2011年12月11日

《アペレスの誹謗》の典拠について(1)

ボッティチェリが、古代の芸術家アペレスの作品に対抗して描いたとされるのがこの《アペレスの誹謗》です。この作品については調べていなかったので、やってみます。

calumny

これは何の知識もなく見ると何が何だか分からない作品です。右側に王冠をかぶった王様がいて、その前に一団がやってきて何かを訴えているようにみえます。髪を掴まれて引きずられている男がいたり、怪しい老婆がいたり、さらに全裸の女性が天を指さして立っています。何か意味があるのでしょうが、その説明を聞かないと、いったいこの絵の人々が何をしているのかよく分かりません。

この絵については、典拠がなんなのかはっきりと分かっています。紀元2世紀のルキアノスの『誹謗について』という作品にある記述です。この中でアペレスが描いた作品を詳しく述べた部分があって、そこがまさにこの絵の場面を表していると言われています。

また、ボッティチェリよりも40年ほど前に生まれた人文学者アルベルティが『絵画論』という本の中で、このルキアノスの文章を元にしてアペレスの作品の素晴らしさについて述べています。こちらの記述の方がボッティチェリが参考にしたのではないかとも言われています。

ルキアノスとアルベルティのどちらの文章を参考にしたのか、ここらあたりを中心に調べてみましょう。既にある訳文を読む限りにおいては、両者ともこの絵に近い描写なので、ここで他のボッティチェリの作品の解釈でやったような翻訳の工夫はいらないと思います。でも念のため、自分で訳して確かめてみます。

さて、誹謗についての英語のWikipediaの記事を読むと、すぐにルキアノスの文章の英訳が引用されているのに気づきます。今回は楽に行けそうです。

On the right of it sits a man with very large ears, almost like those of Midas, extending his hand to Slander while she is still at some distance from him. Near him, on one side, stand two women−Ignorance and Suspicion. On the other side, Slander is coming up, a woman beautiful beyond measure, but full of malignant passion and excitement, evincing as she does fury and wrath by carrying in her left hand a blazing torch and with the other dragging by the hair a young man who stretches out his hands to heaven and calls the gods to witness his innocence. She is conducted by a pale ugly man who has piercing eye and looks as if he had wasted away in long illness; he represents envy. There are two women in attendance to Slander, one is Fraud and the other Conspiracy. They are followed by a woman dressed in deep mourning, with black clothes all in tatters−she is Repentance. At all events, she is turning back with tears in her eyes and casting a stealthy glance, full of shame, at Truth, who is slowly approaching.

訳すと、

その右側に大きな耳を持った男が座っている。ほとんどミダス王の耳と同じである。誹謗はまだ彼から離れたところにいるが彼女へと彼の手を伸ばしている。彼の近く、片側には二人の女性ー無知と疑念が立っている。反対側では、誹謗が近づいている。彼女は非常に美しい女性であるが、悪意の情動と興奮で満ちている。左手に燃えさかる松明を持っていることと、右手で若い男の髪をつかんで引きずっていることで、彼女が激怒と憤怒をなしていることをはっきりと示している。その男は天へと手を伸ばし、彼の無実の証人となるように神々に呼びかけている。彼女は蒼白く、醜い男に案内されている。彼は鋭い目をし、長い病に衰弱したように見える。彼は嫉妬を表している。誹謗の付き添いとして二人の女性がいる。一方は詐欺、他方は陰謀である。彼らの後には深い悲しみの中ですべてが格子縞の黒い喪服を着ている女性が続いている。彼女は悔恨である。すべての出来事において、彼女は目に涙を浮かべて後ろを振り返っている。恥ずかしさで満ちており、ゆっくりと近づいている真実にこっそりと視線を投げている。

でも、この引用された文、前後がどうなっているのかも気になります。さらに調べてみようと思ったときに、調べられないと困ります。残念ながら、検索してみても、見つかりません。どうやら、A.M.Harmon 氏の翻訳は購入しないと手に入らないようです。他のものを探します。

Google ブックスで次の本を見つけました。1798年の本です。
Dialogues of Lucian:from the Greek, 第 5 巻 (Google eブックス)

該当する文章の冒頭部分は下記の画像です。「s」の活字が「f」に近い頃の古い本です。古いので英単語の意味も今とは違っているかもしれません。でもかまわず読んでみましょう。

該当部分全体を引用すると、次の通りです。

On the right sits a man with long ears, almost as long as those of Midas, stretching forth his hand to Calumny, coming from a distance to meet him. Close to the man are women, the representatives, I suppose, of Ignorance and Suspicion. Calumny makes her advances from the opposite side; a most beautiful female figure, but heated and agitated, full of rage and fury. In her left hand she grasps a buring torch, while, with her right, she drags by the hair of his head a young man, who appears in the posture of invoking the Gods to bear witness in his behalf. She is preceded by a pale ugly male, with sharp eyes, and emaciated, as if by a long illness, the plain image of Envy. In the train of Calumny are two female attendants, whose business it is to encourage, assist, and set her off to the best advantage. Of these, as my guide informed me, the one was Treachery, and the other Deceit. They were followed by another dismal-looking one, in a suit of black; her name was Repentance. As Truth was drawing near, she turned away her eyes, and blushed and wept. It was then, that Apelles commemorated what had happened to him.

訳すとこうなります。

右には長い耳をした男が座っている。その耳はまるでミダス王とおなじくらいの長さである。彼は、遠くから彼に会うために来ている誹謗へと手を伸ばしている。その男のそばには女性たちがいる。私が思うに、彼女たちは無知と疑念の象徴である。誹謗は反対側から進んでいく。もっとも美しい女性像は、怒りと憤怒に満ち、興奮し動揺している。彼女は、左の手に燃えさかる松明を握っている。同時に、彼女は右手で若い男を髪をつかんで引きずっている。彼は彼の利益になるような証言が得られるように、神々に祈る姿勢をしている。彼女は、鋭い目をした、まるで長い病気によってやせ細った、青白く醜い男のそばに立っている。その男ははっきりと羨望の表象である。誹謗の一団には二人の女性の従者がいる。彼女たちの役割は、彼女に勇気を与え、手助けをし、より有利にすることである。私に教えてくれた案内によれば、一方は欺瞞、他方は嘘であった。彼らの後には別の陰鬱な容姿の黒い服を着た者が続いていた。彼女の名前は後悔だった。真実はそのそばに描かれていたが、彼女は目をそらし、紅潮し涙を流していた。この絵は、アペレス自身の身に起きたことを記念して作られた。

Wikipediaで引用されていたものと読み比べれば、同じものから訳出されたものだというのが分かります。違いはまず訳語の選び方でしょう。それと、終わりの方の時制も微妙に違っています。ガイドからの情報の後が過去形になっていて、残り全部がその情報であるように書かれています。どちらが正しいのか分かりません。異本からの訳なのかもしれません。前者には内容に省略があるように思います。後者は最後の方で涙を流しているのが、悔恨か真実なのかはっきりしません。おおざっぱな意味はこれらの英訳から掴めますが、やっぱりギリシア語の原典を探して確認してみようと思います。

この文章の古典ギリシア語で書かれた原文はWikisourceにありました。διαβολήが「誹謗」という意味で、タイトルらしきところにこの単語がちゃんとあります。でもギリシア文字がぎっしり書かれていて、該当箇所を見つけるのがちょっと面倒そうです。

手がかりとして、このページにあるドイツ語訳へのリンクをたどって眺めてみます。このドイツ語訳の単語を見回すと目的の文章が第5節だと分かります。折角なので、この節を引用します。

