2012年02月04日

《ヴィーナスの誕生》アフロディーテ讃歌の翻訳(7)

ホーラがアフロディーテを飾る記述の最後の部分です。そして彼女たちは神々のところへとアフロディーテを連れて行きます。

οἷσί περ αὐταὶ Ὧραι κοσμείσθην χρυσάμπυκες,
ὁππότ᾽ ἴοιεν ἐς χορὸν ἱμερόεντα θεῶν καὶ δώματα πατρός.
αὐτὰρ ἐπειδὴ πάντα περὶ χροῒ κόσμον ἔθηκαν,
ἦγον ἐς ἀθανάτους:

本来の訳は次のようになります。

黄金の飾りを付けたホーラたちが自分自身を飾る物を、
神々の優美な舞や、父親の家に、彼女たちが向かうときに。
彼女たちは(女神の)体を完全に飾り付けて、
彼女たちは神々の方へと進んだ。

これも、そのままではボッティチェリの絵と意味が通じません。

 

最初の文は、本来の意味では、前述のネックレスについて説明する文です。

οἷσί περ αὐταὶ Ὧραι κοσμείσθην χρυσάμπυκες, ὁππότ᾽ ἴοιεν ἐς χορὸν ἱμερόεντα θεῶν καὶ δώματα πατρός.

これは、二つの節をまとめて解釈します。

最初の節にある動詞はκοσμείσθηνで、κοσμέω(飾る)の三人称双数現在希求法中動態とするのが本来の解釈です。この文には主格のὯραιがはっきりとあるのですが、ずっと言っているようにこれを単数形と解釈するために、主格ではなく与格と解釈します。なお、ここで双数で書かれていることから、本来の主語ホーラたちが二人であることを示しています。一般的なホーラたちは三人組か四人組ですが、このアフロディーテ讃歌におけるホーラたちは二人組の可能性があるということです。

では、何が主語となるかですが、本来の解釈でὯραι と並列して修飾している主格のχρυσάμπυκεςだけを主語とします。つまり、主語が「黄金の飾りを付けたホーラたちが」から、「いくつかの黄金の飾りが」もしくは「黄金の飾りを付けた者たちが」に変わるわけです。χρυσάμπυκεςはχρυσόςとἄμπυξの合成語です。前者は黄金で、後者は、王冠や額の飾りを意味します。ἄμπυξのイタリア語での意味はbenda、diadema、frontaleなどがあります。

ギリシア語では中動態と受動態が同じ形をしていることが多いのですが、この場合もこの動詞は受動態とも解釈できます。そうなると、物が主語となっても自然な文章が作れます。また動詞が双数形なので、この主語となる黄金の飾りも二つ組みになる可能性が出てきます。この受動態の行為者は与格で示されるので、飾られるのは一人のホーラとなります。つまり、この解釈が合っているかどうかを判断するには、ボッティチェリの絵のホーラに描かれている黄金の物を探せばいいということが分かります。

しかし、ホーラ自身としては複数になっている金色をしている物をもっていません。あるのは、左腕だけに結んだ金色の薄い帯だけです。先ほど調べたイタリア語での意味にはbendaつまり包帯や目隠しというのがあります。絵の様子では怪我をしているようには見えませんが、包帯もしくは単なる帯と考えればいいでしょう。

hora_gold

このように金色の物が2つあるべきなのに1つしかない訳ですが、この節の動詞が希求法で描かれていることを思い出すと、これもうまい具合に説明できます。つまり、現実には片方にしか飾りがありませんが、両方を飾れたらいいなあという希望を表していると考えればいいわけです。ここでは片方だけ描くことで物足りなさを演出しています。

つまり、この節の意味は、

二つの金の帯状の物が、ホーラ自身によって飾られればいいな。

となります。

次の節の動詞はἴοιενで、これはεἶμι(go、be)の能動態希求法三人称複数現在です。本来の主語は、明示されていませんが、ホーラたちです。ホーラたちの父親はアフロディーテと違ってゼウスなので、父親の家とは神々が集まるオリュンポスをイメージしているのではないかと思います。今回の解釈には関係ありませんが。

この節は、前置詞ἐςが支配している与格で表現された二つの目的が記述されています。この構造そのものを変えることは難しそうなので、つまりχορὸν ἱμερόεντα θεῶνとδώματα πατρόςについてこの絵に合った別の解釈ができないか考えるわけです。

χορόςにはダンスだけでなく、合唱の意味もあります。この絵の中で、踊っている者はいませんが、歌っているようにみえる者はいます。左の海の上を飛んでいるゼピュロスとその隣の女神です。彼らは共に口から息を出しています。息だけでなく声まで出ているかは分かりませんが、風はときには音を立てて吹きますから、この様子を歌うと描写することも可能でしょう。

coro

χορόςを修飾している形容詞ἱμερόειςですが、この意味は「欲望を引き起こす、優美な、愛らしい、うっとりする」などとなります。この絵の場合は「欲望を引き起こす」がぴったりでしょう。その後から修飾しているθεῶνは複数属格で、「神々の」となります。合わせると、「神々の欲望を引き起こす合唱」となります。

