mutat
cruribus et velat maculoso vellere corpus;
additus et pavor est: fugit Autonoeius heros
et se tam celerem cursu miratur in ipso.
ut vero vultus et cornua vidit in unda,
'me miserum!' dicturus erat: vox nulla secuta est!
ingemuit: vox illa fuit, lacrimaeque per ora
non sua fluxerunt; mens tantum pristina mansit.
quid faciat? repetatne domum et regalia tecta
an lateat silvis? pudor hoc, timor inpedit illud.
Dum dubitat, videre canes, primique Melampus
Ichnobatesque sagax latratu signa dedere,
Cnosius Ichnobates, Spartana gente Melampus.
inde ruunt alii rapida velocius aura,
Pamphagos et Dorceus et Oribasos, Arcades omnes,
Nebrophonosque valens et trux cum Laelape Theron
et pedibus Pterelas et naribus utilis Agre
Hylaeusque ferox nuper percussus ab apro
deque lupo concepta Nape pecudesque secuta
Poemenis et natis comitata Harpyia duobus
et substricta gerens Sicyonius ilia Ladon
et Dromas et Canache Sticteque et Tigris et Alce
et niveis Leucon et villis Asbolos atris
praevalidusque Lacon et cursu fortis Aello
et Thoos et Cyprio velox cum fratre Lycisce
et nigram medio frontem distinctus ab albo
Harpalos et Melaneus hirsutaque corpore Lachne
et patre Dictaeo, sed matre Laconide nati
Labros et Argiodus et acutae vocis Hylactor
quosque referre mora est: ea turba cupidine praedae
per rupes scopulosque adituque carenti+a saxa,
quaque est difficilis quaque est via nulla, sequuntur.
ille fugit per quae fuerat loca saepe secutus,
heu! famulos fugit ipse suos. clamare libebat:
'Actaeon ego sum: dominum cognoscite vestrum!'
verba animo desunt; resonat latratibus aether.
prima Melanchaetes in tergo vulnera fecit,
proxima Theridamas, Oresitrophos haesit in armo:
tardius exierant, sed per conpendia montis
anticipata via est; dominum retinentibus illis,
cetera turba coit confertque in corpore dentes.
iam loca vulneribus desunt; gemit ille sonumque,
etsi non hominis, quem non tamen edere possit
cervus, habet maestisque replet iuga nota querellis
et genibus pronis supplex similisque roganti
circumfert tacitos tamquam sua bracchia vultus.
at comites rapidum solitis hortatibus agmen
ignari instigant oculisque Actaeona quaerunt
et velut absentem certatim Actaeona clamant
(ad nomen caput ille refert) et abesse queruntur
nec capere oblatae segnem spectacula praedae.
vellet abesse quidem, sed adest; velletque videre,
non etiam sentire canum fera facta suorum.
undique circumstant, mersisque in corpore rostris
dilacerant falsi dominum sub imagine cervi,
nec nisi finita per plurima vulnera vita
ira pharetratae fertur satiata Dianae.

115行になります。以前言葉遊びをした部分(赤で着色)は6行ですから、それと比べてもこれは相当な量になります。これが全部この絵に描きこまれているとすれば、かなりの情報量の絵となるのですが、見た感じ、全然そうは思えません。さあ、最後まで飽きずに続けられるでしょうか。

それでは始めます。カドモスがテーバイの都を作り、ハルモニアを娶った話に続いて、彼の孫であるアクタイオンの悲劇の物語が描かれます。

Prima nepos inter tot res tibi, Cadme, secundas causa fuit luctus,

最初の行にCadmeという言葉がありますが、これはカドモスを表すCadmusの単数呼格です。カドモスは晩年蛇に変えられてしまいますが、馬やケンタウロスに変えられてしまう話は聞きません。でもこの絵のケンタウロスをカドモスとしてしまいます。そうすると何故か解釈がうまくいきます。

prima は形容詞primusの単数女性奪格として、少し離れたところにあるcausaに結びつけます。このときcausaは女性名詞causa「原因」の単数奪格です。luctusは男性名詞luctus「悲嘆」の単数属格として、このcausaを修飾していると考えます。つまり、prima causa luctusは「悲嘆の最初の原因から」となります。カドモスの孫アクタイオンは、女神アルテミス(ディアナ)の裸を見てしまい、彼女によって鹿に変えられ自分の猟犬に食われて死んでしまうわけですから、この絵の女性をアルテミスとすれば「最初の原因」とはこの女神自身を示していると考えられます。

primaの次のneposは男性もしくは女性名詞のnepos「孫」ですが、ここにはカドモスの孫のアクタイオンは描かれていないようです。他の意味を探す必要があります。とりあえず保留にして次へ。interは対格支配の前置詞で、意味は「〜の中」です。この前置詞に支配されている語句は、tot resそしてsecundasと考えます。totは不変形の数詞で「とてもたくさんの」という意味です。resは女性名詞res「もの、出来事」の複数対格です。そしてsecundasはいろいろな意味に解釈できる言葉ですが、ここでは形容詞secundus「次の、続いている」の女性複数対格とみなして、resを修飾していると考えます。したがって、inter tot res secundasは「たくさんの続いているものの中」と解釈できます。この絵の中で続いているものと言ったら、女神の体の周りを巡っている葉のたくさん付いたツルということになるでしょう。

さてneposです。本来アクタイオンを示す「孫」と訳される言葉ですが、ここでは違う意味になります。調べてみると、この語は植物について使われるときgermoglio「芽、新芽」という意味があります。この場合ツルや枝の先にある新しい葉のことになるでしょう。これがこの文の主語となります。残りの単語はtibiとfuitです。tibiは代名詞tu「あなた」の単数与格です。Cadmeという呼びかけが含まれている文なので、おそらくあなたとはカドモス、つまりこの絵のケンタウロスを指しているでしょう。fuitは動詞sum「ある」の三人称単数完了過去です。これがこの文の動詞になります。ここまでをまとめると、「カドモスよ!たくさんの続いているものの中の新芽が、悲嘆の最初の原因(アルテミス)からあなたにあった。」となります。

これが描かれているのは、どこでしょう。女神の周りの植物で一番新芽らしく見えるのは腰のあたりから柔らかく垂れ下がりながら伸びている部分でしょう。しかしそれではなくケンタウロスと女神の間、女神の手首の下にある葉がいいでしょう。もう既に成長してしまっていますが、ツルの先端の葉のことを新芽と呼んでもいいでしょう。もう既に新芽ではなくなっていることで、完了時制を表していると解釈します。この葉はちょうどケンタウロスの髪に触れているので、tibiの言葉を満たしています。彼のところにある葉は確かにこれだけです。ケンタウロスも孫が変換されたその葉の方を向き、悲嘆にくれながら見詰めているようです。さらにちょっとびっくりするかもしれませんが、この葉の下には人の顔のように見えるものがちゃんと描かれています。

germoglio

alienaque cornua fronti addita, vosque,

alienaque cornua fronti additaは本来、額に生えたアナクレオンの鹿の角を指しています。alienaqueの末尾にあるqueは接続詞です。alienaは形容詞alienum「別の、奇妙な」の複数中性の主格/呼格/対格です。cornuaは中性名詞cornu「角」の主格/呼格/対格の複数です。frontiは女性名詞frons「額」の単数与格です。additaは動詞addo「加える」の完了分詞で、複数中性の主格/呼格/対格か単数女性の主格/呼格/奪格です。この絵では確かに女性の額のところに角のような尖った宝石が描かれていますが、そこには一つしかありません。語句通りに複数にするには、女性の乳首のところにある似たような宝石も含める必要があるでしょう。そこも正面ではあるので、fronsの意味に合うことは合います。しかしfronsの意味を調べると、もっとこの絵にふさわしい意味が出てきます。fronsには同じ綴りの別の言葉があって、その意味はfogliame、foglie、つまり「葉」です。特にfogliameは葉を使った装飾の意味もあります。よってcornu fronti additaは「葉の飾りにくっついていた角状のもの」という意味になります。

alienacornuafrontiaddita

この解釈が成り立つと、女神の周りにいろいろなものが見えてきます。先に示した女神の額にあるもの、両方の乳房の上にあるものだけでなく、胸やお腹の中央にあるツルを通している指輪も葉の装飾の台座の上に尖った宝石が載っています。腕にいくつかあるツルが交差している部分にある指輪もそうです。服の上に張り付いている複数の指輪を組み合わせたものも、小さいですがよく見ると葉のような台座と尖った宝石が載っているとようです。そして彼女の持っている槍の先端にある尖ったものにもしっかりと葉の飾りの台座が付いています。alienaque cornua fronti additaはこれらの飾り全てを指していると考えられます。結局、複数呼格で「葉の飾りにくっついた奇妙な尖ったものたちよ!」となります。vosqueはvosに接続詞queが付いたものです。複数形なので、絵に描かれている女神とケンタウロスの二人とします。主格/呼格/対格の可能性がありますが、この場合は呼格で、「あなたがたよ!」となります。

canes satiatae sanguine erili.

