2011年09月02日

《ヴィーナスとマルス》 解釈の準備

《プリマヴェーラ》(Primavera)、《ヴィーナスの誕生》(The Birth of Venus)、《パラスとケンタウロス》(Pallas and the Centaur)とボッティチェリ(Botticelli)の神話画について独自の解釈を行ってきました。今回は残っていた《ヴィーナスとマルス》(Venus and Mars)です。いままでと同じ手法で解釈してみることで、以前示した《プリマヴェーラ》の解釈が何も特別なものでなかったことを明らかにしようと思います。ボッティチェリであっても神話画の基本は、やはり文章の記述そのものだったということを示そうと思います。

この《ヴィーナスとマルス》の画像を確認したい場合は、次のリンク先にある画像をクリックしてみてください。さらにクリックすると、高解像度版が開くので、細部まで詳しく眺めることができます。
Venus and Mars (Botticelli) - Wikipedia, the free encyclopedia

以前書いた《プリマヴェーラ》や《パラスとケンタウロス》の解釈では、従来の解釈とは女神が違っていると結論付けましたが、この絵においては女神が違っているとは言いません。彼女は愛の女神アフロディーテ(ヴィーナス)で、相手は軍神アレス(マルス)であることは否定しません。しかし、内容は違います。見てすぐ誰だか分かってしまうので、この絵をわざわざ調べようと思わなかったのですが、改めてこの絵も調べてみると、他のボッティチェリと神話画と同じくらい、とても興味深い絵だということが分かりました。登場する神々は一般的な解釈と同じですが、ここに描かれているのは従来とはまったく違ったものになります。

本題に入る前に、まず神々の呼び名を決めておきます。今回は、解釈の都合上、ギリシャ神話の呼び名で話を進めていきます。つまり、アフロディーテとアレスと呼ぶことにします。ローマ式とヴィーナスやマルスと呼んでもいいのですが、あとで引用する予定のギリシャ語との兼ね合いから、初めからアフロディーテと呼んでおきます。そのほうが分かりやすくなると思います。

ちなみに、ヴィーナスという名前はラテン語由来の Venus という言葉の英語読みのカタカナ化です。同じようにラテン語での読みをカタカナ化したものがウェヌスとなります。そしてギリシャ神話の名前はアフロディーテ(Ἀφροδίτη)となります。ラテン語で書かれたローマ神話が元になった話でヴィーナスを語る場合には、ウェヌスもしくはヴィーナスと呼ぶのが適切だと思いますが、ギリシャ語で書かれた物語が出典ならば、イタリア人の描く絵でもギリシャ語で名前を呼んだ方がしっくりくるでしょう。今回はそう書かせてもらいます。

それでは、絵の説明です。これは横長の絵です。向かって左側にアフロディーテがいます。足をゆったりと画面の右の方に伸ばしています。アフロディーテは普通は裸でいることで自分が何者であるかを誇示しているのですが、今回は金色の縁で飾られた白い服を着て、全身をそれで覆い隠してしまっています。胸元には、宝石の飾りがあります。中央に大きく透明な水晶のような丸い石があって、その周りを八個の小さな丸い真珠のような銀色の石がとり囲んでいます。他には髪にも装飾品はありません。アフロディーテは、画面左下にある金色の刺繍の入った薄赤いクッションに右ひじを乗せ体を支えています。左手は、長く伸ばした左足のひざのあたりに乗せています。伸ばした左足はずっと服の下にあるのですが、足首から先は裾から出ていて、なまめかしく草の上に置かれています。右足は服の下でよく見えないのですが、よく見ると左足の下をくぐっていて、左足のふくらはぎの向こう側に服に隠れた足先があります。彼女は向こうのアレスを見つめながら、何か物想いをしているようです。

アフロディーテの向かいには、アレスがいます。彼はバラ色の布の上で、口を半開きにしてぐったりと眠っています。戦いが終わって疲れ果てているのでしょう。アレスはアフロディーテと対照的に服は着ておらず、あるのは腰にかけてある白い布だけです。そしてアフロディテとは逆向きに、画面の右側に頭があって、左の方向に足を伸ばしています。アレスの背中にある布の下には鎧があります。アレスの上半身は、この鎧に背中と左ひじを乗せ、奥の大きな木に頭をもたれかけた姿勢になっています。右腕はだらりとして、右手は左ももの上に力なく乗っていてます。右手の人差し指はゆるく指をさすような形になっていて、その先にはアフロディーテの裸の足の甲があります。左に伸びているアレスの足はアフロディーテの太ももの近くまで伸びていますが、彼女の体には触れていないようです。右足の膝は立ててあり、その下を左足が通っています。左足のつま先には、薄赤い敷布の縁が包むようにかかっています。この薄赤の布はアレスだけのもののようで、アフロディーテの体は乗っているように見えません。

この絵にはアフロディテとアレスのほかに、4人のかわいらしい子供のサテュロス(Satyrus)がいます。額に白く短い2本の曲がった角があり、山羊のような蹄のある茶色の毛で覆われた動物の足をしています。ふつうアフロディテのそばにいる子供といえば、背中に羽のあるエロス(キューピッド)のはずですがここに彼はいません。子供のサテュロスたちはそれぞれ思い思いの子供っぽい無邪気な仕草をしています。

アフロディーテとアレスの体のすぐ向こう側には体を右に向けている3人のサテュロスが並んでいます。その中のアフロディーテのすぐそばにいるサテュロスはアレスの方に向かって、アレスの持ち物だと思われる大きな兜をかぶって、それから馬に乗って使うような大きな金色の槍を構えています。兜も槍も子供の彼にはとても大きすぎます。兜は大きいので顔が完全に隠れてしまって、彼自身槍をどこに向けて狙っているのか分かっていないでしょう。一番左の彼は一生懸命両手で槍の柄を抱えているのですが、小さな彼には持ち切れないので、途中をもう一人のサテュロスが抱えています。

槍の中ほどを抱え込んでいる真ん中のサテュロスは、大またで尻尾を跳ね上げ、その槍で突撃していくかのような勢いで描かれています。前が見えない後ろのサテュロスに代わって、この真ん中のサテュロスが目標を見ているのかというと、そうでもありません。彼は振り返ってアフロディーテの顔を見つめています。

もう一人のサテュロスがさらにその右に描かれています。このサテュロスは、一見大きな槍を一緒に抱えているかのように並んで描かれているのですが、よく見ると違います。彼は槍のこちら側にいて、ホラ貝を両手で支えて吹いています。貝はアレスの耳元にあり、アレスを大きな音でびっくりさせてやろうとしているのでしょうが、アレスには起きる気配がまったくありません。

もう一人のサテュロスは三人とは全く違うところにいます。アレスの体の下にある鎧の中です。鎧の中に入っていて、やっとその中から這い出してきたばかりといった様子です。鎧の頭や腕を出す穴から体を出しているので、その鎧を着ているような感じになっていますが、小さなこの子には鎧は大きすぎて、左手は頭が出るところから一緒に出てきています。そういう描写がいちいち子供っぽいです。このサテュロスは一人だけ別なところにいて特異な存在ですが、薄い服を着ている点でも他の三人とは違っています。もしかすると女の子かもしれません。

この絵にはいくつか妙なところがあります。まず一つはアレスの頭が寄りかかっている木にある蜂の巣です。この蜂の巣は、しっかり見ないと見つからないくらい、わざと目立たないように描かれています。おそらく絵の中に描かれているどの人物もその存在が見えていないでしょう。この蜂はいかにも何かの象徴的なものにみえるのですが、よくわかりません。もうひとつ、アレスの左手の下にある鉄の棒のようなものです。何かの武器なのかもしれませんが、これもよくわかりません。

背景ですが、絵の向かって左側アフロディーテの上半身、そして絵の右側アレスの上半身があるところは、木の枝がぎっしりと上まで茂っています。左右の茂みの間の、絵の横幅の三割弱にあたる中央部分がひらけて、向こう側の景色が見えています。地平線まで草原が広がっていて、地平線の右側には緩やかな山が見えていて、それから青空が広がっています。

この絵は一般的には、字義通り、愛は武力よりも強いことを表していると解釈されます。さらに新プラトン主義的な解釈によると、官能的な愛ではなく、理性的な愛の勝利となります。戦いの神のアレスが裸でぐったり倒れているのに、着衣のアフロディーテがしっかり起きており、それが新プラトン主義の愛を体現するこのアフロディーテの勝利を意味しているというわけです。また蜂はヴェスプッチ家の紋章であり、これは依頼者を示すものだと言われます。この絵に関しても、新プラトン主義やフィレンツェの人間関係といった、《プリマヴェーラ》や《パラスとケンタウロス》の一般的な解釈で行われているものと同じ手法で解釈されています。

もちろん、今回もこの解釈は採用しません。新プラトン主義とメディチ家を中心としたフィレンツェの人間関係は、ボッティチェリの神話画を読み解くのに必要ありません。これは僕の解釈で一貫しているものです。

この絵を詳しく眺めてみて疑問に思うのは次の点です。(つまり今回わかったことです。)

  • どうして、いつもと違ってアフロディーテは裸ではないのか?
  • どうして、アレスは眠っているのか?
  • それぞれのサテュロスはいったい何をしているのか?
  • 右端の暗がりにいる蜂にはどんな意味があるのか?
  • アレスの右手の下にある棒は何なのか?
  • どうして、子供がエロス(クピド)ではなくサテュロスなのか?
  • そして、アフロディーテは何を思っているのか?