今度は、もう一つの前置詞の目的語δώματα πατρόςです。一般的な意味はδῶμαが家、πατήρが父ですが、これをどうにか別の意味に解釈してみます。δῶμαのイタリア語での意味を調べるとcasa、dinora、sala、camera principale、tempio などが出てきます。tempioは「神殿」を意味しますが、あとは「家」のいろいろなバリエーションです。ここで注目すべきは、salaという言葉です。この項目での意味は「かなり広い部屋」を意味しますが、同じ綴りの植物の「ガマ」を表す言葉があります。もちろんこの絵の左下に生えている植物のことです。

sala

運良くガマという言葉は出てきたのですが、それを修飾しているπατρόςが問題です。これは「父親の」とか「祖先の」という意味しかありません。このガマが誰の物かなんて分かりませんから、こういう表現はダメでしょう。ではどうすればいいのかと考えると、この蒲の穂の形です。これペニスと思いましょう。下の白い波は精液としましたが、その上に金色のペニスが並んでいるというすさまじい絵になってます。

アフロディーテはクロノスの切り落とされたペニスから出た泡から生まれたことになっています。ペニスは生殖にはなくてはならないものですが、アフロディーテにおいてはそういう衝撃的な出来事がある以上、より特別な存在になります。そういうわけで、イタリア語でsalaを意味するδώματαにπατήρ(父の)という修飾語が付けば、家を意味するsalaではなく、ペニスを思わせるガマのsalaを意味していると解釈できます。

この文章の複数の主語ですが、今までの内容から、翼のある二人の神々と考えていいでしょう。男の神の方はゼピュロスで問題ありませんが、女性の神の方は現時点では誰だか分かりません。全体の意味は次のようになります。

彼らが神々の欲望を引き起こす合唱をして、父なるガマのところにいるときは、(ホーラの)二つの金色の帯状の物がホーラ自身によって飾られればいいのにな。

相変わらず、妙な意味の文章ですが、ボッティチェリの絵に合わせて解釈すると、このような意味を導くことができてしまいます。

 

そして、ホーラたちがアフロディーテの飾り付けを終えて、神々のところへアフロディーテを導く場面です。

αὐτὰρ ἐπειδὴ πάντα περὶ χροῒ κόσμον ἔθηκαν, ἦγον ἐς ἀθανάτους:

それぞれの単語の意味を調べてみます。αὐτὰρ ἐπειδὴは接続詞で、意味は「そして」でいいです。πάνταは副詞とみなして「完全に、すっかり」とします。περὶは接続して後ろの与格を支配します。意味は「そのまわりに、近くに」という意味になります。χροῒ は中性名詞χρώς(皮、肌、身体)の与格単数です。その後にあるκόσμονは、男性名詞κόσμος(順序、飾り)は対格単数です。そして動詞ἔθηκανは、τίθημι(配置する)の三人称複数アオリストです。ἦγονは、動詞ἄγω(導く、運ぶ、進む)の三人称複数未完了過去です。ἐςは前置詞で、後ろの対格を支配していて、このときは英語の「to」に相当します。ἀθανάτουςは、形容詞ἀθάνατος(不死の)の複数女性対格ですが、ここでは名詞として「神々」とします。

最初の節ですが、本来の主語であるホーラは複数ではないので使えません。また本来の飾られる対象であるアフロディーテは周りの誰からも飾られていないので、すっかり飾られたなんて言えません。では誰が誰を飾っていることになるのでしょうか。「πάντα περὶ χροῒ 」とありますから、「身体の周りをすっかり」飾っている複数の人物ではないといけません。それを踏まえて絵を見れば、自ずとそれが翼のある二人であることが分かります。彼らの周りには、バラの花が舞って、彼らを飾っています。

これだけの情報でもいいのですが、ここでさらにτίθημιの意味を、もっとこの絵に合うようなものはないか探してみます。そうすると、英語のギリシャ語辞典にはmake、cause、createという意味が載っています。「飾りを配置する。」よりも「飾りを生じさせている。」とした方が花の由来も明示できていいでしょう。

次の節ですが、動詞ἦγονは三人称複数で、やはり翼のある二神のことになります。この場合は自動詞として訳さないといけないので「進む」と訳します。そして未完了過去なので、「進んでいた。」とします。目的地のἀθανάτουςは、以前出てきたようにホーラが手に持っている衣装に描かれている花の名前と解釈して「アタナトス」としてもよいでしょう。向いている方向にはその花が描かれている衣装があるのですから。しかし、そこには同時にアフロディテと一人のホーラがいて、書かれているように複数の神々もいますので、わざわざ植物の名前に置き換えなくてもいいかもしれません。

従って、この文は、次のようになります。

そして彼らは体の周りに飾りを生じさせて、神々の方へと進んでいた。





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2012年02月07日

《ヴィーナスの誕生》アフロディーテ讃歌の翻訳(8)

後もう少し続きます。

οἳ δ᾽ ἠσπάζοντο ἰδόντες χερσί τ᾽ ἐδεξιόωντο καὶ ἠρήσαντο ἕκαστος εἶναι κουριδίην ἄλοχον καὶ οἴκαδ᾽ ἄγεσθαι, εἶδος θαυμάζοντες ἰοστεφάνου Κυθερείης.