sanguineは「血」を意味するsanguisの単数男性奪格、eriliは形容詞erilis「(女)主人の」の単数与格か奪格です。これは単純に前にあるsanguineを修飾していると考えます。しかし、血がこの絵に見当たらないので、sanguisを別な意味にする必要があります。sanguisには血に由来する様々な意味がありますが、その中にaveri「財産」があります。つまりsanguine eriliを女主人の財産ということにします。服についてる指輪などがまさに彼女の財産となるでしょう。sanguineは単数ですが、それで財産全体を示しているとします。satiataeは動詞satio「満腹にさせる」の完了分詞です。しかしここで、わざと同じ綴りの名詞satio「種をまくこと、植物」と誤訳します。数と格は分詞のものをそのまま使って単数属格とします。ここに描かれている女性は、体に植物をまとっているので、この様子からsatiataeはeriliと結び付けると、合わせて「植物の女主人」となります。これはディアナ(アルテミス)の属性ともこの絵の描写とも合致します。satiatae sanguine eriliをまとめると、「植物の女主人の財産」となり、先ほどでてきたalienaque cornua fronti additaと同じものを表していると解釈できます。

canesは本来は複数の犬のことで、アクタイオンの連れていた猟犬を意味します。しかし犬はここにはいないので別の意味を考えます。この綴りを動詞とみなすと二人称単数現在で、biancheggiare「白くなる」という意味があります。さらにこの単語はbiondeggiare「黄ばむ、黄金色になる、金髪になる」という意味で使われることがあります。例えば同じ『変身物語』第1巻110行で、実った穀物の穂によって色づく平原の描写に使われています。二人称単数のcanesの主語は、ケンタウロスとします。前の文に出てきたtibiと同じです。金色になるという言葉を念頭に置いて、この絵を改めて見てみると、カドモスの引っ込めた左前足から胴のあたりが光に照らされています。これは上空の右後ろにあるはずの太陽とは違う光によるものに見えます。上半身の肌の色もこの光によるものだと考えていいでしょう。光源となるものは何かというと、satiatae sanguine erili「植物の女主人の財産」です。これらの金色に輝く宝石によって照らされていると考えると、奪格のsanguineは原因を表していると考えればうまく解釈できます。この部分をまとめると、「あなた(カドモス)は植物の女主人の財産によって輝いている。」となります。

at bene si quaeras, Fortunae crimen in illo, non scelus invenies;

atは逆説の接続詞、beneは副詞「よく、とても」、siは英語のifに相当する接続詞、quaerasは動詞quaero「探す」の接続法二人称単数。ここまでで「しかしもしあなたが十分に探すならば」となります。この場合の「あなた」は誰のことなのか、これだけでは分からないので、ここでは保留します。このあとはちょっと複雑な文になっていて、一つの動詞inveniesが、二つの語句fortunae crimen in illoとnon scelus inveniesを目的語としています。まず動詞inveniesの意味ですが、invenio「合う、見つける」の二人称単数未来です。主語はここでも2人称ですが、これも保留します。この動詞の意味は、具象的なのでそのままでいけそうです。

では最初の目的語から。fortunaeは本来の訳では女性名詞fortuna「運」の単数属格です。しかし「運」という抽象概念は絵の中には描きにくいので、この単語に他の意味はないか探すと、文学的表現で「嵐、暴風雨」があります。指示通りこの絵をよく見てみると、女神とケンタウロスの間に、絵の表面のヒビのような斜線が何本も引かれているのに気付きます。これを使って解釈できるかもしれません。次に進みます。crimenは中性名詞crimen「告発」の単数の主格/呼格/対格です。これも本来の意味では使えないので、他の意味を調べると、イタリア語でcolpa、「罪、過失」という意味が見つかります。属格のfortunaeがこれに結びついて、「嵐の過失」となります。他の風景からしてもこの絵に嵐を描くのはやはり場違いに思われるので、これは間違った描写となりますので、この意味でいいでしょう。in illoは代名詞illus「かれら」の奪格なので、「彼らの中に」となります。嵐が描写されているのは、確かに女神とケンタウロスの姿が作っている閉じた領域の中なので、問題ありません。ここまでくると2人称が誰なのか分かります。これは絵を見ている私たちのことです。したがって、最初の目的語が作る文は、「(絵を見ている)あなたは彼らの中に嵐の過失を見つけるだろう。」となります。

fortuna

そして二番目の目的語です。nonは否定の副詞です。scelusは中性名詞scelus「罪、災難、悪党」の単数主格/呼格/対格です。ここで絵にできそうなのは「悪党」です。ケンタウロスは、一見野蛮な容姿をしていて『変身物語』の典拠を知らなければそのまま彼を悪党と思ってしまうでしょう。しかしこの典拠によれば、彼は英雄カドモスですから悪党などではありません。したがって、後半は「あなたは悪党を見つけられないだろう。」となります。全体は、「しかしもし(絵を見ている)あなたが十分に探すならば、あなたは彼らの中に嵐の過失を見つけるだろう、そしてあなたは悪党を見つけないだろう。」です。

quod enim scelus error habebat?

これは直前の節を説明している文です。quodは疑問代名詞quiの中性単数の主格か対格です。enimは接続詞で「なぜなら、確かに」です。scelusは前の説にも出てきた言葉で、そのまま「悪党」で、ケンタウロスを表しているとします。この文の動詞はhabebatです。動詞habeo「持つ」の三人称単数の未完了過去です。errorは中性名詞errorの単数主格か呼格です。主語はおそらくこれになります。意味は「往来をさまよう者、道の外に出た者、誤り、凶器、罪」などの意味があります。scelusがケンタウロスを表すならば、おそらくerrorは女神を表しているはずです。女神はケンタウロスの髪を掴んでいるので、動詞habebatの主語としても相応しいです。

あとはerrorが女神を表すように意味を考えるだけです。いろいろ悩んでみると、面白いアイデアが浮かびました。ケンタウロスが立っているところは、女神よりも一段下に描かれています。この一段下の場所は、もしかすると道なのかもしれません。そんな感じで後ろの方に続いています。道は人々が通ることで削られ、踏み固められ低くなってしまうでしょう。そう考え、これを道だとすると、女神は道の外に立っているので、道を外れた者つまりerrorと解釈できるようになります。未完了過去は、いままでのボッティチェリの絵の解釈の経験により、不完全な描写で描いていると考えられます。したがって、この絵では、ケンタウロスの体ではなく、髪の毛を柔らかく掴んでいる様子でそれを描写していると考えます。この文をまとめると、「なぜなら、道から外れた者(女神)がどんな悪党を掴んでいたというのだろうか?」となります。

今回は以上です。このペースだと残り20回ほどになってしまいます。



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2013年10月01日

《パラスとケンタウロス》と『変身物語』(3)

有名な美術研究家ライトボーンの本によると、1516年のメディチ家の所蔵品として、この絵とされるものがミネルヴァの名前で記録が残っています。ミネルヴァとはアテナ、つまりタイトルのパラスが表す女神です。しかしそれより前の1499年の財産目録では、同じものがカミラと呼ばれていると同じくライトボーンの本に書かれています。このカミラとは『アエネーイス』に出てくるアイネイアスの軍隊と戦った女戦士とされています。このことはこの絵に描かれている女神がミネルヴァであるとする従来の説を揺るがしかねない事実のはずですが、ライトボーンはこの名前の違いをアテナの持つ三面性を使って説明しようとしています。

しかし、この名前の違いは単純に、見たままの武装をした女性像から連想されるカミラやミネルヴァという名前でこの絵を呼んでいたに過ぎないのではないでしょうか。つまり、それぞれの時点で財産目録を作成していた者が、この絵に描かれている女性が真に誰なのか教えられていないか、知っていてもその答えを隠していたと考えます。この絵がここに述べているように『変身物語』の言葉遊びで描かれていたことが分かれば、それをヒントにその他の神話画の中に隠された背徳的な意味も人々に知られてしまいます。

 

それでは、解釈の続きです。今回は次の5行です。

Mons erat infectus variarum caede ferarum,
iamque dies medius rerum contraxerat umbras
et sol ex aequo meta distabat utraque,
cum iuvenis placido per devia lustra vagantes
participes operum conpellat Hyantius ore:

では、絵の描写に合わせたふざけた意味の解釈を行っていきます。

Mons erat infectus variarum caede ferarum,

monsは男性名詞の単数主格か呼格です。女神の左右の背景に山が描かれているので、このどちらかを表しているはずです。これがこの文の主語で、動詞はeratです。これは動詞sumの三人称単数未完了過去の形です。この二つで「一つの山がありました。」となります。infectusは形容詞、名詞、分詞の可能性がありますが、ここでは形容詞infectusの男性単数主格とし、主語のmonsを修飾しているとします。infectusの意味はいろいろありますが、これだけではどちらの山の形容か分からないので保留にします。