Auf der rechten Seite sitzt ein Mann mit langen Ohren, denen wenig fehlt, um für Midasohren gelten zu können: seine Hand ist nach der von ferne auf ihn zukommenden Verläumdung ausgestreckt. Neben ihm stehen zwei weibliche Gestalten, die ich für die Unwissenheit und das Mißtrauen halte. Von der linken Seite her nähert sich ihm die Verläumdung in Gestalt eines ungemein reizenden, aber erhitzten und aufgeregten Mädchens, deren Züge und Geberden Wuth und Zorn verrathen: in der linken hält sie eine brennende Fackel; mit der rechten schleppt sie einen jungen Mann bei den Haaren herbei, der die Hände gen Himmel emporhält und die Götter zu Zeugen anruft. Vor ihr her geht ein bleicher, häßlicher Mann mit scharfem Blicke, der ganz aussieht, als ob ihn eine lange Krankheit abgezehrt hätte, und den wohl Jeder für den Neid erkennen wird. Hinter her gehen zwei weibliche Gestalten, welche der Verläumdung zuzusprechen, und sie herauszuputzen und zu schmücken scheinen: diese sind, wie mir der Ausleger des Gemäldes sagte, die Arglist und die Täuschung. Ganz hinten folgt eine trauernde Gestalt in schwarzem zerrissenem Gewande, die Reue nämlich, die sich weinend rückwärts wendet, und verschämte Blicke auf die herannahende Wahrheit wirft. So hat Apelles seine eigene mißliche Erfahrung auf dem Gemälde dargestellt.

これも折角なので、訳してみます。関係節など面倒なので、全部単文で訳します。

右側に大きな耳をした男が座っている。その耳はわずかにかけている。ミダス王の耳ほどのものである。彼の手は、遠くから彼の方へと近づいている誹謗へと伸びている。彼の横には二人の女性の姿がある。彼女たちは無知と不信だと思われる。誹謗が左側から彼に近づいて来ている。彼女は並外れて魅力的であるが熱狂し興奮した少女の姿をしている。彼女の動きや身振りが激怒と怒りを表している。彼女は左手には燃えさかる松明を持っている。彼女は右手で若い男を髪をつかんでこちらに引きずっている。彼は両手を空に向けて差し上げている。そして神々を証人に請うている。彼女の前には蒼白な、醜い、鋭い目付きの男が進んでいる。彼はまさしく長い病でやつれ果てたように見える。そしておそらく誰にも彼が嫉妬であると分かるだろう。その後ろには二人の女性の姿がある。二人は誹謗を励まし、晴れ着を着せ、飾り付けているように見える。彼女たちは悪意と欺瞞であると、絵の解釈者は私に語った。引き裂かれた黒い服を着た死を悲しむ姿がかなり後ろからついていく。彼女は悔恨だろう。というのも、彼女は泣きながら後ろを振り返っている。そして近づいてくる真実へと恥ずかしそうな眼差しを投げかけている。このようにアペレスは彼自身の不快な経験をこの絵に描き込んでいる。

上記の英語の日本語訳とだいたい同じ話なのですが、やはり細かい点で違っています。元になったギリシア語の原典が違うのかもしれませんし、ただ訳語の選び方のせいかもしれません。内容としては、先に訳した二番目の英文の詳しさと、一番目の英文の明確さを合わせたようになっています。なおさらギリシア語での意味が知りたくなります。

それではギリシア語です。ドイツ語全文の単語 Apelles(᾿Απελλῆς)の分布を参考に、ギリシア語のページで᾿Απελλῆςを目印にすれば、該当部分を簡単に特定できます。

ἐν δεξιᾷ τις ἀνὴρ κάθηται τὰ ὦτα παμμεγέθη ἔχων μικροῦ δεῖν τοῖς τοῦ Μίδου προσεοικότα, τὴν χεῖρα προτείνων πόῤῥωθεν ἔτι προσιούσῃ τῇ Διαβολῇ. περὶ δὲ αὐτὸν ἑστᾶσι δύο γυναῖκες, ῎Αγνοιά μοι δοκεῖ καὶ ῾Υπόληψις・ ἑτέρωθεν δὲ προσέρχεται ἡ Διαβολή, γύναιον ἐς ὑπερβολὴν πάγκαλον, ὑπόθερμον δὲ καὶ παρακεκινημένον, οἷον δὴ τὴν λύτταν καὶ τὴν ὀργὴν δεικνύουσα, τῇ μὲν ἀριστερᾷ δᾷδα καιομένην ἔχουσα, τῇ ἑτέρᾳ δὲ νεανίαν τινὰ τῶν τριχῶν σύρουσα τὰς χεῖρας ο)ρέγοντα εἰς τὸν οὐρανὸν καὶ μαρτυρόμενον τοὺς θεούς. ἡγεῖται δὲ ἀνὴρ ὠχρὸς καὶ ἄμορφος, ὀξὺ δεδορκὼς καὶ ἐοικὼς τοῖς ἐκ νόσου μακρᾶς κατεσκληκόσι. τοῦτον οὖν εἶναι τὸν Φθόνον ἄν τις εἰκάσειε. καὶ μὴν καὶ ἄλλαι τινὲς δύο παρομαρτοῦσι προτρέπουσαι καὶ περιστέλλουσαι καὶ κατακοσμοῦσαι τὴν Διαβολήν. ὡς δέ μοι καὶ ταύτας ἐμήνυσεν ὁ περιηγητὴς τῆς εἰκόνος, ἡ μέν τις ᾿Επιβουλὴ ἦν, ἡ δὲ ᾿Απάτη. κατόπιν δὲ ἠκολούθει πάνυ πενθικῶς τις ἐσκευασμένη, μελανείμων καὶ κατεσπαραγμένη, Μετάνοια, οἶμαι, αὕτη ἐλέγετο・ ἐπεστρέφετο γοῦν εἰς τοὐπίσω δακρύουσα καὶ μετ᾿ αἰδοῦς πάνυ τὴν ᾿Αλήθειαν προσιοῦσαν ὑπέβλεπεν. Οὕτως μὲν ᾿Απελλῆς τὸν ἑαυτοῦ κίνδυνον ἐπὶ τῆς γραφῆς ἐμιμήσατο.

文章はわかったのですが、アルベルティの『絵画論』のイタリア語かラテン語の文章の方を先に訳した方がいいかもしれません。そして最後をギリシア語原典にして、その方向へさかのぼっていった方がいろいろ分かりそうに思います。

つづく



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2011年12月12日

《アペレスの誹謗》の典拠について(2)

ボッティチェリの作品《アペレスの誹謗》の典拠となっている文章を翻訳して、何か新しい発見がないかという研究の続きです。前回は古典ギリシア語で書かれているルキアノスの文章の英訳、ドイツ語訳を日本語に翻訳してみました。

今回は、ルネサンス期にルキアノスの文章を引用したアルベルティの『絵画論』にある文章を翻訳してみます。アルベルティは、イタリア語とラテン語で、この『『絵画論』を書いています。パノフスキーは『イコノロジー研究』の中でこのイタリア語の記述がこの絵の構図に影響を与えたとしていますが、このことも検証してみたいと思います。

さて、まずイタリア語からです。これは Della pittura – Wikisource で読めます。該当部分を引用すると次のようになります。

Era quella pittura uno uomo con sue orecchie molte grandissime, apresso del quale, una di qua e una di là, stavano due femmine: l’una si chiamava Ignoranza, l’altra si chiamava Sospezione. Più in là veniva la Calunnia. Questa era una femmina a vederla bellissima, ma parea nel viso troppo astuta. Tenea nella sua destra mano una face incesa; con l’altra mano trainava, preso pe’ capelli, uno garzonetto, il quale stendea suo mani alte al cielo. Ed eravi uno uomo palido, brutto, tutto lordo, con aspetto iniquo, quale potresti assimigliare a chi ne’ campi dell’armi con lunga fatica fusse magrito e riarso: costui era guida della Calunnia, e chiamavasi Livore. Ed erano due altre femmine compagne alla Calunnia, quali a lei aconciavano suoi ornamenti e panni: chiamasi l’una Insidie e l’altra Fraude. Drieto a queste era la Penitenza, femmina vestita di veste funerali, quale sé stessa tutta stracciava. Dietro seguiva una fanciulletta vergognosa e pudica, chiamata Verità. Quale istoria se mentre che si recita piace, pensa quanto essa avesse grazia e amenità a vederla dipinta di mano d’Appelle.

これを訳してみます。この文章の基本時制は半過去ですが、日本語では現在形で書くことにします。

この絵には、とても大きな耳を持った男がいる。彼のそばには、こちらに一人、あちらに一人、二人の女性がいる。一人は無知と呼ばれ、もう一人は嫌疑と呼ばれている。さらに向こうには誹謗がやってきている。彼女は美しい女性に見えるが、その容貌はあまりにもずるがしこく見える。彼女の右手には燃えている松明がある。反対の手で少年の髪の毛を掴んで引っ張っている。彼は自分の手を持ち上げて天へと伸ばしている。そして、一人の蒼白い、醜い、すっかり汚れた、邪悪な外見をした男がいる。まるで長い疲労を伴う戦場での戦いで痩せて、乾いているかのようである。この男は誹謗の案内人であり、妬みと呼ばれている。そして二人の別の誹謗の仲間がいる。彼らは、彼女の飾りと服を彼女に飾り付けている。一人は罠と呼ばれ、もう一方は詐欺と呼ばれる。この後ろには葬式の服を着ている女性、悔悛がいる。彼女はすっかり引き裂かれて立っている。後ろには内気で恥ずかしがっている、真実と呼ばれる一人の少女が後を追っている。

この文章の最後の方で、本来は悔悛の形容として使われるべき、恥ずかしがっているという描写が、真実の形容として翻訳されているために、真実が恥じらいのヴィーナスの姿勢を取っているのだと、パノフスキーが指摘しているわけです。実際、前回訳したルキアノスの文章では、一つの例外を除き、この形容は悔悛の形容として使われていました。

しかし、その例外から元々のギリシア語の文章がどちらにも訳せる文章なのかもしれないと推測できます。もしそうならば、必ずしもこのイタリア語の文章を元にボッティチェリが描いたとは言い切れないでしょう。第一、この文章には前回出てきたミダス王という言葉がありません。あの特徴的なロバの耳の描写は、ミダス王というキーワードなしには描けないはずです。このことからも、ルキアノスの文章から直接導いたと考えた方がいいのはないでしょうか。

さて、次はラテン語版を訳してみます。これは De pictura – Wikisource にあります。これも該当部分を引用すると次のようになります。

Erat enim vir unus, cuius aures ingentes extabant, quem circa duae adstabant mulieres, Inscitia et Suspitio, parte alia ipsa Calumnia adventans, cui forma mulierculae speciosae sed quae ipso vultu nimis callere astu videbatur, manu sinistra facem accensam tenens, altera vero manu per capillos trahens adolescentem qui manus ad coelum tendit. Duxque huius est vir quidam pallore obsitus, deformis, truci aspectu, quem merito compares his quos in acie longus labor confecerit. Hunc esse Livorem merito dixere. Sunt et aliae duae Calumniae comites mulieres, ornamenta dominae componentes, Insidiae et Fraus. Post has pulla et sordidissima veste operta et sese dilanians adest Poenitentia, proxime sequente pudica et verecunda Veritate. Quae plane historia etiam si dum recitatur animos tenet, quantum censes eam gratiae et amoenitatis ex ipsa pictura eximii pictoris exhibuisse?

そしてこれも日本語に訳してみます。

例えば、大きく伸びた耳をした一人の男がいる。彼の周りには二人の女性、無知と疑念、が立っている。彼とは別の側に、近づいてくる誹謗がいる。その少女の容貌は美しいが、狡猾さにたけた顔に見える。左の手に火の付いた松明を持っている。もう一方の手では確かに髪の毛を掴んで曳きずっている。(髪の毛を掴まれている)彼の両の手は天へと伸びている。ここには案内人である男がいる。彼は蒼白い色をし、くるまっており、不自然で、残酷な容貌をしている。彼はまるで戦場にいて長い苦役を終えたようにしている。ここにいる者は確かに妬みと呼ばれている。そして別の二人の誹謗の仲間−女主人の装身具を飾り付けている女性たちがいる。彼女たちは罠と偽りである。この後ろには、暗い色で、汚れた服をまとって、涙を流している、後悔がいる。すぐそばを内気で恥ずかしがっている真実があとを追っている。

内容としては、上記のイタリア語に近いのですが、細かい点では違っています。やはりこちらにもミダス王についての記述はありません。この文章を訳して一つ気づいたことがあります。妬みが戦場と結びつけられてしまっている理由です。

このラテン語の文章の中には、in acie という句があります。この acie という単語の意味を調べると、

acies,aciei
sharpness, sharp edge, point;
battle line

という意味が出てきます。前回の英語やドイツ語では、妬みの目の描写として「鋭い」という言葉がありましたが、おそらくここで意味がずれたのでしょう。アルベルティが採用したラテン語訳に、この誤訳があって、それがイタリア語訳にも受け継がれたと推測できます。イタリア語の文章の中に鋭いという意味にとれる言葉はありませんから、方向はそうなるでしょう。しかし、喪服を着ているという描写は、イタリア語にしかありませんから、アルベルティのラテン語の文とイタリア語の文に単純な方向性が見いだせるわけでもないのも確かでしょう。

ここまで訳してみると、ボッティチェリのこの作品はギリシア語の文章を直接訳して描いたのではないかと予想できます。では、ギリシャ語は次回。



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2011年12月16日

《アペレスの誹謗》の典拠について(3)

ボッティチェリの描いた《アペレスの誹謗》の元となったとされる文章を実際に翻訳して検証してみようというシリーズの第三回目です。

どうやらアルベルティの『絵画論』の記述よりもルキアノスの原典の方が影響を与えていそうです。それを確認するためにも、ルキアノスの古典ギリシア語の文章を翻訳してみます。

原文は、Wikisource Περί_του_μή_ραδίως_πιστεύειν_διαβολή にあるものを使います。

ἐν δεξιᾷ τις ἀνὴρ κάθηται τὰ ὦτα παμμεγέθη ἔχων μικροῦ δεῖν τοῖς τοῦ Μίδου προσεοικότα, τὴν χεῖρα προτείνων πόῤῥωθεν ἔτι προσιούσῃ τῇ Διαβολῇ. περὶ δὲ αὐτὸν ἑστᾶσι δύο γυναῖκες, ῎Αγνοιά μοι δοκεῖ καὶ ῾Υπόληψις・ ἑτέρωθεν δὲ προσέρχεται ἡ Διαβολή, γύναιον ἐς ὑπερβολὴν πάγκαλον, ὑπόθερμον δὲ καὶ παρακεκινημένον, οἷον δὴ τὴν λύτταν καὶ τὴν ὀργὴν δεικνύουσα, τῇ μὲν ἀριστερᾷ δᾷδα καιομένην ἔχουσα, τῇ ἑτέρᾳ δὲ νεανίαν τινὰ τῶν τριχῶν σύρουσα τὰς χεῖρας ο)ρέγοντα εἰς τὸν οὐρανὸν καὶ μαρτυρόμενον τοὺς θεούς. ἡγεῖται δὲ ἀνὴρ ὠχρὸς καὶ ἄμορφος, ὀξὺ δεδορκὼς καὶ ἐοικὼς τοῖς ἐκ νόσου μακρᾶς κατεσκληκόσι. τοῦτον οὖν εἶναι τὸν Φθόνον ἄν τις εἰκάσειε. καὶ μὴν καὶ ἄλλαι τινὲς δύο παρομαρτοῦσι προτρέπουσαι καὶ περιστέλλουσαι καὶ κατακοσμοῦσαι τὴν Διαβολήν. ὡς δέ μοι καὶ ταύτας ἐμήνυσεν ὁ περιηγητὴς τῆς εἰκόνος, ἡ μέν τις ᾿Επιβουλὴ ἦν, ἡ δὲ ᾿Απάτη. κατόπιν δὲ ἠκολούθει πάνυ πενθικῶς τις ἐσκευασμένη, μελανείμων καὶ κατεσπαραγμένη, Μετάνοια, οἶμαι, αὕτη ἐλέγετο・ ἐπεστρέφετο γοῦν εἰς τοὐπίσω δακρύουσα καὶ μετ᾿ αἰδοῦς πάνυ τὴν ᾿Αλήθειαν προσιοῦσαν ὑπέβλεπεν. Οὕτως μὲν ᾿Απελλῆς τὸν ἑαυτοῦ κίνδυνον ἐπὶ τῆς γραφῆς ἐμιμήσατο.