この本来の解釈はこんな感じです。

喜んで出迎えて彼女を見た者たちは、彼女に手を差し出し挨拶をした。スミレの王冠をしたキュテレイア(アフロディーテの異名)の美しさに驚嘆し、誰もが彼女を正統な妻として家に連れて行きたいと願った。

美しいアフロディーテの姿を見た神々は誰もが彼女を嫁にしたいと思ったというわけですが、この記述も《ヴィーナスの誕生》の描写にしてしまいましょう。

しかしこれは難しい。一番見通しが悪いです。当然アフロディーテはスミレ色の王冠は付けてはいませんし、それを出迎えている複数の神々もいません。ただこの絵のホーラの服にはスミレ色の花が描かれています。またホーラは右手をアフロディーテの方に差し出しています。この描写がヒントになりそうです。

それでは、ギリシア語を解釈していきます。

ἠσπάζοντοは動詞ἀσπάζομαι(喜んで出迎える)の中動態三人称複数未完了過去です。οἵはここでは関係代名詞の複数主格男性で、この節そのものが主語となっていて、それを動詞εἶδω(見る)のアオリスト分詞複数男性主格のἰδόντεςが修飾していると考えます。ここまでは本来の解釈と同じなのですが、ここで動詞ἀσπάζομαιの別の意味を持ち出します。

ἀσπάζομαιは、「優しく迎え入れる、喜んで迎え入れる」という意味が第一義にあるのですが、他に挨拶に関連して、「抱きしめる(イタリア語でabbracciare、英語でhug)」、「キスをする、そっと触れる(イタリア語でbaciare、英語でcaress)」という意味を持っています。これを利用します。このabbracciareという動詞は植物に関して使うと「巻き付く、絡み付く」という意味があります。そうです。この意味によりホーラの首と胸の下に絡み付いている植物の描写が説明できることに気付きます。

abbracciare

また、baciareの「そっと触れる」という意味を見て、ホーラに何かそっと触れている物はないかと考えてみると、確かにあります。風になびくアフロディーテの髪がそっとホーラの右手の指に触れています。

baciare

ἀσπάζομαιにあるabbracciareとbaciareの意味はどちらも捨てがたいです。とりあえず両方の意味を採用しておきましょう。矛盾が起きたら、そのとき対処します。

本来の解釈で中動態であるこの動詞は受動態とも解釈できます。したがってοἳ ἠσπάζοντο ἰδόντεςは「アフロディーテの髪にそっと触れられている、もしくは(植物に)巻き付かれている、彼女を見ている者たち」と解釈できます。解釈としてはこれでいいでしょう。いいのですが、数が足りません。この語句は複数形なので、一人のホーラでは数が合いません。他にも誰か必要です。

アフロディーテの髪が触れているホーラの指先から少し視線を上に上げると、同じようにアフロディーテの髪が触れているものに気付きます。ホーラの向こう側にある木の葉にも、アフロディーテの髪が触れています。この木も擬人化してこの言葉に取り込んでしまいましょう。そうすれば、「アフロディーテの髪にそっと触れられている、もしくは植物に巻き付かれている、彼女を見ている者たち」という言葉がこの絵でちゃんと成り立ちます。木々は物を見ることができませんが、物が見えるなら十分にアフロディーテを確認できる位置にあります。

この語句を主語として、χερσί ἐδεξιόωντοの語句があとに続きます。χερσίは女性名詞χείρ(手、腕)の複数与格です。ἐδεξιόωντοは動詞δεξιόομαι(手を差し出して迎え入れる)の中動態三人称単数未完了過去です。ホーラはまさにこの言葉通りに手をアフロディーテへと差し出しています。そして、ホーラの向こうにある木も、枝をその腕とみなすならば、ホーラの仕草を真似るように枝をアフロディーテの方に伸ばしています。ここまでまとめると、「アフロディーテの髪にそっと触れられている、植物に巻き付かれている、彼女を見ている者たちが、彼女の方に腕を伸ばしていた。」と解釈できます。やはり、ホーラと木を一緒にして考えるとうまく解釈できるようです。

arm

さらに進みます。「ἠρήσαντο ἕκαστος εἶναι κουριδίην ἄλοχον καὶ οἴκαδ᾽ ἄγεσθαι」は、本来の解釈では「彼らは彼女を正式な妻とすることを、そして自分の家に連れて行くことを願っていた。」となります。この意味をそのままこの絵の中に見いだすのは難しかったのですが、ホーラの後ろの木も主語になっていることを踏まえれば、この文章をどう解釈すればいいのか分かってきます。

木々にはあまり目立ちませんがいくつもの花が咲いています。花は受精することを期待して咲いている存在です。花々にとって、正統な妻とは何かと考えれば、受粉を介在してくれるミツバチなどの虫が挙げられます。ちなみに、ミツバチはギリシア語でもイタリア語でも女性名詞μέλισσα、apeですので、花嫁と呼んでも違和感はないでしょう。この文の動詞はἠρήσαντοで希求法ではありませんが、不定詞をともなって願望を表現している表現なので、いまここにミツバチが描かれている必要はありません。

tree_flower

これは木に対してだけでなく、ホーラに対しても言えなくてはいけません。なぜならἕκαστος(every)という言葉があるからです。ここで先ほどの花の付いた枝を巻き付けた描写が生きてきます。彼女の体には生きた花が咲いているので、木と同じようにこの花に花嫁としてのミツバチが来るのを望むことが可能になります。これにより、体に植物が巻き付いている描写も含めていいことがはっきりしました。

もう一つの願望として「οἴκαδ᾽ ἄγεσθαι」があります。このοἴκαδ᾽(家へ、故郷へ)は末尾が後ろの母音のせいで消えていますが、本来はοἴκαδεという形になります。この二語で「家に連れて行くこと」と本来は意味します。この表現も絵の中では簡単には分かりませんでしたが、植物にとっての話だと気付けば理解できます。

植物にとっての故郷は根のある地面です。受粉が終われば果実が実り、種が地面に落ちます。本来の解釈と同じように最初の不定詞の目的語と共通にする必要もありませんから、この語句の目的語は花嫁ではなく種とします。つまり、「(種を)故郷に持って行くこと」となります。これもまだ実現されていないことなので、描写そのものはありませんが、生きた花を描けばそれは、そのような未来を予感させてくれます。もちろん、この描写も、体に花を咲かせているホーラにおいても成り立ちます。