残りはvariarum caede ferarumです。構造としては、女性名詞caedesの単数奪格に、形容詞variusと女性名詞feraを合わせたものが複数属格となり、結びつきます。名詞feraは「野獣」という意味ですが、野獣と呼べるものはこの絵には、ケンタウロスしかいません。これでは複数にはなりません。そこで意味を少し広げて、「野生のもの」と考えます。そうすると、体に草を茂らせた女神もそう呼べるようになります。feraがこの二人を表すとして、形容詞variusの意味を考えると、イタリア語訳のdiversoの古い用法「奇妙な、珍妙な」というのが見つかります。つまり、varius feraは「奇妙な野生のものたち」となります。caedesは本来は「殺戮」と訳されますが、意味を決める前に、ここで絵をよく見直してみます。ケンタウロスと女神はよく見ると、女神の右手とケンタウロスの髪がつながっていて、さらにケンタウロスの馬の体が女神の緑の布とところで重なっていて、完全に閉じた領域を作っています。そのことを踏まえて、caedesの意味を調べてみると、都合よく「切断した部分」という意味があります。この部分をcaedeとみなせます。属格のvariarum ferarumはこの動作の主語として、主語的属格の用法で使われていると考えられます。そして奪格は場所を表していると考えると、確かにその領域には山が描かれています。こうしてvariarum caede ferarumを「奇妙な野生のものたちが切り取った部分に」と解釈すれば、前の部分とつながります。

caede

これでmonsがどの山か特定できました。この山の描写を踏まえて、形容詞infectusの意味を考えると、non lavorato「加工されていない、耕作されていない」という意味が使えそうです。なぜなら、この山の左脇には、木か植物が植わっています。しかし山頂には何もありません。この山の横にあるものを耕作された作物と考えると、山は耕作されてはいないということになります。つまり、これでmons erat infectusは「耕作されていない山がありました。」となります。ここで、他のボッティチェリの作品の解釈では未完了過去は文法的な未完了過去ではなく、不完全な動作を表していたことを思い出すと、ここでもそれを使えそうです。作物がある部分もまだ斜面なので、これも山の一部となります。

したがって、この行をまとめると、「奇妙な野生のものたちが切り取った部分に、不完全に耕作されていない山がある。」となります。

iamque dies medius rerum contraxerat umbras

iamqueは副詞iam「今、既に」に接続辞がついている形です。diesは名詞diesの複数主格/呼格/与格か単数主格/呼格です。意味は「giorno、giornata、clima」などを表します。本来の解釈のように太陽としてもいいですが、ここでは「気候」と訳します。mediusは形容詞medius「centrale(中央の)」と解釈して、mediusを修飾しているとして、合わせて単数の主語「中央の気候」とします。中央の気候とは何かといえば、この絵の中央にある嵐の描写です。画面の中央にある女神が巻いている緑の布をよく見ると、分かりにくいですが、中央付近の空に見えるひび割れのような斜め線の嵐の描写が、この緑の布の所にも見られます。ここも局地的に嵐になっています。つまり、ここに雨が降り濡れた結果の出来事が記述されていると考えられます。

diesmedius

この文の動詞はcontraxeratで、動詞contrahoの三人称単数過去完了です。本来の文章では「縮める」の意味で使われています。この動詞の目的語はumbrasで、これは女性名詞umbraの複数対格です。rerumは女性名詞resの複数属格でumbraを修飾しています。この部分の本来の意味は、これらを合わせて「(中天の太陽が)物の影を縮めていた」となります。しかし、主語を太陽にしなかったので意味も変えなくてはいけません。動詞contrahoの意味はいろいろありますが、雨の降っている緑の布のあたりの描写としてはstringere「締め付ける」、corrugare「しわを寄せる」が良さそうです。umbraの意味もいろいろありますが、その中にparvenza「外観」、fdigura「姿」があります。つまり、この絵だとrerum umbrasは女神が身に着けている服のことになります。身に着けているのは複数なので数は一致しています。雨の降っている緑の部分も皺になっていますが、白い服の部分もそこから生えているツルに締め付けられ皺になっています。緑の布に水が与えられると、そこから生えている植物が成長し、体に巻き付き、そして服にしわを作っているわけです。

まとめると、「既に中央の気候が物の外観に皺を作っていた。」となります。

et sol ex aequo meta distabat utraque,

etは「そして」。solは男性名詞sol「太陽」の単数主格です。exは奪格支配の接続詞で、意味は「~から」。aequoは中性名詞aequumの単数の与格か奪格です。単純にこの単語がexの目的語になっていると考えて、格は奪格でいいでしょう。太陽はどう見てもここには描かれていないので、別の意味を考える必要がありますが、これだけではよくわかりません。sol ex aequeの意味は保留とします。

utraqueは形容詞uterque「英語のeach」の女性単数奪格です。metaは女性名詞の単数の主格/呼格/奪格で、「円錐、目的地」などの意味があり、本来の解釈ではutraqueに修飾されて、東西の日の出日の入りのそれぞれの地点とされています。しかしこの意味では使えません。他の意味を探してみます。uterとqueを分離して、uterには同じ綴りの男性名詞があります。意味は「革袋」です。この絵の中で袋を探していくと、ケンタウロスの後ろ脚の間にある陰嚢に気付きます。この文はその周囲の描写を表している可能性があります。それを踏まえて、あたりをよく見ると小さな三角形が少し下の方に描かれています。metaには糞という意味もありますが、少なくとも位置的に今落としたものではないでしょう。ここでは単に「円錐」とします。したがって先ほど分離したqueも使って、meta utaraqueは「円錐と革袋から」となります。

metautraque

この陰嚢と円錐の間には、金色の点と金色の草があります。金色の草は地面のいたるところに描かれていますが、これは特別な形をしています。光の小さな玉があって、その輝きが周りを照らしているようにも見えます。これがsolということでしょう。solの意味にはsole(太陽)だけでなく、splendore(輝き)があります。aequumは中性名詞で、本来は「parita(同等)」の意味で、東と西から等距離であることを表す言葉になっていますが、ここでは「piano(平地)」と解釈します。こうすると輝きのある場所を表せます。distabatは動詞distoの三人称単数の未完了過去です。意味は本来と同じdistare(離れている)を使います。主語は「平地からの輝き」で、それが円錐と革袋の間に描かれています。確かに円錐からは離れています。しかし革袋には微妙に輝きが触れています。ここで、いつものボッティチェリの神話画に見られる未完了過去による不完全な描写が法則として使えます。つまり、革袋から不完全に離れていることで、未完了過去を表しています。

したがってこの行の意味は「平地からの輝きは円錐と革袋から不完全に離れている。」となります。

cum iuvenis placido per devia lustra vagantes participes operum conpellat Hyantius ore:

ここは二行まとめて解釈します。cumは本来の解釈では逆接の接続詞ですが、ここでは奪格支配の前置詞とみなします。残念ながらiuvenisは奪格ではありません。意味は「若い」で、単数の主格か属格です。この単語はとても離れていますがHyantiusと結びつきます。Hyantiusは男性単数主格で、「ボエオティア人」の古い表現となります。カドモスが開いたテーバイはこのボエオティアにあるので、若きボエオティア人とは、この話の上ではカドモスの孫、アクタイオンのこととなります。前回ツルの新芽のところに人の顔のようなものが描かれていると指摘しましたが、それがこの文の主語「若きボエオティア人」となります。placidoは形容詞placidusの男性か中性の単数の与格か奪格で、これも離れた単語oreと結びついています。oreは中性名詞osの単数の与格か奪格です。最初の前置詞cumはこれらと結びつきます。osには「口」という意味の他に「顔」の意味があるので、合わせて「穏やかな顔で」となります。

次は、per devia lustraです。perは対格支配の前置詞で、英語のthroughやbyに相当します。devia lustraはこの前置詞に支配されていると考えると、deviaは形容詞deviusの複数対格、lustraは中性名詞lustrumの複数対格となります。このdevius lustrumの解釈がとても難しかったのですが、調べていくうちによい意味が見つかりました。まず、lustrumには野獣の住処の意味があります。これはまさにケンタウロスの後ろにあるものです。岩場の中に洞穴があります。そしてこれを修飾するのにふさわしいdeviusの意味は、appartato(人里離れた)でしょう。このときのperはsopra(上に、接して)とすれば、このアクタイオンの顔がある場所を示せます。「人里離れた住処の表面で」となります。しかし、これだと単数になってしまいます。文章は複数です。そこで同じ語句per devia lustraに別の意味がないか考えます。lustraに綴りの近いイタリア語に形容詞lustroがあります。この意味は「光沢のある、輝く、光る」です。金色の指輪の飾りを身にまとった女神は確かに光り輝く存在です。これを名詞化して考えると、lustrumは「光り輝く者」と解釈できます。これに合うdeviusの意味はというと、「fuori della strada(道から外れている)」で、まさに女神の立ち位置です。アクタイオンの顔は女神の右手の下に描かれているので、これもperで示せます。そういうわけで、この語句は「道から外れた光り輝く者のそばで」とも解釈できます。これでdevia lustraの描写の意味を複数にできました。

今度は、vagantes participes operumの解釈です。まず構造だけを考えてみます。vagantesは動詞vagorの現在分詞複数の主格/呼格/対格です。participesは名詞particepsの複数の主格/呼格/対格です。operumは中性名詞opusの複数属格です。主語は上記の分析からおそらくアクタイオンになるので、vagantes participesの二つの単語は結びついて対格の目的語になるでしょう。属格のoperumもこの名詞句を修飾している可能性があります。本来の解釈では、vagantesは「歩き回っている」、participesは分かち合う者つまり「仲間」、そしてoperumは「仕事」ですが、アクタイオンは猟師ですからその仲間の仕事ですから、猟ということになります。まとめると、「歩き回っている猟の仲間たちを」という意味になります。しかし、このような描写はこの絵には見られないので、別の意味を考えます。

