ボッティチェリが、古代の芸術家アペレスの作品に対抗して描いたとされるのがこの《アペレスの誹謗》です。この作品については調べていなかったので、やってみます。
これは何の知識もなく見ると何が何だか分からない作品です。右側に王冠をかぶった王様がいて、その前に一団がやってきて何かを訴えているようにみえます。髪を掴まれて引きずられている男がいたり、怪しい老婆がいたり、さらに全裸の女性が天を指さして立っています。何か意味があるのでしょうが、その説明を聞かないと、いったいこの絵の人々が何をしているのかよく分かりません。
この絵については、典拠がなんなのかはっきりと分かっています。紀元2世紀のルキアノスの『誹謗について』という作品にある記述です。この中でアペレスが描いた作品を詳しく述べた部分があって、そこがまさにこの絵の場面を表していると言われています。
また、ボッティチェリよりも40年ほど前に生まれた人文学者アルベルティが『絵画論』という本の中で、このルキアノスの文章を元にしてアペレスの作品の素晴らしさについて述べています。こちらの記述の方がボッティチェリが参考にしたのではないかとも言われています。
ルキアノスとアルベルティのどちらの文章を参考にしたのか、ここらあたりを中心に調べてみましょう。既にある訳文を読む限りにおいては、両者ともこの絵に近い描写なので、ここで他のボッティチェリの作品の解釈でやったような翻訳の工夫はいらないと思います。でも念のため、自分で訳して確かめてみます。
さて、誹謗についての英語のWikipediaの記事を読むと、すぐにルキアノスの文章の英訳が引用されているのに気づきます。今回は楽に行けそうです。
On the right of it sits a man with very large ears, almost like those of Midas, extending his hand to Slander while she is still at some distance from him. Near him, on one side, stand two women−Ignorance and Suspicion. On the other side, Slander is coming up, a woman beautiful beyond measure, but full of malignant passion and excitement, evincing as she does fury and wrath by carrying in her left hand a blazing torch and with the other dragging by the hair a young man who stretches out his hands to heaven and calls the gods to witness his innocence. She is conducted by a pale ugly man who has piercing eye and looks as if he had wasted away in long illness; he represents envy. There are two women in attendance to Slander, one is Fraud and the other Conspiracy. They are followed by a woman dressed in deep mourning, with black clothes all in tatters−she is Repentance. At all events, she is turning back with tears in her eyes and casting a stealthy glance, full of shame, at Truth, who is slowly approaching.
訳すと、
その右側に大きな耳を持った男が座っている。ほとんどミダス王の耳と同じである。誹謗はまだ彼から離れたところにいるが彼女へと彼の手を伸ばしている。彼の近く、片側には二人の女性ー無知と疑念が立っている。反対側では、誹謗が近づいている。彼女は非常に美しい女性であるが、悪意の情動と興奮で満ちている。左手に燃えさかる松明を持っていることと、右手で若い男の髪をつかんで引きずっていることで、彼女が激怒と憤怒をなしていることをはっきりと示している。その男は天へと手を伸ばし、彼の無実の証人となるように神々に呼びかけている。彼女は蒼白く、醜い男に案内されている。彼は鋭い目をし、長い病に衰弱したように見える。彼は嫉妬を表している。誹謗の付き添いとして二人の女性がいる。一方は詐欺、他方は陰謀である。彼らの後には深い悲しみの中ですべてが格子縞の黒い喪服を着ている女性が続いている。彼女は悔恨である。すべての出来事において、彼女は目に涙を浮かべて後ろを振り返っている。恥ずかしさで満ちており、ゆっくりと近づいている真実にこっそりと視線を投げている。
でも、この引用された文、前後がどうなっているのかも気になります。さらに調べてみようと思ったときに、調べられないと困ります。残念ながら、検索してみても、見つかりません。どうやら、A.M.Harmon 氏の翻訳は購入しないと手に入らないようです。他のものを探します。
Google ブックスで次の本を見つけました。1798年の本です。
Dialogues of Lucian:from the Greek, 第 5 巻 (Google eブックス)
該当する文章の冒頭部分は下記の画像です。「s」の活字が「f」に近い頃の古い本です。古いので英単語の意味も今とは違っているかもしれません。でもかまわず読んでみましょう。
該当部分全体を引用すると、次の通りです。
On the right sits a man with long ears, almost as long as those of Midas, stretching forth his hand to Calumny, coming from a distance to meet him. Close to the man are women, the representatives, I suppose, of Ignorance and Suspicion. Calumny makes her advances from the opposite side; a most beautiful female figure, but heated and agitated, full of rage and fury. In her left hand she grasps a buring torch, while, with her right, she drags by the hair of his head a young man, who appears in the posture of invoking the Gods to bear witness in his behalf. She is preceded by a pale ugly male, with sharp eyes, and emaciated, as if by a long illness, the plain image of Envy. In the train of Calumny are two female attendants, whose business it is to encourage, assist, and set her off to the best advantage. Of these, as my guide informed me, the one was Treachery, and the other Deceit. They were followed by another dismal-looking one, in a suit of black; her name was Repentance. As Truth was drawing near, she turned away her eyes, and blushed and wept. It was then, that Apelles commemorated what had happened to him.