 

次回は、この絵の元となったと思われる文章を引用しながら、これらの問いへの答えと、絵に描かれている物語の新しい解釈を示していこうと思います。なお上に書いたこの絵の描写の解説は、それを踏まえた、解釈しやすい表現になっています。



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2011年09月04日

《ヴィーナスとマルス》 解釈(1)

それぞれが誰なのか、改めて考えみます。

まず、分かりやすい画面右で寝ている男性です。彼はアレスでいいでしょう。この絵の中にはいろんな武器や防具が配置されています。彼は現在、ほとんど裸で、どれも身につけてはいないのですが、これらは彼のものだと考えていいでしょう。神話の中で武具を持った男性が出てくれば、彼は戦いの神アレス以外に考えられません。

彼がアレスだと決まれば、左の女性はアフロディーテだと分かります。アレスには他にも子供を作った女性がいくらでもいるのですが、やはり最初に思いつくアフロディーテで問題ないでしょう。アフロディーテはもともとはヘパイストス(Ἡφαιστος)の妻であったのですが、アレスに乗り換えてしまいます。この話はここでは詳しく書きませんが、ホメロスの『オデュッセイア』に詳しく書かれています。オウィディウスの『変身物語』にも、短いですがヘパイストス(ウルカヌス)による二人への罠の話が書かれています。

それでは、この二人の周りにいる子どもたちはいったいなんでしょう。アフロディーテのそばにいる子供といったら、翼のあるエロスのはずですが、違います。彼らの額には二本の角があり、足は山羊の足です。この姿からおそらく彼らはサテュロスでしょう。大人のサテュロスは、本能のままの野蛮な性欲のかたまりの姿で描かれる存在ですが、ここに描かれているのは、まだ無邪気なだけの子供です。

彼らはやはりエロスの代わりの存在でしょう。性愛を示すエロスという言葉の意味だけ考えれば、サテュロスは置き換え可能な存在といえるでしょう。そう思って、この絵を見てみると、画面の一番左にいるサテュロスは、まさにエロスを表していることが分かります。なぜなら彼は目隠しをして、尖ったものを何かに突き刺そうとしています。これは『プリマヴェーラ』で描かれているエロスの特徴そのものです。もしかすると、兜の下の顔には角がないかもしれません。背中の翼は角度のせいで見えてないのかもしれません。毛むくじゃらの足のように見えるものも何か別のものなのかもしれません。

では、左端がエロスだとして、残りの三人は誰でしょう。エロスの友達?それとも兄弟?おそらく兄弟ではないでしょうか。アレスとアフロディーテの間には三人の子供がいます。ヘシオドスの『神統記』によれば、アレスとアフロディテの子供として、フォボス(Φοβος)、デイモス(Δειμος)、ハルモニア(Ἁρμονια)の三人です。ハルモニアは女神で、のちにカドモス王と結婚することになりますが、晩年は王ともども蛇となる運命にあります。

エロスもアフロディーテとアレスとの間の子供だとする話もありますが、アレスと付き合う前からエロスがいる物語もあって、そこらへんは定まってはいないようです。この絵の子供たちの毛の色を見ると、エロスだけがアフロディーテの髪の色に近く、残りの三人がアレスの髪と近い色になっています。この色の区別はエロスはアレスの子供ではないとするものかもしれません。

そういうわけで、この絵に描かれている神々は、アフロディーテ、エロス、アレス、フォボス、デイモス、ハルモニアではないかと推測できます。つまり、アフロディーテがヘパイストスと別れた後の、アレスとアフロディテ夫妻のほのぼのとした休日の一家の様子を描いてるのではないでしょうか?

 

次回は、この推測をより確実なものにしていきます。



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《ヴィーナスとマルス》 解釈(2)

それでは、この絵の出典を探してみます。

神話画にはたいてい元になった神話の記述があるはずです。以前解釈した《プリマヴェーラ》も結局そうでした。でも、アフロディーテ(ウェヌス)とアレス(マルス)が出てくる物語と言ったら、先ほど指摘した『オデュッセイア』や『変身物語』で描かれる密会するアフロディーテとアレスの話ぐらいです。それだと、前回推理したほのぼのとした絵とは全く違う内容になってしまいます。これでは困ります。他に何かないでしょうか?

そう思って探すと、ひとつ面白い話を見つけました。紀元前500年頃に活躍したギリシアの詩人アナクレオン(Ἀνακρέον)が書いたとされる詩です。

古典ギリシア語で引用すると次のようになります。

表示されないときは、このリンクで開く。

これだと分かりにくいので、英訳詩を示します。

表示されないときは、このリンクで開く。

この詩は17世紀のイギリスの詩人トーマス・スタンリー(Thomas Stanley)が訳したものです。だから古風な言葉遣いなのは、仕方がないです。しかし、蜂蜜(honey)、槍(spear)や、エロス(Love)という言葉が見つかるので、もしかしたら、これかもしれません。この英訳を参考にしながら、ギリシャ語を訳してみます。詩的な表現よりも意味を重視して訳してみます。ギリシャ語の訳は慣れていないので、ところどころ間違っているかもしれません。

アフロディーテの夫は、リムノス島の鍛冶場にいて、エロスたちのためにいくつもの鉄の軸の矢を作っている。アフロディーテは甘い蜂蜜でその矢の先を浸す。そしてエロスは胆汁を混ぜる。ある日、アレスがずっしりとした槍を振り回しながら、大声でエロスの矢にけちをつける。するとエロスが「この矢は重いよ。持ってみると、わかるよ。」と話しかける。アレスはその矢を持ってみる。アフロディーテは微笑んでいる。すると、アレスは唸り声をあげて、「これは重い。お前が持ってみろ。」と言う。するとエロスは「ずっと持っててね。」と言う。

絵の内容と違います。いくつかのキーワードは出てくるのですが、これではないようです。せっかくだから、他のアナクレオンの詩を探してみます。すると、すぐに英語のタイトルで、「The Bee」という名前の詩が見つかります。この絵で意味の分からなかった蜂について、何か情報が得られるかもしれません。


Love, a Bee that lurk'd among
Roses saw not, and was stung:
Who for his hurt finger crying,
Running sometimes, sometimes flying,
Doth to his fair mother hie,
And O help, cries he, I die;
A wing'd snake hath bitten me,
Call'd by countrymen a Bee:
At which Venus, if such smart
A Bee's little sting impart,
How much greater is the pain,
They, whom thou hast hurt, sustain?
引用元

ギリシャ語のほうも引用します。
Ἔρως ποτ΄ ἐν ῥόδοισι
κοιμωμένην μέλισσαν
οὐκ εἶδεν, ἀλλ ΄ ἐτρώθη
τὸν δάκτυλον. Πατάξας
τὰς χεῖρας, ὠλόλυξε·
δραμὼν δὲ καὶ πετασθεὶς
πρὸς τὴν καλὴν Κυθήρην,
ὄλωλα, μῆτερ, εἶπεν,
ὄλωλα,κἀποθνήσκω.
Ὄφις μ΄ ἔτυψε μικρὸς,
πτερωτὸς, ὃν καλοῦσι
μέλισσαν οἱ γεωργοί.
Ἡ δ΄ εἶπεν · εἰ τὸ κέντρον
πονεῖ τὸ τῆς μελίσσης,
πόσον δοκεῖς πονοῦσιν,
Ἔρως, ὅσους σὺ βάλλεις;
引用元

これも訳してみます。

ある日エロスは、バラの中で休んでいる蜂に気づかずに、指を怪我してしまう。エロスはそいつを叩き落し、大声で泣き叫ぶ。走って、飛んで、美しいアフロディーテのところにやってきて、「痛いよ、おかあさん。痛いよ。ぼく死んじゃうよ。」と言う。「羽のはえた、ちっちゃなヘビが、かみついたんだ。農家のおじさんが、ハチって呼んでたやつだよ。」。するとアフロディテは、エロスに言う。「蜂の針でそんなに痛がったりして。あなたがどれだけ他人を痛くしてきたのか考えてごらん。エロス、あなたはとても多くの人に矢を放ってきたというのに。」

アフロディーテも、エロスもいます。蜂もいます。でも、アレスがいません。残念ながらこれでは内容が違います。でも、ちょっと気にかかる言葉もあります。バラとヘビです。アレスはバラ色の敷布の上で寝ています。ハルモニアは晩年ヘビに変えられてしまいます。これはもしかすると、《プリマヴェーラ》の三美神の解釈でやったように、言葉の意味をわざとずらせば、うまくいくかもしれません。(参照:《プリマヴェーラ》における三美神の典拠について

 

次回は、いよいよ絵の描写との文章の関係を検証します。




更新情報:2011/10/05
The Bee のギリシア語の詩および英訳詩を Openlibrary からの引用だと読みにくいので、文字列にしました。


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2011年09月05日

《ヴィーナスとマルス》 解釈(3)

このギリシャ語を絵に合うように訳してみます。

最初の文。

Ἔρως ποτ΄ ἐν ῥόδοισι κοιμωμένην μέλισσαν οὐκ εἶδεν, ἀλλ΄ ἐτρώθη τὸν δάκτυλον.