はっきり描かれている人物は女神とケンタウロスです。vagantes participes operumも複数形なので、おそらくこの二人を表しているはずなので、彼らの描写を踏まえて意味を考えてみます。分かり易いのはopusです。いろいろな意味のある言葉ですが、その中にstrumento(道具)があります。彼らはいくつかの武器や防具を持っています。少し先にarcus retentosという記述があります。二年前に解釈した部分です。この複数の弓をこの絵の中に見出すために一方を通常の「弛んだ弓」、他方を「背負った弓状に曲がったもの」と解釈して、二人に別々に持たせました。確かに二人は武装を分かち合っています。つまりparticipes operumがこの絵の中に描かれています。残るvagantesですが、vagorの意味にはvagare(さまよう)の他にestendersi(広がる、伸びる)という意味があります。まさに、ケンタウロスは髪や髭が伸び放題であり、女神の方も、体にまとった植物がいろんな方向に伸びています。まとめると、「伸びている、武装を分かち合う者たちを」と解釈できます。

最後に動詞conpellat です。これは「一緒に」という意味の接頭語のconと動詞pellatと分けて考えます。pellatは動詞pelloの接続法三人称単数現在です。この動詞にはいくつかの意味が考えられますが、意味の一つのcommuovereの古語表現には「心を乱す」という意味があります。conと合わせて、「一緒に心を乱す」となります。これはこの絵にぴったりです。本来の物語の中ではカドモスは孫の死に対して心を乱し、アルテミスは裸を見られた怒りで心を乱しています。ここで、この動詞が接続法であることも忘れてはいけません。ケンタウロスの顔は悲しんでいるように見えますが、女神からはあまり怒りを感じられません。この接続法は断定できない可能性を表しているとします。

したがって、この2行をまとめると、「人里離れた住処に接し、道から外れた光り輝く者(アルテミス)のそばにいる、優しい顔をした若きボエオティア人(アナクレオン)は(髪や髭が、体の植物が)伸びている、武装を分かち合っている者たちの心を乱しているのかもしれない。」となります。

 

今回はここまでです。時間がかかります。前回、二人が接している新芽のところにアクタイオンらしき顔をが見つかりました。「孫」の言葉遊びをして「新芽」と解釈したら、そこに孫らしき顔があったわけです。今回は実際その顔についての文章が出てきました。ここまで成り立ってくると偶然やこじつけでは説明できないと思います。今回の円錐形も素晴らしい言葉遊びです。円錐形を探そうとしない限り絶対に見つからない細かな描写です。この絵を作り出した知性は本当に驚異的だと思います。



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2013年10月11日

《パラスとケンタウロス》と『変身物語』(4)

ラテン語が分からない人には、何が何だか分からないでしょう。ただこのくらい難しくないと、1895年に再発見されて以来、そしておそらく描かれた当時から、誰にも解けないことにはならないと思います。

今回は次の7行です。アクタイオンによる仲間たちへの呼びかけが6行と、それを聞いて仲間たちがとった行動の記述1行です。最後の1行は次回に回せばいいように思いますが、前の行を踏まえないと成り立たない表現なので、ここに含めています。

lina madent, comites, ferrumque cruore ferarum,
fortunaeque dies habuit satis; altera lucem
cum croceis invecta rotis Aurora reducet,
propositum repetemus opus: nunc Phoebus utraque
distat idem meta finditque vaporibus arva.
sistite opus praesens nodosaque tollite lina!
iussa viri faciunt intermittuntque laborem.

丁寧に解釈していきます。

lina madent, comites, ferrumque cruore ferarum,

linaは中性名詞linumの複数の主格/呼格/対格。意味はイタリア語でlino(亜麻、麻、リンネル)、そしてそれらを材料に作った、布、服、紐、糸、帆、網など、さらに材料が違う場合も含みます。それにしても、この絵にそんなものあったでしょうか。すぐに気付くのが、彼の右手にある弓の弦です。spago(紐)もlinumの意味の一つです。麻製かどうか分かりませんが、撚りが荒く描いてあります。しかし、これだと複数形にはなりません。他に何かないといけません。詳しく見ていくと、ケンタウロスが背負っている矢筒が麻袋のように見えます。彼の体毛と区別が付かない紛らわしい色をしていますが、よく見ると確かに彼の毛とは区別されて描かれています。これで複数形という条件に合います。

linum

次のmadentは動詞madeoの三人称複数現在です。この意味はちょっと面白くて、esser baganato(濡れている、水に浸かっている)、esser molle(柔らかい、湿っている、曲がりくねっている)というのがあります。どうやら素直にlinaが主語でいいようです。弦は濡れてはいないようです。曲がりくねっているのは弓の部分ですが、まっすぐのはずの弦も微妙に曲がっています。これも一見分かりにくいのですが、右腕の内側に当たって曲がっています。もう一方の麻袋は盛大に曲がりくねっています。柔らかさもあります。さらに、これは水面に接して描かれているので、濡れているとも言えます。

そのあとのcomitesは名詞comesの複数の主格/呼格/対格ですが、ここでは呼格として考えた方がいいでしょう。意味は、compagno、accompagnatore(仲間、連れ、相棒、同行者)です。これは主語の弓と矢筒のことでしょう。それらの愛着のある武器に対して、「相棒たちよ!」と呼んでいるとします。もしかするとアクタイオンが愛用していた道具かもしれません。

次のferrumqueですが、中性名詞ferrumの単数の主格/呼格/対格です。意味はferro(鉄)、そしてそこから派生した、剣や武器、棒状の物、矢などです。実はこれもこの文の主語になります。これにはsaetta(矢)という意味もありますが、ここには複数描かれているのではこれではいけません。となると、弓です。ferrumには当然鉄の物という意味もありますから、この弓は鉄製かもしれません。弓の黒い部分は光沢もあってそれらしく見えます。しかしそうでなくてもarmi(武器)の意味でも成り立ちます。動詞madentの意味molleは、先ほど指摘したように、曲がりくねっているという意味を使います。

linumferrum

さて、残りの二つの単語です。ここがちょっと多く言葉を要します。cruoreは男性名詞cruorの単数奪格です。意味はsangue(血)です。ferarumは女性名詞feraの複数属格で、意味はbestia selvaggia(野獣)です。本来は「野獣たちの血によって」と解釈するのですが、ここには血を流している野獣は一匹も描かれてはいません。しかし発想を変えるとこの絵には血のようなものが描かれているのに気付きます。まさに主語の矢筒のところです。右肩にかけられた矢筒をぶら下げている細い帯は赤い色をしています。それが左肘と背中から勢いよく流れているかのように描かれています。ただしcruoreは単数なのに、2本の血が噴き出している描写はおかしいように見えますが、これは元々矢筒をぶら下げる一本の帯なので、単数形で表現しても問題ありません。問題は、複数形のferarumです。ケンタウロスの体は一つなので解釈を工夫しないといけません。赤い帯の前に見える部分はさかのぼっていくとケンタウロスの野蛮な髭から出ています。後ろからの部分はケンタウロスの裸の背中から出ています。したがって、この二つの単語の解釈は「複数の野性的なもの(野蛮な髭と自然のままの背中)の血の流れ(のようなもの)のところで」となります。このとき奪格は場所を表しているとします。矢筒はまさにこの血の色の物にぶら下げられていますし、弓は右肩のところでこの赤い帯に接近しています。

cruor

まとめると、「複数の野性的なもの(野蛮な髭と自然のままの背中)の血の流れ(のようなもの)のところにある、相棒たちよ!紐(弦)と袋(矢筒)そして武器(弓)は曲がりくねったり、水に浸かったりしている。」となります。

fortunaeque dies habuit satis;

fortunaeは女性名詞fortunaの複数の主格/呼格か、単数の与格/属格です。普通は「運命」ですが、以前も出てきたように「嵐」と解釈します。diesは名詞diesの単数の主格か複数の主格/対格で普通は「日」ですが、これも以前出てきた「気候」とします。fortunaeは単数属格、diesは単数主格か対格として、二つを結びつけ、「嵐の気候が」もしくは「嵐の気候を」となります。

habuitは動詞habeoの三人称単数完了で、一般的な意味はavere(持つ)です。主語は「嵐の気候」の可能性がありますが、これだとちょっとうまくいかないので、主語とhabeoの意味の解釈は保留します。次のsatisは本来は形容詞satisで、意味はsufficiente(十分な)と解釈しますが、ここでは動詞seroの完了分詞の複数の与格か奪格と考えます。動詞seroの意味はというと、seminare(種をまく)、piantare(植える)ですので、satisは形容詞として「植えられた」もしくは名詞として「植えられたもの」と解釈できます。これが奪格なのか与格のかはまだ分かりません。

訳が出そろったので、主語を決めます。嵐の気候が描かれているのは、中央にある山が描かれている空間と、女神がまとっている緑色の布のところです。この緑の布の裏から伸びて巻き付ている大きなツルがあります。これがsatis(植えられたもの)と考えられます。しかしこれ一本だけだと複数にはなりません。しかし、よく見てみると、お腹の方から別の奇妙なツルが下りてきています。これでsatisのこの絵での意味が分かりました。嵐はこのツルのところに描かれているので、奪格の処格用法が使われていると考えられます。そうすると、habeoは「彼女は身につけている」と考えればいいでしょう。もちろん主語の女神は省略されているとします。

まとめると、「彼女(女神)は、複数の植えられたもののところで、嵐の気候をまとっています。」となります。

satus

altera lucem cum croceis invecta rotis Aurora reducet, propositum repetemus opus:

この文章は本来の構造からして複雑です。altera invecta Auroraが単数女性の主格/呼格/奪格のまとまりになっていますが、これが主語となる句です。alteraは「もう一つの、別の」で、Auroraは「女神アウロラ、夜明け、もしくはその光、曙光」です。invectaは動詞inveho(運ぶ)の受動分詞で「運ばれている」つまり「乗っている」となります。invectaを囲むように配されているcroceis rotisは複数女性の与格/奪格のまとまりで「サフラン色の複数の輪」となります。サフランの色は、赤色、黄色、そして金色の場合がありますが、炎を表現する赤、光を表現する金どちらでもこの場面ではふさわしいですが、ここではとりあえず金色とします。つまり「黄金の車輪」を表します。invectaは受動分詞なので、この両脇の奪格crocis rotisがこの動詞の意味上の主語となりくっついているわけです。

cumは時を表す副詞か接続詞、奪格支配の前置詞です。前置詞とする解釈もできなくはないのですが、この節を副詞節とするための接続詞と考えた方がいいようです。lucemは名詞lux(光)の女性単数対格です。最後にあるreducetが動詞reducoの三人称単数未来で、reducoの意味は元の状態にすることを表す言葉です。動詞が未来形なので、文脈から主語の「別の夜明け」は「明日の夜明け」のことだと分かります。まとめると本来の意味は、「黄金の車輪に乗った明日のアウロラ(夜明け)が光を再び導いたときに、」となります。つまり「明日、」です。

主節propositum repetemus opusは三つの単語からなります。opusは中性名詞opus(仕事)の単数で主格/呼格/対格の可能性があります。propositumは動詞propono(示す)の完了分詞の複数属格か男性単数対格、中性単数の主格/呼格/対格の可能性がありますが、opusを修飾していると考えて、性数格はこれに一致します。repetemusは動詞repeto(繰り返す)の1人称複数の現在か未来です。副詞節が未来だったので、これも現在ではなく未来になります。まとめると、「(明日)、示していた仕事(狩り)を繰り返そう」となります。

以上の構造を踏まえて、この絵に相応しい意味を考えてみます。やはり、一番分かりやすいのはcroceis rotisです。この句がまさにこの絵の中で女神が指輪のちりばめられた服を着ている根拠となるでしょう。invehoの別の意味を調べてみると、apportare(引き起こす)があります。つまり、croceis invecta rotisは「複数の黄金の輪によって引き起こされた」と解釈できます。これが主語auroraを修飾しているわけです。

そう思ってこの絵を眺めると、女神の周りに淡い光が漂っているのが分かります。特に足の左右にある白い服の襞です。足の上に掛かっている部分は光の色か透けて見える肌の色か判別が難しいのですが、その横の服だけが描かれている部分では明らかに服が光を帯びています。夜明け直前のような淡い光です。auroraは「夜明け」だけでなく、その光「曙光」も表すので、これでいいでしょう。当然この光は夜明けの光そのものではなく別の光なので、この描写にaltera(別の)も表現されています。lucemの意味がluce(光)だと、曙光と意味が重なってしまうので、splendore(輝き)の意味とします。reducoはこれも「再び導く」でいいでしょう。動詞が未来形なので、将来そうなっていこうとする予兆が描かれていると考えれば、あまりよく分かりにくい光の表現も納得できると思います。

aurora

次に、propositum repetemus opusです。propositum opusは「先に提示したもの」というわけですが、この絵だと、指輪のことだと考えるとうまくいきます。前の文に出てきたのは複数の指輪ですが、これは服に付いている指輪全体のことです。そしてそれを三つや四つからなるかたまりが構成しています。この三つもしくは四つの指輪を繰り返して並べた図形のことを、この文が表していると考えます。繰り返すという表現は、服に同じ模様を散らばらせる行為よりも、規則的に並べる行為を表していると考えたほうがいいでしょう。ところでこの動詞は本来の訳では未来形ですが、さっき述べたとおり現在形でも解釈できます。図形は既にたくさん描かれているので、これは現在時制でしょう。それからこの文は1人称複数ですが、主語は絵を描いた本人ボッティチェリと絵の内容を細かく考えた人物のこととします。

しかし、二つ目の節を現在を表す短文にしてしまうと、前の文を副詞節にしているcumの解釈も変えなくてはいけなくなります。cumを奪格支配の前置詞とすると、cum croceis invecta rotisがひとまとまりになります。「黄金の指輪に引き起こされたものを伴った」と解釈できます。主語はaltera Auroraだけになって「別の夜明けが」となります。修正はこれだけで、あとはさっきと同じです。

まとめると、「複数の黄金の指輪に引き起こされたものを伴った別の夜明けが輝きを再び導くだろう。私たちは先に示したもの(黄金の指輪)を繰り返す。」となります。

nunc Phoebus utraque distat idem meta

本来の解釈は次の通りです。nuncは副詞で「現在」という意味です。Phoebusは太陽神としてのアポロンの別名です。これは男性名詞単数の主格でこの文の主語になっています。utraque distat idem metaは数行前に出たmeta distabat utraqueに近い表現です。distatがこの文の動詞で、disto(離れている)の三人称単数現在、utraqueは代名詞uterque(それぞれ)の女性単数の主格/呼格/奪格か中性複数の主格/呼格/対格のどれかで、metaは女性名詞単数の主格/呼格/奪格です。uterqueはmetaを修飾していると考えます。このmetaの意味が特別で、日の出日の入りのそれぞれの地点となります。idemは「同じ」の意味の代名詞ですが、ここでは動詞distatを修飾する副詞として使われています。まとめると、「いまや太陽神は東西から同じように離れている。」となっています。太陽が一番高いところにあるということです。

この文章を別の意味で考えていきます。まずPhoebusという固有名詞が難敵です。Phoebusが表すアポロンというのはアルテミス(ディアナ)の双子の神で、月の女神としてのアルテミスにはこれによく似たPhoebeという別名があります。最初ここから攻めてみましたが、徒労に終わりました。次に語源を考えてみました。Phoebusは古典ギリシャ語Φοῖβοςに由来します。さらにこの固有名詞は形容詞φοῖβοςに由来します。これを調べると、luminoso(明るい、光を発する)、splendente(光り輝く、輝かしい)の意味があります。確かに、光を発する者だから、太陽神です。では、この絵の中で光を発するものはというと、いろいろあります。金の指輪を服にちりばめた女神もそうですが、その一つ一つの指輪だってそうです。以前解釈したようにケンタウロスの下にある金色の草も、「光を発するもの」と呼べるでしょう。これだけではまだどれか確定できません。

utraqueとmetaは前回の解釈と同じように、仮に陰嚢と円錐にしてみます。しかし今回は順番が違います。queが付いている単語はその前にある単語と結びつくので、metaではなくPhoebusと一緒にならなくてはなりません。つまり、Phoebus utraqueがひとまとまりになり、主語になります。しかしそうなると問題が発生します。動詞distatは三人称単数なので、主語と動詞の文法的数が合わなくなってしまいます。したがってutraqueは陰嚢ではなく、本来通りmetaを修飾する形容詞としたほうがいいでしょう。

ではmetaがcono(円錐)だとすると、複数の円錐が描かれていなくてはいけません。しかしよく探してみましたが見つかりません。違う意味を探すと、metaには他にpiramide、paracarro、colonnettaなどがあります。その中のpiramideならば、この絵にはいくつでも描かれています。指輪に飾られている宝石がまさにpiramide(角錐)です。そうすると、phoebusは金の指輪になります。つまり宝石の部分がどれも一番外側にある配置がこの文に対応する描写となります。三つの指輪からなる図形も、四つの指輪からなる図形も、この規則で並んでいます。

まとめると、「輝くもの(指輪)がそれぞれの角錐(宝石)から同じように離れている。」となります。

finditque vaporibus arva.

queは前の文とつなげる接続詞です。finditは動詞findo(分ける)の三人称単数現在、vaporibusは男性名詞vapor(蒸気、熱気、熱)の複数の与格か奪格、arvaは中性名詞arvum(平野、牧草地)の複数の主格/呼格/対格です。この部分の本来の意味は「平野が熱によって裂けている。」となります。つまり太陽が真上から照り付けて、暑さで地面がひび割れているという状況を表しています。もちろんこの様子はこの絵には見つかりません。

そこで違う意味を調べます。イタリア語のvaporeには、複数で用いて、薄い霧や靄(もや)という意味があります。それを踏まえて絵の中を探すと、ケンタウロスと女神の間の空が下が白く上が青く分かれている部分が見つかります。このあたりにこの文の表現がないか考えてみます。この右横にある女神がまとっている緑の布は、草原と呼べるかもしれません。緑色をしています。蔓草も生えています。そして、ちょうど霧のある部分の横に、裂け目と呼べるものがあります。vaporは場所を表す奪格とすればいいでしょう。

vaporarvum

まとめると、「そして薄い霧のところで草原(緑の布)が裂けている(ようにみえる)。」となります。

sistite opus praesens nodosaque tollite lina!

