ルクレティウスの『物の本質について』(De rerum natura)を調べてみた。
英語版 Wikipedia の Primavera の記事で、この中の文章が『プリマヴェーラ』に影響を与えたのではないかという指摘がある。日本語版でも、おそらくその記述を元にした文章が載っている。
そこでは、次の文章を引用している:
Spring-time and Venus come,
And Venus' boy, the winged harbinger, steps on before,
And hard on Zephyr's foot-prints Mother Flora,
Sprinkling the ways before them, filleth all
With colours and with odours excellent.
この文章を指して、ヴィーナスとフロラの二人の女神をルクレウティスが賞賛していると指摘している。しかし僕は個人的に、それほどの意味はこの文章にはないのではないかと思っている。
これを書いたのは古代ローマの詩人であり、哲学者のルクレティウス。彼は紀元前55年になくなっているので、カエサルの時代に書かれた『祭暦』よりもこの書物が先に成立している。
この本の影響が知りたくて、日本語訳された岩波文庫刊、樋口勝彦訳『物の本質について』について読んでみた。読んだのはまだこれが書かれた前後の部分だけなのだけれど、読んでみた個人的な感想を言ってしまうと、この書物が『プリマヴェーラ』に与えた影響はほとんど無いだろう。この本のこの記述が与えた影響があるとすれば、『祭暦』の5月2日の記述の着想がこれにある可能性はゼロではないだろうとか、『物の本質について』や『祭暦』が成立した頃の古代ローマでは人々がこのような季節感を持っていたことがうかがえるとか、そういうことに過ぎないと思う。
『物の本質について』という作品は、叙事詩の形態を取りながら、エピクロス派の自然哲学を語ったもので、詩ではあるのだけど、絵になるような作品では全然無い。延々と世の中を理屈で説明していく。
上記の春についての引用が書かれているのは、第五巻。このあたりは、大地のことや、星の運行について述べられている。太陽はあんなに小さいのにどうしてこれほど大きな海や大地を暖めることができるのか、太陽の高度が季節でかわるのはどうしてか、夜はどうして暗いのか、夜明けの白みはどうして起きるのか、昼と夜の長さがどうして変わるのか、そういう話がずっと続いていく。そして月が順序通りの満ち欠けをし場所を移動していく現象を説明するとき、それは世の中の出来事には順序をもって進むものがあって、そういう現象を理屈で説明することはできない。それは季節が移り変わるという事実を受け入れるしかないように、と説いている。
その部分を例のごとくラテン語原文を、今度は
De rerum natura (Titus Lucretius Carus)/Liber V - Wikisourceから引用する:
denique cur nequeat semper nova luna creari
ordine formarum certo certisque figuris
inque dies privos aborisci quaeque creata
atque alia illius reparari in parte locoque,
difficilest ratione docere et vincere verbis,
ordine cum [videas] tam certo multa creari.
it Ver et Venus et Veneris praenuntius ante
pennatus graditur, Zephyri vestigia propter
Flora quibus mater praespargens ante viai
cuncta coloribus egregiis et odoribus opplet.
inde loci sequitur Calor aridus et comes una
pulverulenta Ceres [et] etesia flabra aquilonum.
inde Autumnus adit, graditur simul Euhius Euan.
inde aliae tempestates ventique secuntur,
altitonans Volturnus et Auster fulmine pollens.
tandem Bruma nives adfert pigrumque rigorem
reddit. Hiemps sequitur crepitans hanc dentibus algu.
quo minus est mirum, si certo tempore luna
gignitur et certo deletur tempore rusus,
cum fieri possint tam certo tempore multa.
そして英訳の該当部分をグーテンベルグの次のページ
On the Nature of Things by Titus Lucretius Carus - Project Gutenbergから得られる情報から引用する:
Then, again,
Why a new moon might not forevermore
Created be with fixed successions there
Of shapes and with configurations fixed,
And why each day that bright created moon
Might not miscarry and another be,
In its stead and place, engendered anew,
'Tis hard to show by reason, or by words
To prove absurd--since, lo, so many things
Can be create with fixed successions:
Spring-time and Venus come, and Venus' boy,
The winged harbinger, steps on before,
And hard on Zephyr's foot-prints Mother Flora,
Sprinkling the ways before them, filleth all
With colours and with odours excellent;
Whereafter follows arid Heat, and he
Companioned is by Ceres, dusty one,
And by the Etesian Breezes of the north;
Then cometh Autumn on, and with him steps
Lord Bacchus, and then other Seasons too
And other Winds do follow--the high roar
Of great Volturnus, and the Southwind strong
With thunder-bolts. At last earth's Shortest-Day
Bears on to men the snows and brings again
The numbing cold. And Winter follows her,
His teeth with chills a-chatter. Therefore, 'tis
The less a marvel, if at fixed time
A moon is thus begotten and again
At fixed time destroyed, since things so many
Can come to being thus at fixed time.