μέλισσαν (蜂)は動詞 εἶδον の目的語とします。この動詞の主語は Ἔρως とします。実際、兜をかぶったエロスは画面右端の蜂たちの動きは見えません。この絵の蜂たちはこの描写のためだけに描かれていると考えられます。動詞 κοιμάω の主語は書かれていませんが、このとき、ἐν ῥόδοισι というのを、バラ色の敷布の上と解釈すれば、この主語はアレスとなります。

問題は誰が指を怪我していかということです。絵に描かれている神々の指を丹念に見てみます。でも見つかりません。では足の指をどうでしょう。足の指を見せているのはアフロディーテだけです。彼女はこれ見よがしに左足の裸の甲を見せています。特に変わったところはない健康そうな足です。しかし、よく見ていくと、親指に黒い線で描かれた傷があります。一見、草のように見えてしまうので、気づきにくいかもしれませんが、傷を探そうとして眺めてみれば、これ以外に指の傷に見えるものはありません。つまり、怪我をしているのはアフロディーテとなります。アレスの右手の人差し指が何かを指し示しているような形だったのは、そういうことでした。誰がアフロディーテを傷つけたのか、その犯人探しもしなくてはいけませんが、とりあえずこの文章の訳は次のようになります。

ある日のこと、彼(アレス)がバラ色の敷布の上で休んでいて、エロスが蜂を見ていないとき、彼女(アフロディーテ)は指に怪我をしていました。

次の文章。

Πατάξας τὰς χεῖρας, ὠλόλυξε·

これは短い文章です。これは本来の訳とそれほど変えなくてもいいでしょう。叫んでいるので、これは右側のホラ貝を持ってるサテュロスの描写となります。ただ声ではなく、ホラ貝の音を使って、大きな音をたてるところが違ってきます。また、このこのサテュロスは、ダイモスとフォボスのどちらでしょうか。これは後から出てくる文章との兼ね合いですが、叫び声をあげているので、恐怖の神ダイモスとします。

彼(アレス)をやっつけようと、彼(ダイモス)は大きな音を鳴らした。

その次の文章。

δραμὼν δὲ καὶ πετασθεὶς πρὸς τὴν καλὴν Κυθήρην, ὄλωλα, μῆτερ, εἶπεν, ὄλωλα,κἀποθνήσκω.

今度は真ん中で後ろを振り返っているサテュロスです。実は引用した文章の παταχθείς の活用がよく分からないので、異本で使われている πετασθεὶς (πέτομαι)を使って訳しました。前回も同様です。この意味は fly, dart, rush; escape となります。前回は飛んで、逃げ帰るという意味でしたが、今回は槍を持っている様子を描写しているので、突撃すると訳します。前回の意味では、移動の方向は、アフロディーテのところでしたが、今は槍の進む先に体が向かっています。そのため、顔を向けるている方向が、アフロディーテとなっていますが、これでも文章として成り立つでしょう。それから、怪我をしているのはエロスではなくアフロディテになるので、同じセリフでも意味が違ってきます。

さて、このサテュロスがフォボスかダイモスのどちらかという問題ですが、言葉としての意味はほとんど同じ意味ですが、神としての特徴を調べると、フォボスの方が混乱や敗走という特徴が加えられています。このことから、この絵では突撃する方向ではなく後ろに気持ちが向いてしまっているので、彼はフォボスだと考えます。結果として文の意味は次のようになります。

彼(フォボス)は走って突進しながら、アフロディーテの方を見て、「ケガしてるの、お母さん。ケガしてるの。死んじゃうの。」と言う。

次は、フォボスの質問への解答です。

Ὄφις μ΄ ἔτυψε μικρὸς, πτερωτὸς, ὃν καλοῦσι μέλισσαν οἱ γεωργοί.

ここは本来は、引き続きエロスの言葉ですが、傷つけられたのがアフロディーテなので、これはアフロディーテの台詞と考えます。アレスとアフロディーテの子供の中で、蛇と関係があるのは、『変身物語』で描かれているように将来蛇となる娘のハルモニアです。また、この絵の中で蛇のように腹這いになっているのは右下のサテュロスだけです。したがって、右下で鎧の中に入っているハルモニアが、この文章で描写されています。

形容詞 πτερωτὸς は通常「羽のある」と訳されます。この言葉に近い πτερόν という「羽」の意味の名詞があるのですが、この言葉には「予兆」という意味もあります。つまり、一般的な訳ではありませんが、この形容詞は「予兆のある」とも訳せます。腹這いになっていたり、舌を突き出しているように見えるのが、彼女が蛇となる予兆なのでしょう。

ここからがさらに見事な描写です。ふつう μέλισσαν は蜂を意味する名詞として扱われますが、これは動詞 μελίζω の分詞形と考えることができます。この動詞の意味は「体をバラバラにする」という意味です。おそらく頭・胸・腹がくっきり分かれるので蜂はこう呼ばれているのでしょう。さて、この絵の中でハルモニアがどう描かれていたかと言うと、鎧の頭の出るところから、頭と左手、そして腕が出てくるところから、右手が出ています。まさに、体がバラバラになっています。

そして、γεωργοί です。この絵には農夫がいませんが、心配ありません。今回は動詞として解釈します。絵をよく見ると、まさにハルモニアは左手で何か緑色の実を持って、右手で土を掘っているような仕草をしています。まとめると次のようになります。予兆に気づいているのはちょっとおかしいかもしれませんが。

小さな予兆のある蛇のような子(ハルモニア)が傷つけたのよ。体が別々になって(出てきて)いる子と彼(アレス)に呼ばれているわ。彼女は地面に何か植えているの。

最後も引き続き、アフロディテの台詞です。ただし、話しかけている相手はエロスに変わっています。

Ἡ δ΄ εἶπεν·
εἰ τὸ κέντρον πονεῖ τὸ τῆς μελίσσης, πόσον δοκεῖς πονοῦσιν, Ἔρως, ὅσους σὺ βάλλεις;

ここは、傷を受けたアフロディーテが話し手なので、本来の詩の意味と少しずつ変わってきます。名詞 κέντρον は蜂の針やその針による痛みの意味ですが、ここではアレスの左手の下にある鉄製の棒のことだと解釈します。これは何に使うものなのかはよく分かりませんが、家畜を追うときに使う棒などのことも、この言葉で呼ぶようです。この棒でいたずらをしてハルモニアはアフロディーテを傷つけてしまったのでしょう。そしておそらく、アレスに取り上げられ、アレスはそのまま寝てしまったのでしょう。彼女は罰として鎧の中に閉じ込められているとも考えられます。

彼女は言う。「体が別々のところから出てきているあの子の突き棒で、私は怪我をしたけれど、あなたはどれだけの人を傷つけたか考えてみなさい。エロス、あなたは槍を使ってどれくらい傷つけているの。」

以上のように訳せます。あとから修正しないといけないところもあるでしょうが、だいたい意味はあっていると思います。それにしても、見事な意味のずらしです。この詩からこの絵を作りだした知性は驚嘆すべきものです。

 

まとめは、次回。



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2011年09月07日

《ヴィーナスとマルス》 解釈まとめ

今まで解釈してきた《ヴィーナスとマルス》 と呼ばれているボッティチェリ(Botticelli)の絵画についてまとめてみます。

この絵は、アナクレオン風歌謡(Anacreontea)の一編の詩(英訳詩名 The Bee、The Wounded Cupid など)が元になっています。この詩が絵の題材になったことを示すには、これが書かれた時期にこの文章を画家が目にできたことをまず先に示す必要がありますが、前回示したいくつもの符合により、この絵の存在こそがその証拠だと言ってかまわないでしょう。

従来この詩は、蜂に刺されて痛がっているエロスに対して、アフロディーテがあなたのほうがもっと人に痛い目を合わせているのよと諭す話なのですが、この絵は詩そのままの情景を描いていません。この詩のそれぞれの単語の意味を、正しいけれど別な意味で解釈することで、違う情景を作りだし、それを描いています。

この誤解釈は、翻訳者の能力が低いために起きたものではなく、逆に、高い言語能力を使った意図的なものだと考えられます。たとえば、蜂を示す単語 μέλισσα の使われ方を見ればわかります。この単語がこの絵の誤解釈のキーワードとなっています。メリッサという言葉が、「蜂」と「体が分かれた者」の二つの意味で、使われているからです。このような意図的な誤解釈の積み重ねでこの絵は成り立っています。

 

それでは、この絵で描かれている状況を想像を交えて、書いてみます。

この絵はアレスとアフロディーテの家族の情景を描いた絵です。アレスがバラ色の布の上で寝ていて、そしてエロスが蜂を見ずに蜂を攻撃しようとしていて、アフロディーテが足の指を怪我をしている場面です。アフロディーテが怪我をしたのは、この絵が描かれている瞬間よりもかなり前の出来事です。

アフロディーテを怪我させたのは、ハルモニアです。まだ立って歩けないかもしれないくらいの末っ子のハルモニアが、突き棒でアフロディーテの足の指を傷つけてしまいました。それを見つけたアレスは、突き棒を取り上げ、ハルモニアが勝手にいたずらをしないように自分の鎧の中に入れて遊ばせることにしました。鎧が動かないようにその上に背中をもたれかけています。体の小さなハルモニアでも、鎧の頭を出す穴から体を全部出すことができないので、体が別々の穴から出てしまいました。そのかわいらしい様子を見たアレスは、体が分かれているという意味でメリッサと彼女を呼びました。

アレスは日ごろの戦いの疲れから、そのまま眠ってしまいました。ハルモニアは自由に動き回れなくても、手近にあった実を左手で掴んで、右手で地面を掘って遊んでいます。そこに、エロス、フォボス、デイモスのやんちゃな男の子たちが戻ってきました。母親のアフロディーテが怪我をしていることに気がつくと、フォボスは「お母さんが死んじゃう」と心配します。アフロディーテは「アレスがメリッサと呼んでいる農業をやっている者が怪我させたのよ」とちゃんと伝えたのですが、男の子たちは、それは別のメリッサ(蜂)がやったんだと勘違いしてしまい、蜂に向かって戦いに出かけます。エロスは、いつもの目隠しと矢の姿をアレスの兜と槍で再現してしまっています。フォボスは、エロスの槍を支えて一緒に突撃しているのですが、お母さんのことが心配で後ろを振り返りながら前に進んでいます。デイモスは、蜂たちに向けてホラ貝を吹いて彼らを恐怖に陥れようとします。アフロディーテは、自分のことを心配して振り返ってくれるフォボスの顔を見つめています。これがこの絵に描かれている場面です。

しかし、アフロディーテは彼らが何をやっているのか分かっていません。蜂の巣がアレスの頭の後ろにあることは、そこから見えないのです。デイモスがホラ貝を吹いているのは、アレスに対してふざけているとしか思っていません。このあと起こる大混乱は誰も気付いていません。でも大丈夫、彼らは不死なる神々です。蜂に刺されたくらいでは死ぬことはありません。微笑ましい、ある日の一家の光景です。

 

一般的な知識として、アレスとアフロディーテの関係は浮気だと理解されています。この絵の二人を見ると、どうしてもその話がよぎってしまいます。しかし、そうとは限りません。

ヘシオドスの『神統記』では、世界の始まりからの神々の話を描いているのですが、アフロディーテとヘパイストスが夫婦だったことは書かずに、アレスとアフロディーテの間にフォボス、デイモス、ハルモニアという子供がいるとだけ書かれています。この本を元に考えれば、アレスとアフロディーテが子供たちと戯れている様子も、自然なものと映ります。

ちなみに、『神統記』ではエロスは誰の子供でもなく、世界に最初に現れた神々の一人です。その後の時代に、泡からアフロディーテが生まれると、エロスは彼女の従者となったとされています。したがって、この絵の人間関係のすべてが『神統記』の記述を元にしたと考えることはできません。どうみてもこの絵のエロスは、他の子供たちと同じアフロディーテの息子として描かれています。

また、アレスとアフロディーテが密会していたとしても、『オデュッセイアー』で描かれているように、二人がヘパイストスの罠にかかった状態で、多くの神々の前で晒しものになったとき、神々の承認の元、アフロディーテとヘパイストスの婚姻関係は終わったとみることもできます。アフロディーテがキュプロスに向かったという文は、そういう意味があるでしょう。

とにかく、過去に何があったにせよ、この絵の神々はまるで人間の家族のように、幼い子供たちと一緒に過ごす、ほのぼのとしたある日の家族の出来事が描かれています。アフロディーテの子供たちが同時期にこんなふうに子供の姿をしていたことはないでしょう。神話にもそんな描写はどこにも書かれていません。これは、ボッティチェリが言葉遊びで作り出した、彼だけに描ける不思議な神話の情景です。

 

それでは最後に、最初に立てた問いへの解答です。これまでの解釈を読んでもらうと分かるのですが、問いを立ててしまった以上、答えないといけません。

・どうして、いつもと違ってアフロディーテは裸ではないのか?
それは、この絵が母親としての彼女を描いているからです。裸で寝ているアレスのそばで、アフロディーテもいつものように裸なら、別の意味に解釈されてしまうからです。

・どうして、アレスは眠っているのか?
それは、バラ色の布の上にいるからです。

・それぞれのサテュロスはいったい何をしているのか?
槍の近くの三人は、母を傷つけた蜂を退治しにい行こうとしています。詳しくは上に書いたとおりです。 鎧の中のサテュロスは再びいたずらをしなように行動を制限されています。

・右端の暗がりにいる蜂にはどんな意味があるのか?
ギリシャ語の蜂の語源的解釈がこの絵を読み解くヒントです。

・アレスの左手の下にある棒は何なのか?
突き棒です。おそらく戦いに使うものでしょう。ギリシア語では、蜂の針と同じ言葉です。これでアフロディーテは足の指にちょっとした傷を作ってしまいました。でも神様なので、すぐに傷は消えてしまうでしょう。

・どうして、子供がエロス(クピド)ではなくサテュロスなのか?
サテュロスとして描かれていますが、彼らはエロスを含めてアフロディーテの子供たちを表しています。姿がサテュロスなのは、無邪気ないたずら者の子供を表すためではないかと思われます。また野蛮ではあるけれど、その種族の姿そのものに性愛の属性をもった彼らは、誰よりもアフロディーテの子供であることを、図像的に指し示せるのではないでしょうか。

・アフロディーテは何を思っているのか?
アフロディーテの視線は、アレスを見ているようにも、デイモスを見ているようにも、フォボスを見ているようにも見えます。しかし、この中で彼女の方を見ているのは、フォボスなので、やはり彼女は自分を見つめているフォボスと目を合わせているのではないかと思います。そして自分のことを心配してくれるわが子を母として愛おしく思っているのではないでしょうか。

以上の解釈を踏まえたこの絵のタイトルを考えると、《アフロディーテとアレスとその子供たち》となります。

 

バラ色の布を根拠にこの詩であることが分かったのですが、正直に言うと、最初に問いを立てた段階では、「メリッサ」の解釈にはまだ気づいていませんでした。辞書で単語の細かな意味を調べて、説明を書いている途中で、いろいろ新たに気付きました。まだギリシア語の訳を含めて、整合性がとれていないところもいくつかありますが、少しずつ修正しようと思います。

以前書いた《プリマヴェーラ》の解釈ですが、その「三美神」の描写もやはりこれと同じように意味の誤解釈によって描かれているとしました。キーワードはラテン語の mundus (世界、装飾品)です。あの絵の解釈だけだと答えを出すための強引な曲解に見えたかもしれませんが、この《ヴィーナスとマルス》でも同じ誤解釈が成り立つので、ボッティチェリが意図的にこの特殊な文章の解釈法で絵を描いていたことが、はっきりと分かりました。

それにしても、ボッティチェリのこれらの神話画は、世界で最も美しい、難解で詩的なパズルでした。



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2012年02月13日

《ヴィーナスとマルス》 もう一つの典拠(1)

《ヴィーナスの誕生》の次は、《ヴィーナスとマルス》 です。この絵については去年まとめましたが、そのときアナクレオンの『蜂』という詞を元に描かれているとしました。この文章にはマルスの名前は一カ所も出てこないのですが、この絵がこれを元に描かれていることは今もなお強く確信を持っています。今回はそれとは別の、マルスの特定など以前解決できなかったことを的確に補える典拠の発見です。

『アフロディーテ讃歌』を解釈しているときに思い出したのは、ルクレティウスの『物の本質について』の冒頭部分にあるウェヌスを讃える言葉でした。そこで岩波文庫版の樋口勝彦氏の訳を読み直してみると、その一部分が《ヴィーナスとマルス》の場面に変化させられる描写であることに気付きました。

それは次の部分です。ラテン語原文を引用します。

nam tu sola potes tranquilla pace iuvare
mortalis, quoniam belli fera moenera Mavors
armipotens regit, in gremium qui saepe tuum se
reiicit aeterno devictus vulnere amoris,
atque ita suspiciens tereti cervice reposta
pascit amore avidos inhians in te, dea, visus
eque tuo pendet resupini spiritus ore.
hunc tu, diva, tuo recubantem corpore sancto
circum fusa super, suavis ex ore loquellas
funde petens placidam Romanis, incluta, pacem;

これを素直に翻訳すると次のようになります。自分で訳してみました。

(ウェヌスよ!)あなた一人だけが限りある命を持つ者たちを穏やかな平和で助けることができます。なぜなら、勇敢なるマルスが戦争の野蛮な役割を支配していますが、その彼は愛の永遠の痛みに打ちのめされて、いつもあなたの膝の上に自らを投げ出します。そして彼は、滑らかな首で上を見上げ、横たわって、女神、あなたをじっと見つめて、愛によって多くの物を糧にしています。したがって仰向けになった心の判断はあなたの口に頼っています。あなたの神聖なる体のそばで横たわっているこの者に、上から注ぎかける女神よ!ローマ人に穏やかな平和をもたらすように、輝ける者よ、甘き言葉の数々を注ぎたまえ!

これを、例の如く別の解釈にしてみます。この場合、「あなた」はマルスを指しています。ただし最後は、ウェヌスに対しての文となります。

ハルモニアに唯一気に入られた、静かで死人のようなあなたは、たくさん飲んでいるのでしょう。それに先立って、勇敢なるマルスは野生のヒナギクのところから太ももの方へ長いものを取り付けています。愛しき人の傷のところでぐったりしているあなたを、彼は生け垣から自分自身で撃退しています。そして、しなやかな首の下に置かれている上を見上げている者よ!彼は巨大な物を口にしています。クピドのそばで女神の方をじっと見つめている者よ!あなたを見ている者は上を向いている魂たちを顔からぶら下げています。あなたが周りに撒き散らした物の上で、まっすぐに伸びた幹に寄りかかっているとき、女神よ!ローマ秤(romano)とヒヤシンス(giacinto romano)のそばにいるハルモニアを穏やかであるようにと懇願するならば、高名な者よ!口から甘い言葉を発してください!