アクタイオンの台詞の最後の部分です。この本来の意味は次の通りです。sistiteは動詞sisto(やめる)の二人称複数の命令法現在です。opusは中性名詞opus(仕事)の単数対格で、praesensはその名詞を修飾する形容詞praesens(今の)の単数対格です。nodosaque tollite linaがもう一つの文で、queで前の文に連結しています。この文の動詞はtolliteで、動詞tollo(持ち上げる)の二人称複数の命令法現在です。linaは中性名詞linum(麻、糸、網)の複数対格、そしてnodosaはlinaを修飾する形容詞です。nodosaは形容詞nodosus(たくさんの結びのある)の中性複数対格です。意味は「今の仕事を止めて、結び目の多い網を取り外そう!」となります。

もちろんこの通りの様子はこの絵の中には描かれていません。しかし、このラテン語の通りの記述はこの絵の中に見つけることができます。二つの文のうち後の方を調べていて、どこの描写かわかりました。linumにはvela(帆)という意味があります。帆と言えば、ケンタウロスと女神の間に浮かんでいる船です。以前アルゴ船と間違えてしまった船です。小さく描かれていますが、この船は帆船です。nodosusはimbrogliatoとします。imbrogliatoの意味には「欺かれた、込み入った、もつれた」があります。よく見ると帆の片側では向こう側の景色が見えています。理由は分かりませんが、帆が片側によっているのでしょうか。したがってnodosus linumを「込み入った帆」と解釈します。

linumnodosus

しかしこれでは単数にしかなりません。そこで、もう一つのlinaを探します。すると舳先の人影の仕草が奇妙に見えてきます。彼は二又の棒を持って、向こう岸の線を持ち上げようとしています。この描写を表すためには、linumの意味をfune(大綱)とします。nodosusの意味をimbrogliatoの「欺かれた」とします。この線は見ている者全てを欺こうとしています。したがって、もう一つのnodosus linumは「欺かれた大綱」とします。tolloの意味は帆に対しても、大綱に対しても、「上げる」でいいでしょう。解釈は「込み入った帆と欺かれた大綱をあげなさい!」となります。

今度は前の文です。動詞sistoには、innalzare(上昇させる、掲げる)という意味もあります。名詞opusの意味はstrumento(道具)を使います。praesensはefficare(有効な)とします。すると、sistite opus praesensは「有効な道具を掲げなさい!」となります。これは舳先の人影が持ち上げている二又の棒のことです。単数なので、道具はこれ一つで問題ありません。ところで、向こう岸の線をどうして舳先の人物は持ち上げているのでしょうか。思いつく答えとして、彼らはこの線が帆を完全に揚げるのを邪魔していると考えているのではないでしょうか。したがって、この道具を使って大綱を上にあげれば、帆の右側から邪魔なものがなくなり、帆はあがった状態と区別がつかなくなります。つまり、この道具一つによって帆を上げることができると考えているのでしょう。

したがって、「有効な道具を掲げなさい、そうして欺かれた大綱を持ち上げ、込み入った帆をあげなさい!」となります。

iussa viri faciunt intermittuntque laborem.

この文の本来の意味は、上記のアクタイオンの昼になったので今日の狩りはやめようという命令を受けて仲間の狩人がとった行動です。faciunt intermittuntqueは、二つの動詞がqueで結び付いています。faciuntは動詞facio(実行する)の三人称複数現在、intermittuntも動詞intermitto(中止する)の三人称複数現在です。faciuntの目的語はiussaで、これは中性名詞iussum(命令、言葉)の複数対格です。intermittuntの目的語はlaboremで、これは男性名詞labor(仕事、労苦)の単数対格です。主語はともにviriで、これは男性名詞vir(人、男)の複数主格となっています。意味は「人々は命令を実行し、仕事を中止しています。」となります。

この絵に合わせた解釈は本来のものとほとんど変わりません。今回それを先に示すと、「ある者たちは命令を実行している。そしてある者たちは仕事を中止している。」となります。

この絵ではどう描写されているかですが、これはあまりにも細かく描かれているのでちょっとわかりにくいです。舳先と船尾、マストにいる人影は作業ををしているように見えます。彼らは命令を実行している人たちです。それ以外の人影は突っ立っていたり首を曲げ疲れているように見えます。彼らは仕事を中止している人たちです。

 

今回はここまでです。



posted by takayan at 23:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | パラスとケンタウロス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月20日

《パラスとケンタウロス》と『変身物語』(5)

今回は次の8行です。この絵に新しい登場人物が出現します。

Vallis erat piceis et acuta densa cupressu,
nomine Gargaphie succinctae sacra Dianae,
cuius in extremo est antrum nemorale recessu
arte laboratum nulla: simulaverat artem
ingenio natura suo; nam pumice vivo
et levibus tofis nativum duxerat arcum;
fons sonat a dextra tenui perlucidus unda,
margine gramineo patulos incinctus hiatus.

最初の行から、素晴らしい言葉遊びです。

vallis erat piceis et acuta densa cupressu,

本来の意味を調べます。まず構造の情報として、vallisは女性名詞vallis(渓谷、谷)の単数主格/呼格/属格か複数対格。eratは動詞sum(ある)の三人称単数未完了過去。pieceisは女性名詞picea(スプルース、トウヒ、蝦夷松)の複数与格か奪格。etは接続詞。actutaは形容詞acutus(鋭い)の中性複数の主格/呼格/対格か女性単数の主格/呼格/奪格。densaは形容詞densus(濃い、密集した)の中性複数の主格/呼格/対格か女性単数の主格/呼格/奪格。cupressuは女性名詞cupressus(糸杉)の単数奪格。

これらをまとめていきます。主語はvallisで、動詞はeratです。形容詞densaは女性単数主格で主語を修飾しています。piceisは複数奪格、cupressuも単数奪格で女性単数奪格の形容詞acutaによって修飾されています。そして接続詞etは奪格のpiceisとcupressuを等位で結んでいます。これらの奪格は密集している内容を示していて、「スプルースと鋭い糸杉が茂っている渓谷があった。」となります。この文は、まださらに続きますが、絵に合わせた解釈では、ここで区切って考えます。

さて、絵の中での意味です。まずこの絵には渓谷が描かれていません。ここではvallisは谷を意味しません。日本語や英語に訳された『変身物語』をいくら詳しく読んでも、これ以上先には進めません。しかし自分でラテン語の単語を調べてみると面白い表現が見つかります。vallisという変化形になるのは、vallis(谷)の他にいくつかありますが、中性名詞vallumの複数与格/奪格もvallisとなります。この単語vallumにはイタリア語でpalizzate(柵)という意味があります。柵はまさに女神の右横に描かれているものです。そしてpiceisがこれを修飾します。piceisは形容詞piceus(松脂の)の中性複数の与格か奪格です。柵のところに松脂そのものは描かれていませんが、「松脂色の」と考えればこの柵の色となります。

vallis

しかしvallisのこの解釈を採用すると、問題が一つ起きます。主語であるvallisが与格か奪格になってしまうので、代わりの単数主語が必要になります。候補としてはacutus(鋭いもの)かacutus densus(密集した鋭いもの)です。これだけでははっきりしませんので、少し先を調べてみます。

cupressusは糸杉です。ここにはどうやら描かれていないようです。しかし辞書を見ると、とてもいい意味が見つかります。cupressusそれだけで「糸杉でできた槍」を表します。この絵には見落としようのない立派な槍が描かれています。何故糸杉と槍が関係があるのかというと、『変身物語』10巻にキュパリッソス(Κυπάρισσος)の悲しい物語があります。彼は可愛がっていた鹿を誤って投げ槍で殺してしまいました。彼はその悲しみのために、いつまでも嘆き悲しむことを望み、やがて彼の姿は糸杉に変わってしまいました。所有から材料へ変わっていますが、この物語が糸杉と槍を結びつけられた由来であると思います。cupressuは単数奪格なので、処格的用法と見なし、「糸杉の槍のところに」という意味で使えます。

cupressus

acuta densaもしくはその一部が主語となるはずですが、それが何を表しているかを理解するために、この文の構造の可能性を考えてみます。etという接続詞の存在から、cupressuと同様にvallis piceisも奪格となります。動詞がeratなので、これらの奪格が主語の存在する場所を表していることになるでしょう。つまり、acuta densaとは柵と槍に共通する何かということになります。

acutusは「aguzzo(鋭い)」という意味ですが、これは工夫しなくても、柵にも槍にも描かれています。柵は縦の板がことごとく折れ、その先が鋭くなっています。槍は当然先端が鋭いですが、この槍には片方が鋭い斧の刃のようなものが横から取り付けられています。一方のdensusですが、denso(濃い、密集した)という意味では柵にも槍にも描かれてないようです。他の意味を探すと、その中にcontinuo(連続した)、fitto(打ち込まれた)があります。柵は尖った切り口の板がいくつも並んでいるのでcontinuoという言葉で表現できます。槍の先端付近には、片側が尖った斧の刃のようなものが横から打ち込まれているようなので、fittoとなります。

そして動詞eratです。これは直説法能動態三人称単数未完了過去です。Botticelliの他の神話画の解釈では未完了過去が不完全な描写になっていました。これもそうなっています。柵の板の中で、一番背が高いものの先端は微妙ですが、丸みを帯びたような描写になっています。槍に関しては、もっと分かりやすく反対側の斧の刃のようなものが丸みを帯びている描写が不完全さを表しています。