そして日本語訳を、岩波文庫刊、樋口勝彦訳『物の本質について』から引用させてもらうと、
最後に、月が絶えず新しく、形の一定の順序をとって、種々特定の形に造り出されるのだと云うことは何故あり得ないか、又毎日毎日造り出された月が消え失せ、別な月が他の月の方向や位置に再び生み出されるということは何故あり得ないか、これは、幾多のものがかくも一定した順序をとって造られている以上、理論をたてて説くことも、言葉を以て立証することも困難である。春が来て、愛の神(ウエヌス)が、又春の先駆者(さきぶれ)なる翼を持った「暖風(ゼピユルス)」が進み、これらの足跡に接して母なる「花神(フローラ)」が前の途を悉く美しい色を撒きちらし香を充たす。それに続いて焦げつく「酷暑(カロル)」が仲間の埃っぽい「農神(ケーレス)」や北の季節風をつれ立って、やって来る。次には秋が、又同時にエウヒウス・エウアン〔酒神バッコス〕が進んでくる。やがて他の嵐や風や、高く雷鳴する「南東風(ヲルツルヌス)」。さては電光を振るう「南風(アウステル)」が続き、最後には「冬至」が雪をもたらし、冬がにぶらす寒気をもたらし、これに続いて、歯をがたがたさせて「霜(アルゴル)」が来る。多くの物事がかくも一定した時に起る以上は、月が一定の時に生まれ出で、一定の時に又消滅し去るとしても、一向異とするには当たらない。
英訳文、和訳文が上記のラテン語と同じ原典から訳されているかは分からないが、和訳と英訳で一カ所大きな違いが現れている。英訳でキューピッドとゼピュロスに別けて訳されているが、和訳ではすべてゼピュロスを説明する記述とされている。原典が違えばこういうことも起きるだろうが、僕には原典を比べるような深い分析もできないので理由はよく分からない。
it Ver et Venus et Veneris praenuntius ante
pennatus graditur, Zephyri vestigia propter
Flora quibus mater praespargens ante viai
cuncta coloribus egregiis et odoribus opplet.
この一文にヴィーナスとフローラが一緒にいるからといってボッティチェッリがインスピレーションを得てというのは、どうも考え難い。春が来て花が咲き、季節はこの順序で変化していますと、詩的に表現しているだけのように思える。
この春についての部分が英語訳と日本語訳の違っているのに疑問を持ったので、ちょっと自分で訳してみることにした。もちろん両者の原典が同じかどうかは分からないので、この分析は意味をなさないかもしれない。それでも、面白そうだったので、今までの知識を総動員して訳してみた。以下に訳の根拠を示すために訳出する過程を書いた。たった四行のことなのに、僕はこれ以上のことを考えて、訳している。
まず、it は動詞「eo」の能動態直説法現在三人称単数形。英語で、go,walk,come in などの意味。Ver は中性名詞「Ver 春」。単数で、主格、呼格、対格の可能性があるけれど、単純に単数主格と見ていいだろう。それで「春になる」となる。et は and に相当する接続詞。Venus は愛の女神ヴィーナス、女性名詞。この語尾は他の格の可能性もあるけれど、単純に単数主格でいいだろう。そしてまた et。Veneris は Venus の単数属格。英語でいう所有格。paraenuntius は「前兆となる」の形容詞、単数主格。ante は副詞か、対格支配の前置詞。英語の before にあたる。pennatus は、「翼の生えた」という意味の形容詞、男性単数主格。そして graditur は deponent 動詞「gradior」の直説法三人称単数現在。意味は step、walk。deponent 動詞は、形は受動態だが能動態の意味を持つ種類のもの。
さて、ここまでの単語を組み立てる。主語 Venus に対応する動詞がない。動詞「it」が省略されていると考える。次は主格の形容詞 praenuntius と、pennatus が離れて置かれているが、これが詩のため位置が動いていると勝手に解釈して、ひとまとめにして考える。それでもそれらが修飾する主格名詞がないので、形容詞の名詞化が行われているとする。この前に Venus の属格 Veneris があるので、「ヴィーナスの先触れたる有翼の者」ということになる。これはギリシア神話を知っていると、春の先触れとして吹く西風ゼピュロスだとわかる。キューピッドもヴィーナスのそばによくいるけれど今回は違う。西風が前兆かどうかは『ヴィーナスの誕生』を思い出すといい。次は、ante の周りを見回して、対格の名詞がないので、後方にある動詞 graditur に伴う副詞として訳す。ここまでで「春になると、ヴィーナスが来る、ヴィーナスの先触れたる有翼の者が先を進むと、」となる。
コンマの後の Zephyri は Zephyrus の単数所有格か、単数所格、複数主格か、複数呼格。ここでやっとヴィーナスの先触れの名前が出てくる。今まで出てきた、Veneris praenuntius も、pennatus も、彼に対する形容。英訳では 最初の行で Venus' boy とキューピッドを意識した訳にしてしまっているが、少なくともこの今訳している原典の訳としてはこれは間違いだろう。英訳は異本から訳出されているのかもしれない。Zephyri のあと、vestigia は「vestigium」という足跡、跡という意味の中性名詞の複数主格、呼格、対格。なぜ翼があるゼピュロスに足跡があるのだろうか?
