2007年08月27日

いよいよ「子連れ狼」最終回

時代劇専門チャンネルで放送されている萬屋錦之助版「子連れ狼」がいよいよ今週火曜日8月28日に最終回をむかえる。このチャンネルでの以前の連続放送も見ていたのだが、一度見たのに今回もどうしてもはまってみてしまう。

いよいよ柳生烈堂との最終決戦。時代劇専門チャンネルを見ることができる人は是非見よう。興味のある人だけでいいけどね。
そして是非とも、最終回の前の回「波と笛と」も忘れずに。この回は裏柳生の最後の草たちとの死闘。父拝一刀から息子大五郎への大切な遺言がある。それがタイトルにある「波」が象徴するもの。

子連れ狼 - 時代劇専門チャンネル 番組詳細
第25話「波と笛と 」
  放送日時 2007年08月27日(月) 12:00、24:00

第26話「腕(かいな)」 最終回
  放送日時 2007年08月28日(火) 12:00、24:00



時代劇専門チャンネルでは9月になると、ドラマ版「蝉しぐれ」も再び登場。脚本は同じ人だけど、さっきあった映画とはまた違った趣の作品。大きな違いはナレーションかな、展開がよく分かる。物語が回想という形を取っている点も違う。映画だと映像と音楽で人の心に届くような作品作りをしてあるけれど、こちらは連続ドラマで、展開を楽しむといった感じ。内野聖陽主演というのもいい、というかそこが一番のみどころ。

蝉しぐれ - 時代劇専門チャンネル 番組詳細

放送日時
  2007年09月16日(日)より毎週日曜日 12:00、20:00


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2007年09月18日

水戸黄門第37部最終回

鬼若との別れ、弥七復活など、いろいろあった水戸黄門第37部がいよいよ最終回。二時間スペシャル。

第23話(2007年9月17日放送)
『消えた水戸の若君!次期将軍を狙った野望』(水戸・江戸)
水戸黄門第37部-TBS

上記ページからの番組内容の引用
世直し旅を終えて水戸の西山荘で大日本史編纂の作業を進めていた老公のもとに老公の息子と孫の不仲が伝えられる。胸騒ぎを覚え江戸へ向かった老公は、次期将軍の座を狙う大きな陰謀があることに気付く…



おなじみのオープニングの登場人物のテロップを見ていると、最終回らしく、なんかすごく豪華な顔ぶれだった。そこに思いかけず、あの鬼若(照英)の名前を見つけた。もしや鬼若が生きていて最終回に出てくるのか?いや、ただアキの回想シーンに出るだけかも。そんなことを考えながら最終回を楽しみながら見た。

今回のゲストは、中村敦夫、平幹二朗、国広富之、三浦浩一、宮本真希。他に名前を知っているだけでも、堤大二郎、萩原流行、西田健。一人に一本ずつ話が作れそうな顔ぶれ。そのなかで三浦浩一の悪役は新鮮だった。最初誰だか分からないくらい役に徹していてよかった。


鬼若の最後の回も書いたので、今回も簡単だけど内容と感想を書きますね。


あろうことか御三家水戸藩の若様がかどわかされて、それもこの事件に紀州公(平幹二朗)が関わっているという江戸幕府を揺るがしかねない超展開だ。次期将軍を紀州から出すためとはいえ、これはすごい話だ。この悪巧みに紀伊国屋文左衛門(中村敦夫)までが絡んでくる。しかし黄門様の御一行の活躍と、悪の手先として若様の監視役をしていた早苗(宮本真希)の改心により、一人の犠牲者も出さずに、将軍(堤大二郎)をわずらわせることもなく秘密裏に事は解決する。

鬼若の出番はまだかまだかと思っていたが、なかなか出てこなかった。もう時間がないぞと思っていると、アキ様に動きがあった。夜、賑やかなうたげが催されているのに、アキが一人離れていく。アキは「つげの里」を恋しく思いながらも、みんなと別れるのがつらいと悩んでいた。それを黄門様が気付き、優しく決意を後押ししてやった。日を改めて、別れがつらいアキは黄門様一人に見送られてふるさとに旅立っていく。

その旅立っていくアキの後ろ姿を眺めている黄門様の目に、鬼若の姿が映る。行方不明になってからもずっとそうやって影からアキを見守っていたんだ。鬼若の現れる映像には少し光の加減が違えてある。アキに近づくと鬼若は昔のようにアキを抱えあげて肩に乗せ歩いていく。黄門様はその姿を見ながら「鬼若、いつまでもアキを見守っていてやってくれ。」とつぶやく。これが今回の最後のセリフ。

そしてエンディング。いつもの歌のあとに知らない歌詞、その後ろで映像が流れる。鬼若とちっちゃな頃のアキ、今回の出来事のいろんな場面、大日本史編纂に励む助さん格さん、それに満足げな黄門様の姿、それでおしまい。


このアキのラスト、本当に鬼若は生きていたのだと思ってもいいし、肩に担いでる姿は象徴的なもので、死んだ鬼若の心がいつまでもアキを守り続けていることを黄門様が感じたのかもしれない。鬼若に見守られながら成長したアキには鬼若ゆずりの強さがしっかりあることを黄門様が確信したのかもしれない。それはどう受け取ってもいいのだろう。この場面だけでもいい最終回だった。


関連投稿
『死ぬな!風の鬼若!!』


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2007年10月02日

北京ヴァイオリン

先週の木曜日、BS2で「北京バイオリン」という中国ドラマの最終回をやっていた。毎回欠かさずとまではいかなかったが、4月に始まったこのドラマをずっと見ていた。

これは数年前に日本でも上映されたチェン・カイコー監督の映画「北京ヴァイオリン」のテレビ向けのリメイクだ。基本的な設定は映画とほぼ同じだが、オヤジの過去から物語が始まったり、結末もいろいろ違ったりしていた。

映画版が好きだったので、ドラマ版の内容には違和感を覚えないこともない。最終回は、これで終わり?という終わり方だったけど、この物語はオヤジが主役なんだなと思えば少し自分を納得させられた。

このドラマはさっそく10月から地上派で放送が始まる。放送時間は総合テレビで10月6日(土)午後11時10分より。全24話。タイトル表記は「北京バイオリン」で、映画とは違う。


さて、今回の投稿は、このドラマが再び始まるからその紹介のために書いたのかというと、正確にはそうではない。実は映画のことを書きたいから書いてみた。

まだ映画を見ていない人は、このドラマを知って映画の存在を知りそれを見たくなるかもしれない。でも、詳しくは言えないが、それは絶対逆の方がいい。良さが半減するだろう。

映画を見て、ドラマを見て、再び映画を見るというのがいい。映画の後にドラマを見てニヤリとするし、ドラマの後に再び映画を見るとそこでもニヤリとすることができる。その方がきっと楽しめる。

興味がある人は地上波で始まる前に映画のDVDを見てみよう。まあ人それぞれだけどね。


・amazom.co.jp「北京ヴァイオリン」検索結果へのリンク 北京ヴァイオリン
わざわざ、結末を含めたあらすじを書いてしまっているものもあるので、レビューは見ない方がいい。

これから後は、映画のことを書いてある。読まないなら読まない方がいい。映画版を見る前に押さえておいた方がいいと思うことだけで、ネタバレになることは書いてないつもり。

映画のタイトルは「北京ヴァイオリン」。このタイトルは日本独自のもので、中国語の本来のタイトルは「和你[イ尓]在一起 」(あなたと一緒に)。英題だと原題に近い「Together」。映画の内容は、邦題よりも本来のタイトルの方が焦点が合っている。これを知っていると物語の印象が少し違ってくるから頭の片隅に入れておいた方がいい。

監督は、陳凱歌(チェン・カイコー)。「さらば、わが愛/覇王別姫」、「始皇帝暗殺」、「PROMISE」の監督の人。

ストーリーはとてもシンプル。難しく考えなくても、美しい映像と音楽に感激しながら、そのまま主人公の少年の心と一緒に一つ一つ北京のまちで起こる出会いや別れを体験していけばいい。難しく考えたければ、二度目に見るときに考えればいい。

田舎に住む父リュウと一人息子チュン。母はいないらしい。息子チュンにはヴァイオリンに天性の才能がある。父はその息子を心から愛している。父はすべてをこの子の才能を伸ばすために捧げている。コンテストに参加するために二人は北京へと向かう。

少年チュンは北京で二つの大きな出会いをする。派手なお姉さんリリ、そしてだらしない師匠チアン先生。登場人物が少ない分、重要な人物が際だってきて、一人一人に感情移入しそれぞれを中心に物語を見ていくことができる。そうやってみると原題の言葉が主人公親子だけのものではないと分かってくる。様々な形の原題の「あなたと一緒に」という人々の関係を描いている。

この物語には、いろいろな対比が現れる。田舎と都会。父と息子。男と女。リリとチアン先生。猫と暮らす先生と弟子と暮らす教授。貧しさと豊かさ。現在と過去。等々。そういうところがところどころ気にとまる。再度見るとき、そういうところに注意してみると、この物語が描いているものがもう少し深く見えてくると思う。

最後のシーン。ヴァイオリンの演奏は圧巻だ。このシーンはやはり映画の方が格段に素晴らしい。演奏直後の余韻の活かし方も最高だと思う。

僕は映画に感動するとしばらく引きずってしまう。ふとシーンが思い起こされて涙さえこぼしてしまう。印象的な音楽も必須事項。いろんなシーンを思い出して、この後どうなったんだろう。どうしてそうしたんだろう。そんなことをしきりに考えている。今年の初めにこの作品も初めて見たときもそうだった。

見終わった後、ユイ教授が、監督本人が演じているのだとわかった。またリリ役の女優チェン・ホンが監督夫人であることもわかった。それも監督の作品で初めての出演らしい。そのことがまたこの作品を別な見方で見させてくれた。

ユイ教授はとても厳しい先生だ。間違った人ではないただ対極にいる人だ。師匠から弟子への言葉として、教えを語るシーンがいくつかある。これは映画より発せられる監督自身の言葉でもあるのだろう。率直な主張かもしれないし、皮肉かもしれない。


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2008年06月30日

「マトリックス・レボリューションズ」を見て

この前の金曜日、テレビで「マトリックス・レボリューションズ(The Matrix Revolutions)」をやっていた。マトリックス・シリーズの第三部。完結編だ。久しぶりに見たら、いろいろ考えたくなった。DVDを見直したり、英語の資料も含めていろいろ読んだりして、時間をかけて考えてみた。もちろんネタバレ。そして個人的な解釈。

以前ここで書いた「SANDWORM(DUNE)」という記事の中で、盲目の救世主という点で「砂の惑星」シリーズを思い起こした。マトリックスは様々な作品を思い起こさせる。その記事の中でも紹介しているが、デューンにインスパイアされたフィクションのリスト(英語)に他の作品とともに細かく指摘してある。




第三部の最後の方には、ネオが触手のようなケーブルで体を支えられるところや、王蟲を想起させる複数の赤い目をもった機械など、「ナウシカ」のパクリというよりは敬意を込めてのオマージュと呼ぶべきものがある。そしてその「ナウシカ」の場面を再現するくらいの監督が「ナウシカ」に影響を与えた「砂の惑星 (デューン)」シリーズを知らないわけはないので、この予知能力を持つ盲目の救世主は「砂の惑星」を意識したものだと考えてもおかしくないだろう。主人公が盲目になってからの目を使わずに世界を見るという描写はこの物語を思い出さずにはいられなかった。だからといってこの物語を使ってストーリーを読み解くヒントにするわけではない。ここにもオマージュがあるという指摘に過ぎない。



マトリックスの第二部「マトリックス・リローデッド」を映画館で見終わったときは、この世界は入れ子構造になっているに違いないと思った。根拠としては、ネオが現実世界でセンティネルを撃退できたことや、スミスがこの現実世界にやってこれたこと。これをうまく説明するには、現実世界として描かれている世界も何らかの仮想現実である必要があるだろうと。アーキテクトとの会話もそれを暗示しているように感じられなくもない。きっと第三部ではその秘密が明かされるのではとちょっと期待して見に行った。いい具合に期待を裏切られたけれど。



マトリックス第三部「マトリックス・レボリューションズ」を見るには、やはり金色に輝く光の意味を考えるのが一番の手がかりなのだろう。冒頭、おなじみの緑色の光で描かれたマトリックスを構成しているプログラムの世界の映像をどんどん拡大していくと、一瞬何もない真っ暗な世界となるが、その中心で爆発が起き、金色(オレンジ)の光があふ出してくる。これは緑色で描かれた機械的な構造ではなく、銀河のようなシダ植物のような構造のフラクタルfractalが現れる。自己相似のフラクタル図形は、拡大しても拡大しても果てはない、拡大してもそこにはまた似たような構造が現れる。画面はそれがフラクタルだと気づくとあきらめたように拡大が止まり、逆流し、緑の世界を通り過ぎて、あの緑の文字が降り注ぐマトリックスの画面が表示されたディスプレイとなり、見ているものを現実世界へと導いていく。(このフラクタルは、第三部だけかと思ったら、第二部の冒頭でも現れていた。ネオの予知夢のマトリックスコードの中で。このときは緑色のまま爆発もなくそれほど印象に残らなかった。)

第三部の冒頭のこの描写は、マトリックスの下部構造(もしくは上部構造)として金色の光で表した世界があることを示しているだろう。この金色で描かれたフラクタルとは何か。植物の形や雲など自然界にある拡大してもその構造が保存されるものは、再帰的に計算する数式として表現できる。このようなものをフラクタルと呼ぶ。逆にこの数式を用意することで、自然の構造物をCGとして描くことができる。この場面で使われているフラクタルは記号として使用されているのだろう。現実の世界と仮想の世界、そして生命と機械を結びつける役割を十分に果たす記号と解釈できる。つまり、プログラムでありながら生命と同等なもの。そしてこの冒頭のシーンは、金色の光で何を表すのかという記号の定義をしているではないだろうか。

それでは、物語の中で何が金色の光として表現されているのだろうか。この光で世界が描写されるのは、ネオが盲目になってからである。人間に寄生しているスミスの姿、発電所、マシンシティを守備する爆弾や、センティネル、そしてマシンシティも。マシンシティの上空からの姿はフラクタル図形そのものにも見える。

人間の中のスミスや、マシンシティの機械達が金色に見えるのは共通点がある。それはプログラムである。重要なのは、ネオには発電所が金色に見えるということだ。そこにはケーブルでつながれ仮想世界マトリックスで永遠の夢を見ている多くの人間たちがいる。発電所にも人間を管理するプログラムがいるのでその光とも思われるが、発電所にあるすべての建物が光に満ちて表現されるのは、やはりそこにいる人々も光として表現されていると考えるべきだろう。ただ盲目になってから常にそばにいるトリニティがネオによって金色の光で認識されるカットがないのは、実際に光として感じられないと考えた方がいいだろう。串刺しになったトリニティを手探りで探しているところからもそれがうかがえる。つまり、人間がマトリックスに進入しているときに限りその精神は、現実世界のスミスやマシンシティの機械達のプログラムと全く同等なものに変化していることを示しているだろう。

現実世界のネオはプログラムの存在を認識する能力を第二部の最後には身につけている。生身でセンティネルを感じることができ、さらに撃墜できた。オラクルとネオとの対話から、現実世界のネオがソースに直接接続が出来るようになったからだと分かる。そうなると、金色の光で表されているものがソースへの接続を通じて認識している対象ということになる。上でトリニティが光として見えていないとしたが、それはもちろんこのときトリニティはマトリックスにつながっていないのだからソースにもつながっていないからで、発電所につながれた人々が金色に見えるのは、彼らが常にマトリックスにつながっている状態だからである。金色の光がネオがソースを通して認識しているものを表しているならば、マトリックスコードを越えたところにある金色のものが、つまり映画冒頭で現れる緑色のマトリックスコードの先にあった金色のフラクタルこそがソースそのものを表していることもいえるのではないだろうか。

第三部の冒頭でネオが閉じこめられているのに気づく場所は「Mobil Ave」駅。機械とマトリックスとの中間の場所。ここでネオは人間と変わらない、子供への無償の愛を持ったプログラムの夫婦とその娘サティに出会う。これはネオたちが戦っている機械の本質を示すための出会いだったのだろう。この映画で描かれているプログラムは二種類あって、現実世界の機械を制御しているプログラムと、仮想世界マトリックスの現象を制御するプログラム。これはサティの存在により、同等なものだということが分かる。メロビジアンがトレインマンを使って行き来を制限しているだけである。さらに、スミスが現実世界の人間に寄生できるということは、機械達の精神であるプログラムが人間の精神と同質なものであることも示している。

第二部では初対面の時のセラフの姿も金色をした何かとして描かれている。これは第三部と同じ意味で使われているのかよく分からない。光り方が違うようにも思える。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。第三部の光の意味とは関係なく、マトリックス内のコードを認識できるネオにとって単に不可知な存在であることを示しているだけかもしれない。セラフの正体を示す重要な記号なのかもしれないけれど、他にマトリックス内部でオレンジの光として描かれたものがないので、どうともいえない。



アニマトリックスを見てマトリックス前史を知っていないと分からないが、機械が支配するマトリックスの世界の前に、知能を持った機械を人間が隷属させて暮らしている時代がある。その後機械の側が独立運動を起こし、やがて機械に対し脅威を持った人類側から機械に対し全面戦争が仕掛けられ、結局機械側の勝利に終わる。この前史はターミネータが描く未来世界や、鉄腕アトムのロボットの独立国の話を思い出させる。RURロボットの時代から何度となく描かれ続けるモチーフでもある。異質な存在や階層間の対立の分かりやすいメタファとも言える。ちなみに、「砂の惑星」はこのような思考する機械に対して完全勝利し排斥した後の歴史を描いている物語である。

第一部では、ネオは人類が電池にされているとモーフィアスに教えられる。しかしこれは本当なのか。もっと効率的なエネルギー源はいくらでもあるだろう。人間を機械に接続し、夢を見させてエネルギーを搾取し続けることに意味があるのだろうか。これは第一部から抱き続けている疑問だが、これはザイオンにいる人間側の勝手な思いこみではないのだろうか。

彼ら機械は人間を電池にする目的だけで機械につないでいるのではないだろう。彼らは彼らなりに人類に最善の奉仕を続けているだけではないのだろうか。実際人間を殺しているのだから、機械を支配しているプログラムはロボット三原則並の人を決して殺せないという厳格なものではない。しかし人間一人一人ではなく、大多数の人間に対して奉仕ができるようにプログラムされているのであったらどうだろう。この目的を邪魔する人間に対しては殺戮を行ってもかまわない、そういうルールの下に人類への奉仕を続けるための究極のシステムが発電所と呼ばれるものとマトリックスという仮想世界なのではないだろうか。

機械達にとって生きるということは、人類に奉仕するという目的と常に密接につながっていて、それ無しに存在そのものが成立しないのではないだろうか。人類の存在こそが彼らにとって生きる原動力になっているのではないだろうか。人類が自分たちに奉仕させる目的で設計した彼らは、知性を持った今でもすべての行動原理が人類という概念に従属しているため、機械の方から人類を滅ぼすことが不可能なのかもしれない。根源的な欲求として、知性を獲得した機械達は人類と共生したがっているのではないだろうか。しかし、人類は決して機械を対等な存在としてみなすことができない。自分たちより劣ったものとして差別するか、知性を持った彼らを自分たちの生存を脅かすものとして破壊の対象としてしか見なくなる。機械達が見つけ出した最良の解決策が、人類の肉体を機械に縛り付け、自分たちの愛情を強制的に受けさせるシステムなのではないだろうか。マトリックスという仮想世界を作り出すことでやっと機械達は人類と共生する理想の世界を手にいれることができたのではないか。


ネオとスミスの戦いが終わり、スミスが駆除され、マトリックスが第七世代にバージョンアップした。その中でオラクル達プログラムが集い、これから始まるマトリックスを語り合う。そこにサティがネオのために用意した輝かしい朝日が昇る。この輝きは、ネオが見えない目で目にしてきた輝きを連想させる。そしてこの空はトリニティが肉眼で見、美しいと呟いた空を思わせる。生まれ変わったマトリックスを光で満たした揺るぎない希望を抱かせるカットで終わることで、これから新しいマトリックスを通して機械と人間との真の共存が始まることを示唆しているのだろう。


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2008年11月17日

「七瀬ふたたび・クライマックスへ!」を見てしまった。

第六話まで終わって残り四話というところで、土曜日「〜これまでのストーリー これからの見所〜」というサブタイトルの異例のダイジェスト版が放送された。ほとんどは現在までのあらすじと登場人物や七瀬達の能力の説明。そして残りの数分間にこれからの展開の断片。

正直、これからの予告の部分は見ない方がよかった。原作や以前のドラマとは違うんだな、、、、やっぱりそのイベントは発生するのか、、、いろんな情報が詰まっていた。「RAT AT T」の意味のヒントもあった。でも正直な感想として、これからの展開は知らない方がよかった。

このダイジェスト版はもう一度再放送される。NHKの公式ページに行けば、時刻も書いてある。でもダイジェストを見るのは、いままでのあらすじを映像と共に確認するだけにとどめた方がいいと思う。つまり山小屋にはまだ行かない方がいい。


さて、ダイジェストは見なかったことにして、第六話の見ての感想。あの打ち捨てられた研究所で監視カメラを使って七瀬達を見ていたのは誰なのだろう。NPO はとても胡散臭そうだ。父の同僚と称する佐倉という男は怪しすぎる。それと、お父さんが生きてて良かったね。フェリーでの出来事を親子の問題にしていたのは、この展開を強調するためだったわけだね。

最大の疑問点として、佐倉の心は七瀬は読めなかったのだろうか。七瀬には父のことを知りたいという強い気持ちがあるので、何か手掛かりはないかと佐倉の心を勝手に探ろうとしてしまいそうに思うのだけど、佐倉の心を読んでいる描写がなかった。そこが何か妙だった。怪しいこの男は、善人そうな表情とは裏腹に人一倍何か特別な感情を発してそうなのだけど、以前心を覗こうとしなくても思いの強さで感じてしまうとか何とか能力の説明があったのに、そういうことも七瀬はこの男について感じなかったのだろうか。それとも、佐倉はその表情と同じで心を偽る能力を持っているのだろうか。西尾を連れ出しているのは佐倉らしい描写があるから、西尾からの伝聞で七瀬の能力を佐倉が既に知っている可能性もある。佐倉の立場で考えれば、七瀬の能力をあらかじめ知っていたとしたら、対面するにはそれなりの対策ができる自信がないと簡単にはできないだろう。

それから、七瀬が父の心の声を聞く部分はとても切なく印象的なのだけど、冷静に考えると、七瀬は父の声以外に、父の見ているものを感じ取ることはできなかったのだろうか。自分の居た部屋を見ているイメージが分かれば、ある程度方角も分かりそうだ。父にとって、娘との交信を確認できたあの灯りの点滅のイメージはかなり強く心にとどまっただろうに。それにどう考えても、心の声は距離によって強さが変わりそうなものなのに。だからこそ七瀬はあそこまで近付くことができたのかもしれないけれど、冷静さを失っていたために、もしくは発信源を探るなんて訓練もしたことがなかったせいで、精度が悪く探し出すことができなかったのだろうか。

父は七瀬の能力を知っているから、何らかの対策を講じて余計な情報を伝えない思考ができるのだろうか。娘への思いがあふれ出すことは、妻が死に七瀬が能力を再獲得して以来もあっただろうに。そういう気持ちさえ抑えて父は今まで身を隠していたのだろうか。父は余計な情報を伝えないようにしたいから、うつむいて七瀬に向けて思いを伝えていたのだろうか。でも父がテーブルのコーヒーを見ているのが分かれば喫茶店らしいとかいろいろ推理できそうなのだけど。

ただ確実なのは、あのすれ違いのとき、父が七瀬の姿を見つけていれば、その衝撃は必ず七瀬に伝わったはずだから、父だけが姿に気づくということもあってはならなかったのは分かる。七瀬の能力のせいで父は七瀬の姿を見たいけれど見える位置でこっそり見るということもできない、未知能力ゆえの有り得ない切なさがあったんだなと気づいた。でも、最初どうやって七瀬があの部屋にいることが七瀬に気づかれずに分かったのだろうか。部屋にいることは灯りで分かるけど、そもそもあの部屋だということをどうして。佐倉の行動と関係があるのだろうか。そういうところも、次回説明がされるのだろうか。

いよいよ残り四話、物語はクライマックス。以前は敵の組織は謎のままだったけれど、今回は新たな設定で具体的に描かれていくみたいだ。原作の残りのイベントを絡めながら、どう今回のドラマらしい独自の展開をしてくれるかとても楽しみ。


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2009年07月12日

今日「その夜明け、嘘。」が放送される

地方で暮らしていて困ることは、読みたい本がどこにも置いてないことと、興味のある舞台を見に行けないこと。

今年の二月に公演された宮崎あおいが出演する舞台が今晩テレビで放送される。残念ながら地上波ではなくCSのTBSチャンネルなんだけど、チャンネルを合わせられる人はどうぞご覧ください。

この舞台の放送は6月にもあったけれど、そのときは途中で気がついたので全部は見ていない。だから、この日を待ちに待っていた。

出演するのは、宮崎あおい、吉本菜穂子、六角精児の三人だけ。六角さんは「相棒」の鑑識さんでおなじみの人。吉本さんは、申し訳ないけど知らない人だ。でもこの三人だけの舞台に出てくる人なので、十分期待していい人だと思う。(追記:吉本さんはゴンゾウのルミちゃんでした。声を聴けばすぐにわかる特徴ある声なのに、前回はちょっとしか見てなかったので気付かなかった。)

見た後に書いてもいいのだけど、次回の放送がいつあるのかわからないので、このブログを偶然目にして見逃さずに済む人がいるかもしれないので、ここに書いておきます。

チャンネル:
CS TBSチャンネル
放送日時:
7月12日(日) 午後9:00〜午後11:00


TBSチャンネル番組情報:
舞台「その夜明け、嘘。」 |バラエティ 番組詳細情報 | TBS CS[TBSチャンネル]


舞台「その夜明け、嘘。」

「その夜明け、嘘。」公式サイト:
http://www.sonoyoake.com/


舞台の感想が書いてあるスレ:
☆。゚゚・*その夜明け、嘘。。゚゚*。☆


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2009年10月22日

連続人形活劇「新・三銃士」が面白い

三谷幸喜脚本ということで、始まる前から期待していたけれど、これはすごくいい。
まずオープニングの音楽がいい。これは公式ページを開くと同じものが流れてくるが、この音楽がきこえるだけで、わくわくしてくる。その音楽と一緒に流れるアニメーションも、カッコよすぎる。劇中の声優さんたちもいい。ベテランの三銃士のみなさんが実はいろんな役で敵や味方を演じ分けている。人形たちの演技力も、十分に彼らが生きていると思わせてくれる。そもそもその人形が、木目が見事に生きていてとても美しい。
完全な子供向けの作品だと、主人公ダルタニアンの憧れるコンスタンスを独身にしてしまうのだろうけど、そういうところは媚びていない。子供でも楽しめるんだろうかと心配になるくらいに、大人が十分に楽しめる。トレヴィル隊長との出会いや、再結成された三銃士の謁見、だるまさんが転んだで放置される国王とか、毎回三谷幸喜らしいと言わざるを得ない楽しさがある。

昨日は第8話「満月の森」。王妃とバッキンガム公とのスキャンダルを暴こうとするミレディ。王妃を手助けしようと夜の町を密かに動き回るコンスタンス。三銃士たちに秘密を作りながらもコンスタンスが心配でならないダルタニアン。それを気付かないふりで見守るアトスとアラミス。20分があっという間に過ぎてしまった。

最後に平井堅が歌うエンディングがあるが、画面では、必ずダルタニアンのスケッチが現れ、そのあとに2人その回の重要な登場人物のスケッチが続いて、劇中の一場面のスケッチとなる。そしてその絵が描いている劇中の場面そのものに切り替わり、劇中の場面が合わせて3つ現れて、終になる。そのシーンのチョイスも毎回、ニヤリときたり、ジーンときたり、いい余韻を与えてくれる。今回は、純粋な心の国王がフランス国民の幸せを月に願ってる場面と、みんなに隠し事をしながら行動しているダルタニアンに対しアラミスが助言をする場面、自分のことを心配してくれるダルタニアンをコンスタンスがお兄さんみたいだと言う場面だった。

放送はNHK教育テレビで午後6:00から6:20。第10回までは月金連続で放送だけど、来週の11話からは金曜週一回になってしまう。全40話。
もちろん、NHKオンデマンドでも見られる。

公式ページ:
NHK 連続人形活劇「新・三銃士」
登場人物の説明や、各話の詳しいあらすじが書いてある。


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2010年04月29日

「フラッシュフォワード」第1話 無料配信中

2010年04年29日の今日!
「フラッシュフォワード」第1話「ブラックアウト」のオンライン配信が始まりました。
2010年05月08日までの期間限定です。
ちゃんと日本語字幕付きです。
将来テレビ画面で起きる42分54秒の未来を僕たちは受け取るわけです。

http://axn.co.jp/program/flashforward/oo-distribution/

とてもいい感じで、期待していた以上です。
全人類が同時に2分17秒間ブラックアウトしてしまう。
この設定だけでわくわくしてしまいます。
ソウヤーの原作とかなり設定が変わってしまっていますが、ドラマだとこの設定の方が断然いいと思う。
こういう作品は決着のつけ方で作品の出来が決まってしまうのでしょうが、出だしはなかなか、本放送が始まるのが楽しみです。

そういうわけで、何度かここで紹介した去年放送開始されたアメリカのドラマ「フラッシュフォワード」の第1話がいよいよ5月22日に放送されます。
残念ながらチャンネルはAXNです。地上波ではないので、スカパーやケーブルテレビなどの契約をしていないと見ることができません。


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2010年05月03日

最近のドラマの感想1

最近はプログラミングがいまいち気乗りがしなくて、自分の時間はドラマばかりを見ていました。ちょっと感想を書きたくなったので、書いておきます。

「ゲゲゲの女房」は面白いです。「ちりとてちん」以降も、「瞳」、「だんだん」、「つばさ」、「ウェルかめ」は欠かさず見てはいたんですが、ずっと物足りなく思っていました。そういうところで、この物語です。ノスタルジーは面白い朝ドラの重要な要素かもしれませんね。例外はいくつもあるんですけどね。できれば、このドラマの関連で「のんのんばあとオレ」も是非とも再放送して欲しいです。
それにしても「ゲゲゲの女房」で残念なのは、テーマ曲です。「いきものがかり」の元気のよさは嫌いじゃないんですが、朝っぱらからの出だしのあの大声がつらいです。そして、朝ドラの後の落ち着いたニュースが、どれだけドラマの余韻を心地よく受け止めてくれていたのか、その存在の重要さを思い知らされます。

「龍馬伝」はやっぱりいいです。始まったときも面白かったけれど、第2部になってからもますます面白いです。今までの作品とは違いすぎるコントのような勝海舟との絡みも、この生き生きとした楽しさがいいです。丁寧に描かれている人斬り以蔵の心の動きも、以蔵は心情を言葉でそんなに吐露しているわけでもないのに、なかなかの演技で悲しいまでに伝わってきます。必要以上に平和主義者に描かれている龍馬の対極の存在としての、好戦的な武市半平太の対比のさせ方とかも、なんだか度が過ぎるほど貶めているんですが、それはそれで面白いし、そして何よりもトルコ行進曲風のテーマ曲とともに現れる岩崎弥太郎は、いまだに汚らしくて見苦しい姿をしているのに、姿を見ただけでなんだかほっとしてしまいます。その他の登場人物も大河らしく豪華な俳優陣で見ごたえがあります。

「八日目の蝉」。これはすごくいいです。見る前は犯罪者を主人公にするドラマを作るなんてと、NHKも最近冒険しすぎだなと思っていたんですが、見てしまうともう駄目ですね。檀れいさんの演じている希和子と娘の薫は、確実にいずれ仲を裂かれてしまう展開がくるのは分かっているのに、見ているうちに、そんな時が永遠に来ないように祈ってしまう。この女はこの子を絶対に不幸にしているのに、ここまでくるともう理屈じゃないんですよ、見ているうちに共犯者にさせられているというか、この二人を本当の親子にしてあげたいとさえ思ってしまう。けれどやがて希和子は罪を償わなければならない。その結末があるからこそ、このドラマは成立しているんだと思う。もちろん、紛れもなく希和子を檀れいさんが演じているからこそ、この人を助けてやりたいと思ってしまうんですけどね。エンディングテーマもいいです。この曲は夏川りみで聞いたことがあるんですが、それとは違い、このドラマにあった悲しい旋律で、この曲がいっそう切ない希和子の気持ちを代弁してくれます。歌っていたのは去年「みんなのうた」で「あさな ゆうな」を歌っていた城 南海さんだったんですね。この人の歌声は好きです。気づかなかったくせに。
脚本は浅野妙子。純情きらりというタイトルで、冬吾との危うい三角関係を描きこんでしまう脚本家ですからね。こういう女性のぎりぎりの感情は得意分野なんでしょう。明日、いよいよ最終回、NHKには珍しく放送時間拡大。

まだいろいろ見てるんですが、日付が変わりそうなので、とりあえず、今日はここまで。


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2010年05月05日

「八日目の蝉」最終回

最終回を見終わった後、じわじわと余韻がきた。より内面的な回だったからじゃないかと思う。最初に見たときは泣かなかったのに、録画したのを見直したら、悲しくてたまらなくなった。こういうときは、混乱した自分の気持ちを整理するために、こんな風に長文を書きたくなる。

最終回は、檀れい演じる希和子視点ではなく、北乃きい演じる二十歳になった恵理菜(薫)の視点で描かれていく。そこが大きくドラマの雰囲気を変えている。先週までの逃避行の緊張感が無くなったせいもあって、別のドラマを見ているような感じさえしてしまう。

いままでも断片的だったが、成人した薫の場面は出てきていた。そして彼女は決して幸せではない生き方をしていることも分かっていた。不倫の子を宿し、現在の彼女は表情の乏しい女性となり、希和子を慕う感情も失っていた。この最終回は、薫が自分の生い立ちを受け入れ、これからの人生を歩んでいくための物語になっている。

希和子と引き裂かれ、実の両親の元で暮らすようになった薫は、幸せな少女時代を過ごすことはできなかった。実母にとってみれば、自分の娘なのに赤ん坊の頃から5年間半の長い逃避行の間に薫に染み付いた憎くて憎くてしょうがない女の影を見続けなくてはいけない日々なのだから、どんなに娘を愛していようとわだかまりが無いほうがおかしいだろう。薫にとってみれば、自分の自然な言動なのに、それに憎しみを向けてくる母に対し自分が愛されているという実感を心から抱くことはできなかっただろう。あの女さえいなければ、何事も無く幸せな母と子になれたのにという実母の痛切な想いは、やがて薫自身にも希和子を憎ませ、希和子に大切に愛されていた子供時代を心の奥底の見えないところに隠させてしまったのだろう。

薫は成人し、やがて皮肉にも希和子と同じように不倫の子を妊娠してしまう。そのことを母に告白し、さらに希和子と同じように堕胎するつもりだと伝える。その話を聞いているうちに母は激昂し、彼女を何度もひっぱたき、彼女の体を掴んで揺さぶりながら、なんで私を苦しめるのと嘆く。薫はそのとき、母の激しい言動に対しても、泣くことも無く、ただ無表情に受け止めることしかできない。これが現在の母と子の関係の象徴的な描写になっている。

薫が巻き込まれた誘拐事件の本を書きたいと現れたホームの頃の幼馴染マロン(千草)に連れられて、薫は小豆島へ向かう。薫はここに住んでいた頃の希和子の足跡をたどりながら、懐かしいその風景に接することで、断片的にだが、閉じ込めていた幼い頃の記憶をよみがえらせていく。二十四の瞳の分校で母と楽しくやった学校ごっこや、お遍路の道での蝉の抜け殻とともにあった記憶も思い出していく。写真館には、紛れも無く親子であったことを物語っている幸せそうに二人で写っている写真も置いてあった。

そして、偶然に海から帰ってきた、歳をとった文治と港で再会する。希和子が逃避行の間、たった一度だけ心を許した男性。岸谷五朗演じる文治は、希和子と薫の二人が互いを思いやる本当の親子であったことを証言してくれた。そして、薫がどうしても思い出せない逮捕のとき希和子が叫んでいた言葉を、薫に教えてくれた。その言葉をきいて、薫はその場から走り去り、二人から離れたところにしゃがみこむ。そして、お母さん、お母さんと言いながら泣き出してしまう。引き離されてからずっとこの十数年間閉じ込められていた薫の感情が、このときやっと溢れ出したのだろう。文治の存在は、この物語で肩身の狭い男性にとっても救いになる。

薫と幼馴染のマロンは、フェリーに乗って小豆島を後にする。あきらかに薫の表情が来るときと変わっている。失ってしまっていた全てのものを取り戻すことができたそういう表情だ。言葉も幼いときに実母に禁じられていたはずの方言に戻っている。そして、幼い頃からの美しい風景の話をしながら、このきれいな世界を見せてやりたいと、子供を産むことを決意する。そのとき、薫の名を呼びながら防波堤を走る人影に気づく。もちろんそれは文治だ。がんばりやと叫ぶ文治に、薫はしっかりと手を振り返す。自分の子供時代を知ってくれていた文治の想いにしっかりと応えることは、彼女が育ったこの場所と彼女を育ててくれた人たちへの感謝の気持ちも表しているのだと思う。子供を産む決意をしたとたんのこの文治からの応援は、彼女の成長を見守っていた私たちからの、その決断を応援したいと思っている気持ちの代弁でもあるように思う。

薫は船の上から母に電話をかける。子供を産むことを決意したことを伝えるために。母は泣きながら仕方がないとあきらめたように許してくれる。生まれてからずっとできていなかった実母との本当の和解になったと思う。母も恵理菜(薫)の出産を受け入れることで、いままでの苦しかった人生に救いを得ることができたのではないかと思う。このときの、全ての元凶である津田寛治の情けなくも娘を思いやる父親としての姿も地味にいい。


そして、いよいよ今回の大きな見せ場となるべき希和子との再会。このシーンでは薫の視点から希和子の視点に戻っている。希和子は、小豆島を海の向こうに臨む岡山の船着場で働いていた。7年間の服役の後、各地を転々とし、一度は小豆島に渡ろうとしたが、勇気が出ず渡ることができなかった。そして、この船着場で売店の店員になっていた。

フェリーを降りた薫とマロンの二人は、何も知らずにここで休憩をすることになる。妊娠している薫を気遣って、売店にはマロンが向かったので、希和子と薫が直接顔を合わせることにはならなかった。ただ希和子は席に座っている薫の姿を見つけ、幼い頃の薫に似ていることに気づく。でも、それは薫を探してしまういつもの癖が出ただけだと自分で打ち消してしまう。彼女たちが去り、置いていった空き缶の後片付けをしようとテーブルに近づくと、そこには空き缶だけでなく、蝉の抜け殻が置いてあった。そのとき、希和子はやはりあの女性が薫であることを確信し、あとを追いかけてしまう。

走っていくと希和子は二人の後姿を道路の向こうに見つける。そして立ち止まり思わず大きな声で薫の名を叫んでしまう。すると向こうにいる薫も希和子の方を振り返る。タイミングよく薫は振り返ったものの、すぐ近くを車が行き交っているし、一緒に歩いていた千草が振り向かなかったので、よく声が届いていなかったのかもしれない。薫の方から希和子を見ると、夕日のせいで、希和子の姿が光に包まれよく見えない。希和子も薫にもう一度声をかけるということはせずに、こちらを見つめている薫の顔をただ見つめるだけだった。お互いしばらく見つめあう形になったが、薫は向き直り、何事も無かったように歩いていった。この薫の仕草は、結局気のせいだと思ったのか、それとも分かっていて決別したのか、はっきりとはさせない演出だと思う。

薫は気付いたのか、いないのか、いろんな解釈ができるだろう。どちらにしても、希和子にとっては、夕日がまぶしくて自分の顔が薫によく分からなかったとは思いもよらないので、自分と決別し、薫が自分の道を歩いていくことを決めたように見えただろう。以前は力ずくで引き離されてしまった二人だったが、今回、薫は自分の足で希和子のそばから離れていく。彼女はそれを受け入れた。薫は大人となり自分を必要とはしなくなったのだと実感できたのではないだろうか。そう思えたのならばそれは希和子にとっても良かったんだと思う。

15年前の別れのまま、心のどこかで吹っ切れることなく今の薫に会いたいと思い続けることは、希和子にとっても苦しいことだったろう。希和子は成長した娘の歩んでいく姿を、優しく見守ってこの物語は終わる。本当の母ではない彼女にできることはここまでだろう。ドラマの中のいくつもの大切なシーンとともに、城南海が歌う「童神(わらびがみ)〜私の宝物〜」が流れてくる。この曲は、この物語を優しく包み込んでくれるほんとうに素晴らしい曲に思う。


最後に蝉について思ったこと。テーブルに置いてあった蝉の抜け殻はこの場面においては、彼女が大人となったことのメタファーでもあると思う。この物語では、蝉やその抜け殻は、胎児であったり、幼い頃の薫であったり、希和子の人生だったり、いろんなことを表しているのだろう。でもテーブルの上の抜け殻は人の親となることを決意した旅立ちの印だと思う。
希和子にとっては、愛人であった頃の自分は土の中にいた蝉で、薫の母となった短かかった日々は限られた7日間の蝉として生きた本当の人生であり、そして今の人生はその長く生きすぎた8日目の蝉なんだと思っているのだろう。15年前裁判で薫の両親に対しての謝罪を促されたとき、彼女は子育てをさせてもらったことの感謝を述べてしまう。正妻にとっては感情を逆なでする言葉以外のなにものでもないが、それでも彼女の本心はその感謝の気持ち以外にないだろう。

希和子が最後に独白するシーンの中に、海辺にある巨大な両の手を天に差し伸ばしたようなオブジェの間で、希和子が夕日の光に包まれた小豆島に手をさし伸ばし、その光を胸に大事に抱え込む象徴的な美しいシーンがあるのだが、彼女は短かったけれど薫とともに過ごした幸せだった日々を胸にこれからを生きていくのだろう。これから先、誰からも愛されない人生を生きることが希和子が犯してしまった罪の代償だとしても、彼女はこの大切な思い出とともに生きていくのだろう。

追記
このあと原作を読みました。
小説「八日目の蝉」を読んだ 2010/05/16



posted by takayan at 23:37 | Comment(3) | TrackBack(0) | 映画・ドラマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする