この前の金曜日、テレビで「マトリックス・レボリューションズ(The Matrix Revolutions)」をやっていた。マトリックス・シリーズの第三部。完結編だ。久しぶりに見たら、いろいろ考えたくなった。DVDを見直したり、英語の資料も含めていろいろ読んだりして、時間をかけて考えてみた。もちろんネタバレ。そして個人的な解釈。
以前ここで書いた「
SANDWORM(DUNE)」という記事の中で、盲目の救世主という点で「砂の惑星」シリーズを思い起こした。マトリックスは様々な作品を思い起こさせる。その記事の中でも紹介しているが、
デューンにインスパイアされたフィクションのリスト(英語)に他の作品とともに細かく指摘してある。
第三部の最後の方には、ネオが触手のようなケーブルで体を支えられるところや、王蟲を想起させる複数の赤い目をもった機械など、「ナウシカ」のパクリというよりは敬意を込めてのオマージュと呼ぶべきものがある。そしてその「ナウシカ」の場面を再現するくらいの監督が「ナウシカ」に影響を与えた「砂の惑星 (デューン)」シリーズを知らないわけはないので、この予知能力を持つ盲目の救世主は「砂の惑星」を意識したものだと考えてもおかしくないだろう。主人公が盲目になってからの目を使わずに世界を見るという描写はこの物語を思い出さずにはいられなかった。だからといってこの物語を使ってストーリーを読み解くヒントにするわけではない。ここにもオマージュがあるという指摘に過ぎない。
マトリックスの第二部「マトリックス・リローデッド」を映画館で見終わったときは、この世界は入れ子構造になっているに違いないと思った。根拠としては、ネオが現実世界でセンティネルを撃退できたことや、スミスがこの現実世界にやってこれたこと。これをうまく説明するには、現実世界として描かれている世界も何らかの仮想現実である必要があるだろうと。アーキテクトとの会話もそれを暗示しているように感じられなくもない。きっと第三部ではその秘密が明かされるのではとちょっと期待して見に行った。いい具合に期待を裏切られたけれど。
マトリックス第三部「マトリックス・レボリューションズ」を見るには、やはり金色に輝く光の意味を考えるのが一番の手がかりなのだろう。冒頭、おなじみの緑色の光で描かれたマトリックスを構成しているプログラムの世界の映像をどんどん拡大していくと、一瞬何もない真っ暗な世界となるが、その中心で爆発が起き、金色(オレンジ)の光があふ出してくる。これは緑色で描かれた機械的な構造ではなく、銀河のようなシダ植物のような構造のフラクタルfractalが現れる。自己相似のフラクタル図形は、拡大しても拡大しても果てはない、拡大してもそこにはまた似たような構造が現れる。画面はそれがフラクタルだと気づくとあきらめたように拡大が止まり、逆流し、緑の世界を通り過ぎて、あの緑の文字が降り注ぐマトリックスの画面が表示されたディスプレイとなり、見ているものを現実世界へと導いていく。(このフラクタルは、第三部だけかと思ったら、第二部の冒頭でも現れていた。ネオの予知夢のマトリックスコードの中で。このときは緑色のまま爆発もなくそれほど印象に残らなかった。)
第三部の冒頭のこの描写は、マトリックスの下部構造(もしくは上部構造)として金色の光で表した世界があることを示しているだろう。この金色で描かれたフラクタルとは何か。植物の形や雲など自然界にある拡大してもその構造が保存されるものは、再帰的に計算する数式として表現できる。このようなものをフラクタルと呼ぶ。逆にこの数式を用意することで、自然の構造物をCGとして描くことができる。この場面で使われているフラクタルは記号として使用されているのだろう。現実の世界と仮想の世界、そして生命と機械を結びつける役割を十分に果たす記号と解釈できる。つまり、プログラムでありながら生命と同等なもの。そしてこの冒頭のシーンは、金色の光で何を表すのかという記号の定義をしているではないだろうか。
それでは、物語の中で何が金色の光として表現されているのだろうか。この光で世界が描写されるのは、ネオが盲目になってからである。人間に寄生しているスミスの姿、発電所、マシンシティを守備する爆弾や、センティネル、そしてマシンシティも。マシンシティの上空からの姿はフラクタル図形そのものにも見える。
人間の中のスミスや、マシンシティの機械達が金色に見えるのは共通点がある。それはプログラムである。重要なのは、ネオには発電所が金色に見えるということだ。そこにはケーブルでつながれ仮想世界マトリックスで永遠の夢を見ている多くの人間たちがいる。発電所にも人間を管理するプログラムがいるのでその光とも思われるが、発電所にあるすべての建物が光に満ちて表現されるのは、やはりそこにいる人々も光として表現されていると考えるべきだろう。ただ盲目になってから常にそばにいるトリニティがネオによって金色の光で認識されるカットがないのは、実際に光として感じられないと考えた方がいいだろう。串刺しになったトリニティを手探りで探しているところからもそれがうかがえる。つまり、人間がマトリックスに進入しているときに限りその精神は、現実世界のスミスやマシンシティの機械達のプログラムと全く同等なものに変化していることを示しているだろう。