それでは、訳します。複文を複文のままに日本語に訳そうとすると、かえって意味が分かりにくくなるので、意味の流れを崩さないように単文に区切って訳してみます。なお過去形で書いてあるのは、ギリシア語でアオリストで書かれている部分です。

右には男が座っているようだ。彼はミダス王の耳に似ていて少し欠けた大きな耳をしている。彼は遠くからさらに近づいている誹謗へと手を伸ばしている。彼の周りには二人の女性が立っている。私が思うに無知と偏見である。誹謗が反対側から近くに来ている。少女は並外れて美しいが、熱狂していて、心をかき乱している。激怒と激情を表している者は、まさに左手に燃えさかる松明を持っていて、反対の手では髪を掴んで若い男を引きずっている。彼は両腕を天へと伸ばして、神に誓っている。そして蒼白く、醜く、鋭い眼差しの男が先導している。彼はまるで長患いから戻ってきたかのように痩せこけている。この男は確かに妬みであると誰もがきっと思うだろう。そしてまさに別の二人が同行している。彼女たちは誹謗を前へと進ませている。彼女たちは誹謗を飾っている。彼女たちは誹謗を整えている。絵の案内人が私に彼女たちのことを、確かに欺瞞と詐欺だと教えてくれた。その後ろをすかっり喪服を着ている者が続いている。彼女は黒い服を着ている。彼女はずたずたにされている。彼女は悔恨である。彼女はまるで自ら身を投げ出しているかのようである。彼女は自分自身を表している。涙を流している者はまさに後ろを振り返っている。彼女は確かに恥辱の中でそばにいる真実を横目で見ている。まさにこのようにアペレスは彼自身の苦難を絵に表した。

内容としては、リンクで結んであるだけあって以前のドイツ語訳のものと、完全ではありませんが近いですね。英語の二つの訳もこの内容を分かりやすくしたものに見えます。

やはりアルベルティのイタリア語訳とラテン語訳とは妬みや後悔の描写が違っています。このギリシア語でも妬みのそばに戦争を連想する言葉はないようですので、これはラテン語に訳すときに、aciesという言葉が出てきて、それがνόσου病いの別の意味である苦難と結びついて、戦争へと意味が変化したのではないかと思います。

もちろんこれらの翻訳は、時制のように、日本語に訳している時点で本来の言語での意味が失われている可能性があります。それはどうしようもありません。それでも単語の対応や、文の対応に関しては十分に語ることができるでしょう。

 

それでは、今度はボッティチェリの絵との関連について考えてみます。下の絵はクリックすると巨大な絵のあるWikipediaCommonのページに飛びます。以下の文章はそれを参考に読んでみてください。

calumny

 

右の男が座っている描写は接続法で書かれているので、「座っているようだ」という不確定な意味で訳してみました。実際、絵の中では、無理な中腰をしていると考えるよりも椅子に座っている可能性が高いので、おそらく座っているのでしょう。しかし、玉座の台座のような物はほんの少し描かれていますが、だからといって座っていると断定するほどはっきりとは描かれてはいません。この描写がまさに接続法による表現を絵にしたのではないかと思われます。

彼はミダス王の耳に似た大きな耳をしています。「王様の耳はロバの耳」の話はミダス王の話です。この男がミダス王がどうかは分かりませんが、彼は王冠もかぶっています。そして、大きなロバの耳をしています。

それから、文章では王の耳が欠けていると訳しましたが、どう見ても欠けているようには見えません。この描写はこの絵には採用されなかったのでしょうか?

そこで「μικροῦ δεῖν」の意味をもう一度確認してみます。μικρόςは小さいとか少しの意味の形容詞です。δεῖνはδέωの不定詞です。これには不足するという意味があるので、全体で「少し欠けている」と訳しました。しかし、このδεῖνには、他にも意味があって、その一つが「束縛する」です。この絵では王の耳は先の方だけ女性に掴まれています。この様子が「少し束縛されている」という意味で「μικροῦ δεῖν」を表していると考えることができます。

王の手は誹謗に向けられています。この時点では誹謗が少女として描かれていると分からないので、王に近い男の方に向けられていると思ってしまいます。しかし絵の描写をよく見ると、王は男の方にではなく、誹謗の方へと手を差し伸ばしているのが分かります。

彼の周りに二人の女性がいます。絵でもちゃんと描かれています。二人は一つずつロバのような耳を掴んで、王の耳に何かを吹き込んでいるようです。どちらが無知と偏見であるかはこれだけの情報では分かりません。

王のほうにやってきている、青いガウンを着た少女がこの絵の主役である誹謗です。しかし説明がなければ、決してこの少女が誹謗だとは気づかないでしょう。この少女は、過剰な美しさであるとルキアノスは、アペレスの絵の中の彼女を賞賛しているのですが、このボッティチェリの絵においては、あまり美しさが際立っていないように思います。しかしそれは《ヴィーナスの誕生》や《プリマヴェーラ》と比べてしまうからなのでしょう。彼女は実際、金色の首飾りを付け、花を飾りつけられています。

誹謗はこの文章によると激怒と激情を表しているのですが、それは顔の表情ではなく、やはり言葉による描写にあるように彼女が手に掴んでいるもので表しています。松明の炎で熱狂を、少年の乱れた髪や狂信的な態度で混乱をあわしているでしょう。原文にある言葉の対比を正確に汲み取らないと、意味の分からない絵の描写になると思います。

この引きずられている少年は、アペレスの文章によると両の手を天に伸ばしていることになっていますが、ボッティチェリの絵では、天に手を伸ばしているようには描かれていません。彼は手を合わせているだけです。しかし、これは手という言葉が、ギリシア語でも腕全体と手首から先の両方を意味をもっていることから説明が付くでしょう。彼は両の手のひらを合わせて、指をまっすぐ伸ばしています。そしてその指先は斜めですが上を向いているので、ちゃんと手を天に向けているわけです。

次は、妬みの描写です。先導しているという言葉は、誹謗の手首を掴んでいる描写で表されています。彼のやつれた様子は、戦場の苦難ではなく、大病を患った描写の方が的確だと思われます。肌もがさがさになっています。王の方を見つめている様子が鋭い眼差しを表しているとも言えなくもないですが、それほど強調されていません。

ところで、彼のまっすぐ伸ばした手は何を表しているのでしょうか?ここで『絵画論』での引用が役に立ちます。該当するギリシア語原文の部分は「ὀξὺ δεδορκὼς 」です。『絵画論』での訳により、ὀξὺ はラテン語ではaciesです。これは先端、鋭さ、戦闘などの意味があり、アルベルティの文章では戦闘の意味で訳され内容がかなり違うものになってしまいました。さて、この絵に合うように解釈するに、ここではaciesを先端と訳してみます。つまり指の先を表しているとするわけです。

