メキシコで採取されたコスモスの種が、スペインのマドリッド王立植物園に渡り栽培され、命名されたところまでは書いた。
コスモスの由来、
コスモスの由来2。
今度は日本におけるコスモスのことを調べてみたが、前回のような明確な情報は集められなかった。
■ 日本にやってきた時期
ネット上で調べると、コスモスが日本に入ってきたの時期は、江戸時代後期、明治時代中期らしいと書いてある。内容もはっきりしないが、その「らしい」という情報そのものも出典が分からないものが多かった。
その中で次のページを見つけた。
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編集ノート - 医学用語を歩く
この中で、「コスモスは、幕末に渡来し、イタリアの彫刻家で、工部美術学校の教師ビンチェンツォー・ラグーザが明治12年(1879)に種子を持ち込んだのが最初だともいわれています。」という記述があった。他にもラグーザが氏が関わっていることを書いたページはあったが、このページには出典があった。典拠として書かれてあったのは、『週刊四季花めぐり(2)秋桜(コスモス)』小学館刊 2002年9月26日発行。
「ラグーザが最初だと言われている」という表現なので、最初かどうかは分からないがラグーザがコスモスに持ち込んだという資料が何処かにあるのだろう。そういうわけで、ラグーザについて調べてみた。しかしコスモスに関連する情報はネット上には出てこなかった。
ヴィンチェンツォ・ラグーザ Vincenzo Ragusa(1841-1927)。
彼は、日本最初の美術教育機関である『工部美術学校』に招かれた三人のイタリア人教師の一人である。担当は彫刻科。工部美術学校は1876年開校したが1883年で閉じる。彼は開校時の1876年から1882年まで日本にいた。彼は玉という日本人女性と一緒にイタリアに帰り、のちに結婚する。
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工部美術学校 - Wikipedia
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連載:温故知新2〜ラグーザ作『山尾庸三像』の石膏原型に触れた時 2〜 - 九州国立博物館
※ ラグーザが勤めていたのは『東京美術学校』としているページもあるが、これは工部美術学校が廃された後、これに代わるものとして1889年作られたものである。
■ ネット上で確かめられるなかで「コスモス」が使われた最初の作品
群馬県立女子大学の北川氏のホームページにある談話室「まほろば」の過去ログの中にわかりやすいやりとりがった。
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まほろばバックナンバー(12)このページで漱石全集でのコスモスの用例を調べていたので、検証の意味も込めて、青空文庫の全文検索を使って、似たようなことをやってみた。
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google.co.jpでの「コスモス 明治 site:www.aozora.gr.jp」の検索結果※ ただし、この検索だと、本文ページ内に「明治」という言葉が入っていない明治の作品は検索できない。
すると、明確な初出時期の分かる作品としては、与謝野晶子の『ひらきぶみ』が見つかった。本文最後から二番目の文。この初出は『明星』の1904(明治37)年11月号。
....庭のコスモス咲き出で候はば、私帰るまであまりお摘みなされずにお残し下されたく、軒の朝顔かれがれの見ぐるしきも、何卒帰る日まで苅りとらせずにお置きねがひあげ候。....
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『ひらきぶみ』 - 青空文庫
これが出された1904年には既に一部の日本人の庭にコスモスが咲いていたと考えていいだろう。「君死にたまふこと勿れ」の批判への返答という形で出された作品だけに、この文章も多くの人に知られたことだろう。作品に使うことから与謝野晶子の周囲ではそれなりに「コスモス」が一般的な言葉だと認知されていたことも想像できる。
本文中に『明治』という単語が入っていない場合は確かめていないので、「コスモス」だけで検索してみたが、確認できるものの中に、これ以上古いものはなかった。
上記の掲示板に書かれていた『門』についても青空文庫で調べると、これは1910(明治43)年3月1日〜6月12日まで朝日新聞に連載されていたことがわかる。
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図書カード:門 - 青空文庫
■ 1909年(明治42年)に文部省が全国の小学校にコスモスの種を配布したらしい。
いろいろなページで書かれていたが、その中で信用度の高い情報源はここ。
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調べてみよう コスモス(秋桜) - 増進堂・受験研究社
小学生の頃お世話になった増進堂・受験研究社のサイトに、調べ学習のテーマをいくつかリストアップしてあって、その中にこの『コスモス』がある。「日本には幕末に渡来したが,広く広がっていったのは明治42年に文部省が全国の小学校に配布したからです。」という記述がある。ネット上にはこれを裏付ける情報は見つけ出せなかったが、文部省なので関連の公式記録がどこかに残っているはずだろう。ここが発行してある参考書の中にもっと詳しく記述してあるものがあるかもしれない。この明治の配布のとき「コスモス」という名前で呼んでいたのかも気になる。
■ 秋桜(あきざくら)という言葉
今度は「秋桜」という単語が使われているか、青空文庫で似たような検索をしてみた。これを「あきざくら」と読むのか、「コスモス」と読むのかは、検索後に確認すればいい。
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google.co.jpでの「秋桜 site:www.aozora.gr.jp」の検索結果結果は、青空文庫にある作品の本文では「秋桜」という表記そのものが存在しなかった。旧字体の「秋櫻」でも駄目。つまり著名な著作権切れの文学作品には、「秋桜」という文字自体が使われていない。「秋桜(あきざくら)」という言葉自体が一般的ではなかったのだろうか。
いろいろ調べていると、俳人に水原 秋桜子(1892-1981)という人がいることが分かった。根拠は見つからなかったがこの名前はコスモスにちなんでいるだろうと考えられる。いつからこの俳号を名のっているかは知らないが、遅くとも1934年(昭和9年)に俳誌『馬酔木』を主宰したときには既に水原秋桜子であるようだから、その時期には「秋桜(あきざくら)」もしくは「秋桜(しゅうおう)」という表現はあったと言うことができる。
有名な当時の小説にはなかったが、短歌や俳句では使われていたかもしれない。古い「季寄せ」や「歳時記」を引っ張り出して記載されているかを調べるといいだろう。いつ頃詩歌で使われ出したかを知ることができるだろう。
コスモスの別の和名に『大春車菊オオハルシャギク』というのもあるが、この由来は分からなかった。
■ 秋桜(コスモス)の当て字
秋桜(あきざくら)をコスモスと当て字読みしだした時期については、はっきりしたことは分からなかった。山口百恵が歌ったさだまさし作詞作曲の『秋桜(コスモス)』(1977年10月1日)が日本中にこの読み方を浸透させただろうことは簡単に想像できるが、おそらくそうなのだろうが、ここではそういう判断基準では書けない。
また広めただけでなく、この当て字の用法の始まり自体がこの歌であるかもしれないが、これを確かめるには、やはり詩歌を狙って調べればでてくるのではないかと思われる。もちろん直接、さだまさしに独自の当て字かどうか聞くのもいい。それでも一番かどうかは分からないが。
■ まとめ
・1879年(明治12)に工部美術学校のラグーザ氏が日本に種を持ち込んだらしい。
・1904年(明治37)『明星』11月号に発表された与謝野晶子の『ひらきぶみ』にコスモスという言葉が書かれている。
・1909年(明治42)に文部省が全国の小学校にコスモスの種を配布したらしい。
・1910年(明治43)3月1日〜6月12日まで朝日新聞に連載された夏目漱石の『門』にコスモスという言葉が出てくる。
・1977年(昭和52)10月1日に山口百恵の『秋桜(コスモス)』が発売された。
ラグーザ氏以前にも持ち込んだ人がいるかもしれない。与謝野晶子以前に作品に使った人もいるかもしれない。
近くの図書館でも調べてみたけれど、ネットにある以上の情報は見つけられなかった。