そして、分詞句「εἶδος θαυμάζοντες ἰοστεφάνου Κυθερείης」です。Κυθερείηςはアフロディーテの異名です。これも地名に由来する名前ですが、他のものを意味していると解釈するのは難しいので、そのままこの絵のアフロディーテその人だと考えます。Κυθερείηςは女性名詞で、属格単数です。

その前にあるἰοστεφάνουは形容詞で属格単数で、後ろと一致します。この形容詞はスミレを意味するἴονと王冠や花飾りを意味するστέφανοςの合成語で、「スミレで作った花冠をした」を表しています。本来の解釈ではアフロディーテを形容して、「スミレの王冠をしたアフロディーテ」です。

本来の解釈ではこれがさらにεἶδοςを修飾しています。これは中性名詞で、主格単数もしくは対格単数です。意味は「見ること」ですが、「姿、美しさ」も意味します。このとき格は対格とします。したがって、「スミレの王冠をしたアフロディーテの美しさを」としました。

この絵の中にはスミレ色の花冠はありません。しかし、スミレ色のものはホーラの着ている服に描かれています。その花を見ていると、黒く丸い頭にスミレ色のトゲのある冠をかぶったような形で描かれています。これでスミレ色の王冠を描いていると考えます。この言葉の意味を拡張して、「スミレ色の王冠柄の服を着た者」と解釈します。

violet

この単語の前にはθαυμάζοντεςがあり、これは動詞θαυμάζω(wonder、驚嘆する)の現在分詞の複数男性主格です。θαυμάζωの意味をもう少し調べてみると、まれな意味としてfavorireがあります。これには一般的な「助ける、支持する」という意味の他に、「与える、差し出す」という意味もあります。この意味は使えそうです。

この差し出している動作の主語としてホーラを意味するとした属格ἰοστεφάνουを考えます。他方残りの属格Κυθερείηςは動作の対象とします。そしてこのときεἶδοςは対格とします。意味は「bellezza、美しい物」とします。節全体を合わせると、「キュテレイアに美しい物をスミレ色の王冠柄の服を着た者が差し出している。」となります。まさにこの描写そのものの記述になります。

この分詞句は、本来は先行する節の理由を表すものとして解釈していますが、今回はこの現在分詞が時間的関係を示すものとして解釈します。

したがって、全体はこのようになります。

アフロディーテの髪にそっと触れられている、もしくは(植物が)体に巻き付いている、アフロディーテを見ている者たち(ホーラと木)が、彼女の方に腕(/枝)を伸ばしていた。彼らは花嫁(となる蜜蜂)が来ることと、(種を)故郷(である地面)へ導くことを願っていた。それはキュテレイア(アフロディーテの異名)に美しい物をスミレ色の王冠柄の服を着た者(ホーラ)が差し出しているときだった。

以上のように、この文章はホーラとその向こう側にある木々の描写を示している記述であると考えます。さらに、この風景の中にある遠くの木々もこの文章の影響下にあると説明できます。つまり、アフロディーテが見える位置にある木は腕を伸ばしていますが、アフロディーテから離れている位置の木々は腕を伸ばしていません。

trees

この文章はかなり技巧的な解釈が必要だったため、予想以上に時間がかかってしまいました。でも時間をかけた甲斐はありました。この記事を書く前は、髪が触れている描写や、θαυμάζωに「差し出す」という意味があることには気付いていませんでした。その収穫はとても大きかったと思います。

やっと次回で『アフロディーテ讃歌』の解釈は終わりです。



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2012年02月09日

《ヴィーナスの誕生》アフロディーテ讃歌の翻訳(9)

最後の部分は讃歌の作者自身の締めの言葉です。

χαῖρ᾽ ἑλικοβλέφαρε, γλυκυμείλιχε:
δὸς δ᾽ ἐν ἀγῶνι νίκην τῷδε φέρεσθαι, ἐμὴν δ᾽ ἔντυνον ἀοιδήν.
αὐτὰρ ἐγὼ καὶ σεῖο καὶ ἄλλης μνήσομ᾽ ἀοιδῆς.

本来の解釈は次のようになります。

恥じらいがちの目つきの者よ!甘いほほえみでうっとりとさせる者よ!万歳!
この争いの中で勝利を収めることを許したまえ! 私の歌を飾りたまえ!
では、私は、あなたを、そしてもう一つの歌を、思い出そう。

 

このギリシア語の文章も今までやってきたように、《ヴィーナスの誕生》に合うような解釈を考えてみます。

最初の文は命令文です。

χαῖρ᾽ ἑλικοβλέφαρε, γλυκυμείλιχε:

χαῖρ᾽ は動詞χαίρωの命令法二人称単数現在です。ここでは末尾が省略された形ですが、本来の形はχαῖρεです。意味は「喜ぶ、うれしがる」で、特に命令形では「万歳!、幸あれ!」の意味で使われます。その後の、ἑλικοβλέφαρε, γλυκυμείλιχεは、どちらも形容詞の呼格単数女性です。

このἑλικοβλέφαρεの意味は、Perseusにある次の注釈19が参考になります。
Thomas W. Allen, E. E. Sikes, Commentary on the Homeric Hymns

つまり、本来の解釈では「with rolling eyes, quick glancing」という意味となっています。これは目の動きだけしか表していないので、どのようにもとれる表現です。目をきょろきょろ動かして動揺している様子なのかもしれませんし、活き活きとした目を表しているのかもしれません。目を意識的にぱちぱちさせて気を引こうとしている目つきかもしれません。上記の訳では、英語訳の「coy-eyed」を参考にして、「恥じらいがちな目つき」としました。