次に、δεδορκὼς です。これは動詞δέρκομαι(見る)の完了分詞男性主格の形です。上記の翻訳では、これを意訳してわざと眼差しと訳しました。今回は完了分詞の受動表現を使ったものとし「見られている」と訳します。つまり全体を合わせると、「指の先を見られている」となります。その考えを踏まえて、この絵をよく見ると、王は誹謗へと手を伸ばしていますが、視線は目の前の妬みの指先を見つめているように見えます。そうです。ボッティチェリは「鋭い眼差し」ではなく、「指先を見られている」という描写を使って、「ὀξὺ δεδορκὼς」というギリシア語をこの絵の中に描いたと解釈することができます。

さて、次は、誹謗のそばにいる二人の女性ですが、彼女たちは、誹謗を前に進ませ、飾り、整えていると書かれています。実際、前のめりになっている左側の女性は左手で誹謗を軽く押しているように描かれています。その左の女性は、誹謗を花で飾り付け、右の女性は髪を整えています。女性を飾り付け、髪を整える女性たちを、欺瞞だとか詐欺だと言ったのはアペレスでもルキアノスでもなく、あくまでも無名の案内人ですから、誤解の無いように。まさに、そのための場違いなガイドの登場だと思われます。

その後は、悔恨の描写です。哀悼の意を表す服を着て、黒い服を着てと、服の描写が二重になっていますが、これはもっとうまい訳があるかもしれません。絵では黒い服を確かに着ています。ずたずたになっているという記述も、絵をよく見ると、ちゃんと袖のところが破れている描写があります。しかし、泣いている様子、恥ずかしがっている様子はあまりはっきりとしませんが、後ろを振り返って、そばの真実を横目で見ているという記述に関しては、文章の通りと言うことができます。

さて、真実です。真実は、ギリシア語で女性名詞なので女性に擬人化されていることは問題ありません。しかし彼女は《ヴィーナスの誕生》に出てくる女性と似たような構図の全裸の女性像なのに、ちっとも魅力的に感じません。アルベルティの文章にあるように彼女が少女だから、まだ女性らしく描かれていないと解釈できるかもしれません。しかし、そう考えなくてもこの描写の理由を説明できます。つまり彼女が魅力的ではないのは、誹謗がこの絵の中で一番美しくなければならないからです。

しかし、真実が何故恥じらいのヴィーナスのポーズを取っているのか、何故右腕を頭上に掲げているか、この絵の中で一番気になるそれらについて、今回訳した日本語訳にはありません。

そこで、パノフスキーの指摘です。アルベルティのイタリア語の文章において本来後悔の描写であるはずのもののいくつかが真実に置き換えられ、恥じらいが真実についての記述となっているために、ボッティチェリが恥じらいのヴィーナスのポーズで真実を描いたとする説です。

上記の分析により、ボッティチェリは直接ルキアノスのギリシア語を元に絵を描いていると考えられるので、『絵画論』における訳とは別に、独自にこの絵にあるような描写となる文章を訳出したのではないでしょうか。その過程で、『絵画論』での引用は参考になったでしょうが、それ以上のものを、ボッティチェリはギリシア語から導いていると思われます。

ここは重要なので詳しく説明していきます。

先ほど、妬みにおいて、涙を流している描写と、恥辱の中にいるという描写が見られないと指摘しましたが、そこがヒントになります。上記の、王の少し欠けた耳や、妬みの伸びた腕などの例により、ルキアノスの記述がそのまま見つからないときは、別な意味になっている可能性があります。

絵に描かれていない描写は、次の文の中にあります。

ἐπεστρέφετο γοῦν εἰς τοὐπίσω δακρύουσα καὶ μετ᾿ αἰδοῦς πάνυ τὴν ᾿Αλήθειαν προσιοῦσαν ὑπέβλεπεν.

ルキアノスの意図していただろう意味は次の訳です。

涙を流している者はまさに後ろを振り返っている。彼女は確かに恥辱の中でそばにいる真実を横目で見ている。

さて、この絵に合う別な意味を探してみましょう。

δακρύουσα は動詞δακρύωの現在分詞の女性主格です。本来、「涙を流す」という意味で訳しますが、他に「水がしたたる」という意味もあります。ここで絵を見直してみると、真実の体には後ろの方から右の脇を通って、股間を隠している手の下を通って、彼女の体の右下の方に流れていく細く柔らかそうな透明な帯があります。この帯は考えてみると不思議な存在です。これは体のどこに固定されているのでしょう。まさに水が流れているかのような描写があります。この描写を踏まえて、δακρύουσαを「流れるような物」と訳してみましょう。これに合わせて動詞ἐπεστρέφετοの意味も「巻き付いている」と変えてみます。「後ろの方へ」という言葉があるので、それに合うように方向を考えると、前半の節は「流れるような物が後ろの方へ巻き付いている。」となります。後半ですが、これは少しの変更で済みます。μετ᾿ αἰδοῦς を真実を修飾するものと解釈します。そうすると、「そばにいる恥じらっている真実を彼女は横目で見ている。」となります。後悔が振り返っている記述がなくなりますが、これは横目で見ているという記述で補えるでしょう。

まとめると、こうなります。

流れるような物が後ろの方へ巻き付いていて、そばにいる恥じらっている真実を彼女は横目で見ている。

ボッティチェリの表現に相応しい訳になりました。恥じらっている姿は、恥じらいのウェヌスと同じ姿に描くことで表現したわけです。そのために彼女は裸で描かれています。でも彼女の天へと伸ばした腕の説明がありません。そこでこの文章の一つ前の文章の意味を考えてみます。

αὕτη ἐλέγετο・

ἐλέγετο の原形は λέγω ですが、これは集めるとか、話すとかいろいろな意味のある言葉です。調べてみると、ここにある中動態での意味の一つとして「数える」があります。そうすると、この節の意味は次のようになります。もちろん彼女とは真実のことです。

彼女は数を数えている。

そうです。彼女の指は天を指さすために頭上に掲げているのではなく、ただ数を数えるためにまず一本の指を伸ばしていたのです。そう思って彼女の視線をよく見てみると、彼女は指が差している天ではなく、指そのものを見つめているように見えます。

これでこの作品に描かれている人々の描写を、ルキアノスの文章を元に説明することができました。

ボッティチェリ本人やその周辺の人々がどれだけの言語能力を持っていたかは分かりません。しかし、このようにギリシア語の記述で素直に表われている場面はもちろんそのままですが、残りのギリシア語の記述の通りに表われていない場面も、意味の選択を工夫すれば、ちゃんと絵の中にその記述を見いだすことができます。

ここまで的確に解釈できるのは、このギリシア語を元にして、このような意味で、ボッティチェリが描いたとしか言えないのではないでしょうか。もちろん、いままでこのブログで書いてきたボッティチェリの神話画の解釈でやってきたことも同じことが言えます。

 

この難問を解決できた幸運に感謝します。もっと早くたどり着ければ良かったのですが、本当に申し訳ありません。

2011.12.17追記:
妬みの「蒼白いὠχρὸς」は絵の解釈として用いるときは、「生気の無い」とすれば、青白いというよりは土色に描かれた妬みの肌の色も表すことができるでしょう。それから「醜いἄμορφος」は「形の欠けた」という意味があるので、これは彼のボロボロの服のことを意味していると考えることができます。また悔恨の記述としての「彼女はまるで自ら身を投げ出しているかのようである。」は、悔恨ではなく、前のめりになっている赤と黄色の服を着ている欺瞞か詐欺のどちらの女性のことを表していると解釈すれば、ルキアノスによるアペレスの絵について書かれた文章全てがこの絵の中に描かれていることになります。

2011.12.17更新:
日本語訳の、妬みの記述において「乾いた」を「痩せこけた」に変更。



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2012年09月15日

《アペレスの誹謗》の背景(1)

この絵の人物たちの奇妙な描写が、古典ギリシャ語の言葉遊びによって解釈できるのではないかということを書いてみました。この作品がルキアノスの文章をもとに書かれているのは昔から知られていましたが、さらに、絵の描写として使われていない文を、文法はちゃんと守りながら意味をわざと間違えて訳すと、いままで文章とは関係ないと思われていた奇妙な描写にも対応させることができました。

