2011年03月11日

ハートに矢 続き

予定外の前回の続きです。クピドの矢が胸を射る場面は、『変身物語』の中にありました。第5巻の384行あたり、プロセルピナの略奪の話の中です。冥王プルートの胸に射られていました。

該当する行のラテン語を引用すると:

inque cor hamata percussit harundine Ditem.

意味は「そして、彼は反し付きの軸で神の心臓を射抜いた。」となります。プルートはこのあと、ウェヌスの計画通りに、プロセルピナに一目惚れをし、彼女をさらっていきま す。

せっかくなので、念のため、下のページで確認したら、これよりも古い年代の例見つけました。ギリシア神話の情報が集められているサイト「The Theoi Project」のエロス(クピド)のページでは、エロスの様々な古典での登場場面の引用を見ることができます。
http://www.theoi.com/Ouranios/Eros.html

このページによると、紀元前3世紀のApollonius Rhodius(ロードスのアポローニオス)が書いた『Argonautica (アルゴナウティカ)』第3巻で、エロス(クピド)が心臓に矢を射る記述があります。アポローニオスという名前のついた有名人は何人もいるので、彼は活動したロードスを付けて区別されています。アルゴナウティカの話は日本ではあまり知られていませんが、要約がWikipediaのページ「アルゴナウティカ」で紹介されています。

英訳は確かにハートを射てますが、原文もちゃんとそうなっているのかGoogle Booksで確認してみます。1546年に発行されたものの第三巻286行(Google Books)の該当部分は以下の通りです。

この記述は、Perseus Digital Library のギリシア語のアルゴナウティカの該当する行ともほぼ同じ内容です。
Apollonius Rhodius, Argonautica, book 3 lines 260-316

このブログはギリシア文字が使えないので、ラテン文字表記にすると、「belos d' enedaieto kourē nerthen hupo kradiē phlogi eikelon.」となります。形容詞 ikelon が女性形ではないので、belos を修飾すると考えてみます。そうすると、意味は「炎のような矢が乙女の心の奥深くに火を付けた。」となるでしょう。まさに、ここがメデイアのハートに矢が射られている場面です。

『アルゴナウティカ』は後世の人々に十分影響力のあった物語です。ペトラルカの書簡集の中を検索すると、この作品の名前も出ていました。もっと古い作品の中にもこの構図があるかもしれませんが、そこまで追求しなくても、僕自身が立てた予想を否定するには、紀元前3世紀にこの描写があった事実だけで十分です。

結論としては、『変身物語』の英語訳の誤訳が「ハートに矢」の構図の原因ではなく、逆に、こういう古代の物語や、それを踏まえた詩がそういう常識を作ってしまって、アポロンの体に命中した場所を修正させてしまったと考えたほうが自然だと思われます。



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2011年03月26日

クピドの存在意義と三美神

《プリマヴェーラ》のことです。最後まで分からなかったことがあったのですが、これで解決できたと思います。

『祭暦』の5月の神々の記述が元になっているというのが僕が考えている解釈ですが、それだとそこにはクピドの記述がありません。またここには三美神がメルクリウスを意識しているような物語もありません。その部分がどうしても説明できませんでした。先日クピドのことをいろいろ調べ直したのですが、それでやっとその理由が分かりました。

三美神の周りの神々は三美神のそれぞれの役割の描写を助けている。これが結論です。今まで三美神がそれぞれ何を表しているかは考えてきませんでした。調べてみるといろんな説があるために、どの説を採っていいのかが分からなかったからです。しかし今回、クピドの描写のことを考えていくと、つまり何故クピドが真ん中の女性を狙っているのかと考えていくと、これは彼女がメルクリウスを愛すという物語を描いているのではなく、彼女の属性そのものをクピドを使って描いているのではないかと気づきました。つまり、真ん中の女性が「愛」の属性をもつからこそ、クピドが矢を射る対象として描かれているわけです。彼女が何者であるかを示すために、ただそれだけのためにクピドがここにいるわけです。5月の神でなくても、愛のあるところにクピドが現われることに何の問題もありません。

ボッティチェリは、『祭暦』で語られるフローラがゼピュロスから与えられた無数の花で満たされた庭を描きます。そしてそこに現われた、彩り鮮やかな衣で着飾ったホーラ(プリマヴェーラ)と、手を結び自らの体で花冠を作る三美神を描きます。それだけでも十分なのですが、ボッティチェリはさらに三美神それぞれをその属性に従って細かく描き込んでいます。

真ん中の女性は既にメルクリウスを見つめています。もう既に淡い恋は始まっているのかもしれません。この状態で矢を首筋の、ど真ん中に射られれば、アポロンのようなもっとも効力のある深い恋に落ちることでしょう。メルクリウスと三美神の恋の神話はどこを探してもありません。なぜなら、これは彼女の「愛」の属性を示すための描写に過ぎないからです。「愛」の属性を描くためにこの一瞬を選んだボッティチェリはやはり天才です。

真ん中の女性がそのように示されるのならば、三美神の他の女性も同様でしょう。左のメルクリウスのすぐそばにいる女性はいったい誰でしょうか。これは残りの二人との対比で分かります。他の二人はメルクリウスを見つめています。左の女性だけがメルクリウスを見ていません。したがって彼女が「慎み」です。真ん中の「愛」を静かにたしなめているようにも見えます。

そして残りの一人、右の女性は、「美」です。彼女の属性が「美」であることを示しているのが、中央の女性です。一般的には美と愛の女神ウェヌスとされる像です。しかし今回の『祭暦』をテキストとする解釈では彼女は5月の女神であり、メルクリウスの母マイアとしています。マイアはプレアデス七姉妹の中で一番美しく、そのためにゼウス(ユピテル)に見初めらてしまいました。この女神が優しく右の女性の頭に手をかざす仕草は、彼女の美しさを讃える意味となるでしょう。右の彼女は髪飾りにネックレスで美しく身を飾っています。左の女性も飾りを付けていて、胸には大きい飾りがありますが、マイアの後ろ盾はありません。

このように三美神のそれぞれの属性を表す描写を考えながら、周りの神々をみてみると配置の理由が分かってきます。そしてそれを考えると、この配置、この属性以外に考えられなくなります。

これで、とりあえず、『祭暦』の言葉をベースに、いくつかのテキストで描写を補いながらこの絵を説明できるようになりました。新プラトン主義を持ち出さなくてもよくなります。そして新プラトン主義による解釈のお膳立てのために導入されたウィントによるフローラの変身説も否定できます。