しかし、この絵ではそのような目の動きがある描写には思えません。そこで、この注釈で却下されている「with arched eyebrows」の方に着目しました。手元のギリシア語−イタリア語辞典で調べてみると「dalle palpebre sinuose o arcuate」となっています。sinuoseの意味は「曲がりくねった」、arcuateは「弓なりに曲がった、アーチ形の」です。

palpebre

この絵のアフロディーテのまぶたを見てみると、上下ともちゃんときれいな弓形をしています。恥ずかしがっている目にも、活発な目にも見えません。それよりもぼんやりと一点を見つめ物思いに耽っている表情に見えます。したがってこの絵においては「アーチ型のまぶたをした者よ」と解釈していると考えていいでしょう。

次に、γλυκυμείλιχοςですが、これはγλυκύςとμείλιχοςに分解できます。γλυκύςはグルコースの名前の由来にもなっている言葉で、「甘い」という意味があります。μείλιχοςの方も「甘い」という意味、「快い、心地よい」の意味があります。全体ではイタリア語で「dal dolce sorriso seducente」、つまり「人の心をとらえる甘いほほえみの」となります。

しかしこの表情もこの絵には描かれていないようです。絵の中の彼女の表情はほほえみには思えません。ではこの言葉は何を意味しているでしょうか。

γλυκύςの意味を調べていくと、植物リクイリツィア(liquirizia)という意味が出てきます。イタリア語でカンゾウ(甘草)のことです。唐突に植物の名前が出てくるのにはもう慣れました。きっと、この絵のどこかにリクイリツィアが描かれているはずです。

liquirizia

きっとそれは意味ありげにホーラの手の中で包まれているこの植物です。薔薇の葉にも見えますが、少し違うように見えます。また衣装の模様のようにも見えますが、よく見るとはみ出しています。イタリア語の辞書には、紫色の花を付けその根からジュースを抽出する植物とあります。

最初の行をまとめると、次のようになります。

弓形のまぶたをしたものよ!心地よきグルクスよ!万歳!

率直に言って、この文を元に描かれているホーラが手にしているのは、女性器の記号であり、この文はそれへの賛美です。性的な記号で満たされているこの絵で、それが隠されたままであるわけがないのです。

 

さて、次の文です。この絵の中でずっと正体不明だったゼピュロスの隣にいる女神の正体がその理由と共に書かれています。

δὸς δ᾽ ἐν ἀγῶνι νίκην τῷδε φέρεσθαι, ἐμὴν δ᾽ ἔντυνον ἀοιδήν.

この節の動詞はδὸςで、δίδωμιの命令法二人称単数アオリストです。後の方にある不定法を伴って丁寧な要求表現になっています。φέρεσθαιはφέρωの不定法中動態現在で、φέρωには「運ぶ、持つ」の意味があります。

ἐν ἀγῶνι νίκην τῷδε は前置詞ἐνに支配されてる与格のἀγῶνι τῷδεと、対格のνίκηνに分けられます。ἐν ἀγῶνι τῷδεの意味は、本来の意味では「コンテストの中で」と解釈されていますが、この絵ではコンテスト、競争といった描写があるようには見られませんので、他の意味を考えます。ここには神々が集まって描かれているのでriunione(集まり)でよさそうです。したがって、「ἐν ἀγῶνι τῷδε」は「集まりの中で」とします。

νίκηνは本来の文ではコンテストでの勝利の解釈されるものですが、ここでは勝利の女神ニケ(Νίκη)とします。翼のある女神で、竪琴を持ち、勝利の歌を歌います。つまりこの文は、ゼピュロスの隣にいて、口から息を出している翼のある女神のことを記述した文と考えます。

nike

女神ニケはルーブル美術館にある《サモトラケのニケ》が有名です。頭と両腕がありませんが、立派な翼を背中に持っています。なお《サモトラケのニケ》は19世紀に発見されたものなので、botticelliはこの像を見ていません。

《サモトラケのニケ》についてはルーブル美術館の以下のページを参照ください。
サモトラケのニケ | ルーヴル美術館 | パリ
ルーペで見る《サモトラケのニケ》

文章の解釈に戻ります。この文章がこの女神を表す言葉だと分かれば、「ἐν ἀγῶνι τῷδε」の意味も、この二人のことを示していることになります。そして、先ほど、この絵には競い合っている描写はないとしましたが、それも話が違ってきます。二人にはともに息が描き込まれています。つまりお互い競い合うように、ゼピュロスは風を起こし、ニケは歌を歌っているわけです。

φέρεσθαιは不定法の中動態で「連れて行く、同伴する」という意味があり、この意味で解釈してもこの変形した文章の意味は成り立つはずです。ただし不定詞の主語と命令文の主語は違ってきます。不定詞の主語はニケを連れて行くゼピュロスですが、命令文の主語はボッティチェリ自身です。ここの意味をまとめると「競争において(ゼピュロスが)ニケを連れて歩くことを許してください!」となります。

次の節の動詞はἔντυνονで、これは本来の解釈ではἐντύνωの命令法二人称単数アオリストですが、ここでは同形の一人称単数未完了過去とします。ἐντύνωの意味は「準備する、装備する、飾る」です。

ここで上の方でリンクしたホメロス風讃歌の英語注釈の[20]がヒントになりました。一人称単数の主語はもちろんボッティチェリです。補語は単数女性対格のἐμὴν ἀοιδήνとなります。ἐμὴνは「私の」で、ἀοιδήνは普通「歌」としますが、他に「神話、伝説」という意味もあります。したがって、この節は「私は私の神話を用意した。」となります。

この文をまとめると次のようになります。

競争において(ゼピュロスが)ニケを連れて歩くことを許してください!私は私の神話を用意したです。

そして最後の文です。

αὐτὰρ ἐγὼ καὶ σεῖο καὶ ἄλλης μνήσομ᾽ ἀοιδῆς.