この絵にはまだ分からないことがあります。人物たちの背景にあるものです。つまりこの絵の中央に並んでいる彫像、そして壁や天井にある浮き彫りです。どう考えても、これほど細かく描き込まれているのに、これらに意味がないわけがないでしょう。これについて調べてみることにしました。

しかし、日本語で書かれた背景についての資料を探してみると、ほとんど見つかりませんでした。たいてい、寓意を表す人物たちがどんな意味であるかを解説するだけです。そして絵から離れて、ボッティチェリが心酔したサヴォナローラの処刑の話や本人の不遇な晩年をこの絵に重ねてしまいます。

日本語で書かれた解説本で、背景について触れてあるのは、それほど詳しくありませんが、ロナルド・ライトボーンの翻訳本『ボッティチェリ』でした。タッシェン社の『ボッティチェリ』にもほんのちょっと書いてあります。他にあるかもしれませんが有名な本ではこんなところです。

日本語に限定せず、もっと詳しいものはどれかというと、これもなかなかないのですが、Herbert P. Horne の 『BOTTICELLI PAINTER OF FLORENCE』 というのがあります。これは1908年に出版された本ですがかなりの内容です(手元にあるのは1980年の復刻版ですが)。

そういうわけで、この本に書かれている内容を中心に、まとめてみようと思います。(つづく)



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2012年09月19日

《アペレスの誹謗》の背景(2) 彫像

ホーン Horne が指摘しているこの絵の彫像のモデルを元にこれらの彫像が何を意味しているか考えていきます。彫像のモデルの特定がホーンが独自に探したものか、それ以前の人たちの意見をまとめたものなのか分かりません。とりあえずはホーンの指摘として記すことにします。

この絵の中段、いくつもある柱の側面にあるニッチに彫像が置かれています。そのニッチには、ちょうど像の頭が来るあたりにはホタテ貝の波形のような模様が刻まれています。ちょうどシスティーナ礼拝堂でボッティチェリが担当した聖人のフレスコ画を想い起すデザインです。おそらくこの装飾から、彫像として配置されている人物も、聖人でなくても偉人である可能性が高いでしょう。

作品の右端から見ていきます。

judith

容姿から女性の像だと分かります。ここに描かれている彫像の中で唯一の女性のようです。足下をよく見ると髭面の男の頭があります。女性は男のこの額に刃先が当たるように長剣をまっすぐ下に下ろしています。ホーンによると、この女性はユディト(Judith)で、足下にあるのはホロフェルネスHolofernesの首です。Judithの物語はカトリックの旧約聖書に出てきます。

この彫像の上下を見ると、この物語の場面を描いたレリーフが描かれています。ボッティチェリ自身もこの物語の場面をいくつか描いていますが、現存するものにこれと同じ構図のものはありません。下にあるものは、従者が右側にきています。

絵画に描かれる女性と生首という組み合わせは、ユディトとホロフェルネスの他に、サロメとヨハネがありますが、彫像が剣を持っていること、そして上下にある同じ題材が描かれているレリーフにより、この女性をユディトと断定して問題ないでしょう。

noname

次は、このユディトの右にある彫像です。ホーンはこの人物を具体的には特定していません。ただ服装が当時のフィレンツェのものであることを指摘し、トスカーナ地方の有名な物語の登場人物ではないかとしています。フィレンツェに関係する物語といえば、有名なところではダンテの『神曲』やボッカチオの『デカメロン』などがありますが、手当たり次第に読めば何かヒントが見つかるかもしれません。もしかすると物語に限定する必要はないかもしれませんが、そうなるとこの場に相応しいフィレンツェ近辺の実在の有名人を探す必要があるでしょう。

画面右側の像から順にホーンによって指摘されている像を見ていますが、次に名前が挙げられている像は少し間が開きます。「the figure holding a sword, on the farther pier of the arch to the left」と書かれている像は、奧の柱にあるこれ見よがしに剣を持っている次の図の像のことだと思います。

statue1

ホーンは、この人物をパウロではないかとしています。根拠までは書いてありませんが、パウロのアトリビュートである剣が見えているのがその理由の一つだと思います。しかし、これはちょっと納得がいきません。上のように区切ってみるとよく分かりますが、足下にちょうど「誹謗」が持っている炎が描かれていて、まるで火あぶりになっているように描かれています。火刑で殉教したのならともかく、聖人に対してこのような表現は避けるのではないでしょうか。

剣がパウロである徴であるというのならば、解釈されなかった像にも剣が描かれています。そちらを見直してみます。

statues

王の後ろに描かれている目をつぶって、胸に手を当てている彫像のことです。この像の右に描かれている像も胸に手を当て、目をつぶっています。彼らはまるで耳を澄まし、二人の女の告げ口の内容を聞いて、胸に手を当て心でじっくりその真偽を判断しているようです。

頭の禿げた方の男性の手の下にあるものをよくみると、そこに剣の柄があることが分かります。この男性は胸に当てた右手で柄の端を押さえ、その少し下のところで左手で剣のツバを押さえています。このツバの形は他の彫像の剣と同じなので、それが剣の一部だとはっきりと分かります。剣は刃その下の方へと伸びていきますが、すぐに王と二人の女たちの影になって見えなくなっています。

このようにこの男性は剣と共に描かれています。絵画の中でパウロはこの像のようにの禿げた容姿でよく描かれています。この二つの特徴から、この男性をパウロだと判断していいかもしれません。

しかし、この像をさらによく見てみるとすぐに問題が見つかります。お腹のところに何か丸いものが描かれています。これは他の像の描写と比べると、鎧の一部だということが分かります。そしてこの人物が鎧を着ているのだと知って、全体を見直してみると、左袖はローブですが、右腕の描写が鎧の籠手だと分かってきます。パウロは軍人であった経歴はなかったはずなので、この描写はパウロではありえなくなります。

でも、一度この像をパウロだと思ってしまうと、この考えは捨てがたくなります。これを解決するために、こういう筋書きはどうでしょう。パウロは常に剣と共に描かれるので、この彫像の作者は彼を軍人だと思い込んでいたのではないでしょうか。その中途半端な知識のままこの像を作ってしまったために、おかしなパウロ像ができてしまった。そういう設定でこの像は描かれているのではないでしょうか。

では、ホーンがパウロ像だと思っていた像は一体誰なのでしょう。この像のように見ている者へと視線を送っている仕草で思い出すのが、《マギの礼拝》に描かれているボッティチェリです。よく彼の自画像として引用されているものです。群衆が描かれた中で、さりげなくカメラ目線になっている人物は、本人や依頼主であるかもしれません。この絵でもそうかもしれません。しかし先ほど指摘したように火炙りに見えるように依頼主を描くことは考えられないので、これはボッティチェリ本人ではないでしょうか。

さて、次に説明されているのが、この絵の中央にある像です。

saint_george

ホーンは、この像は聖ゲオルギオス(Saint Geroge)であるとしています。根拠はこの像がドナテッロDonatelloが1416年に制作したオルサンミケーレ教会の《聖ゲオルギオス像》に似ているからです。

saint_geroge_donatello

細かな点では違っていますが、鎧やマントなど、この彫を参考にこの絵が描かれているのが見て取れます。前に置いてある盾が後ろにありますが、省略せずにちゃんと描いていることで、この像をモデルにしていることを強調しているように見えます。ただ違う点として、オリジナルでは帽子のような兜をかぶっていません。剣も持っていません。はっきりとおかしな間違いがあります。

ドナテッロがこの像の作者だと分かれば、この兜からすぐにある像を浮かべることができるでしょう。そう、ブロンズのダヴィデ像です。少女のような裸のダヴィデが、これに似た帽子のような兜をかぶり、剣を持ち、その剣で切り落としたばかりのゴリアテの頭をブーツを履いた足で踏みつけている像です。