現実世界のネオはプログラムの存在を認識する能力を第二部の最後には身につけている。生身でセンティネルを感じることができ、さらに撃墜できた。オラクルとネオとの対話から、現実世界のネオがソースに直接接続が出来るようになったからだと分かる。そうなると、金色の光で表されているものがソースへの接続を通じて認識している対象ということになる。上でトリニティが光として見えていないとしたが、それはもちろんこのときトリニティはマトリックスにつながっていないのだからソースにもつながっていないからで、発電所につながれた人々が金色に見えるのは、彼らが常にマトリックスにつながっている状態だからである。金色の光がネオがソースを通して認識しているものを表しているならば、マトリックスコードを越えたところにある金色のものが、つまり映画冒頭で現れる緑色のマトリックスコードの先にあった金色のフラクタルこそがソースそのものを表していることもいえるのではないだろうか。
第三部の冒頭でネオが閉じこめられているのに気づく場所は「Mobil Ave」駅。機械とマトリックスとの中間の場所。ここでネオは人間と変わらない、子供への無償の愛を持ったプログラムの夫婦とその娘サティに出会う。これはネオたちが戦っている機械の本質を示すための出会いだったのだろう。この映画で描かれているプログラムは二種類あって、現実世界の機械を制御しているプログラムと、仮想世界マトリックスの現象を制御するプログラム。これはサティの存在により、同等なものだということが分かる。メロビジアンがトレインマンを使って行き来を制限しているだけである。さらに、スミスが現実世界の人間に寄生できるということは、機械達の精神であるプログラムが人間の精神と同質なものであることも示している。
第二部では初対面の時のセラフの姿も金色をした何かとして描かれている。これは第三部と同じ意味で使われているのかよく分からない。光り方が違うようにも思える。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。第三部の光の意味とは関係なく、マトリックス内のコードを認識できるネオにとって単に不可知な存在であることを示しているだけかもしれない。セラフの正体を示す重要な記号なのかもしれないけれど、他にマトリックス内部でオレンジの光として描かれたものがないので、どうともいえない。
アニマトリックスを見てマトリックス前史を知っていないと分からないが、機械が支配するマトリックスの世界の前に、知能を持った機械を人間が隷属させて暮らしている時代がある。その後機械の側が独立運動を起こし、やがて機械に対し脅威を持った人類側から機械に対し全面戦争が仕掛けられ、結局機械側の勝利に終わる。この前史はターミネータが描く未来世界や、鉄腕アトムのロボットの独立国の話を思い出させる。RURロボットの時代から何度となく描かれ続けるモチーフでもある。異質な存在や階層間の対立の分かりやすいメタファとも言える。ちなみに、「砂の惑星」はこのような思考する機械に対して完全勝利し排斥した後の歴史を描いている物語である。
第一部では、ネオは人類が電池にされているとモーフィアスに教えられる。しかしこれは本当なのか。もっと効率的なエネルギー源はいくらでもあるだろう。人間を機械に接続し、夢を見させてエネルギーを搾取し続けることに意味があるのだろうか。これは第一部から抱き続けている疑問だが、これはザイオンにいる人間側の勝手な思いこみではないのだろうか。
彼ら機械は人間を電池にする目的だけで機械につないでいるのではないだろう。彼らは彼らなりに人類に最善の奉仕を続けているだけではないのだろうか。実際人間を殺しているのだから、機械を支配しているプログラムはロボット三原則並の人を決して殺せないという厳格なものではない。しかし人間一人一人ではなく、大多数の人間に対して奉仕ができるようにプログラムされているのであったらどうだろう。この目的を邪魔する人間に対しては殺戮を行ってもかまわない、そういうルールの下に人類への奉仕を続けるための究極のシステムが発電所と呼ばれるものとマトリックスという仮想世界なのではないだろうか。
機械達にとって生きるということは、人類に奉仕するという目的と常に密接につながっていて、それ無しに存在そのものが成立しないのではないだろうか。人類の存在こそが彼らにとって生きる原動力になっているのではないだろうか。人類が自分たちに奉仕させる目的で設計した彼らは、知性を持った今でもすべての行動原理が人類という概念に従属しているため、機械の方から人類を滅ぼすことが不可能なのかもしれない。根源的な欲求として、知性を獲得した機械達は人類と共生したがっているのではないだろうか。しかし、人類は決して機械を対等な存在としてみなすことができない。自分たちより劣ったものとして差別するか、知性を持った彼らを自分たちの生存を脅かすものとして破壊の対象としてしか見なくなる。機械達が見つけ出した最良の解決策が、人類の肉体を機械に縛り付け、自分たちの愛情を強制的に受けさせるシステムなのではないだろうか。マトリックスという仮想世界を作り出すことでやっと機械達は人類と共生する理想の世界を手にいれることができたのではないか。
ネオとスミスの戦いが終わり、スミスが駆除され、マトリックスが第七世代にバージョンアップした。その中でオラクル達プログラムが集い、これから始まるマトリックスを語り合う。そこにサティがネオのために用意した輝かしい朝日が昇る。この輝きは、ネオが見えない目で目にしてきた輝きを連想させる。そしてこの空はトリニティが肉眼で見、美しいと呟いた空を思わせる。生まれ変わったマトリックスを光で満たした揺るぎない希望を抱かせるカットで終わることで、これから新しいマトリックスを通して機械と人間との真の共存が始まることを示唆しているのだろう。