この文の動詞はμνήσομ᾽ です。末尾を補うと、μνήσομαιです。これはμιμνήσκωの中動態一人称単数未来です。この語の中動態での意味は「思いを巡らす、熟慮する、言及する」となります。

冒頭のαὐτὰρは接続詞です。ἐγὼは代名詞で一人称単数主格で、動詞とちゃんと一致しています。σεῖοも代名詞で二人称単数属格です。そして、動詞の周りにある二つの単語が性数格が単数女性対格で一致して、一つのまとまりになります。このἄλλοςは普通は「もう一つの」という意味で訳します。ἀοιδήは以前にも出てきた単語ですが、意味は「canto(歌)」になります。このようにσεῖοとἄλλης ἀοιδῆςの二つの属格のグループができていいて、それぞれが動詞の補語になっています。

ここまでの考えで訳すと、「私はあなたと、別の歌について熟慮させよう。」になります。しかしこの内容では形として描けないので、ボッティチェッリの絵を詳しく眺めて、この中に描かれているものを表せるように解釈を工夫してみます。

ἄλλοςの意味はイタリア語での訳語はaltroですが、他にdiversoがあります。このdiversoの意味には、「違う、異なる、異質の」などがあります。ここでは「異質の」とします。ἀοιδήのイタリア語の訳語はcanto(歌)ですが、このcantoには同じ綴りの別の言葉があって、その意味は「片隅、角」です。合わせると、「異質な片隅」となります。

まとめるとこうなります。

私はあなたに異質な片隅を熟慮させよう。

私というのはもちろん絵を描いたボッティチェリです。あなたというのは、ボッティチェッリが隠したこの絵の意味に気付き、ここまでたどり着けた、今この絵を見ている私たち一人一人です。そして異質な片隅というのは、次の画像の左隅にある何かです。

(追記始まり 2012/02/10 ここは飛躍しすぎていたので、改めることにした。)

私はあなた(アフロディーテ)と異質な片隅を思い出すだろう。

私というのはもちろん絵を描いたボッティチェリです。あなたは、アフロディーテとします。そして異質な片隅というのは、次の画像の左隅にある何かです。(追記終わり)

canto

もっと詳しくこの角を確認したい場合は、次のリンク先のグーグル・アートプロジェクトの画像で拡大して見てください。Google Art Projectがなければ、この異常な角の存在に気がつくことはできなかったでしょう。

The Birth of Venus (Sandro Botticelli) : Uffizi Gallery

時間はかかりましたが、ようやく『アフロディーテ讃歌』の特殊な翻訳が終わりました。ごらんの通り、この文章を通常とは違う解釈をすると、一語も無駄にせずに、この絵の描写が現れました。素晴らしいです。理解できてしまえば、こんなにあからさまに描かれていたものに対し、500年も正しい解釈がされてこなかったことが、信じられないくらいです。

なお、『アフロディーテ讃歌』だけではこの絵の表現にいくつか足りないものがありますが、それは以前解釈したルキアノスの短い文章:「ἐπὶ πᾶσι δὲ τὴν Ἀφροδίτην δύο Τρίτωνες ἔφερον ἐπὶ κόγχης κατακειμένην, ἄνθη παντοῖα ἐπιπάττουσαν τῇ νύμφῃ.」、この中に見いだせます。アフロディーテが貝の上に立っていること、この絵の中で花が散らばっていることは、こちらの文章から導き出されます。



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2013年01月12日

《ヴィーナスの誕生》とルキアノスの文章

ボッティチェリの神話画の典拠についての独自の探求の続きです。今回は以前やった《ヴィーナスの誕生》の解釈(《ヴィーナスの誕生》 解答)の修正です。

次のリンクでとても細かな《ヴィーナスの誕生》を見ることができます。これを別に開きながら読むと少しはわかりやすいと思います。
The birth of Venus - google art project

去年、《ヴィーナスの誕生》と『アフロディテ讃歌』との関係を詳しく分析してみました(《ヴィーナスの誕生》アフロディーテ讃歌の翻訳(1))。ゼピュロスと一緒に飛んでいる女性が勝利の女神ニケだということが分かったり、手を伸ばす木と手を伸ばしていない木が描かれていることにも気づいたり、《ヴィーナスの誕生》の左角にある異様な角の存在を指摘できたりと、なかなかの収穫がありました。

今回は、以前に解釈したもう一つの典拠と思われる、ルキアノスの『海神たちの会話』にあるヴィーナスが登場する次の一文についてです。

ἐπὶ πᾶσι δὲ τὴν Ἀφροδίτην δύο Τρίτωνες ἔφερον ἐπὶ κόγχης κατακειμένην, ἄνθη παντοῖα ἐπιπάττουσαν τῇ νύμφῃ.