聖ゲオルギオスといえば、竜退治が有名です。ホーンはこのボッティチェリの絵の中にその場面がレリーフとして描かれていることを指摘しています。この像がある柱の上の左の手前のレリーフです。

dragon

左には馬上の騎士が描かれていて、鳥の化け物のような竜が描かれています。時代的に近いラファエロが描いた《聖ゲオルギオスとドラゴン》が参考になると思います。ユディトの像の上下のレリーフのように、このレリーフも中央の像が聖ゲオルギオスであることを補足しているのでしょう。

さて、聖ゲオルギオスで思い出されるもう一つのものとして、「聖ゲオルギオスの十字」があります。英語で書くと「St. George's Cros」で、イングランドの旗で有名な白地に赤い十字の形をしたものです。そのことを踏まえて、この絵全体を見てみると面白いことに気付きます。ゲオルギオスの飾られている柱は視点の正面にあるために側面が描かれず、きれいな垂直な平行線として描かれています。そしてこの絵には遠景に、水平線が描かれています。そしてその直線と重なるように、ゲオルギオスが立っている台の下の直線が描かれています。そして、その水平線と平行にまっすぐな海岸線が描かれています。つまり「Croce di San Giorgio」という言葉をこの絵に描き込んでいたことになります。

この中央の柱は以前から遠近感がおかしいなと思っていたのですが、その理由はこれかもしれません。ここに十字架が描かれていることをそれとは知られずに強調していたと考えられます。

次です。ホーンはもう一つの像のモデルを指摘しています。左隣の柱の正面にある彫像です。

david

左手で服の裾をたくし上げ、下に着ている鎧を見せている像です。尖った兜を載せた首は傾けていて、右手には地面に届く何かを持っています。ホーンは、これを同じくドナテッロが作った大理石のダヴィデがモデルだとしています。ドナテッロは、先ほど紹介した裸に帽子と剣とブーツという印象的な姿のものとは別に、1408-1409にダヴィデ像を制作しました。こちらは服を着ています。

marble_david

これも完全に一致しているわけではありませんが、左足を見せている仕草が似ています。何よりも、ボッティチェリの絵において足下に人の頭が描かれているのが、彼がダヴィデであることを表しています。この首はユディトのときほどはっきりとは描かれてはいないので、指摘されなければきっと気がつかないものです。独力で気付いた人はそうとう注意力のある人です。これがダヴィデならば右手に隠し持っているのは投石器だと推測できます。

ところで、有名なドナテッロのブロンズのダヴィデ像、ミケランジェロのダヴィデ像においてダヴィデが裸になっているのは、鎧を脱いでゴリアテと戦った故事を表すためですが、このボッティチェリの描いた彫像は服の下に鎧を着込んでいます。服を着ていてはいいかもしれませんが、鎧を着ていては話が全然違います。これは不注意というより意図的なものでしょう。

このように、ホーンは正面を向いている二つの像がドナテッロが制作したものだと指摘しています。ならば、他の像もドナテッロの作品をモデルにしている可能性が考えられます。そう、ユディトです。

それは《ユディトとホロフェルネス》と呼ばれる作品で、左手で彼の頭を押さえつけ、まさに今からホロフェルネスの首を切り落とそうと剣を振りかぶっている像です。既に見たようにボッティチェリの描いた像ではホロフェルネスはもう首だけになっていて、時間的に違う場面を描いています。というよりもホロフェルネスの首は彼女が誰であるかを示すためのアトリビュートのような存在になっています。

この二つは構図そのものが違っています。服の描写などもそれほど似ていません。ただホロフェルネスの顔の表情や、ユディトの顔や彼女の段になっている頭巾などは似ていると言えば似ているでしょう。ドナテッロの《ユディトとホロフェルネス》の像も当時メディチ家が所有していたわけですから、大理石のダヴィデ像と、聖ゲオルギオス像を参考にしていたのならば、このユディトも見ていないわけはないでしょう。

ところで、ドナテッロの作品を探していて気がついたのですが、ウフィツィ美術館にあるドナテッロ像の服装や姿勢が右から2番目にあるフィレンツェ風の彫像に似ているように思います。

donatello

 

noname

この彫像はドナテッロ自身の作ではないと思われます。またボッティチェリの頃にこの像があったかどうかも分かりません。ただ体を傾けた感じや、帽子や襟の形などがよく似ています。単に近い年代のフィレンツェ人だから偶然似た服装になったのかもしれません。しかし、ここにこうやって3体のドナテッロに結びつけられる彫像が並んでいるわけですから、この彫像がドナテッロである可能性も考えてもいいのかもしれません。彼は後ろにある後光の装飾に相応しい芸術家です。ボッティチェリもそう考えていたでしょう。

この考えを確定するには、ウフィツィ美術館にあるこのドナテッロ像がいつ頃どのように作られたのかを調べる必要があります。どんな資料を使ってドナテッロの姿をこのように表したのかがわからなくてはいけません。もちろん、絵の中のこの人物がドナテッロだったとしたら、髭を生やしていない若い姿で描かれていることになります。ヴァザーリの書いた列伝にある彼の肖像画からもわかるように、彼は髭を生やした姿で人々には認識されていたようです。

《アペレスの誹謗》で描かれている彫像をまとめると、こうなります。

ホーンが指摘しているように、ここにはユディト、ゲオルギオス、ダヴィデをモデルにした彫像があります。またパウロはホーンが指摘したものとは違う像ですが、やはりこの絵の中に描かれていると考えます。彼らはキリスト教における偉人たちですが、さらに一つの共通点を持っています。それは斬首です。ユディトとダヴィデはこの絵の中にも描かれているように敵の首を切り落としました。残りのゲオルギオスとパウロは、斬首により殉教しました。彼らは斬首と強く結びつけられている偉人たちです。

またこの絵の中心に描かれている聖ゲオルギオスは、そのモデルとされる像と違って帽子と剣を持っているのですが、それらは本来ブロンズのダヴィデの持ち物なので、この剣はまさに首を切り落とすための武器を表しています。それが「誹謗」に髪を掴まれ引きずられている男の首の完全に真上に構えられています。この男の髪は「誹謗」によって思いっきり持ち上げられ、ここを切ってくださいといわんばかりに首があらわになっています。

center

どうして、ここまで斬首が強調されているのかといえば、もちろんそれは、ルキアノスの文章の第三節に書かれているように、アペレスが斬首されかけたからに他なりません。

もう一つ、ここに描かれている彫像はどこか本来のものと違っています。パウロの像のときに考えたように、ある設定のもとに描かれていると考えられます。この彫像を彫ったのは知識の乏しい未熟な芸術家であり、それを受入れた王様も相当に不見識なのでしょう。そのような間違ったものに囲まれたこの空間で、今まさに間違った判決が下されようとしているのです。この奇妙な彫像たちによって、正しいことが正しいと理解してもらえない世界を醸し出そうとしているのではないでしょうか。この絵が描かれて今まで誰もこのことに気がつかなかったようなこの絶望的な世界を。

(つづく)



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2012年12月07日

《アペレスの誹謗》の背景(3) 「真実」が指し示す彫像

久しぶりの投稿です。ホーンの研究をヒントに今まで誰も分からなかった《アペレスの誹謗》の背景が描いているものを分析していこうという話の続きです。前回ここが奇妙な彫像の並ぶ不条理な世界であることを示しました。

repentancetruth

実のところ解釈があまり進まず、続きが書けないでいました。ところが、ふと一週間ほど前おもしろいアイデアが浮かびました。裸の「真実」は、右手を頭上に掲げ、人差し指を天へと伸ばしています。とても意味ありげな仕草です。彼女は天を指さし何を伝えようとしているのでしょうか。その一つの説は以前ここでも紹介しました。今回はそのことではなく、もう一つ、この仕草が表す重要なことです。この指をよく見るとちょうど一つの彫像の頭を指しています。これは決して偶然ではなく意図的な配置でしょう。この彫像はきっと特別な人物に違いありません。今回は彼についての話です。

apelles

彼の顔ははっきりしませんし、前回紹介した正体の分かる彫像のようにわかりやすい記号も持っていないので、この人物が誰なのか特定するのはあきらめていました。でも先日おもしろいことに気がつきました。彼の腕の仕草です。これは「後悔」の腕と同じ仕草です。完全に同じというわけではないのですが、この絵の中でこの二人の腕の仕草は似ています。この発見がきっかけでした。

repentance

そう「似てる」のです。真似ているといった方がいいでしょう。この「真似ている」という言葉が、これまでこの絵を調べていてずっと引っかかっていたものに意味を与えてくれました。

去年の今頃、ルキアノスの古典ギリシア語原典と訳して内容の比較を行い、そして原典の内容こそが、奇妙ないろいろな仕草を含めて、その典拠となっていることを示しました。そのとき実はギリシア語の最後の一行と絵の対応は示していませんでした。この文です。

Οὕτως μὲν Ἀπελλῆς τὸν ἑαυτοῦ κίνδυνον ἐπὶ τῆς γραφῆς ἐμιμήσατο.