以前説明できなかったこの絵の中の小物についてもいろいろ分かりました。これはすごいです。ぞくっとします。この解釈の文法的な根拠、そしてこの解釈が《ヴィーナスとマルス》とどのように符合するのかの説明は、次回。



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2012年02月16日

《ヴィーナスとマルス》 もう一つの典拠(2)

それでは、ボッティチェリの作品《ヴィーナスとマルス》の描写を、ルクレティウスの『物の本質について』のある部分から導くことができることを示してみます。

前回の投稿の後、念のため確認してみると、前回指摘した部分よりも前の行も言葉遊びの対象になっていました。まずそこから始めます。まず本来の意味です。

quo magis aeternum da dictis, diva, leporem.
effice ut interea fera moenera militiai
per maria ac terras omnis sopita quiescant;

quoはいろいろ意味がありますが、ここでは「それゆえに」とします。magisは英語のmoreに相当する副詞です。そのあとの形容詞aeternum(永遠の、長く続く)を修飾していると考えます。この形容詞は中性単数の主格、呼格、対格、もしくは男性単数対格の形をしています。この文の中でこれのどれかに一致する名詞を探すと、一番後ろの名詞leporemが見つかります。つまり、男性単数対格だと分かります。このleporにはイタリア語で「grazia(優しさ)、garbo(魅力)」の意味があるので、合わせると「より長く続く魅力」となります。

daは動詞do(dare、donare、与える)の命令法二人称単数です。懇願を表している命令文で、頼んでいる相手は後の方にあるdiva(女神)です。すぐ後にあるdictisは名詞dictum(言葉)の複数与格もしくは複数奪格の形ですが、動詞doの目的語であることを考慮すると、複数与格だと分かります。先に分かった対格の語句と合わせると、全体で、「女神よ!より長く続く魅力を言葉に与えたまえ!」となります。

次の文です。efficeは動詞efficoの命令法二人称単数です。そのあとのutは接続詞ですが、後ろに接続法の動詞を伴って、目的などを示す節を作ります。確認すると、ちゃんと接続法の動詞quiescantが見つかります。全体で、「〜するのを達成せよ、〜するようにせよ」という意味になります。

intereaは副詞で「その間に」です。fera moenera militiai。perは接続詞で対格をとります。acは接続詞で、mariaとterrasは共に対格です。omnisは形容詞で、両方の名詞を修飾していると考えます。「per maria ac terras omnis」全体で、「全ての海と陸において」と訳せます。

sopitaは動詞sopio(眠らせる、鎮める)の完了分詞で、いくつかの格に解釈できますが、ここではquiescantの目的語になれるように、中性複数対格と考えます。つまり、対格である中性名詞moeneraが動詞sopioの目的語で、その分詞の対格がさらに動詞quiescantの目的語になっている構造です。時制が完了なので、相対的に分詞の動作の方が先に起きていることになります。

まとめると次のようになります。

それゆえに、女神よ!より長く続く魅力を言葉に与えたまえ!
その間に、すべての海と陸において、戦争の野蛮な出来事が鎮まり、停止しますように!

これが素直な訳です。この絵の場面を直接記述した文章ではないことがわかります。

 

それでは、これを屈折した意味になるように解釈してみます。

最初の文の解釈です。aeternumには「eterno(永遠の、長く続く)」という意味ですが、他に「indistruttibile(破壊できない、不滅の)」という意味もあります。magisはそれを修飾しているので、その意味を強めるために、「決して破壊できない〜」とします。

今回dictumはdettoの文語的な意味の「物語」と訳します。leporは「grazia(優雅)」の他に、「arguzia(言葉遊び)」、「piacevolezza(冗談)」という意味もあります。したがって、dictisは「物語に」、leporemは「言葉遊びを」とします。leporemはさらに「magis aeternum」に修飾されるので、言葉に合わせて「決して見破られない言葉遊びを」とします。動詞doは「与える」の意味ですが、「許す、了承する」という意味もあります。

女神よ!この物語に決して見破られない言葉遊びを許したまえ!

二番目の文です。feraはここでは名詞として考えます。ただし女性名詞feraとして考えると性数が合わなくなるので、形容詞ferusを名詞化したものとします。つまり、ferusの中性複数対格が名詞化されたものとしてのferaとします。意味は「野蛮な者たち」とします。そうすると、並んでいる三人のサテュロスの三人全員もしくは何人かを指し示すことができます。また、この絵の中で服を着ていないマルスも一括りにできます。なおヴィーナスと右下の女の子は服を着ているので、野蛮人ではありません。男たちが半獣の姿であることと、マルスが裸であること、女性たちが服を着て描かれていることの理由がこの言葉にあると言えます。

feraの後ろの対格をまとめて、前置詞perの目的語とします。つまり、per monera maria militiai を前置詞句として考えます。まず、名詞moeneraはufficio(世話)、dovere(義務)、funzione(機能)などの意味がありますが、他にprodotto(製品、生産物)という意味があります。これには同じ綴りで違う意味の言葉があります。そのprodottoの意味は、「伸びた、延された、拡張した、長い」です。これからmoeneraに「長い」という意味を与えます。この連想は我ながら強引だと思います。しかしとても効果的です。

前置詞perはここではイタリア語の前置詞con(持っている)の意味とします。mariaは中性名詞mare(海)の中性複数対格なのですが、形容詞mas(男の、勇敢な)の中性複数対格と同じ形ですのでそれとします。militiaiはそのまま女性名詞militia(戦争、軍隊)の単数属格です。合わせて考えると、「戦争の長い勇敢な物を持っている」となります。

戦争の長い勇敢な物というのは、紛れもなくこの絵に描かれている長い槍のことです。槍を持っているのは、兜をかぶっている子と、真ん中の子です。右の子は槍を掴んでいないので、この表現には含まれないと考えた方がいいようです。マルスも戦争の長い勇敢な物を持っています。彼の左手の指先にある細長い棒です。つまりマルスもこの語句の表現に含まれていることになります。

しかし、この解釈だと「terras」が残ってしまいます。この解決として、これを展開してterrasの前にもperがあると考えます。そしてこの時のperの意味を「attraverso(を横切って)」とします。本来の訳ではterrasは「陸」としましたが、今回は「田舎」と訳します。そうして、人物たちの後ろの画面の真ん中に広がっている何もない風景を示していると考えます。つまり、「田舎を横切って」とします。

槍を持っている二人のサテュロスは後ろの遠景を横切って並んでいます。したがって、この表現の通りになっていると考えられます。また、マルスは自らの体をこの遠景を横切って伸ばしています。やはりこの表現の通りに描写されていると考えることができます

残りです。形容詞omnis(すべての)は複数対格です。分詞sopita(眠らせる)も中性複数対格として一致していると考えます。しかしこの意味ではちょっと困ります。ここで技巧的なことをします。sopitaは動詞sopioの完了分詞ですが、ラテン語にはsopioという同じ綴りの名詞があります。意味はペニスです。残念ながらこのsopioは語形変化してsopitaになることはありませんが、意味だけを借用して考えます。こうすると、うまくいきます。

最後のquiescantは、動詞quiesoの接続法三人称複数現在で第一義で「休む、静かである」の意味ですが、調べていくと、「省く」という意味の「desistere、omettere」というのがあります。つまり、これを使うと「ペニスを省略する。」という意味になります。実際、このサテュロスたちには描かれていいはずの場所にペニスが描かれていません。古代ではサテュロスといえば立派なペニスと共に描かれる存在ですから、省略されていることをわざわざ記述することが意味を持ってきます。また、マルスについても、布を掛けることで、それを省略したことになりますから、この表現の通りだと言えます。この文が、子どもたちがサテュロスとして描かれている根拠、マルスの腰に布が掛けられている根拠の一つとなるでしょう。

全体をまとめるとこうなります。

「それゆえ、女神よ!この物語に決して見破られない言葉遊びを許したまえ!」
「そのときに、戦争の長い勇敢な物を持っている、田舎を横切っている野蛮な者たちが、ペニスを省略するように!」

最初の文は女神への懇願であり、二番目の文はその女神からの啓示と解釈すればいいでしょう。

 

今回はここまでです。前回新しい解釈をした部分で、いくつか形容詞の性数格の一致がうまくいっていなかった部分がありました。今後の説明の中で修正していきます。



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2012年02月19日

《ヴィーナスとマルス》 もう一つの典拠(3)

これからは、新しい解釈だけをしていきます。

nam tu sola potes tranquilla pace iuvare mortalis,

まず、この文にあるpaceの見出し語形はpaxですが、その意味を調べると、peace(平和)の意味だけでなく、concord、harmony(調和)の意味もあることが分かります。最初に見つけた典拠だけを用いた解釈では、右下で這っている蛇のような子どもが、晩年の姿から、マルスとヴィーナスの娘ハルモニア(Ἁρμονια)であるとしましたが、ἁρμονίαの英語での意味がまさにconcord、harmonyであることから、paxという言葉は女神ハルモニアを指し示せることになります。

namは接続詞です。ここでは「実のところ」とします。tu potes mortalisがひとまとまりになっているとし、potesは通常は、英語でcanに相当するpossumの二人称単数現在ですが、ここではpoto(飲む、酔っ払う)の接続法二人称単数現在と考えます。mortalisは形容詞で主格単数で、主語を修飾しているとします。つまり「死人のようなあなたは酔っ払っているのでしょう。」となります。接続法なのでこの場合可能性を示しているとします。

そしてsola tranquilla pace が一つにまとまっていると考えます。形容詞sola(一人)は奪格単数女性、形容詞tranquilla(静かに)も奪格単数女性とみなし、女性名詞paceの奪格を修飾しています。そしてこのまとまりで動作が行われている場所を表しているとします。これは、まさに他の三人の子どもたちとは隔離されて一人だけいるハルモニアの記述になります。絵では彼女は鎧の中に閉じ込められています。この理由ですが、彼女も三人の男の子たちと一緒で、その本性はやんちゃなのでしょう。それを鎧に閉じ込めることでtranquiioな状態にしている描写だと考えられます。

iuvareが残りますが、これはiuvo(支える、喜ばせる)の不定法現在で、これの処理が難しいです。今回は絵で左手で棒が倒れないようにしている様子だと考えます。ハルモニアが何かの実を押さえている仕草そのものも「支えている」と言えなくもないですが、paceの格では動作の主体を示すのことができないので、mortalisを修飾する形で、マルスの行為とします。