これは、牡牛に化けたゼウスに誘拐されるエウロパの物語の一場面です。花嫁を祝福している海神の一団の最後に愛の女神ヴィーナスが現れた様子を描いた文です。訳すと、「そしてみんなの後に貝の上に寝そべったアフロディーテが二人のトリトンに運ばれてやって来ました。彼女は花嫁にたくさんの種類の花々をまき散らしました。」という意味になります。

この文には、「貝」と「花」という単語があるので、訳の仕方によっては、絵の描写になるんじゃないかと以前やってみたわけです。そのときは、δύοとΤρίτωνεςを分けるなど、文法をかなり無視し強引に絵に合わせてみました。今思うと、恥ずかしい限りですが、それでもこの着想はなかなかよかったと思います。

 

それでは、言葉遊びに再挑戦してみます。

δὲ は単純な接続詞として、「そして」と訳します。ἐπὶ πᾶσι は本来は祝福に現れたみんなに続いてという意味になりますが、この前置詞ἐπὶは文脈によっていろんな意味になります。現時点では主語がはっきりしないので、保留にしておきます。

トリトンが描かれていないため、以前Τρίτωνες (Τρίτων)を第三のものを意味すると訳しました。理由として、Τρίτωνという語が「第3の」という序数詞τρίτοςから派生した語だと考えられているからです。そのとき性数格を無視して、Τρίτωνες だけを主語にし強引に解釈し、右の花柄の女性がホーラたち姉妹の三番目であるとしました。でもやはりδύοとΤρίτωνεςを分ける解釈には無理がありました。

さて、序数を使った表現といえば、英語の分数表現があります。基数と序数を使ったあれです。この表現は英語特有のものではありません。イタリア語でも、古典ギリシア語でも見られる表現です。おそらく単位分数に由来する表現でしょう。このΤρίτων(三番目のもの)がτρίτον μέρος(第三部分)を表すと考えるわけです。

δύο Τρίτωνεςが分数表現だとすると、ギリシャ語ではδύο τρίταと同じ意味となり、英語で書けばtwo thirds、イタリア語で書けばdue terzi、つまり3分の2ということになります。ここに描かれている主語となり得る3つのものを探すと、アフロディーテ以外の人物です。この3人のうち2人がこの文章の主語となると解釈してみます。動詞がφέρω「運ぶ、連れて行く」なので、この意味に合う2人の組み合わせは、ゼピュロスが含まれる飛んでいる2人の可能性が高いでしょう。

ἔφερονの原形φέρωのイタリア語での意味を調べると、一般的にはportareです。ゼピュロスの運ぶ方法と言ったら、息を吹いて波を起こすしかありません。帆のある船ならばその帆に風を当てるという方法もあるでしょうが、この絵には規則的な波も描かれていますし、おそらく波でいいでしょう。本来の意味では二頭立ての馬車のように、2人のトリトンがアフロディーテの寝そべっている大きな貝を引いて現れるのですが、この絵を踏まえた解釈では飛んでいる2人が、2人といっても主にゼピュロスですが、後ろから風を起こして運んでいることになります。動詞の時制は未完了過去なので、「運んでいた。」となります。

ようやく保留していたἐπὶ πᾶσιの意味も分かります。前置詞ἐπὶ はイタリア語でsu、sopra、dopoなどに相当し、英語だとupon、afterなどの意味があります。πᾶσι はπᾶς「すべて」の与格です。ゼピュロスが風で後ろから押している訳ですから、この場合dopoが一番相応しいでしょう。「すべての後ろで」と訳します。

ἐπὶ κόγχης κατακειμένην は貝の上にいるアフロディーテを描写する現在分詞です。κατακειμένηνの原形はκατάκειμαιで「横たわっている」と訳されます。イタリア語だとgiacereです。意外にこの貝はアフロディーテの身長と同じくらいの横幅があるので、ちょっと窮屈かもしれないけれど、横になれなくもないでしょう。手足を伸ばし貝の外に投げ出してもかまいません。この現在分詞は未完了過去の主動詞と同じ頃の出来事を描写しているので、この絵の中に寝そべっている姿が描かれていなくても問題ありません。今は上陸するために立ち上がった姿が描かれていると解釈できます。

以前、κατάκειμαιのもう一つの意味イタリア語だとstare(いる、ある)を使って、この絵のアフロディーテがたたずんでいる様子を表現していると解釈しました。しかし文章の時制を考えると現在分詞κατακειμένην は、動詞ἔφερονと同時期の様子、つまり過去の出来事を描写していなくてはなりません。そのため今回は、この解釈は行いませんでした。

「ἄνθη παντοῖα ἐπιπάττουσαν τῇ νύμφῃ」は現在分詞からなる句ですが、この分詞は対格でありアフロディーテと同じ格になっていて、アフロディーテがこの分詞の動作の主語となります。κατακειμένηνからなる分詞句は形容詞的にはたらいていましたが、こちらは副詞的な役割になっています。「ἄνθη παντοῖα」は対格で、翼の2人の周りにある花々のことだと解釈できます。ただし、この花は多くの種類ではなく、バラだけなので、「たくさんの花々を」と訳します。

ἐπιπάττουσανはそのまま「撒き散らしている」と訳します。このとき撒き散らしている行為者は上記の通りアフロディテです。以前は翼の生えた女性を花の女神フローラだとしてしまったので、この動作の主語を文法を無視してフローラとしていました。ルクレティウスの『物の本質について』第5巻にある春の描写におけるゼピュロスとフローラの姿を念頭に置いた解釈でした。しかし今回この女性はフローラではないことが分かっていますから、文法が示すように撒き散らしているのはアフロディーテとします。