まとめると、「連続した鋭いものが松脂色の柵のところに不完全にある。打ち込まれた鋭いものが糸杉の槍のところに不完全にある。」となります。

nomine Gargaphie succinctae sacra Dianae,

この文の本来の意味を調べます。nomineは中性名詞nomen(名前)の単数奪格です。gargaphieは女性単数の主格/呼格/奪格です。地名のガルガフィエ渓谷のことで、上の行に出てきたVallisとそのものです。この節全体がこの渓谷の説明となっています。succinctaeは動詞succingoの完了分詞で女性単数の属格か与格もしくは女性複数の主格か呼格です。この意味はディアナ(アルテミス)の特徴である帯をしめた姿を表す形容詞です。この語は少し後ろのDianaeを修飾しています。Dianaeは女性名詞の単数の属格か与格もしくは複数の主格か呼格ですが、ディアナは一人ですから、succinctae Dianaeは単数属格か単数与格です。形容詞sacer(宗教的な、神聖な、献げられた)の女性単数の主格/呼格/奪格、もしくは中性複数の主格/呼格/対格ですが、ここでは主語と同格の女性単数主格とします。この語は与格もしくは属格を伴って信仰の対象を表します。「(ここは)ガルガフィエという名前で、帯を締めたディアナに献げられている。」となります。

これを絵に合わせた解釈にします。Gargaphieという固有名詞の解釈がなかなか難しかったです。Gargaphieは本来ここでは地名として訳されますが、ギリシャ神話でΓαργαφία(ガルガフィア)はこの地に住むニンフの名前も意味していました。彼女は河神アソポスの娘で泉の精です。この絵を見て以前から疑問に思っていたものがあります。それは女神の右側、槍との間にある顔のような描写の存在です。下書きが透けて見えているのだろうかと思っていましたが、やっと意味が分かりました。ここまで計算ずくで描かれた絵でこのような過失を起こすわけがありません。彼女が泉の精ガルガフィエです。

Gargaphie

nomineは名詞nomenとしてではなく、まれに使われる副詞nomine(nominally)とします。Gargaphieはsacraに結びつきます。sacerの意味でこの絵の中のGargaphieに合うものがなかなか見つかりません。しかし一つ英語でcelestial(天上の、空の)という意味を見つけました。調べるとラテン語のcaelestisの意味の一つに英語celestialがあります。《Primavera》のゼフュロスの解釈の時にラテン語caelestisから空色(イタリア語のceleste)を導いたことを思い出しました。確かにガルガフィエは空と同じ色をしていますから、その存在が分かりにくかったのです。したがってラテン語scaerから英語のcelestialが導かれるので、さらにここからceleste(空色)も導けるはずです。つまり、もはや翻訳ではありませんが、sacerはceleste(空色)に変換できます。

Dianaeはsuccinctaeと結びついていますが、succinctusの意味はディアナの描写の中にいろいろ見つかります。イタリア語に訳すとsuccinto、cortoとなります。succintoは服の用語としてあるようですが、それではなく、cortoの「短い、不足している」の意味を使います。彼女の袖は少し短くなっています。彼女は肘のところを金色の針金のようなベルトで長すぎる袖をたくしあげ固定しています。Oxford Latin Dictionary(OLD)のsuccinctusには「having one’s clothes gathered up by a belt, girdle, or sim.」とあり、腕はこの意味の描写となります。OLDにはまた「(of trees) bushy-topped」という意味も載っています。実際、女神の頭に巻いてある蔓から葉が伸び外へと広がっています。彼女は高く帯は締めていませんが、まさにsuccinctusなディアナが描かれています。

succinctus

この文には動詞がありませんが、動詞eratが省略されているとします。もちろん未完了過去なのでこの絵では不完全な描写です。そして与格のDianaを所有の与格であるとします。まとめると、「空色のガルガフィエを腕をまくったりしているディアナが名ばかりで(不完全に)伴っている。」とします。

cuius in extremo est antrum nemorale recessu arte laboratum nulla

これは関係節で、cuiusは関係代名詞quiの単数属格です。先行詞は単数の女性名詞なのでVallis、cupressu、Gargaphie、Dianaeの可能性があります。まだ分からないので保留とします。

前置詞inは対格か奪格を支配します。extremoは形容詞extremum(最後の、端の)は単数の与格か奪格です。これはinの目的語を修飾している形容詞かもしれません。estは動詞sumの三人称単数現在です。antrumは中性名詞antrum(洞穴、岩屋、岩)の単数の主格/呼格/対格です。もしかするとinは奪格支配ではなく対格のこれかもしれませんが、単数主格なので主語の可能性が高いでしょう。nomeraleは形容詞nemoralis(森の)の中性単数の主格/呼格/対格か単数奪格です。recessuは男性名詞recessus(奥)の単数奪格です。これとextremoが結びつきそうです。arteは女性名詞ars(技術、芸術、人工物)の単数奪格です。laboratumは動詞laboroの完了分詞の中性単数の主格/呼格/対格か男性単数対格もしくはスピーヌムの中性単数対格です。nullaは形容詞nullasの女性単数の主格/呼格/奪格か中性複数の主格呼格対格ですが、arteを修飾しているので女性単数奪格となり、合わせてlaboratumを修飾して行為者を表しています。arte laboratum nullasは、否定語のnullaが付いているので、「人工物ではない、つまり自然が作り出した苦心の作である」という意味になります。

全体の単語を見通すと、inの目的語は奪格単数のexteremo recessuのようです。そしてこれが関係代名詞cuiusに修飾されていて、その先行詞はVallisだと分かります。この関係節の主語はantrumで、これがnomoraleとlaboratumから修飾されています。まとめると、「その谷の最も奥には森で覆われていて、人が作った物では無い苦心の作である洞窟がある。」となります。

さて、これをこの絵に合わせて解釈してみます。まず、antrumについてです。ケンタウロスの後ろにあるのは、彼の足下では隙間は見えていて「洞窟」のようにも見えますが、上の方で繋がっているとは断定できません。しかし「岩」ではあるので、その意味では確かにantrumです。またnemoralisの「森の、木の」は使えませんが、意味を「木のような」と考えるとうまく行きます。ケンタウロスの後ろの岩は、見えない部分で繋がっている可能性はありますが、手前と奥で二つに分かれているように見えます。そして奥の方の岩が上の方に広がっていくようになっていて、木と呼べなくもない形をしています。手前の岩も上に行くほど大きくはなっていますが、それほど広がっていません。そもそもantrumは単数なので、奥の岩だけで十分です。antrum nemoralisを「木のような岩が」と解釈できます。

antrumnemoralis

主語がこの奥の岩だと分かると、他の言葉の意味も分かってきます。in extremo recessuはそのまま「最も奥に」でも問題ありませんが、extremoには「端の」という意味もあるので、それを使ったほうがこの絵の状況に似ています。つまり「端の奥に」とします。arte laboratum nullaも誰かが積み上げたようにも見えますが、確かに本来の意味通り、人工の物ではなく自然が作り上げた物のようです。あとは先行詞です。この岩の前にはディアナの右手がかかっていて、確かにディアナの端の奥にあります。つまり、先行詞をディアナにするとうまくいきます。

したがって、この文は「ディアナの端の奥に人が作った物ではない木のような岩がある。」となります。

simulaverat artem ingenio natura suo;

simulaveratは動詞simulo(真似る)の三人称単数大過去です。artemは女性名詞ars(人工、芸術)は単数対格です。ingenioは中性名詞ingenium(本性、才能)の単数与格か奪格です。naturaは女性名詞nature(自然)の単数の主格/呼格/奪格です。suoは所有代名詞suusの単数の男性/中性の与格/奪格です。主語となるのはnatureしかありません。suoはingenioを修飾しています。したがって、「自然はその才能によって人工を模倣していた。」となり、洞窟の見事さについての補足説明となります。

絵に合わせた解釈です。まずここでsimulaverat artemという言葉から、この作品が過去の芸術作品を模倣している事実を表現しているのではないかと考えました。実際Botticelliの神話画は、古代の名作をリスペクトし、さらにそれを超える作品を作ろうとしています。この作品においても、パウサニアスが『ギリシャ案内記』で書いているプラクシテレスの作ったアルテミスと牡鹿(獣)からこの作品の構図を得、それを発展させたものではないかと以前導きました。artemはこのことを記述していると解釈できるかもしれないと思いました。しかし主語はnatureもしくは省略された三人称とならなくてはいけません。それだとうまくいきません。

そこでこれは諦め、次にケンタウロスの顔から、ラオコーン像を模倣したのではないかと考えました。この場合、主語をケンタウロス自身とすれば、ケンタウロスが自分の意志で自分の表情をラオコーンに似せているとできます。artemのあとで文を切り、そこから3語を別の文とする必要があります。しかし、うまい具合に、natureは生殖器の意味があり、格も奪格とみなせます。suoは動詞suo(縫い合わせる、一緒にする)の一人称単数と解釈することができます。主語をケンタウロス自身とすれば、いかにして彼は自分の腰から下に馬の足を持ったかを告白する文と解釈でき、また主語をBotticelli自身とすれば、これを描いたことの宣言と解釈できます。

この解釈はとても見事に描写に適合したので、これ以上確認することはしていませんでした。しかし記述と描写においては大きな問題は無いのですが、歴史的な事実からすると大いに問題がありました。ラオコーン像はBotticelliの生きていた時期に発見されましたが、それは1506年でした。1480年代とされるこの絵の制作時期と大きくずれています。また神話画の古典語による言葉遊びを考えたであろう依頼者のLorenzo di Pierfrancesco de' Medici及びその弟Giovanniは既に亡くなっています。つまりラオコーン像を考慮に入れた言葉遊びは不可能ということになります。自分で指摘しておきながら、この解釈が成立する可能性はとても小さいと思います。

