2008年02月05日

ヤッターマン

ヤッターマンの録画を見る。やっぱり歌がどうしてもなじめない。映像はいいんだけれど、なんでこれにしちゃったのだろう。かっこいいかもしれないけれど、楽しい曲には思えない。一緒に歌って元気になるって曲じゃない。いまさら一緒に歌うわけじゃないんだけれど、あの昔のOPとEDがあってこそのヤッターマンだったんだなと分かってくる。山本正之氏の独特の歌声がないともう別なものに思えてしまう。それに富山敬氏のナレーションも重要だったとしみじみ思う。すべての要素が当時の子供が楽しめるようにとても魅力的に組み合わさっていたんだなあ。だから長期にわたってマンネリが続けられたんだろうな。

今日の話の内容(「北の国から」のパロディ)からも昔の視聴者を意識して作ってくれているんだろうけど、そこまで昔のファンが喜んで見ているとは思えない。とはいえ、新番組でドロンボー一味とドクロベー様が再結集してくれたことは大感謝。僕はそこしか見るところがない。今後は今の子供たちの心をつかんだ面白い作品を作ってくださいとしか言えない。

何年か前カートゥーンネットワークで延々やってたタイムボカンシリーズを見て十分堪能してるから、正直今回のヤッターマンにそれほど要望することもない。調べてみると、今はキッズステーションで昔のヤッターマンをやっている。昔を懐かしがりたい人はスカパーで見ればいいってこと。タイムボカンシリーズはDVDも既に出てるじゃないですか。今のに不満がある人も大人買いすれば万事解決。きっと今回のヤッターマンはオリジナル版のDVD販売促進というそういう計略にもなってるんでしょ。

追記:2008/02/08
Gyaoでもオリジナル版毎週2話ずつやってますね。

■関連リンク
番組表『タイムボカンシリーズ ヤッターマン』|キッズステーション

お仲間の懐古主義者はこちらをどうぞ



パソコンは前の環境に戻ったけれど、最近仕事に時間を使わないといけなくなって、前から書こうとしていることにも没頭できない。プログラミングをする時間もとれない。読みたい本も買ったのにまだ読み終えられない。やっと暇ができたと思ったら、今度は頭が痛くなって寝込んで、無駄につぶれてしまう。それに、お金はちっとも貯まらない。


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2009年09月07日

プラネテス

今年は400年前にガリレオ・ガリレイが望遠鏡で星空を眺めたというので国際天文年となっている。日本では皆既日食というなかなかいい、記憶に残るイベントもあった。

そしてさらに、国際天文年と同時に今年はアポロ11号月面着陸40周年でもある。きっとそれに合わせて、NHKでも宇宙関係のアニメが再放送されている。ふたつのスピカとプラネテス。両方とも2003年の作品。どちらもアニメを先に見て感動し、すぐにコミックも買って読んだけれど、両方アニメ以上に好きになった。

ふたつのスピカは、少女アスミが幽霊(?)のライオンさんに助けられながら、宇宙学校の仲間たちと一緒に宇宙飛行士を目指す物語。実写ドラマとしても先日放送されていた。でもライオンさんが出ていないくて、主人公の性格も違っていて全く別物のドラマになっていた。このアニメ版は絵がもう少しコミックの雰囲気を伝えてくれたならよかったけれど、それでも十分に原作の心を描いた作品になっている。チャンネルと放送時間は、BS-hiで毎週火曜日午後7時25分〜。全話20話。次回は9話。

そしてもう一つ、プラネテス。BS2で毎週日曜午後11時54分からやっている。これがとてもいい。だからまた見ている。昨夜やっていたのは、第10話「屑星の空」。全26話。

これは人類が宇宙に進出した2070年代の物語。空想的な未来というより現在の延長線上の未来が描かれている。2009年の今年は若田さんが国際宇宙ステーションに長期滞在したけれど、50年後はまだ早いかもしれないけれど、100年くらいしたら人類はこの作品くらい活動圏を広げているかもしれない。

そんな未来では、軌道上に漂うゴミ(スペースデブリ)が人類の活動の障害となっていて、それを専門に除去するデブリ回収業者が、大切な裏方として働いている。それが主人公たちの職業で、主人公ハチマキと新人の田名部愛を中心に物語が進んでいく。アニメ版は原作コミックと設定が多少違って、会社組織とかも描かれてそれがいい感じでリアリティを醸し出してる。ガンダムで宇宙にデブリを撒き散らしているサンライズが制作に関わっているけれど、プラネテスを見るか読むかしてしまうと、後遺症として現実でも物語でも宇宙が舞台になると、もうデブリが気になってしょうがなくなる。

プラネテスは、一つ一つのエピソードがよくできていて激しく心を揺さぶってくる。昨夜あった「屑星の空」は、同僚のユーリーが宇宙で失ったものを探す話。デブリが巻き起こす悲劇と、デブリともなる一つ一つの物が人の心を伝えてくれる大切な存在であることを示してくれる。漫画では第一話のエピソードになっていて、デブリ回収がどれだけ大切な仕事であるかを思い知らされる。

そして次回の11話も心に残ってしまう素晴らしい話。


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2010年10月07日

ゼーガペインを見終わった

最近はゼーガペインを見ていた。これも先週の土曜日BS11デジタルで最終回を迎えた。アニマックスでも先ほど終わった。最終決戦の盛り上げ方とか最高だった。

本放送は2006年。テレビ東京の放送だったので、こちらでは放送されていなかった。そういうわけでBS11デジタルでの放送が初見になった。当時こちらでも見れるBSジャパンでも放送されていたらしいのだけど、気づく訳がなかった。今回のBS11デジタルでの放送も「亡念のザムド」の後番組でなかったら、初回から気づかなかっただろう。

人類は量子コンピュータを開発し、人の肉体や精神の情報を丸ごと量子データに変換することに成功したそういう未来。量子コンピュータとか量子テレポートとか、現実の科学用語が使われているが、そういう細かいことは気にしないで楽しんでいた。

全人類はなんらかの災厄のために肉体を失い、量子コンピュータの中に保存された量子データのみの存在となってしまった。人類のデータはその量子コンピュータが作り出す仮想世界の中で、自分たちが滅びてしまったことに気づくこともなく、作られた世界の中で年をとることなく平穏な日々を繰り返している。こういう世界観大好きなので、かなりはまって見てしまった。

作られた世界の中で暮らす人々は、この物語の用語で幻体と呼ばれている。その中に極稀にセレブラントと呼ばれる世界の本質に気付き、サーバーが管理する日常から自由になれる人たちが出現する。その覚醒した人たちは、いつの日か地上に戻れる日を信じ、人類をこの絶望的な状況に追い込んだ存在と戦っている。サンライズらしく、この作品もロボットものである。主人公たちは飛空母艦から発進するゼーガペインと呼ばれる人型兵器に乗って戦う。最初の印象は、ありがちなゲーム世界と現実世界の融合とか、マトリックスに影響を受けたものという感じだったが、見ているうちに妙に引き込まれてしまっていた。

現実の世界において人類は肉体という実体を失っているが、彼らが操る飛空母艦と人型兵器ゼーガペインは物理的な実体をもっている。セレブラントはその内部に転送されることでサーバーの外の世界に進出できる。ゼーガの機体の周辺であれば、搭乗者はホログラムとして地上に降りることもできる。地上に投影され、まるでそこにいるように描かれる。彼ら自身もそこにいるという感覚が与えられるのだろう。ただこのホログラムの彼らは地上の何物にも触れることはできない。彼らの世界やホログラム同士ならば触れることも当たり前にできるので現実に引き戻されることはないのだけど、ふとしたこういう虚しさの描写は、彼らが直面している現実を痛切に感じさせて心を締め付けてくる。

テーマ曲もいい。始めも終わりもロボットものには相応しくないような、ふわふわとした甘く切ない歌声がたまらない。本編を時間を忘れて見入っていると聞こえてくるエンディングテーマもいい。もう終わりかと思いながらのこのラストからエンディングテーマへの流れも毎回ぞくぞくする。物語が進むにつれて、歌詞のキーワードに隠された意味に気付いていくのも面白い。録画したのを見るときもスキップするのがもったいない。

タイトルにあるように痛みがこの物語の大きなテーマになっている。「忘れるな我が痛み」が後半の次回予告の決まり文句になっている。肉体を失っていながらも、目の当たりにする悲惨な現実にセレブラントはやりきれない痛みを感じつつ日々を生きている。人は失ってしまうことがどうしてこんなに苦しいのだろうか。

主人公の名前はソゴル・キョウ。以前、重要な任務に携わっていたパイロットであるらしいのだが、今は記憶を失っている。その主人公の自分探しを通じて、視聴者はこの絶望的な世界の全体像をしだいしだいに知っていく構造になっている。新しい人格の主人公は、青春真っ只中の成績優秀だがやんちゃな水泳部所属の高校生としてこの物語を引っ張っていく。

主人公の幼馴染のカミナギ・リョウコの存在がまたいい。この幼馴染の声が見事な棒で、でもこの棒が聞いているうちにこの物語になくてはならない存在になってくる。この幼馴染を中心に、まだ目覚めていない現実の悲惨さを知らない人たちと、戦場の中にいる目覚めた者たちとの二つの世界の対比が、いいアクセントになっている。何も知らずに日々を暮している彼らを大切に思う気持ちが、主人公を戦わせているという理由づけも説得力をもって見えてくる。

見ていると人の動きが棒演技なところがところどころあったりするんだけど、細かいところは気にしない。全体としての世界の構築に関してはうまくできていると思う。そしてラスト数回の最終決戦のたたみかけも見事だと思った。話数が足りなくて詰め込みすぎたんじゃないかって印象も否めなくもないけど(実際そうだったのかどうかはわからないが)、人類の存亡をかけた総力戦の描写はとてもよかった。

ナーガ、アビスやシン、シマ、イエルという重要なキャラクタのことは何も書いていないし、他にも語りつくせないものがあるが、物語の大雑把な説明と感想はここまで。ここからは終盤の簡単すぎるあらすじと感想。


キョウは、敵の月面基地から大切なデータを地球に運ぶために、ただ一人肉体を手に入れる道を選ぶ。月面基地の崩壊は目前で、敵協力者が残してくれたこの装置は一度きりしか使う時間がない。幻体を生身の体に変換するこのリザレクションシステムの設計図も手に入れたが、この装置は高度に発達した敵文明の技術によって作られているため、人類がそれを作り上げるのはいつになるかわからない。ここで実体化してしまったら、この装置が完成するまでキョウは仲間たちと触れ合えない別の世界を生きていかなければならなくなる。

彼らは地球を覆い尽くそうとする敵の領域を破壊することにも成功し、再び地球を自分たちの手に取り戻した。光を取り戻した地上に彼はただ一人生きている。キョウのいる浜辺にカミナギがゼーガに乗って会いに来てくれている。戦場で大きな力となってくれたゼーガが、今度は生きる世界の違う二人をつないでくれている。キョウは地上の本物の世界にあるありとあらゆるものの中で生きていく決心をカミナギに語る。キョウが摘んだ花を差し出すと、カミナギはホログラムの両手でその花を大事に包み込む。キョウはあと二年待ってくれ、卒業式には必ず出るぜと言う。でも僕にはこの言葉の意味がよくわからない。2年間この現実世界の中で存分に生きてみて、そのあと幻体化して3年生に編入するということだろうか。飛行母艦が半月に一度の食料を運んできた。二人は、彼らを出迎えにゼーガに乗り込み青空の中に飛び立っていく。

そして走馬灯なエンディング。物語はこれで終わりではなく、もう少し続く。


朽ちた灯台が見えたあと、妊婦の姿が映る。顔はよく映らないがおそらくカミナギだ。しかしそこにいるのは彼女一人きりで、キョウちゃんと思われる姿はどこにもない。そこにいないだけなのか、年老いてもうこの地上にはいなくなってしまったのか、わからない。周りが映るがきっとキョウがいたのと同じ浜辺のようなのだが、風景がかなり変わっている。その風景や灯台の朽ち方から二年ではきかない年月が経っているのがわかる。この歳月の描写は、装置の開発は決して順調にはいかなかったことや、そこに大きな痛みがあったことを思わせずにはいられない。灯台という記号が壊れている描写は、かなり重大な悲劇を示しているように思う。

もうキョウは限りある命を全うし死んだ後なのだと思う。壊れた灯台は歳月によってだけでなく、敵残存部隊の攻撃のためかもしれない。それでもカミナギのお腹の子の父親はキョウでいいと思う。精子バンクの技術は現代でもあるのだから、その技術を復活させて、時を超えてカミナギがキョウの子を身ごもることは可能だろう。人をデータに変えられるのなら、精子の量子データをとっておいて保存とかもできるかもしれない。いや精子に限定せずDNAの情報だけあればなんとでもできるだろう。それでも、人間を量子データにする技術がまだ残っていても、おそらく年老いていくキョウは自分自身を量子データに再び変換してみんなとともに生き残ることは拒んだだろう。それが本物の世界に一人で生きることを望んだキョウの生き様だと思う。

彼女が誰なのか誰が父親なのかという問題はともかく、肉体を取り戻しただけでなく、これからも受け継がれていく種としての人類が復活できたことを示す象徴的な場面でこの物語は終わる。彼女は青空を見上げながら「早く生まれておいで、世界は光でいっぱいだよ。」と話しかける。


それにしても覚醒するのが遅すぎて、ブルーレイの予約に間に合わなかった。とても残念だ。


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