訳すとこうなります。
右には長い耳をした男が座っている。その耳はまるでミダス王とおなじくらいの長さである。彼は、遠くから彼に会うために来ている誹謗へと手を伸ばしている。その男のそばには女性たちがいる。私が思うに、彼女たちは無知と疑念の象徴である。誹謗は反対側から進んでいく。もっとも美しい女性像は、怒りと憤怒に満ち、興奮し動揺している。彼女は、左の手に燃えさかる松明を握っている。同時に、彼女は右手で若い男を髪をつかんで引きずっている。彼は彼の利益になるような証言が得られるように、神々に祈る姿勢をしている。彼女は、鋭い目をした、まるで長い病気によってやせ細った、青白く醜い男のそばに立っている。その男ははっきりと羨望の表象である。誹謗の一団には二人の女性の従者がいる。彼女たちの役割は、彼女に勇気を与え、手助けをし、より有利にすることである。私に教えてくれた案内によれば、一方は欺瞞、他方は嘘であった。彼らの後には別の陰鬱な容姿の黒い服を着た者が続いていた。彼女の名前は後悔だった。真実はそのそばに描かれていたが、彼女は目をそらし、紅潮し涙を流していた。この絵は、アペレス自身の身に起きたことを記念して作られた。
Wikipediaで引用されていたものと読み比べれば、同じものから訳出されたものだというのが分かります。違いはまず訳語の選び方でしょう。それと、終わりの方の時制も微妙に違っています。ガイドからの情報の後が過去形になっていて、残り全部がその情報であるように書かれています。どちらが正しいのか分かりません。異本からの訳なのかもしれません。前者には内容に省略があるように思います。後者は最後の方で涙を流しているのが、悔恨か真実なのかはっきりしません。おおざっぱな意味はこれらの英訳から掴めますが、やっぱりギリシア語の原典を探して確認してみようと思います。
この文章の古典ギリシア語で書かれた原文はWikisourceにありました。διαβολήが「誹謗」という意味で、タイトルらしきところにこの単語がちゃんとあります。でもギリシア文字がぎっしり書かれていて、該当箇所を見つけるのがちょっと面倒そうです。
手がかりとして、このページにあるドイツ語訳へのリンクをたどって眺めてみます。このドイツ語訳の単語を見回すと目的の文章が第5節だと分かります。折角なので、この節を引用します。
Auf der rechten Seite sitzt ein Mann mit langen Ohren, denen wenig fehlt, um für Midasohren gelten zu können: seine Hand ist nach der von ferne auf ihn zukommenden Verläumdung ausgestreckt. Neben ihm stehen zwei weibliche Gestalten, die ich für die Unwissenheit und das Mißtrauen halte. Von der linken Seite her nähert sich ihm die Verläumdung in Gestalt eines ungemein reizenden, aber erhitzten und aufgeregten Mädchens, deren Züge und Geberden Wuth und Zorn verrathen: in der linken hält sie eine brennende Fackel; mit der rechten schleppt sie einen jungen Mann bei den Haaren herbei, der die Hände gen Himmel emporhält und die Götter zu Zeugen anruft. Vor ihr her geht ein bleicher, häßlicher Mann mit scharfem Blicke, der ganz aussieht, als ob ihn eine lange Krankheit abgezehrt hätte, und den wohl Jeder für den Neid erkennen wird. Hinter her gehen zwei weibliche Gestalten, welche der Verläumdung zuzusprechen, und sie herauszuputzen und zu schmücken scheinen: diese sind, wie mir der Ausleger des Gemäldes sagte, die Arglist und die Täuschung. Ganz hinten folgt eine trauernde Gestalt in schwarzem zerrissenem Gewande, die Reue nämlich, die sich weinend rückwärts wendet, und verschämte Blicke auf die herannahende Wahrheit wirft. So hat Apelles seine eigene mißliche Erfahrung auf dem Gemälde dargestellt.