ではこの行は何を意味しているのでしょうか。先ほど指摘したnatureが生殖器官という訳は使えそうです。以前指摘したように、ケンタウロスには陰嚢が描かれています。この意味にするとnatureを主語にはできません。おそらく場所を表す奪格です。代わりの主語は彼、ケンタウロスとします。この付近は以前も観察しました。ここにarsが描かれているかもしれないと思って眺めてみると、以前は気付きませんでしたが、踊っている女性のような姿が見えました。arsは複数形の時、le Muse(ムーサイ)を表すことがあります。ここでは単数なので、彼女たちの一人を表すと考えます。最後のsuoはその奪格のingenioを修飾していると考えます。動詞は大過去なので、この位置に並ぶずっと前にケンタウロスが作っていたのでしょう。

ars

まとめると、「彼は生殖器のところで彼の才能によってムーサを真似していた。」となります。他のに比べてもちょっと苦しいです。もっと解像度の高い画像が手に入れば、もっと分かりやすい解釈が見つかるかもしれません。

nam pumice vivo et levibus tofis nativum duxerat arcum;

namは接続詞です。「一方で、例えば」などの意味です。pumiceは男性名詞pumex(軽石、石、岩場)の単数奪格です。vivoは形容詞vivus(生きている、活発な、自然の)の単数与格か奪格です。etは接続詞。levibusは形容詞levis(軽い、機敏な)の複数与格か奪格です。tofisは中性名詞tofus(凝灰岩)の複数与格か奪格です。nativumは形容詞nativus(自然の)の男性単数対格か中性単数の主格/呼格/対格です。dexeratは動詞duco(引き出す、導く、考える)の三人称単数過去完了です。arcumは男性名詞arcus(弓)の男性単数対格です。

pumex vivoは男性単数奪格、levibus tofisは中性複数奪格で、それらがetで結びついています。nativum arcumは男性単数対格で、これが動詞dexeratの目的語になっています。それぞれの意味はpumex vivoが自然の軽石で、levibus tofisが軽い凝灰岩です。nativum arcumは天然の弓状のもの、つまりアーチです。動詞ducoの意味が難しいですが、ここでは「描く」とします。つまり、「例えば、自然の軽石と軽い凝灰岩から天然の弓を描き出した。」となります。自然が作り出した人工的な物の具体例として、洞窟のアーチを示している記述です。

この記述がどこを描いているかは分かりやすいです。構造はそのまま使えます。pumex vivoは「生きている岩」とします。軽石のような穴はありませんが、たくさんのヒビがあり、そして天辺に生命である草の生えている岩場があります。ケンタウルスの頭から上の岩場です。levibus tofisのlevibusは活用が違う別の形容詞levisの意味を使います。これにはliscio(滑らかな)という意味があります。つまり「滑らかな凝灰岩」とし、さっきの岩のヒビの少ない滑らかな下の部分とします。これらが場所の奪格とします。arcumはそのままケンタウロスが持っている弓のこととします。

duco

そしてducoの意味をallettareとします。このイタリア語には同じ綴りの別の言葉があります。ducoの意味としては「誘う、引きつける」のallettareなのですが、もう一つのものは「床(とこ)に付かせる、(雨風が穀物を)折り曲げる、倒す」というallettareです。雨や風で植物が倒れたり、地面に付くほど折れ曲がってしまうことを表しています。本来は植物が鋭く曲がって頭が地面に付いている様子の表現ですが、明らかに違う意味で曲がって地面に付いている姿を描いています。最後に主語は形容詞nativumを名詞化したものとし、ケンタウロスを指しているとします。意味としては、野生の姿をしているのでnatulale(自然の)、もしくは彼は孫の死を悼むカドモスなのでoriginario(最初の、昔の)という意味が使えます。

まとめると、「一方で、生きている岩と滑らかな凝灰岩のところで、生まれたままの姿の者(ケンタウロス)は弓を曲げ地面につけていた。」となります。

fons sonat a dextra tenui perlucidus unda,

fonsは男性名詞fons(泉、噴水)の単数主格か呼格です。sonatは動詞sono(音を作る、話す)の三人称単数現在です。aは奪格支配の前置詞です。dextraは形容詞dexter(右の)の女性単数の主格/呼格/奪格か中性複数の主格/呼格/対格です。もしくは女性名詞dextra(右、右手)の単数の主格/呼格/奪格です。tenuiは形容詞tenuis(微かな、薄い)の単数の与格か奪格です。perlucidusは形容詞perlucidus(透明な)の男性単数主格です。undaは女性名詞unda(波、流れ)の単数の主格/呼格/奪格です。この文の動詞はsonatで主語はfonsです。perlucidusは男性形なのでfonsと結びつきます。tenuiはundaに結びつき奪格であることが確定します。したがって本来の意味は「右の方では透き通った泉が微かな波によって音を立てている。」となります。微かな波を起こしながら湧いているとても澄んだ泉のせせらぎが聞こえる様子の記述です。

fonsという言葉でこれがどこを表しているのかすぐに分かります。先ほど出てきたガルガフィエは泉のニンフだからです。残念なことにfonsは男性名詞なので対策が必要です。ガルガフィエの顔の上の方には棒状の物が見えてみます。それから顔の下には直線の台状な物が見えています。このことから、これはガルガフィエの彫刻のある噴水ではないでしょうか。ガルガフィエは泉のニンフなので、ここにとても相応しい存在です。そう考えれば、女性名詞のガルガフィエでありながら男性名詞となり得ます。このガルガフィエの噴水は確かに透明に描かれています。そして確かにディアナの右に描かれています。それから、ディアナが背負っている物の横にある今まではディアナの髪の一本一本の髪の毛だと思っていた物が、微かな波だったことが分かります。

unda

ここまではとても順調にこの文の記述を絵の中に見つけることができました。問題はsonatです。この描写は音を立てているようにも、誰かが話しているようにも見えません。そこでイタリア語を使います。ラテン語sonatの見出し語形はsonoです。イタリア語のsonoはessere(ある、いる)の一人称単数現在か三人称複数現在です。ラテン語のsonatは三人称複数なので、残念ながら人称と数が一致しませんが、ここは意味だけを借りて人称と数はラテン語の解釈通りにします。このようにすれば、sonatを「ある」に変換できます。

まとめると、「右側には透明な(ガルガフィエの)噴水が微かな波とともにある。」となります。

margine gramineo patulos incinctus hiatus.

この行はfonsを修飾している分詞句です。margineは名詞margo(端)の単数奪格です。gramineoは形容詞gramineus(草の)の男性/中性の単数の与格/奪格です。patulosは形容詞patulus(広い、開いた)の男性複数対格です。incinctusは動詞incingo(冠をかぶせる、巻き付ける、まとう)の完了分詞の男性単数主格です。hiatusは男性名詞hiatus(穴、割れ目)の単数主格か属格もしくは複数主格か対格です。形容詞gramineoは名詞margineを修飾して、margine gramineoは単数奪格の「草の端」となります。形容詞patulusは名詞hiatusを修飾して、patulos hiantusは複数対格の「開いた割れ目」です。これらの中心に完了分詞incinctusがあります。そして動詞としてのこの語にそれぞれのまとまりが結びついています。難しいのがpatulos hiantusです。これは限定の対格と呼ばれる用法で、まとっている場所を示しています。まとめると、「(その泉は)開いた割れ目のところを草の端によってまとわれていた」となります。大きな裂け目ができていて、その穴の周りの縁の部分に草がぐるりと茂っているという描写です。

この記述を知って、この絵を見てみます。「草の端」は後ろの岩の一番上の段に見えています。これを手がかりにこの絵に合わせていきます。この岩にはいくつもの裂け目が入っています。そしてその裂け目そのものは草に縁取られていません。草に縁取られているのは、裂け目ではなく、裂け目のある岩となっています。微妙に解釈を変える必要があります。patulosには比喩表現としてbanaleという意味があります。この意味は「平凡な、ありふれた」です。本来の記述が表しているような美しい裂け目ではなく、この岩にあるのは、まさにありふれたものです。つまりこの二語は「いくつものありふれた裂け目」となります。そして限定の対格ではなく、目的語そのものとします。したがって、patulos incinctus hiatusは、「いくつものありふれた裂け目をまとっていた」となります。そして、margine gramineoを随伴を表す奪格とみなすことで、裂け目ではなく、それをまとった岩に草をかぶらせることができます。

まとめると、「そして(岩は)草の端とともにいくつものありふれた裂け目をまとっていた。」となります。

patuloshiantus

これで2年前に解釈できた行につながります。今回もこの絵の謎の描写が一つ一つ明らかになっていきました。柵がことごとく折れてる理由も、槍の奇妙な付属物の理由も分かりました。ケンタウロスの後ろにある岩の説明もいろいろありました。それから、やっとガルガフィエの登場です。実のところ彼女はアクタイオンよりも先に見つけていました。これも高解像度の作品が手軽に見られるGoogle Art Projectのおかげです。彼女の存在を説明しうる唯一の解釈が、アクタイオンの物語を使ったこの言葉遊びです。

こじつけ感は否めませんが、こじつけだけで現時点の31行も連続してこの絵に合わせられる偶然はないと思います。こじつけ感は当然です。だってこじつけで本来の意味から別の意味を作り出して彼が描いたのですから。



posted by takayan at 02:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | パラスとケンタウロス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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