このように考えると、この行は全体で次のようになるでしょう。

実のところ、一人大人しくしているハルモニアのところで、(棒を)支えながら死人のようにしているあなたは酔っ払っているようです。

次の行は、本来とは違うところで区切ります。本来はregitの後ですが、これをgremiumの直後まで延します。

quoniam belli fera moenera Mavors armipotens regit in gremium,

接続詞quoniamは通常は理由を示すものですが、まれな使い方の「〜したあとに」という意味で訳します。

belliは本来は「戦争」を意味する中性名詞bellumの属格単数として解釈するのですが、ここでは「花、特にヒナギク」を意味する女性名詞bellisの奪格単数とします。そのあとの形容詞ferus(野蛮な、野生の)はこのbellisを修飾している単数女性奪格と考えてます。

次のmoeneraは中性名詞moenus(munus)の複数対格とします。これは義務や機能などの意味なのですが、これを前回出てきたように、技巧的に別な意味にします。つまり、イタリア語訳の一つであるprodottoのさらに別の解釈「伸びた、長い」とします。マルスの持っている長いものは、腰の布と、左手の先にある棒の二つです。ちゃんと複数です。

Mavors armipotensは本来の解釈と変えていません。ここは男性主格単数の名詞と形容詞で「勇敢なマルスが」という主語になります。regitは動詞regoの三人称単数現在で、いろいろな意味がありますが、ここではイタリア語訳のfissare(取り付ける)の意味で解釈します。つまり、ここまでの意味は、「勇敢なマルスが長いものを野生のヒナギクの所から取り付けている。」となります。

この絵をよく見ると、長いもの一つであるマルスが腰に掛けている布の端に、キク科の葉を持つ植物が描かれています。つまり「belli fera(野生のヒナギクから)」の描写となります。

bellis

この布の行き先ですが、この記述は最後にあるin gremiumにあります。gremiumは中性名詞gremiumの対格単数で、inの補語が対格になるので、inは方向を示します。gremiumの意味は「膝、胸、内部」などですが、この場合単に膝と考えます。この布の行き先を見るとマルスの右腕で隠れていますが、ちょうど右端のサテュロスの膝があるところへと向かっています。

gremium

長いものは複数です。もう一つについても説明できなくてはいけません。

棒はまっすぐに布の始まり付近に付けられて立っています。このくらいの距離ならばヒナギクの所と呼んでもいいでしょう。次にその上部がどこにあるかです。この棒の上部はマルスの左手の中指で支えられています。近くを見回しても誰の膝もありません。代わりにこの後ろには深淵が描かれています。マルスの体の下にある鎧があって、その上にバラ色の敷布が掛けられていますが、その布と鎧の隙間があるところにこの棒の上端があります。

harmonia

この棒は一見、完全な垂直となっているように見えますが、実はマルスの体の方に斜めに傾いています。どうして、このような分かりにくい描き方になっているのでしょう。おそらく、明確な矩形領域を描くことによって、強制的にハルモニアを大人しくさせていることを示すためではないかと思われます。

二番目の文をまとめると次のようになります。

それに先立って、勇敢なるマルスは野生のヒナギクのところからgremium(膝、入り込んだ所)へ伸びた(二つの)長いものを固定しています。

つづく



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2012年02月22日

《ヴィーナスとマルス》 もう一つの典拠(4)

いまさらですが、この絵の解釈において、神々の名前はギリシア神話の名前に統一します。ただ絵のタイトルはこれで通っているので、《ヴィーナスとマルス》のままです。

それでは、解釈を行います。最初に解釈したものから、かなり変わってしまいました。

qui saepe tuum se reiicit aeterno devictus vulnere amoris,
atque ita suspiciens tereti cervice reposta pascit amore avidos inhians in te,

上記の2行が長い文を作っていると解釈します。

quiは主格の関係代名詞で「qui saepe tuum se reiicit aeterno devictus vulnere amoris」までの節が主語となっていると解釈します。

saepeは本来の解釈では副詞で「しばしば」と訳すのですが、ここでは女性名詞saepesの奪格単数とします。saepesの意味は「生垣、塀」などです。形容詞tuumは単数中性対格と考え、名詞化して「あなたの体を」とします。代名詞seは奪格として「自分自身で」とします。reiicitは動詞rejictoの三人称単数現在で、「撃退する」と訳します。形容詞aeternoは後ろのvulnereを修飾していると考えます。devictusは同格と考えて「打ちのめした者」とします。

saepes

aeterno vulnere amorisはひとまとまりとします。形容詞aeternusの単数中性奪格、名詞vulnus(傷)の単数中性奪格、男性名詞amorの属格です。aeternusは普通は「永久の」の意味ですが、それだと都合が悪いので「長く続く」とします。amorは「愛」ですが、「最愛の人」その人も意味することができます。そして、vulnere を所格と考えて、まとめると「最愛の人の長く続く傷のところで」と解釈できます。この傷とは、去年解釈したときに突き止めたの足の傷です。

この関係節の中は「生け垣のそばで、最愛の人の長く残っている傷のために、あなたの体を自分自身で撃退している」となります。つまり、これはホラ貝を持っている一番右のサテュルスを記述していると考えます。実際、彼は右側の生け垣のそばにいます。最愛の人というのはアフロディーテのことです。彼にとってはアフロディーテは母親ですから、この表現で問題ないでしょう。この子はアフロディーテの傷がアレスによって付けられたと思っているので、アレスをやっつけているのでしょう。自分自身でという表現は、槍を二人で持っている二人のサテュロスとは違うことも意味しています。これ全体が主語になって次につながります。

次の節です。atqueは接続詞で「そして」、itaは副詞で「therefore」です。あわせて、「そういうわけで」とします。suspiciensは動詞suspicio(見上げる、尊敬する)の完了分詞の主格です。これも主語の同格となります。この動詞には他にイタリア語ではcontemplare(凝視する)という意味もあるので、「凝視している者」と解釈します。実際、ホラ貝を持っている子は、じっとホラ貝の方向を凝視しながら吹いているように見えるので、これで合っています。

tereti cervice repostaがひとまとまりになって、全て女性単数奪格と解釈できます。形容詞teresは「滑らかな」、女性名詞cervixは「首、肩」、repostaは動詞reponoの完了分詞と考えると「下にある」となります。これ全部で「下にある滑らかな首のところで」とします。このサテュロスのホラ貝のすぐ下にはアレスの首があります。

pascitはこの長い文の主動詞で、pasco(食べる)の三人称単数現在です。主語はもちろん、先ほどの関係節で右のサテュロスになります。このamoreは女性名詞amorの奪格として、ここでも最愛の人つまり母であるアフロディーテのこととし、「最愛の人(母アフロディーテ)のために」と解釈します。

その後ろのavidosは形容詞avidus(貪欲な)の男性複数の対格です。ここでこの形容詞を名詞化して考えます。つまり、貪欲な気持ちが具現化したような「大きい物」とします。そうするとそれをpasco(食べる)の対象にできます。この子の大きなホラ貝を口にくわえている様子が、大きな物を食べているように見えるからです。pasocoは主に動物が草を食む様子を表す言葉ですが、この子は野蛮な存在として描かれているのでその意味も合っています。つまり「大きな物(ホラ貝)をくわえている。」と解釈できます。

しかしここで問題です。avidosは複数形です。最低あと一つ「貪欲なもの」が必要になります。ここでpascoの意味をもっと調べてみると、「(牧場で動物を)監視する」という意味があります。この子の視線の先にあるものがホラ貝ではなく、その向こうのアレスであると考えるとうまくいきそうです。今回の解釈では、アレスも野蛮な存在だと記述されていますし、またお酒を飲んで酔っ払って寝ているようだと記述があったことからも、この絵のアレスは貪欲な存在だと言えます。神話のアフロディーテとアレスの関係も、二人が描かれているだけで性的な意味での貪欲さが暗示されるでしょう。つまり「貪欲な者(アレス)を監視している。」

このinhians in teは、主語を描写している言葉と解釈できます。teは「あなたを」という意味ですが、アレスを表しているとします。inhiansは動詞inhio(gaze、凝視する)の現在分詞で、単数主格と解釈できます。この動詞の意味からteは対格で、前置詞inは方向を意味しているのが分かります。「あなたを凝視している者」となります。意味としても、これも同格と考えます。

この長い文をまとめると、次のようになります。

生け垣のそばで、最愛の人(アフロディーテ)の長く残っている傷のために、あなたの体を自分自身で撃退している者(右端のサテュロス)は、打ちのめした者であり、そういうわけで、凝視している者でもあり、下にある滑らかな首のところで、最愛の人(母アフロディーテ)のために、大きな物(ホラ貝)をくわえ、貪欲な者(アレス)を監視している。彼はあなたを凝視する者である。

次の文です。

dea, visus eque tuo pendet resupini spiritus ore.