本来の意味:

このように確かにアペレスは自分自身の危機を絵の中に描いた。

正直対応させるのを忘れていました。それに気がついたときも、この5節の文章は一つ残らずこの絵の中に描かれているのに、この最後の文だけが絵に具体的に描かれないのはおかしいとは思いつつも、原文の意味のままでいいやとそれ以上深く考えずに放置していました。どう考えてもそのときは原文以上の適訳が思い浮かばなかったからです。

しかし今回この絵を見て「真似ている」という言葉が頭に浮かぶと、この文もこの絵に描かれている可能性が出てきました。何故かというと、この文の動詞 μιμέομαι(ἐμιμήσατο)は、英語の mimic(真似る) の語源と関連のある言葉だからです。本来はこの文では「描いた」と訳すべきですが、この絵を踏まえれば「真似をした」と訳せるかもしれません。

それでは、この文を絵に合わせて訳してみましょう。

Ἀπελλῆς アペレスは主格です。当然、この彫像はアペレスとなります。この絵に並んでいる彫像は、斬首に関連する有名人だとわかりましたが、アペレスもここに並んで何の問題ない有名人です。なおドナテッロやボッティチェリも描かれていると前回指摘しましたが、ホロフェルネスとユーディットの作品を残している彼らもこの法則にちゃんと従っています。

τὸν ἑαυτοῦ κίνδυνονはその動詞の直接目的語でそのまま「彼自身の危機を」となります。ἐπὶ τῆς γραφῆς は、本来は「その絵の上で」となりますが、今回は「その絵にくっついて」と、「真実」に頭を触れられている描写を表しているとします。

「真実」を振り返って見ている「後悔」の視線の先には、「真実」の右の人差し指がありますが、それは同時にアペレスの彫像へと向かいます。立体的に考えると、「後悔」がアペレスを見るのは不可能ですが、平面的に考えると確かに「後悔」はアペレスの方を見ています。一方アペレスの視線はというと、「後悔」へではなく、自分の前にあるダビデの方に向けています。つまり真似ているのは、「後悔」と考えていいでしょう。本当に真似ているかどうか関係ありません。真似ているように見える構図であればいいのです。

動詞も本来のἐμιμήσατοのままで、アオリストの三人称単数です。この動詞は受・中動態の形をしていますが、内容は能動態として訳すラテン語にもある能動態欠如動詞です。ただし今回は主語であるアペレスが真似られているので、受動態の意味で訳すことにします。まとめると、「このように確かに、その絵にくっついているアペレスは彼自身の危機を真似られていた。」となります。行為者は省略されていますが、当然「後悔」です。

ところで、アペレスの自分自身の危機とは何でしょう。「後悔」に真似られている危機、つまり腕を組んでいる仕草はどんな危機を表すのでしょうか。本来の文では危機とは、この絵を描くきっかけとなった、他人に陥れられ無実の罪に問われ、殺されそうになった事件のことです。そのことを思い出すと、この仕草に意味が見えてきます。

アペレスも「後悔」もよく見ると腕を組んでいるというより、自分の手首を合わせています。そう、「罪」という言葉を念頭にこの仕草を見ると、これは手首をくくられている罪人のポーズです。洋の東西を問わず、この仕草にはその意味があるのではないでしょうか。そうだとすると、この仕草はアペレスの体験した危機を確かに表せます。

「後悔」の手の仕草は、以前やった典拠からの解釈では導いていませんでした。今回、この訳をすることで、この仕草の理由が説明できました。彼女が手を重ねている理由はアペレスの彫像を真似ているからです。そしてそのアペレスは自分の陥れられた危機を腕の形で表しています。もちろん、この彫像もここに並んだいくつかの彫像のように間違った彫像です。なぜならアペレスは罪人ではなかったのですから。

ここで以前書いたことの修正をします。「後悔」を説明する言葉にοἶμαιがありました。以前はこれを本来の意味と絵に即した意味の両方で「彼女はまるで自ら身を投げ出しているかのようである。」とちょっと強引な訳をしていました。この単語をοἰμάω(危険に身を投げ出す、突撃する)の三人称単数現在と解釈していたからです。なおこのとき下書きのイオータをそのままの大きさで横に書いているとみなしています。

この絵に即した訳ではこの意味のままでいいと思いますが、本来の意味としては、οἶμαιはοἶομαι(思う)の1人称単数の短縮形でなくてはいけないでしょう。このとき著者ルキアノス本人が主語となります。そして彼が思っているその内容が、「Μετάνοια αὕτη ἐλέγετο」です。このἐλέγετοはλέγω(言う、名を呼ぶ)なので、本来の意味は「この女性が後悔という名であると思う。」となります。

さて、「後悔」の仕草が罪人を表すものだとすると、このあたりの絵に即した解釈は考え直さなくてはいけないでしょう。つまり、οἶμαιを身を投げ出すという解釈のまま使うにしても、それは「後悔」がその仕草で自ら罪人であると主張していると表せるからです。以前は、「誹謗」を飾る女が前のめりになっているの描写を、οἶμαιが表しているとしましたが、この女の姿勢は「誹謗」を押している記述προτρέπουσαι があるので必ずしも必要ありません。

古典ギリシア語やイタリア語のニュアンスで、οἶμαιが懺悔するという意味の記述になりえるかはっきり分りませんが、こちらの解釈の方がいいように思います。この場面で罪を告白することは、首を切られて死ぬことを意味しています。それを覚悟し、この場でこの仕草をすることは、危険に身を投げ出すという記述に合っているように思います。以前は「後悔」の手の仕草の意味が分からなかったので、そのように解釈することができませんでした。

「後悔」についての記述:

κατόπιν δὲ ἠκολούθει πάνυ πενθικῶς τις ἐσκευασμένη, μελανείμων καὶ κατεσπαραγμένη, Μετάνοια, οἶμαι,

本来の文はもう少し続きますが、あえてここで区切って考えます。κατόπιν δὲ ἠκολούθει πάνυ πενθικῶς τις ἐσκευασμένηを最初の文、μελανείμων καὶ κατεσπαραγμένη, Μετάνοια, οἶμαιを次の文とします。絵に合わせると次の意味に解釈できます。

そのあとに服を着た女が完全な喪に服して続いていた。黒い服をまとい、ずたずたになった「後悔」は身を投げ出していた。

特定できない残りの彫像にもモデルはいるでしょうが、今のところこれ以上分かりません。左端の側面にいる人物は杖をついています。これはおそらく彼が盲目であることの記号でしょう。古代ギリシアで有名な盲人といえばホメロスがまず思い浮かびますが、断定するほどの根拠はありません。彫像の解釈はとりあえずここまでにします。このあとはレリーフの内容を、やはり、ホーンの研究をもとに整理していく予定です。



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