これも折角なので、訳してみます。関係節など面倒なので、全部単文で訳します。
右側に大きな耳をした男が座っている。その耳はわずかにかけている。ミダス王の耳ほどのものである。彼の手は、遠くから彼の方へと近づいている誹謗へと伸びている。彼の横には二人の女性の姿がある。彼女たちは無知と不信だと思われる。誹謗が左側から彼に近づいて来ている。彼女は並外れて魅力的であるが熱狂し興奮した少女の姿をしている。彼女の動きや身振りが激怒と怒りを表している。彼女は左手には燃えさかる松明を持っている。彼女は右手で若い男を髪をつかんでこちらに引きずっている。彼は両手を空に向けて差し上げている。そして神々を証人に請うている。彼女の前には蒼白な、醜い、鋭い目付きの男が進んでいる。彼はまさしく長い病でやつれ果てたように見える。そしておそらく誰にも彼が嫉妬であると分かるだろう。その後ろには二人の女性の姿がある。二人は誹謗を励まし、晴れ着を着せ、飾り付けているように見える。彼女たちは悪意と欺瞞であると、絵の解釈者は私に語った。引き裂かれた黒い服を着た死を悲しむ姿がかなり後ろからついていく。彼女は悔恨だろう。というのも、彼女は泣きながら後ろを振り返っている。そして近づいてくる真実へと恥ずかしそうな眼差しを投げかけている。このようにアペレスは彼自身の不快な経験をこの絵に描き込んでいる。
上記の英語の日本語訳とだいたい同じ話なのですが、やはり細かい点で違っています。元になったギリシア語の原典が違うのかもしれませんし、ただ訳語の選び方のせいかもしれません。内容としては、先に訳した二番目の英文の詳しさと、一番目の英文の明確さを合わせたようになっています。なおさらギリシア語での意味が知りたくなります。
それではギリシア語です。ドイツ語全文の単語 Apelles(᾿Απελλῆς)の分布を参考に、ギリシア語のページで᾿Απελλῆςを目印にすれば、該当部分を簡単に特定できます。
ἐν δεξιᾷ τις ἀνὴρ κάθηται τὰ ὦτα παμμεγέθη ἔχων μικροῦ δεῖν τοῖς τοῦ Μίδου προσεοικότα, τὴν χεῖρα προτείνων πόῤῥωθεν ἔτι προσιούσῃ τῇ Διαβολῇ. περὶ δὲ αὐτὸν ἑστᾶσι δύο γυναῖκες, ῎Αγνοιά μοι δοκεῖ καὶ ῾Υπόληψις・ ἑτέρωθεν δὲ προσέρχεται ἡ Διαβολή, γύναιον ἐς ὑπερβολὴν πάγκαλον, ὑπόθερμον δὲ καὶ παρακεκινημένον, οἷον δὴ τὴν λύτταν καὶ τὴν ὀργὴν δεικνύουσα, τῇ μὲν ἀριστερᾷ δᾷδα καιομένην ἔχουσα, τῇ ἑτέρᾳ δὲ νεανίαν τινὰ τῶν τριχῶν σύρουσα τὰς χεῖρας ο)ρέγοντα εἰς τὸν οὐρανὸν καὶ μαρτυρόμενον τοὺς θεούς. ἡγεῖται δὲ ἀνὴρ ὠχρὸς καὶ ἄμορφος, ὀξὺ δεδορκὼς καὶ ἐοικὼς τοῖς ἐκ νόσου μακρᾶς κατεσκληκόσι. τοῦτον οὖν εἶναι τὸν Φθόνον ἄν τις εἰκάσειε. καὶ μὴν καὶ ἄλλαι τινὲς δύο παρομαρτοῦσι προτρέπουσαι καὶ περιστέλλουσαι καὶ κατακοσμοῦσαι τὴν Διαβολήν. ὡς δέ μοι καὶ ταύτας ἐμήνυσεν ὁ περιηγητὴς τῆς εἰκόνος, ἡ μέν τις ᾿Επιβουλὴ ἦν, ἡ δὲ ᾿Απάτη. κατόπιν δὲ ἠκολούθει πάνυ πενθικῶς τις ἐσκευασμένη, μελανείμων καὶ κατεσπαραγμένη, Μετάνοια, οἶμαι, αὕτη ἐλέγετο・ ἐπεστρέφετο γοῦν εἰς τοὐπίσω δακρύουσα καὶ μετ᾿ αἰδοῦς πάνυ τὴν ᾿Αλήθειαν προσιοῦσαν ὑπέβλεπεν. Οὕτως μὲν ᾿Απελλῆς τὸν ἑαυτοῦ κίνδυνον ἐπὶ τῆς γραφῆς ἐμιμήσατο.
文章はわかったのですが、アルベルティの『絵画論』のイタリア語かラテン語の文章の方を先に訳した方がいいかもしれません。そして最後をギリシア語原典にして、その方向へさかのぼっていった方がいろいろ分かりそうに思います。
つづく