残りのτῇ νύμφῃは本来間接目的語の撒き散らされる対象の女性となります。しかし特別に翼の女神の周りだけに花があるわけではありません。花がまかれているのは翼の生えた2人の周りです。したがってこの絵だとτῇ νύμφῃを対象とは解釈すると無理が生じます。そこで別の解釈を探します。翼のある女性が花の女神ではないことが分かったので、花の出所が分からなくなりました。うまいことにホーラの腰にあるベルトにバラが咲いています。これが花の出所でしょう。与格には由来を表す用法があり、それを利用してτῇ νύμφῃはばらまかれている花がどこからやってきたのかを表現しているとします。

 

さて、この最後の句の解釈を踏まえて、この絵を見ると、アフロディーテの視線が、がらっと違って見えてきます。アフロディーテが翼のある2人に花を振りまいたのですから、彼女がこの男女に関心があることが分かります。そうすると自然と彼女の視線が二人の方に向かっているように見えてきます。つまり翼のある2人はアフロディーテの前にいます。二人の頭はアフロディーテの頭よりも少し大きく描かれているので、一度アフロディーテの彼らへの関心に気づいたら、もう位置関係はそうとしか見えなくなってしまいます。

今までは一般的な解釈の通り、翼のある二人はアフロディーテの後ろにいて、そこから彼女を風の息で押していると思っていました。ゼピュロスの息がアフロディーテを押しているように見えるので、二人がアフロディーテよりも前にいるなんて誰も考えません。いままでの見方だとアフロディーテは首を傾け虚ろに斜め前を見つめているだけでした。しかし、この最後の句の解釈を踏まえ、花を撒いたのがアフロディーテだと分かると、彼女の視線がはっきりと空中の二人で焦点を結びます。まさにアフロディテの優しい眼差しが彼ら2人に向けられていたのだと気がつきます。

venus_focus

しかしここで疑問が生じます。二つ目の分詞ἐπιπάττουσανも現在分詞なので、この主文と分詞句はほとんど同時期でなくてはなりません。しかしアフロディーテの後ろから風を送って進ませている行為と、絵に描かれているようにアフロディーテの前に出て花々をまとっている状態が同時期とは考えられません。本来の文章の意味ならばトリトンに引かれながら、寝そべりながら、花嫁に花を振りまく行為が同時に起こりえますが、今回の解釈ではそうはいきません。ゼピュロスたちに運ばれながら、アフロディーテが貝に寝そべることは過去の同時期であってもかまいませんが、アフロディーテがゼピュロスたちに花を撒く行為はそれより少し未来の出来事でなくてはいけません。現在分詞ἐπιπάττουσανを使っては残念ながら、その時間差を表現することが難しいのです。

ここまでギリシャ語の言葉遊びでこの絵を説明してこれたのですから、この時間差についても何か解決策があるはずです。ἐπιπάττουσανの原形ἐπιπάττωはアッティカ方言の綴りで、一般的な原形はἐπιπάσσωです。したがって現在語幹はἐπιπάσσとなります。この綴りを見てみると、語幹の最後にσがあることが分かります。ギリシャ語の未来分詞は未来語幹に現在分詞と同じ語尾をつけて作ります。その未来語幹は現在語幹にσを付けたものです。つまり本当は現在語幹として解釈されるべきἐπιπάσσは、最後にσがあるために語形の上では未来語幹に見えてしまいます。本来の未来語幹はἐπιπάσなので正しい形ではないのですが、あえて勘違いすれば、ἐπιπάττουσανは未来分詞となります。ἐπιπάττουσανが未来分詞となれば、この分詞句を使って、主文の動作より未来の出来事を表現できるようになります。つまり、アフロディーテは島まで運ばれてきた後に花を撒いたと解釈できます。

この絵ではゼピュロスたちはアフロディーテより前にいるので、彼らはアフロディーテを進ませるために息を吐いているのではありません。息で島へ運ぶ作業はもう既に終わっています。ではこの絵で紛らわしくゼピュロスと女神が息を出して何をしているのでしょうか。その理由はもう一つの典拠『アフロディーテ讃歌』の中にあります。「神々の欲望を引き起こす合唱」と訳せる部分χορὸν ἱμερόεντα θεῶνです。ゼピュロスが息を出しているのは彼が風の神であるからに他なりません。女神が息を出しているのは彼女が勝利の女神であるからです。勝利の女神は歌を歌う女神です。競い合うように2人は口から息を出しています。アフロディーテは恥ずかしくて乳房を手で隠そうとしているのではなく、その仕草で彼らの合唱に心を動かされたことを示しているように見えてきます。

以前分析したもう一つの典拠において、ギリシャ語のアオリストと未完了過去の時制の違いが描き方にも現れているとしました。中途半端な刺繍や、アフロディーテの隠された体の描写です。未完了過去時制の表現機能というよりは未完了imperfettoという言葉の意味が現れているとしました。今回も未完了過去ἔφερονが出てきますが、これも、島に完全に接岸していないのに、もうゼピュロスたちがアフロディーテを風で押すことをやめて前に出てきている描写に現れているといえます。

全体をまとめると、「そしてすべての後ろで3人のうちの2人が、貝の上に寝そべっているアフロディーテを押し動かしていた。そのあとアフロディーテが若い女性からのたくさんの花を撒き散らした。」と訳せます。

 

このように解釈すると、上に示したギリシア語の文を絵の描写の典拠にすることができます。去年やったもう一つの典拠の解釈とつじつまが合わなくなるところもありますが、きっと調整できるでしょう。他のボッティチェリの神話画と同じで、この絵も本当に不思議な絵です。突然、立体視のように有翼の2人がぐっと手前にせり出して見えたときは、衝撃的な転回でした。



posted by takayan at 23:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | ヴィーナスの誕生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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