追記 2011/03/30
申し訳ありませんが、これを書いたあと、解釈に問題があることに気がつきました。修正した解釈は次の記事 「三美神」の特定 に書きました。

■ 参考過去記事

『祭暦』の該当箇所のラテン語原文について以前書いた記事
『祭暦』と『プリマヴェーラ』

特に、『祭暦』の三美神の記述についての解釈
三美神について

ウィントの新プラトン主義的解釈の概要
“Pagan Mysteries in the Renaissance” における《春》の解説について



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2011年03月29日

「三美神」の特定

前回、ボッティチェリが描いた三美神のそれぞれの名前を示しましたが、改めて考え直してみるとこの解釈に問題があることに気がつきました。三美神の左の女性像にある大きなブローチを無視してはいけませんね。「慎み」の女神としたこの女性が持っていることに疑問を持つべきでした。もう少しじっくり考え直してみます。

前回の三美神は左から「慎み」、「愛」、「美」であるとしました。三美神のそれぞれの女神にはいろいろな名前がありますが、この三つの名前はボッティチェリの描いた三美神の解釈としてよく使われるものです。この言葉は、15世紀後半に作られたジョヴァンナ・トルナブオーニ(Giovanna Tornabuoni)の肖像が描かれたメダルの裏に三美神とともにあります。下の画像はヴァールブルクの本にあるそのメダルの図です。よく見ると分かりますがメダルの縁に CASTITAS、PULCHRITUDO、AMOR と刻まれています。前回は、順序は無視したかたちで、この言葉を使って解釈しました。

medal.jpg

これと同時期のメダルに、哲学者ピコ・デラ・ミランドラ(Pico della Mirandola)の横顔が描かれたものがあります。このメダルにも裏に同じような三美神が描かれています。図像は全く同じなのですが、銘文が「PULCHRITUDO AMOR VOLUPTAS」となっています。順番が変わり、「Castitas慎み」の代わりに「Voluptas喜び/快楽」が入っています。これらのメダルの銘文にはその由来となる書物の典拠がどこかにあるのでしょうが、今回はそこまで探しませんでした。当時そのようなメダルがあった事実だけで十分だと思います。

この三美神についての詳しい解説が知りたいときは、以前紹介したEdgar Windの『Pagan Mysteries in the Renaissance』を読むといいでしょう。また、日本語で読めるものとしては、高階秀爾氏の『ルネッサンスの光と闇』があります。この本はウィントの本を参考にしていますが、結論は独自な解釈を導いています。

余談ですが、先日NHKハイビジョンで見た15分の番組「額縁をくぐって物語の中へ 春 プリマヴェーラ」では三美神は Pulchritudo, Castitas, Voluptas とありました。ジョヴァンナ・トルナブオーニのメダルとピコ・デラ・ミランドラのメダルの銘文の折衷のような感じですが、これはウィントの本でのボッティチェリにおける三美神の解釈と同じものです。ただし日本語の意味は「美」、「貞節」、「愛」としてありました。最後のVoluptas には、喜び、快楽、性行為という意味はあるのですが、愛とは訳せないはずなので、ちょっとおかしいです。この番組は録画してあるので、内容については後日まとめるつもりです。

前回、鑑賞者に背中を向けている女性像を「Amor愛」としました。従来はその質素な姿から「Castitas慎み」とされている女神です。あえて「Castitas慎み」の女神に愛の矢を射ることがこの絵を劇的なものにしているのですが、ここに疑問を感じ、逆に彼女が Amor だからこそ、それを示すために Cupid(Amor) に射られるのではないかと考えました。あの矢はまさに矢印となって、彼女の名前を特定しているとしました。この解釈は今回も同じです。Pulchritudo-Amor-Voluptas にすると、単語の並びと同じ中央となります。

三美神の右側の女性を「美」とし、後ろの女神に祝福されていることをその根拠の一つとしました。これは今回も同じです。この中央の女神は、以前からの考察によりマイアであるとしています。前回は、マイアは美しいことが数少ない特徴である女神であることから、その女神に祝福されることで、彼女が「Pulchritudo美」を意味するとしていましが、この解釈は都合がよすぎます。マイアには、名前からも分かるように母の属性があります。ですから、右端の女性が母となることを暗示させることの仕草だとも解釈可能になってしまいます。そこで、pulchritudo という言葉を羅英辞書で念入りに確認してみました。この女性名詞は、beauty; attractiveness という意味があります。さらに、この単語の元になる形容詞の pulcher だと、beautiful, handsome; glorious; illustrious; noble とあります。この意味を見ると、「美」という漢字一字では表せない pulchritudo の意味が分かってきます。女神に祝福されていることも、以前より受け入れやすくなるように思います。美しい髪飾りと首飾りをつけ、さらに女神に祝福されていることが、「Pulchritudo」であることを表していると言えるでしょう。

前回メルクリウスに背中を向けている三美神の左端の女性像は「Castitas慎み」であるとしました。しかし今回はまるで逆の「Voluptas喜び」とします。彼女の髪の様子、姿勢、彼女の胸にある大きなブローチ、そういうものを見ると、「Castitas慎み」というよりもピコ・デラ・ミランドラのメダルの銘文の方の「Voluptas喜び」に思えてきました。これはウィントの解釈の影響です。なお高階氏はジョヴァンナ・トルナブオーニのメダルの「Amor愛」としています。前回は、一人だけメルクリウスを見ていないことを根拠にしましたが、今回はメルクリウスの一番そばに寄り添うようにいることが、彼女が「Voluptas喜び」であることの根拠とします。これで、三美神の特定が終わりました。

さて、ピコ・デラ・ミランドラのメダルの三美神とボッティチェリの三美神の違いは何でしょうか。まず並び方ですね。メダルでは三人が並んでいて、この絵では手を繋いで円になっています。もう一つの違いは中央の女性の顔の向きです。メダルは右を向いていますが、絵では左を向いています。これは並びが反転していることを示していると考えられます。つまり、Voluptas-Amor-Pulchritudo という並び順です。これはまさに今までの説明と整合します。前回は勝手に並び順を変えていましたが、並びも重要だったのが分かります。

以上のように、《プリマヴェーラ》の三美神の周りにいる神々が三美神のそれぞれを修飾する役目を果たしています。つまり、男性であるメルクリウスが「Volputa喜び」、愛の神クピドが「Amor愛」、女神マイアが「Pulchritudo美」と、その存在だけで説明しているわけです。