女性名詞deaは主格と解釈できます。その後ろに、visusがあって、そのあとに、equeがあります。equeは前置詞eに接続のqueが付いたものです。eは後ろに奪格をとる前置詞ですが、ちゃんと後ろのtuoは形容詞tuus(あなたの)の奪格として解釈できます。これも名詞化して、合わせて「あなた(の体、の目)から」とします。visusは動詞video(見る)の完了分詞の男性単数主格となります。これは受動表現として「あなたから見られていた者」として、主語deaの同格語と解釈できます。この絵の描写では、アレスはアフロディーテを見ていません。しかし二人は向き合っているので、彼が起きていたときはきっと彼は見ていたでしょうから、完了表現にしておけば問題ないでしょう。よってここまでで、「そして、あなたから見られていた女神は」となります。

pendetは動詞pendeo(吊す)の三人称単数現在です。その後のresupiniは最後のoreを修飾していると考えます。resupiniは形容詞resupinus(仰向けの)の属格と解釈しますが、名詞化されて「仰向けに寝ている者」を表すと考えます。oreは中性名詞osの与格、奪格、所格です。oreは通常「口」を意味しますが、さらに「顔、頭」を表すこともあります。したがって、動詞を考慮して、resupini oreで「仰向けになっている者の頭から」と訳せます。この絵の中に仰向けの者は二人いますが、何かを頭から提げている者はアフロディーテです。

残っているのは男性名詞spiritus(息、魂、生命)ですが、このように訳してくると、これがつり下げられている物を表す言葉であると推察されます。しかし、これがつり下げられるためには、対格でなくてはいけません。この語形のまま対格と解釈されるには、単数ではなく複数となります。絵を見るとアフロディーテがぶら下げている物は一つですが、複数の宝石からなっていることが分かるので、このそれぞれの宝石がspiritusを表しているのだと分かります。spiritusにどんな意味があるのか、このペンダントの画像をよくよく見てみると、それぞれの玉のハイライトとして見えていたものが目と口が描き込まれた顔のように見えてきます。特に右から下にかけてです。これを魂と解釈します。

spiritus

したがって、この文の意味は次のようになります。

そして、あなた(アレス)から見られていた女神(アフロディーテ)は、仰向けになっている者(アフロディーテ本人)の頭から、魂たちを提げている。

宝石に魂が描き込まれていると解釈しましたが、上の画像では断言できるほどはっきり見えてはいません。そう言われて見れば、そう見えるかもしれないという程度です。だから今まで知られていなかったのでしょう。このペンダントをもっとよく見ようとネット上を探してみましたが、これ以上の解像度のものは見つかりませんでした。はっきり確認できれば、このルクレティウスの文章を元に描かれているという解釈を、より確実なものにできるでしょう。ここに魂が描かれていることを論理的に説明できるのは、この文章の言葉遊び以外にないはずですから。

つづく



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2014年06月28日

《ヴィーナスとマルス》と『物の本質について』の既存の仮説

ここで僕はBotticelliの《ヴィーナスとマルス》という作品が、アナクレオンテアの「蜂」の詩と、Lucretiusの『物の本質について』の冒頭部分からなっていて、描かれている幼児のサテュロスたちはクピドをはじめとするウェヌスの子供たちを表しているとしました。今回からしばらくは『物の本質について』の解釈をより深めていきます。

《ヴィーナスとマルス》と『物の本質について』との関係は、2012年02月13日の「《ヴィーナスとマルス》 もう一つの典拠(1)」からしばらく書いていました。このときはウェヌスとマルスの描写がある前後数行が考察の対象でした。今回はさらに冒頭のウェヌスを讃美する文章すべてがこの絵の描写だったということを示そうと思います。

2012年の2月当時この部分が典拠らしいと思いついたのは、手元の『物の本質について』を眺めていて、偶然だったのですが、調べてみるとこの「ウェヌスの讃美」と《ヴィーナスとマルス》との関係はいくつかの場所で言及されていました。まず自説を述べる前に、これらを既存の説を整理しておきます。

Lucretiusの影響について調べるために読んでいたAlison Brownの『The Return of Lucretius to Renaissance Florence』(2010)の104ページに次のような記述を見つけました。

In describing the pagan sensuality of the goddess of love, however, it, too, must have been influenced by Lucretius's Hymn to Venus, like Botticelli's Mars and Venus, which reflects the twin themes of sexual pleasure and peace, as Mars reclines, "his shapely neck thrown back."

和訳するとこうなります。

しかし愛の女神の異教的な官能性の描写は、これもまたLucretiusの『ヴィーナスの讃歌』に影響を受けているに違いない。例えばBotticelliの《マルスとヴィーナス》である。これは性的な悦びと平和という対のテーマを反映している。マルスが「彼の格好のいい頸をのけぞらせて」横になっていることからこのことが言える。

『物の本質について』の冒頭にあるヴィーナスを讃えている部分の一節に、マルスが頸を仰け反らせている表現があります。これをもって《マルスとヴィーナス》(ちなみに発見当初はこの名前で呼ばれていた)との間に関連性があると言っているわけです。しかし、この詩の記述ではヴィーナスに膝枕をしてもらって彼女に顔を向けようと頸を仰け反らせているのですから、絵の描写とは完全に一致はしません。

Brownのこの記述についての注釈を見ると、『The Cambridge Companion to Lucretius』(2007)に寄稿しているValentina Prosperiの『Lucretius in the Italian Renaissance』を、Lucretiusと≪ヴィーナスとマルス≫の関係の根拠にしていることが分かります。そこには次のような指摘があります(kindle版なのでページが分からないが注釈24付近)。

The iconography of Botticelli's painting of Venus and Mars may derive immediately from an astrological interpretation of the myth by Marsilio Ficino, but the pose of Mars may be inspired by Lucretius' description of the  war-god's 'shapely neck thrown back'.

和訳するとこうです。

Botticelliの絵画≪ヴィーナスとマルス≫の図像は直ちにMarsilio Ficinoによる神話の占星術の解釈から導くことができるが、マルスの姿勢はLucretiusによる戦いの神の「仰け反っている形のよい頸」という記述に触発されたのかもしれない。

この部分にある注釈24にGombrich 1972:215 n.133.と書いてあり、この指摘の根拠がGombrichの論文であることが分かります。ただ確認してみると、Gombrich 1972とはBotticelliの神話画に関するとても有名な考察であるGombrichの「Botticelli's Mythologies」が載っている本を指すのですが、この参照は本文ではなく、注釈に対してのものでした。

まず、その注釈が何についてのものかを示すためにGombrichの本文の方を先に示します。この注釈が添えられている文章は≪マルスとヴィーナス≫(Gombrichもこの絵を発見当初の名前で呼んでいる)についての節の冒頭付近にあります。Nesca N. RobbによるFicinoの『愛について』と≪マルスとヴィーナス≫との関連性を指摘し、『愛について』の一節(後述)を引用した直後の文章です。

This is clearly a case when trait which has hitherto defied explanation would acquire coherence and meaning in the light of Ficino's doctrine.
The contrast between the deadly torpor of Mars and the  alert watchfulness of Venus has often been remarked.Neither the description of Mars and Venus in Poliziano's Giostra, nor its apparent model, the passage in Lucretius, accounts for it.

訳すとこうなります。

明らかにこれは、これまで解釈を受け付けなかった特徴がFicinoの教義に照らすことにより一貫性と意味が得られた事例である。マルスの死んだような無気力さとウェヌスの油断のない注意深さとの対比はたびたび指摘されてきた。しかしPolizianoの『ジョストラ』におけるマルスとウェヌスの描写だけでなく、その明白なモデルであるLucretiusの一節でも、これを説明はできない。

この文章の中のLucretiusの一節と≪ヴィーナスとマルス≫との関係を説明するためのものが注釈133というわけです。『Lucretius in the Italian Renaissance』の注釈にはGombrichと書いてあるだけなので、GombrichがLucretiusの一節とこの絵が関係あると主張していると勘違いしてしまいそうですが、Gombrich本人は既存の間違った解釈がどのようなものかを示すためにこの注釈を添えています。このことを確認したうえでGombrichのBotticelli's Mythologiesの注釈133の内容を見てみます。

この注釈は次のように始まります。「the passage in Lucretius, recently adduced by Panofsky, looks tempting enough.」(最近Panofskyによって提示されたLucretiusの一節は、十分に心をそそられる)。注釈されている本文を知っていれば、temptingが皮肉っぽく聞こえてくると思います。続けて『物の本質について』第一巻31行目以降の数行を、古い文体の英訳で引用しています。

Thou(Venus) alone canst delight mortals with quiet peace, since Mars, mighty in battle, rules the savage works of war, and often casts himself upon thy lap wholly vanquished by the ever living wound of love, and thus looking upward with shapely neck thrown back, feed his eager eyes with love, gaping upon thee, goddess, and as he lies back his breath hangs upon thy lips

この引用の中に例の「shapely neck thrown back」という記述があります。念のためPanofskyの本の該当箇所を見てみると、これもまた本文ではなく注釈でした。そしてそこにはこの英文ではなくラテン語原文が引用されていました。したがってGombrichの本の注釈にある英語のこの記述こそが、Valentina Prosperi、さらにそれをAlison Brownが引用しているLucretiusとBotticelliを結びつける「shapely neck thrown back」の出所ということになります。さらに英訳そのものが誰の訳であるかを調べてみると、手元にあるLoebのW.H.D.Rouseによる訳とほとんど同じでした。ただそれだと古風な単語は使われていません。おそらくその古い版からの引用なのでしょう。

Panofskyの本の該当箇所を見てわかったことがあります。これは正確にはBotticelliの《ヴィーナスとマルス》とよく比較されるPiero di Cosimoの作品に対する解説でした。その説明としての、Lucretiusの冒頭付近の引用でした。ただし、その引用の前でBotticelliの《ヴィーナスとマルス》のことを、Botticelli's  rendering of the same subject(同じ主題をBotticelliが描いたもの)と呼んでいるので、これを根拠にPanofskyがBotticelliのこの作品をLucretiusに関連するものだと考えていたと、Gombrichは判断したのでしょう。そういうちょっとした論理の飛躍がないと注釈133の内容は成り立ちません。それにしても参照をたどっていくと、誰も明確にBotticelliとLucretiusの関係を指摘していなかったことに驚きます。参照を経るごとにいつのまにか既成事実化されていった説だったわけです。

このLucretiusの引用の後、Gombrichは「shapely neck thrown back」という言葉は確かにBotticelliの絵の中で具現化されていると指摘しますが、それと同時にBotticelliの絵とLucretiusの詩ではマルスの体の位置が違うという大きな問題があることをはっきりと述べています。

そしてLucretiusの影響を受けたとみられるPoliziaoの『ジョストラ』でも、体の向きはLucretiusの詩と同じ向きであることを、該当箇所の『ジョストラ』第1巻の第122節前半をその英訳とともに引用して示しています。この詩は見るからにLucretiusの影響を受けています。直接なのか、参考にした古典の詩から影響を受けていたのか判断はつきませんが、Lucretiusのヴィーナスを讃えている部分を思い起こす内容になっています。

Trovolla assisa in letto fuor del lembo,
pur mo’ di Marte sciolta dalle braccia,
il qual roverso li giacea nel grembo,
pascendo gli occhi pur della sua faccia:
(He finds her sitting on the edge of the bed,
emerging from the embrace of Mars,
who was lying on his back in her lap,
feasting his eyes on her face.)