propter は対格支配の前置詞もしくは副詞。意味はここでは英語の near。後ろの単語を見てみると、Flora があるけれど、これは対格ではない。対格と解釈できるのは前にある vestigia。ラテン語は語順は自由なのだけれど、詩ともなれば前置詞が後置されてもいいのかなと疑問に思いつつも、対格の受け入れ先も他に見つけられないので、これと組み合わせる。
Flora は花の女神、女性名詞、主格、呼格、奪格。その直後 quibus は関係代名詞、複数与格、奪格。関係代名詞は先行詞の性数と一致するはずなのに、数が一致しない。この関係代名詞の性数が一致する名詞を探すと、 vestigia しかない。そのため、本来のここの語順は、Flora propter Zephyri vestigia と勝手に解釈する。そうすれば関係代名詞と性数が一致する。ここの意味は「花の神フローラがゼピュロスの足跡を追う。」となる。動詞は適当に補った。
quibus のあとを訳す。mater は母を意味する女性名詞、主格か呼格。フローラはゼピュロスの妻なので、母とはせずに妻と訳す。praespargens は、英語 before の意味を持つ prae と撒くという意味の spargo の合成語、動詞「praespargo 前に撒く」の現在分詞、主格、呼格、対格。そう、彼女は口から花を撒くので進む方向にしか花を撒けない。ante が前置詞だとすると対格支配だが、やはりまわりにないので、これは副詞と決めつける。
viai は女性名詞「via 道」の単数属格か与格。cuncta は all の意味の名詞か形容詞。この形となるのは、単数女性のときか、複数中性のとき。複数中性といえば、先行詞の vestigia。つまり via は単数属格、cuncta は複数中性対格となる。
coloribus は男性名詞「color 色」の複数所格、与格、奪格。egregiis は形容詞「egregius 素晴らしい」の複数与格、奪格。そのあと 接続詞 et があって、中性名詞「odor」の複数所格、与格、奪格。opplet は動詞「oppleo 満たす、覆う」の能動態直説法現在三人称単数。つまりこの目的語になる color などは「与格」でいい。これらを組み合わせると、「妻が道のすべての足跡を美しい色と香りで覆う。」となる。つまり、ゼピュロスの足跡が花になるということ。
すべてをまとめると、「春が来て、ヴィーナスが来て、ヴィーナスの有翼の先触れが先を進むと、フローラがゼフィロスのすぐ跡を追い、前にまき散らす彼の妻が、ゼピュロスの通った道のすべての足跡を、美しい色と香りで覆う。」となる。これを唯物論者のルクレウティスを尊重して神々の名前を使わずに言い換えると、「春には、まずその前触れとなる西風が吹き、そのあとに花が咲き乱れ、街角には美しい色と香りが満ちあふれる。」となるのだろう。//
こうやって訳してみると、この詩は『プリマヴェーラ』よりも『ヴィーナスの誕生』の解釈に役に立つのではないかと思う。『プリマヴェーラ』の略奪の描写よりも、『ヴィーナスの誕生』のゼピュロスとフローラが一緒に空を飛んでいる様子がこの詩の部分に近いだろう。この四行に明確にはフローラに翼があるとは記述されていないようだけど。
ラテン語は面白いと思う。ただ、時間がかかる。一日ほんの少ししか訳せない。でもそれはとても有意義な時間だと思っている。僕は大学で専門の課程を経たわけではないし、ラテン語の勉強は趣味でやっているので、この解釈が妥当かどうかは分からない。信じない方が賢明だと思う。