このメルクリウス、クピド、マイアの三神以外は『祭暦』の5月2日に記述されているフローラの物語に登場します。しかし、控えめな女神マイアと、メルクリウスは5月を司る神です。そしてクピドは5月の神ではないけれど愛が始まるところならどこにでも飛んで来る神です。したがって、この絵が愛のある5月の風景であるのですから、この三神はこの絵の中心にある物語を崩さずに当たり前のように存在することが許されます。このフローラの物語とは直接関係ないはずのこの三神は、この絵にとって決して部外者などではありません。それどころか、なくてはならないものとなっています。意味的にも、視覚的にもこの絵をいっそう深く華やかなものにしてくれています。

最後に。フローラの物語に出てくる神々がいるこの場所は、『祭暦』の記述通り花に満ちています。ここは、ポリツィアーノが描いた「ウェヌスの治国」ではなく、オウィディウスの描いた「フローラの庭園」です。そして、おそらく、花の都フィレンツェを表しています。

追記:
そして、画像に元になった言葉を載せてまとめてみました。
《プリマヴェーラ》の解答



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2011年03月31日

《プリマヴェーラ》の解答

要約を書くと、こうなります。《La Primavara》に登場する神々で、Maiaマイア、Cupidoクピド、Mercuriusメルクリウスの三神以外の、Zephyrusゼピュロス、Floraフローラ、Horaホーラ、Charites三美神(Pulchritudoプルクリトゥード、Amorアモル、Voluptasウォルプタス)の六神はすべて、オウィディウスの『祭暦』の5月2日に描かれるフローラの結婚の物語に登場しています。そして、赤い色で区別された残りの三神は、三美神がそれぞれ何者であるかを指し示すための役割を担っています。つまり、マイアが女神自身の手のひらでプルクリトゥードを、クピドが炎の矢でアモルを、メルクリウスが刀の入った鞘でウォルプタスを指し示しています。

primavera_text.jpg

(英語WikipediaでのPrimaveraの画像に、三美神と周囲の神々の関係や、出典である『祭暦』第5巻の該当するラテン語の文章を書き込んでみました。クリックすると画像が拡大します。)

この解答には新プラトン主義や、メディチ家の複雑な人間関係も必要ありません。そういう理論や人間関係がこの絵の解釈に必要になったのは、中心をウェヌスとしてしまったためにこの絵の物語の出典を見つけられなくなったせいです。出典がわかり、すべての神々を説明できるならば、それら難解なものを持ち出す必要はありません。またそのような難解な理論を使っても、これほど的確にそれぞれの役割や描写の根拠を示せる解釈はないでしょう。解釈の材料も19世紀末のヴァールブルクの頃に知られていたものばかりですし、なんら特別な事実も必要ありません。この解釈で改めて分かったことは、Botticelli が神々の特徴をいかに誠実に描き込もうとしたのかということです。ここまで丁寧に描き込んでいたのに、ヴァザーリの誤謬のために、再発見されて200年近く、真相が分かるまでこんなに時間がかかってしまいました。

この結論に至るまでの試行錯誤は、カテゴリー:プリマヴェーラ を開くと書いてあります。ただし、整理されていないので読みにくいです。

追記(2011/04/13)
三美神の描写の元になっている文章についての記事を「《プリマヴェーラ》における三美神の典拠について」に書きました。



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2011年04月02日

額縁をくぐって物語の中へ「ボッティチェリ 春」での解釈

もう自分の考えの結論を書いてしまったのですが、せっかく調べた資料もまとめておきたいのでまだしばらく続けます。

今回は、先日放送されたNHKの絵画の番組でこの《プリマヴェーラ》の解説をしてたので、その内容と感想を書き留めておきます。

僕が見たのは2月19日にNHKハイビジョンで放送されたものです。これは以前に放送されたものの再放送のようです。

調べたら、もう少ししたらこのシリーズの再放送があるようです。
NHKネットクラブ 番組詳細 額縁をくぐって物語の中へ「ボッティチェリ 春」
日時:2011/04/02 04:45
チャンネル:BSプレミアム

女優の ふせえり さんが、名画の中に入ってその世界を旅するシリーズの一つです。ふせえりさんは、「時効警察」のあの年上の婦警さんです。なぜだか知りませんがトラベラーの彼女が、しゃべる懐中時計にいざなわれて、《プリマヴェーラ》の中にはいっていきます。絵の中にはいると、紙芝居のようにコマ落ちしながら動き回ります。絵の中の像たちも、かくかく動きます。上空のキューピッドに会いに行くときは、ふせえりの背中に羽がはえ浮かびます。その翼は画面の右端から左端までの長距離移動するときも活躍します。足もとの花々を観察するために体も小さくなります。そうやって絵の中を自由に旅しながら、絵の中にいる登場人物と会話を交わし、絵についていろいろなことを知っていきます。

まず最初にキューピッドにインタヴューします。。目隠しをしても狙いは定まっているよということで、それが狙っている三美神へ。

三美神は左から”美”の神、”貞節”の神、”愛”の神。ただし、名前は、プロクリトゥード、カスティタス、ボルプタス(ボルプタスは通常、”快楽”と訳される言葉ですが、これについてはあとで分析します)。代表として左の"美"の神が答えてます。首飾りも髪飾りも付けていない中央の貞節がキューピッドの矢の標的。この絵が結婚のために描かれた絵であることと、キューピッドの矢によって貞節のない世界を愛で満たし、ヴィーナスの世界に導いてくれると美の神が教えてくれたので、中央のヴィーナスへ。

愛と美の女神ヴィーナスは、真珠の首飾りが自分を象徴するものだと言います。これは《ヴィーナスの誕生》の貝殻に由来し、三美神の愛の神と美の神だけが、真珠の髪飾りを掛けていることもそれを意味していると教えてくれます。それから襟の周りの逆さの炎が並んだ刺繍も愛の炎を示していると言います。そしてヴィーナスにお別れを言って、いったん絵の外へ。

絵の外では懐中時計に、絵を依頼したとされるメディチ家のことや、《ヴィーナスの誕生》の補足説明を受けます。そして《ヴィーナスの誕生》と《春》の共通部分としてゼピュロスとクロリスを見つけ、その鍵を握る女神に会いに再び絵の中へ。

その女神が花を地面に撒くと、その下から茎や葉が出てきて花が生えていきます。自分を"花"の神プリマヴェーラと、そしてフローラとも呼ばれていると自己紹介します。ここでふせえり小さくなる。しばらく花を眺め、花の絵の繊細さに驚き、癒されたと言って元の大きさに戻ります。プリマヴェーラは、自分は隣の"大地"の精霊クローリスの進化した姿だと教えてくれます。口から花が咲いているのがその根拠だとしています。襲っている怖い顔の青い男は旦那様。トラベラーが二人に近づこうとすると、青い男の出す息に吹き飛ばされて、絵の外へ。

懐中時計に、それが春の訪れを告げる西風の神ゼフュロスだと教えてもらい、吹き飛ばされないように再び慎重に絵の中へ。

ゼヒュロスが息を吹くと、クローリスの口から次から次に花がこぼれ落ちていきます。暖かい風。冬の寒い空気が入らないように向こうの端でメルクリウスが防いでくれているとゼヒュロスが教えてくれます。そして左端へ。

翼を使って神々の使者メルクリウスのところまで行き、声を掛けるトラベラー。杖を使って冬の再来を防いでいるメリクリウスは、その万能の杖が医学の象徴でもあることや、Medicus と Medici の綴りが似ていることを根拠に、自分が医者であることメディチ家の象徴であると言います。そしてこの絵のまとめとして、左端でメルクリウスが冬の再来を防ぎ、右端でゼヒュロスが風を吹いて春をもたらしていて、この絵の両端は冬と春の臨界点を表していると教えてくれます。そしてふせえりが、結婚祝い、春の到来、ルネッサンス到来、未来は明るいぞーって感じねって、メルクリウスに感想を述べて絵の外に出ます。

 

内容はこんな感じです。いわゆる、クロリス・プリマヴェーラ変身説。及びフローラ・プリマヴェーラ同一説の解釈です。自説は今回はひっこめて、客観的にこの解釈について述べてみます。

監修は初心者向けの美術鑑賞ガイドなども書かれている井出洋一郎氏なので、今回の解釈がその本の中で紹介されている説かというとそうではありません。僕が持っている本では、プリマヴェーラという女神は出てきませんし、三美神の一人はボルプタスではなく、アモールです。井出氏は本の中で、欲望 - 貞節-  美としています。この井出氏が紹介している解釈をそのまま使えばよかったのに、この番組ではいろいろ資料を集めて詳しくしすぎて、細かく見ると妙なところが出ている感じです。

この番組の解釈の出典はどれかというと、ホルスト・プレデカンプの『ボッティチェッリ【プリマヴェーラ】−ヴィーナスの園としてのフィレンツェ』がその一つになっています。原題は『Sandro Botticelli La Primavera – Florenz als Garten der Venus』です。この本にはヴィーナスの下向き火炎模様の指摘があります。これはキューピッドの火矢であり、愛の火炎であるとしてあります。そして三美神の両脇の二人の真珠の飾りにも言及しています。また、medici と medicus の言葉遊びの記述もあります。

しかし、プレデカンプは、プリマヴェーラという言葉は女神を表す言葉ではなく、この絵の季節の雰囲気を指し示す言葉だとしています。この点はウィントと同じです。したがって、この番組はさらに別の出典からプリマヴェーラとフローラの同一説をくっつけています。しかしこの説を採用するものは数多くあるので、この番組がどこからもってきたかまでは特定できません。

先日は、ラテン語でのこの三美神の並びは、ウィントの説と同じと書いてしまいましたが、これは間違いでした。実際は、ウィントの説は左から Voluptas – Castitas - Pulchritudo です。ブレデカンプもこれと同じです。そして、この番組の並びはその逆です。また井出氏の鑑賞ガイドでは、「欲望 - 貞節 - 美」であり、高階氏の「愛 - 貞節 – 美」と同じです。この番組での日本語の呼び名は内容としてはこれと同じなのですが、並びが逆です。日本語の方が意図した意味なのでしょうけれど、あり得ない混同です。どこかにこの番組が参考にした三美神の並びがあるのかもしれませんが、よく分かりません。何故、一般的な説の逆にしたのか意図が分かりません。



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2011年04月11日

《プリマヴェーラ》における三美神の典拠について

今回もまた、このブログで最近はまってやっている《プリマヴェーラ》の解釈です。いくつか一般的なものとは違っています。その一つは三美神の名前です。右から「美」、「愛」、「快楽」です。ラテン語で書くと、Pulchritudoプルクリトゥード、Amorアモル、Voluptasウォルプタスになります。

以前これはピコ・デラ・ミランドラのメダルに刻まれている言葉「Pulchritudo - Amor - Voluptas」にあるものだと紹介しました。ウィント(Wind)の本によると、この典拠となるものは、マルシリオ・フィチーノ(Marsilio Ficino)がプラトンの『饗宴』の注釈とした書いた『愛について』の第2巻第2章にあるラテン語の次の文章です。

Circulus itaque unus et idem a deo in mundum, a mundo in deum, tribus nominibus nuncupatur.
Prout in deo incipit et allicit, pulchritudo;
prout in mundum transiens ipsum rapit, amor;
prout in auctorem remeans ipsi suum opus coniungit, voluptas.
Amor igitur in voluptatem a pulchritudine desinit.

これがフィチーノによるこの三つの言葉の説明になります。

ラテン語では難しいので日本語訳を紹介します。ネット上の「プラトンの『饗宴-愛について-』に関するマルシリオ・フィチーノの注解」にある佐藤三夫氏の訳を引用させてもらうと、次のようになります。

このようにして、神から世界へ、そして世界から神へと行く一つの同じ円環は、三つの名前で呼ばれる。
すなわち、それは、神のうちに始まり、神へひきつけるかぎり、美と呼ばれる。
それは世界の中に移行し、世界を魅了するかぎり、愛と呼ばれる。
それは、創造者のもとへ帰り、その業を彼と結びつけるかぎり、快楽と呼ばれる。
それゆえ、愛は美に始まり、快楽に終わる。

これが本来の訳です。この注釈において的確な訳です。

ところが、この同じラテン語の文章を、ボッティチェリの三美神の姿をふまえてちょっとだけ強引な翻訳すると次のようになります。

charites.jpg

「このようにして、 神からアクセサリーをつけた者へ、アクセサリーをつけた者から神へという同一の輪は、三つの名前で呼ばれる。 すなわち、
神のそばで始める者であり、神を引きつける者は、美と呼ばれる。
アクセサリーをつけた者を越えて奪い去ろうとする者は、愛と呼ばれる。
先導者へと後ずさって自分自身に彼の扱う物をくっつける者は、快楽と呼ばれる。
それゆえ、愛は美に始まり、快楽に終わる。」

自分で訳してみても、この訳はぞくぞくするくらいすごいと思いました。フィチーノの意図した訳ではないのは確かです。でも、この描写はこれ以上ないくらいにこの絵にぴったりです。この文章がピコ・デラ・ミランドラのメダルを通して、三美神に関係しているということはずっと前から指摘されているのに、誰もこの絵画的な訳はしたことがなかったのでしょうか?でも知っていれば既に三美神の並びはこれで確定しているはずです。そして、《プリマヴェーラ》の解釈は今のような妙な変身物語にはなっていなかったと思います。その変身を世間に広めたウィントは、彼こそが本当に答えの一番すぐ側まで来ていたのに、新プラトン主義とウェヌスの存在にとらわれてしまっていたために、この結論にできなかったのだと思います。

強引な訳についてちょっと説明します。in mundum は普通は「世界へ」と訳すのですが、mundus を辞書で調べたら、toilet, ornaments; world; universe という意味がありました。その中にある、古い意味での toilet や ornaments はこの絵の訳として使えます。人を表す意味に広げて「アクセサリーをつけた者へ」としてみました。in auctorem は神を意味する「創造者へ」とすべき言葉です。しかしこの言葉は最初の者という意味で様々な訳のできる言葉でもあります。google翻訳でこの英語の意味を調べてみると、author, originator, progenitor, writer, reporter, historian, actor, cause, doer, maker, adviser, agent, enlarger, supporter, champion, proposer, chief, spokesman, backer, seconder, ancestor, instigator, advisor, ringleader とあります。この中に leader という言葉はありませんが、似たような意味の言葉はあるので、「先導者へ」という訳にしてみました。この絵のことを知らなければ、絶対にやらない強引な訳ですが、この絵を知ってしまえばそう訳さずにはいられません。もちろん先日特定できた三美神の並びがあったからこそ、気づくことができたことです。

この訳はいくつかのこの絵の問題を見事に解決してくれます。
・メダルに頼らない三美神の順序の根拠
・三美神で左右の女神だけがアクセサリーをつけている理由
・左の女神と中央の女神が対立しているように見える理由
・今まで見つからなかった三美神とその先導者であるメルクリウスとの関係を描写している文章そのもの

さらに、引用した文章の最後の文「愛は美で始まり、快楽で終わる。」は、絵の中では、愛の女神の服によって表現されていると見ることができます。つまり、美の側で着た状態になっているものが、快楽の側では着ることをやめた状態になっています。これが愛の女神の左肩があらわになっている理由になります。

以前は、ピコ・デラ・ミランドラのメダルの存在からこの順序の考え方が当時あったことが言えると指摘していましたが、これほど見事な典拠があるとは思ってもみませんでした。この他に、もちろん、セネカやアルベルティの三美神の描写もおおいに影響しているのでしょうが、その描写だけではいままで分からなかった左右の女神のアクセサリーの秘密や、それぞれの女神の名前の定義そのものも見つかりました。

ボッティチェリは季節女神ホーラの春の女神が本来持っているはずの花を摘む籠(cesto)を描かずに、代わりにベルト(cestos)を描いたことは以前に書きました。これはヴァールブルクの注釈に書いてあったことです。これは誤訳なのか、それとも言葉遊びなのか分かりませんが、こういうことをボッティチェリは三美神の描写においてもやっていました。この三美神の描写は明らかに言葉遊びですね。新プラトン主義の愛についての講釈を、言葉の意味をわざと違えた解釈にして、こういう官能的な三美神の美しいダンスの姿に描きこんだわけです。

charites_text.jpg

(最終更新2011年4月12日19:45)
mundus の訳語が揺れてたので、分かりやすくアクセサリーに統一。
それから図の追加と、格を間違えていたのでそれを考慮に入れて訳の修正。
opus の意味をもっと絵の内容に合うように修正。
愛の女神の左肩があらわになっている理由も追加。



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2011年04月25日

《プリマヴェーラ》における三美神の典拠について 2

フィチーノが『愛について』で書いたラテン語の文章:

Circulus itaque unus et idem a deo in mundum, a mundo in deum, tribus nominibus nuncupatur.  Prout in deo incipit et allicit, pulchritudo; prout in mundum transiens ipsum rapit, amor; prout in auctorem remeans ipsi suum opus coniungit, voluptas. Amor igitur in voluptatem a pulchritudine desinit.

本来フィチーノのこの文章は哲学の言葉らしく抽象的な言葉で訳されるのですが、これを具象的に、つまり絵画的に翻訳すると上記のように「春」の三美神の描写になります。

「ゆえに、神からアクセサリーを付けた像、そしてアクセサリーを付けた像から神の間に同じ一つの輪があります。これは三つの名前で呼ばれます。神のそばで始め、神を引きつけている像は、美です。アクセサリーを付けた像を越えて、彼女から奪おうとしている像は、愛です。先導者の方へ後ずさりして、自分自身に彼の業物を押しつけようとしている像は、快楽です。愛は美から快楽の方へ服を脱いでいます。」

つまり、三美神の描写はラテン語の言葉遊びだったわけです。英語でも日本語でも、翻訳されてしまった文章をいくら研究しても分かりません。原語の意味の幅を考慮しなければ出てこない難易度の高い答えです。ラテン語は誰でも分かるわけではありませんから、この解釈で正しいことを信じてくれと言うのも難しいでしょう。

ラテン語の desino という動詞は「終える」という意味ですが、服を脱ぐ(leave off)という意味もあります。これもこの絵で具象化されているわけです。そしてこの服を脱ぐ描写を描くことが、セネカの描写に加えて、三美神が従来の作品と違って服を着ていることの理由の一つとすることにもなるわけです。

この服の脱ぎ方のニュアンスを言葉で表現するのが難しいのですが、右肩の方で落ちないように止まっていて、そのあたりから留め具が開き始め、左に行くに従って大きく開いていきます。左から脱いでいると見えなくもないですが、始まりの地点を右として描いているように思います。もちろん、そう解釈しないとこの文章にならないので困ります。

このとても短いラテン語の文章を絵画的に翻訳することによって次のことが説明できるようになります。三美神のぞれぞれ女神の名前と並び順、三美神が伝統的な裸婦像ではなく服を着ていること、中央の女神の服が脱げかかっていること、三美神の左隣にいる女神が三美神の右端の女神に手をかざしていること、左右の二人の女神だけがアクセサリーを付けていること、三美神にメルクリウスへの恋愛感情があるかのように見えること、左と中央の女神が対立しているように見えること、そして彼女たちが伝統的な形に横に並んでいるのではなく輪を作っているということ。これほどこの絵に情報を与えてくれる文章は他にはみつからないでしょう。

 

他に三美神の重要な描写としてあるのが、右と左の女神が中央の女神の頭上で手を合わせて彼女を讃えるように王冠を作っている仕草ですが、これはこのフィチーノの文章からではなくオウィディウスの『祭暦』の文章に由来する描写だと思います。

protinus accedunt Charites, nectuntque coronas sertaque caelestes implicitura comas.

「すぐにカリスたちが近くにやってきて、神々しい髪に結びつけるための花の冠や飾りを編んでいます。」

ここで出てくる花の冠 coronas ですが、以前ここでは彼女たちが輪になっている姿そのものを表す言葉として解釈しました。しかし、すでに上記のフィチーノの言葉で輪になっている様子は表されているので、言葉のまま冠を作っている描写として解釈することにします。ただ花ではなく、左右の女神が手のひらを使って作っている点が違います。

また、動詞sero(connect) 由来の serta は、詩の上では花をつなげた飾りとなりますが、この絵では三人の中の右端の一人の女神の髪にある真珠の髪飾りがこれに当たるでしょう。右横に立つ女神の手のひらで祝福されている美の女神の髪が、それを讃える手のひらの描写により、 caelestes comas (divinity hair 神々しい髪)となるわけです。そして残りの三美神たちも、美の女神に負けぬくらいそれぞれの個性に合った見事に結われた髪をしています。

 

ヴァールブルクが指摘しているアルベルティとセネカの三美神についての文章も書いておきます。これは三美神の衣装についての典拠です。

アルベルティの『絵画論』の第3巻にある第54節です。アペレスの《誹謗》の描写のすばらしさが書かれた後の節で、この三美神の描写と、画家は詩人や学者に親しむべきだという主張が書かれています。

この節で重要な三美神の描写が次の一節です。

Piacerebbe ancora vedere quelle tre sorelle a quali Esiodo pose nome Egle, Eufronesis e Talia, quali si dipignievano prese fra loro l'una l'altra per mano ridendo, con la vesta scinta et ben monda;

「Esiodo(ヘシオドス)が、Egle(アグライア)、Eufronesis(エウプロシュネ),Talia(タレイア)と名付けた三姉妹を見ることができたなら喜ぶことだろう。この三姉妹は、帯を取ったとても清潔な衣裳を着て、微笑みながらお互いの手を握って、描かれていた。」

帯のない服を着て三美神が手をつないで踊っている描写です。ボッティチェリは《アペレスの誹謗》を描きますが、この《プリマヴェーラ》も同じようにアルベルティの書いたこの助言に従って描いたのかもしれません。

調べれば調べるほど、ボッティチェリによるこの絵の三美神の描写に対して並々ならぬ配慮が見えてきます。この絵は三美神を中心に描かれているように思えます。三美神のまわりの三神が、三美神それぞれの個性を描写するために存在し、さらに画面の右側の三神は「祭暦」の描写に則って三美神の出現の必然性を描写しています。すべてが三美神のために構築されていると考えられます。《ウェヌスの誕生》と《アペレスの誹謗》が古代の絵画を再現するために描かれたものであるように、この《プリマヴェーラ》も古代の三美神を再現しようとした作品なのだと思います。

しかし、この服は清潔と言えば清潔なのですが、ちょっと違うように思います。少し調べていくと、これよりもぴったりな表現を見つけることができます。

アルベルティの三美神の表現が踏まえているとされるのが、セネカの 『De Beneficiis』 (恩恵論)の第一巻第三章です。ヴァールブルクの本によると、これはヤニチェク(Janitschek)の『Leone Battista Alberti's kleinere kunsttheoretische Schriften』(1877)という著作の注釈で指摘されたことです。

セネカの文章は既に具象的なものですから、余計な翻訳は必要ないでしょう。岩波書店のセネカ哲学全集2の小川正廣氏の訳を引用します。この文章を先に知ってしまうと、他の典拠なんて探そうとせずにもうこれで十分だと思ってしまうでしょう。

また、あのように女神たちが、手をつなぎ合って踊り、輪をなして元の場所に戻っていくのはなぜか。それは、恩恵は手から手へと順番に移り渡っていくが、それでも結局、最初に施す人に戻ってくるからである。そして、もしその順序がどこかで中断すると全体の美観は失われるが、順序がずっと維持されて交代の順番が保たれるなら、きわめて美しい物だからである。とはいえ、その輪舞の中でも、何か特別の敬意が、年長の女神に対して、ちょうど最初に恩恵を施す人に対するように払われている。女神たちの顔が明るくにこやかなのは、恩恵を与える人、あるいはそれを受ける人の顔がいつもそうであるからだ。彼女らが若々しいのは、恩恵の記憶が衰弱してはならないためであり、乙女であるのは、恩恵が純粋で混じりけがなく、あらゆる人にとって神聖なものだからである。また、この女神たちには、縛られたり制限されたりすることが何もないのがふさわしい。だから、彼女たちは、ゆるやかな衣を身に着けており、さらにそれが透き通っているのは、恩恵が人に見られることを望むためである。

ラテン語原文:

Quid ille consertis manibus in se redeuntium chorus? Ob hoc, quia ordo beneficii per manus transeuntis nihilo minus ad dantem revertitur et totius speciem perdit, si usquam interruptus est, pulcherrimus, si cohaeret et vices servat. In eo est aliqua tamen maioris dignatio, sicut pro-merentium. Vultus hilari sunt, quales solent esse, qui dant vel accipiunt beneficia ; iuvenes, quia non debet beneficiorum memoria senescere; virgines, quia incorrupta sunt et sincera et omnibus sancta; in quibus nihil esse adligati decet nec adstricti ; solutis itaque tunicis utuntur ; perlucidis autem, quia beneficia conspici volunt.

これを読めば、この文章を踏まえてボッティチェリが描いていると考えたくなります。三美神はまさに「ゆるやかで透き通った衣裳」を着ています。

セネカのこの文章があれば、誰もが三美神の典拠はこれだけで十分と思います。これだけのものがあれば、これ以外に探そうとは思いません。先述のフィチーノの文章を別な意味で読み解こうなどとも思わないでしょう。見えていたのによく見ようとしなかった理由もそこにあると思います。

セネカのこの表現が見つかれば、ボッティチェリはアルベルティとセネカの両方の表現を参考にして描いたと考えられるかもしれませんが、そう簡単ではありません。アルベルティはラテン語でも『絵画論』を書いています。当然ラテン語版の方がセネカの影響が分かりやすいです。該当部分を引用すると:

Quid tres illae iuvenculae sorores, quibus Hesiodus imposuit nomina Egle, Euphronesis atque Thalia, quas pinxere implexis inter se manibus ridentes, soluta et perlucida veste ornatas,

イタリア語の文章の方は普通に訳すと「帯を取ったとても清潔な衣裳を着て」となりますが、このラテン語版ではセネカの文章と同じ solutas と perlucidus という単語を使っていますので、「ゆったりとした透き通った衣装」と訳せます。つまり、ボッティチェリはアルベルティのラテン語の方の文章を知っていれば、セネカの文章を見なくても、あの透明な三美神の服を描けることになります。もちろん、ボッティチェリはさらにセネカを踏まえて描いたのかもしれません。右端の女神は他の二人に比べて長女然とした姿で描かれているようにも見えます。

このように見てみると、この作品は、アルベルティの『絵画論』の記述に触発されて、古代の三美神をボッティチェリなりに再現するために描かれた、三美神が主役の作品ではないかと思われます。「五月のフローラの庭園に現われる三美神」



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2011年04月28日

《プリマヴェーラ》の中央の女神

こちらでは、ボッティチェリの《プリマヴェーラ》の中央の女神像はウェヌス(ヴィーナス)ではないとして解釈を展開してきました。

シモンズ(John Addington Symonds)がルクレーティウス(Lucretius)の『物の本質について』で描写されている春の到来がこの絵の舞台であるとしたのも、ヴァールブルク(Aby Warburg)がポリツィアーノ(Angelo Poliziano)の書いた詩『ラ・ジョストラ』で描写されている「ウェヌスの治国」が舞台であるとしたのも、結局ウェヌスが出てくる出典を求めたからです。

また、ウィント(Edgar Wind)は、新プラトン主義において重要な存在であるウェヌスを中心にして、三美神の中央の「慎み」がクピドの矢によって愛を知る変化と、ゼピュロスの暴力によってクロリスがフローラへと変わるドラマティックな変化をこの絵の解釈に導入しました。パノフスキー(Erwin Panofsky)は、ヴァザーリ(Vasari)の言葉を元にして、この作品と《ウェヌスの誕生》が対になって「天のヴィーナス、自然のヴィーナス」を表していると解釈しました。 これらの解釈は中央の女神がウェヌスであるという前提を元にして、考えられたものです。決して結論が前提を導いた訳ではありません。

この絵をよく見ると、三美神の右にいる女神と、左にいるメルクリウスは赤い衣装を身に着けています。さらによく見ると、上空の裸のクピドまでも赤い箙(えびら)を肩から提げています。この赤いものを身に着けている三神と、付けていない六神との違いは何かと言えば、『祭暦』の5月2日の中でフローラ自身によって語られるフローラの結婚の物語に出てくるかどうかなのです。この明確な赤い色による区別は偶然ではないでしょう。ヴァールブルクの頃から『祭暦』の描写との関連性は指摘されていましたが、その場合、断片的に描写を借りているだけだと皆考えました。なぜなら、『祭暦』の5月2日の描写にはウェヌスが出てこないからです。でも、あきらめてウェヌスがいないことを認めるべきです。万が一彼女がウェヌスであったとしても、『祭暦』の物語とは独立して存在していると考えるべきです。

この中央の女神は誰なのでしょう。三美神の右端の Pulchritude に手をかざし祝福している女神は誰なのでしょう。三美神の周りの神々は赤いものを身に着けて、この物語から超越した存在だと主張しています。もしかすると、絵全体の物語とは関係なく、彼女を祝福するためにウェヌスがいるのかもしれません。しかし物語とは脈絡のない存在であっても、やはりそこには必然性がなくてはいけません。ウェヌスがここにいる理由、そして彼女がウェヌスであることを示す何かがなくてはいけません。それはウェヌスに限りません。中央にいる女神は、そこにいる理由を持ち、彼女が何者であるのかを示す何かを持たなくてはいけません。彼女以外のここにいる神々はしっかりとテキストによってそれらが裏付けられています。中央の女神にも典拠が必ずあるはずです。

必ずあるはずなのですが、ウェヌスであることを示す決定的なものは見つかっていません。ブレーデカンプ(Horst Bredekamp)は、女神の真珠の首飾りと逆さ炎の首周りの模様が、ウェヌスのアトリビュートであるとしていますが、残念ながら弱すぎます。女神の後ろのあの木々でできたアーチこそは最大のヒントであるはずなのでしょうが、他の神々を示したようにはっきりとしたテキストが見つけられません。

ウェヌス以外にテキストを示せる者はいるのでしょうか。そう考えて、『祭暦』の5月を読み返すとふさわしい女神が一人見つかります。メルクリウスの母親で、5月の女神であるマイアです。そしてこの女神とメルクリウスのことが描かれている「ホメロス風讃歌」の「ヘルメス讃歌」を読むと、彼女の描写がいくつか出てきます。「ホメロス風讃歌」は《ウェヌスの誕生》の元になった描写のある書物です。《ウェヌスの誕生》でボッティチェリ自身が直接参考にしたことは断定できませんが、同時期のポリツィアーノが参考にしたことは彼の詩の描写から明らかですので、この時代のフィレンツェでは得ようと思えば得られた情報だということは言えるでしょう。この「ホメロス風讃歌」ではマイアは次の言葉で形容されています。「うるわしい巻毛の(rich-tressed)」、「浄福なる神々のまどいを避けて、濃く陰なす洞窟の奥深く住まっていた(a shy goddess, for she avoided the company of the blessed gods, and lived within a deep, shady cave)」、「美しい鞋(くつ)を履いた(neat-shod)」。なお引用したのは、日本語の訳はちくま学芸文庫の沓掛良彦氏、英語の訳はペルセウスのHugh G. Evelyn-Whiteの訳です。髪を隠しているのでよく分かりませんが、この女神の髪は巻毛のように見えなくもありません。ウェヌスでは考えにくい控えめな場所に立っています。後ろのアーチは洞窟の中から外を覗いたような風景です。そして、足下を見ると、彼女は唯一靴を履いている女神です。それも独特な美しいサンダルです。これらの描写は、都合よくいろんなところから拾ってきたわけではなく、ひとつの作品の冒頭部分に現われているものです。特に、洞窟の属性はとても強力な根拠になるのではないかと思います。

ボッティチェリと言えばキリスト教の母子像を数多く残してきた画家でもあります。その彼が、キリスト教とプラトンの教えとの融合をはかったフィチーノの教義の具象化である三美神の両側に、異教の神々の母と子を描いてみせたのも決して偶然ではないでしょう。

 

とりあえず、これがまとめです。他人にこの考えを信じろとは言いません。検証はしてもらいたいですけれど、鵜呑みにしてはいけません。マイアはあまりにも知名度が低く、後ろのアーチが醸し出す存在感には不釣り合いに思います。この存在感は皆が言うようにウェヌスこそふさわしいように思います。しかしどうしても典拠が見つかりません。代わりに見つかったのが元々控えめで知名度の低いマイアです。ただ15世紀のフィレンツェにおいては、もう少し知られていたかもしれません。ここはラテン語がそれからイタリア語が使われた場所です。5月の語源であるという説があるくらいですから、5月の神話の描写だとわかったら、マイアがすぐに連想されるぐらい皆が知っていたかもしれません。そして彼女が洞窟の女神であることも認知されていたならば、この絵の描写はおおいに成り立つのではないかと思われます。



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2011年10月01日

Botticelli の日本語表記

このブログでは Botticelli の日本語表記は、今まで「ボッティチェッリ」と表記してきたのですが、今回「ボッティチェリ」と書き換えてみました。全部は面倒だったので、今年書いた記事だけやりました。

ボッティチェリの話題について最初に調べたのが、ウィキペディアの記事からだったので、そこの見出しになっていたボッティチェッリの表記にしました。ブックオフで105円で手に入れていた手元の伊和辞典にもそう書いてましたし、途中で手に入れたヴァールブルクの本にもそう書いてありました。

でも、日本での Botticelli の読みは、Googleの検索結果からも、「ボッティチェリ」が一般的なようなのでそちらにすることにしました。なお、Botticelli の表記には他にも、「ボッティチェルリ」というものもあります。手元の英和辞書ではこれでした。

 

ついでにこのブログでの引用符のことも書いておくと、二重山カッコの《...》は絵画などの作品のタイトル、二重かぎカッコ『...』は本のタイトル、普通の引用や言葉の強調は、かぎかっこ「」にしています。ただし厳密にはなってないです。

これは、さっきも挙げたアビ・ヴァールブルクの本の日本語訳『サンドロ・ボッティチェッリの《ウェヌスの誕生》と《春》』の表記法に倣ったものです。

 

久しぶりに、アマゾンの本へのリンク。上記のアビ・ヴァールブルクの本です。

ドイツ語原書は、全集になりますが、次の本に収録されています。



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2011年10月03日

《プリマヴェーラ》 霧の存在理由

ボッティチェリの神話画の独自の解釈をずっと書いてきましたが、以前書いたことの中でずっと引っかかっていたものがあります。それが今回のタイトルの「霧」です。《プリマヴェーラ》で左端のメルクリウスが頭上を見上げ、カドゥケウスでつつきながら覗きこんでいる、霧、霞(かすみ)、靄(もや)、雲などと呼ばれているもののことです。

これについては、いろいろ考えを述べてきましたが、今年の初めの頃の「「プリマヴェーラ」の解釈」において、『ホメロス風讃歌』のヘルメース讃歌の章で書かれているメルクリウスを形容する言葉、「νυκτὸς ὀπωπητῆρα, πυληδόκον 夜の見張り、戸口の番人」の前半の、形を変えた描写ではないかとしました。つまり、「夜」ではなく「暗闇」と解釈するならば、筋が通るのではないかと考えました。

この解釈はすっきりしないので、ずっと自分で気にはなっていましたが、他に何も思い浮かばないのでそのままにしていました。しかし今回ふと思いついて調べてみたら、はっきりした解釈を見つけました。これで決まりだと思います。

描写されていたのは、ヘルメース讃歌の語句「νυκτὸς ὀπωπητῆρα」で間違いなかったようです。この単語を Google Books にある 「ギリシャ語-イタリア語辞典」 で調べてみて分かりました。

調べてみると、νυκτὸς の基本形 νύξ の意味として、「notte; caligine, tenebre」が出てきました。一番最初の notte はもちろん、「夜」です。そしてその次の caligine の意味を手元の伊語辞典で調べてみると、「1.霧、濃霧、スモッグ、もや 2.《地域的》煤 3.《比喩的》やみ;混沌、意識もうろう」とあります。最後の tenebre は「闇」です。もちろん、厳密にはボッティチェッリの時代の辞書に書かれていることを示した方がいいのですが、それは無理というものです。この1846年の希伊辞典で十分だと思います。

これで、この絵のメルクリウスの姿が νυκτὸς ὀπωπητῆρα を描写していることがはっきりとしました。本来『ホメロス風讃歌』では「夜の見張り」と訳されるのですが、この絵の中ではわざと「霧の監視人」として描かれています。メルクリウスが監視しているとされる「νυκτὸς」を絵の中に用意するために、「霧」が描きこまれていたのです。本来の「夜」には形がありませんから、描くことのできる「霧」を使ったのでしょう。これがこの絵に霧が描かれている理由です。ボッティチェリは、どの神話にも記述されていない霧を見つめている姿を描くことで、彼が νυκτὸς ὀπωπητῆρα であること、つまり彼がまさにメルクリウスであると示していたのです。

 

ついでに、この希伊辞典で、以前《パレスとケンタウロス》の解釈で出てきた δαίς を調べてみると、予想通りイタリア語で banchetto という意味が書かれていました。並んでいる他の意味からして、この言葉は「宴会」の意味で置かれているのでしょうが、この単語そのものの意味から「小さな台」として描かれたのだと思います。

 

さあ、これでボッティチェリの神話画に描かれている意味不明な不思議な描写がほとんど説明できました。僕の解釈を短い言葉で表すと「言葉遊び」説ですね。それが見事に一貫しています。でもかえってその屈折した描写によって具体的にどの文章を典拠にしたのかを、はっきり示せるのですから、これらの描写はほんとに素晴らしいです。

ここまで調べたならば、これは本にしたほうがいいでしょう。答えを探しながら書いているので、頭から読んでもきっとよく分からないでしょうから。やっぱり、まとめる必要があります。それにラテン語や古典ギリシャ語の訳は見直すと恥ずかしものがあります。まだいくつか発見できるかもしれませんから、それも盛り込んで。



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