そして、『ジョストラ』と≪ヴィーナスとマルス≫が関係あるとする説の紹介として、G.F.Youngの『The Medici』第1巻226ページへの参照があります。これは1930年に書かれた、メディチ家の有名な人物を一人一人紹介している本です。その中の第8章Lorenzo the Magnificentの章の中で、Botticelliの作品のことが詳しく書かれています。Youngは、Botticelliの《ヴィーナスの誕生(Birth of Venus)》、《マルスとヴィーナス(Mars and Venus)》、《春(Return og Spring)》はLorenzo the Magnificentのために描かれ、それがPolizianoの『ジョストラ』と同じ内容だという説をとっています。なおこの記述の中には一言もLucretiusについての指摘はありません。

GombrichはYoungによる『ジョストラ』と≪ヴィーナスとマルス≫の関連性の指摘を次のように、これも皮肉っぽく語っています。Youngの書いたものは引用せず、この文章でこの注釈をしめています。

Through a strange confusion G.F.Young gives a description of the painting which is represented as a summary of the scene in Poliziano --- small wonder that the picture looks like an exact illustration of this imagined text.

訳すとこうです。

奇妙な混乱を通してG.F.YoungはPolizianoが書いた場面の要約として描かれているとその絵画の説明をしている。この絵がこの想像された文章の正確な挿絵のように見えても不思議ではない。

この混乱とは、一見、マルスの姿勢の違いを表しているように思えますが、実は違います。『The Medici』226ページにある《ヴィーナスとマルス》の説明を次に引用します。

Following this we have the second picture. The tournament is over; Giuliano has carried all before him and rests from his fatigues, basking in beauty's smiles. Politian, in his poem, alluding to Giuliano as the victor in the tournament, had told the story of Mars and Venus, and described Venus, reclining in a woodland glade, robed in gold-embroidered draperies, watching Mars with limbs relaxed lying asleep on the grass, while little goat-footed satyrs played with his armour. This scene Botticelli takes for his second picture, and as before follows closely Politian's words.

訳すと、

続いて二つ目の絵画である。槍試合は終わり、Giuliano は彼の前に全てを放り出して、疲れから休息している。そして美女の笑顔を浴びている。Polizianoは、彼の詩の中で、大会の勝者としてのGiuliano をほのめかしながら、マルスとヴィーナスの物語を語っている。そしてヴィーナスを説明している。彼女は森の中の空き地に横たわっている、金刺繍の服を着ている、そして手足を伸ばして芝生の上で寝ているマルスを見つめていると。一方でヤギの足をした小さなサテュロスたちが彼の鎧で遊んでいる。このシーンはBotticelliが二番目の絵として描いていて、前と同じようにPoliziaoの言葉をとてもよくまねている。

どう見ても、YoungはBotticelliの絵の描写の文章なのにそれをPolizianoの詩の内容の文章と間違えています。これを指してGombrichは「Through a strange confusion」という言葉を使っているようです。こんな内容だと「small wonder that the picture looks like an exact illustration of this imagined text.」という言葉が相当な毒気を持っているのが分かります。そりゃ正確な挿絵にしか思えないでしょうね。そりゃそうです。

このことからも、Gombrichのこの注釈133は、≪ヴィーナスとマルス≫のLucretiusもしくはPoliziano出典説を、そうとう馬鹿にしながら書いています。実際論拠となるべきものが論破するまでもない稚拙なものなのですから仕方がありません。

そういう論調の注釈133を論拠に、ProsperiがLucretius説の可能性を指摘するのも褒められたものではありません。Gombrichによる批判に対して多少の反論する文章を載せてから、このLucretius説の可能性を指摘すべきでしょう。先ほども書きましたが、この引用の仕方だと、Gombrichが多少なりともこの説に可能性を見出しているかのように見えてしまいますが、確かめてみると全く逆です。さらに、Prosperiの引用をBrownがより強い確信をもって引用してしまって、この本を読む限りこの説が既成事実化してしまっています。とにかく、この一連のLucretiusもしくはPoliziano出典説はまったく成り立ちません。

では、一方のGombrichが冒頭に書いているFicino出典説はどうかというとこれも残念ながら、成り立ちません。先ほど書いたように、GombrichはLucretiusやPolizianoの影響を否定する前に、Ficinoの『愛について』の一部分がこの絵の表現に似ていることを指摘しています。ここで引用されているのは第5巻第8章の一部です。

Mars is outstanding in strength among the planets, because he makes men stronger, but Venus masters him.... Venus, when in conjunction with Mars, in opposition to him, or in reception, or watching from sextile or trine aspect, as we say, often checks his malignance ... she seems to master and appease Mars, but Mars never masters Venus....

よく見ると分かるように、何カ所か省略されています。この英文の全文が手に入らなかったので、ラテン語原文の該当部分を示します。上記の引用に該当する部分を赤で示します。

Diis aliis, id est, planetis aliis Mars fortitudine prestat, quia fortiores homines efficit. Venus hunc domat. Quando enim Mars, in angulis celi vel secunda nativitatis domo vel octava constitutus, nascenti mala portendit, Venus sepe coniunctione sua vel oppositione vel receptione, aut aspectu sextili aut trino Martis, ut ita dicam, compescit malignitatem. Rursus quando Mars in ortu hominis dominatur, magnitudinem animi iracundiamque largitur. Si proxime Venus accesserit virtutem illam magni animi a Marte datam non impedit, sed vitium iracundie reprimit. Ubi clementiorem facere Martem et domare videtur. Mars autem Venerem numquam domat.

都合がいい部分を抜き出したという感じが否めません。ラテン語の意味がそう解釈できるのではなく、結論だけ言うと、選んだ英訳に誤訳があり、拾っていくとたまたまこう読み取れるというだけです。原語の言葉遊びでBotticelliの神話画の解釈をしている僕が言うのも変ですが、正しい意味ではもちろん、言葉遊びをしてもこの文章からはこの絵を導けません。

ここに、日本語訳である左近司祥子訳の『恋の形而上学』にある該当部分を引用します。

「他の神々以上に」すなわち、他の諸惑星と比べて火星(アレース)は強さという点でまさっている。なぜなら強い人を造るのが火星なのだから。しかし、その「火星をさえ金星(アプロディーテー)は抑えている」。というのは、火星が天宮の第二室とか第八室にある時生まれた人は、この火星のために悪運に取りつかれるはずである。しかし金星はこの悪運を逆転させることができる。たとえば、この時に金星が火星と合の位置にあったり、衝の位置にあったり、セキスタイル(座相六〇度)の位置を取ったり、トライン(座相一二〇度)だったりするとこの悪運は消え去る。また、火星の支配下に生まれた人は、雄大で荒々しい魂を火星から与えられるのだが、その時近くに金星が居ると、火星から与えられた魂の雄大さという美点はそのままで、荒々しさという欠点だけが是正されることになる。このことからも金星が火星を手なずけ、抑えているのが分かる。「しかし火星が金星を抑えることはない。」

上記の英訳の断片よりも的確な訳だと思います。元々占星術に関する記述なので火星や金星と書かれていますが、それをギリシア語名で読み仮名を振っています。これはこの本がギリシャ語で書かれたプラトンの『饗宴』の注釈だからという翻訳方針だそうです。金星、火星を分かりやすいようにヴィーナス、マルスと書き替えたところで、この絵の描写を思い浮かべることは難しいでしょう。翻訳する言語が変わっただけで意味が失われるというのでは、Ficinoの作品を典拠とする説は否定せざるを得ません。

以上のように、Lucretiusの『物の本質について』が出典であるとする説をたどっていきながら、《ヴィーナスとマルス》に関するいくつかの説を見てきました。これがすべてではありませんが、どれ一つまともなものがありません。信頼のありそうなBotticelliの他の神話画に関する論説も、実際原典を読んでみると、たいてい論理的に破綻しています。研究そのものはとても意味深いもので、その主張を書き残すのは大いに結構なことですが、他人の仮説をさも真実であるかのようにばらまいている解説には、うんざりします。

ところで、この「shapely neck thrown back」という表現を、全体としては否定的に扱いながらも、Gombrichがわざわざ抜き出して指摘したのも、この表現が確かに絵の中の描写を表していることを認めているからに他なりません。Prosperiが問題点を知りながらもわざわざ注釈の中から拾い上げたのも、そしてBrownが確信をもって伝えたのも、この表現が見過ごせないほどに魅力的に思えたからに他ならないでしょう。それもそのはずです。この絵はLucretiusの『物の本質について』の「ヴィーナスの讃歌」と呼ばれる冒頭部分そのものなのです。この表現がこの絵にぴったりなのは、Lucretiusの詩を言葉遊びで描きこんだこの絵の中に現れた、数少ない字義通りの描写だったからです。このことをゆっくり丁寧に説明していきます。



posted by takayan at 14:22 | Comment(0) | TrackBack(0) | ヴィーナスとマルス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする