2011年11月18日

《プリマヴェーラ》 一人のホーラ

現在、ボッティチェリの神話画についてここに書いてきたことを本にしようかと、こつこつまとめていますが、改めて調べれば調べるほど、新たな発見をしています。実のところプログラミングをするよりも楽しい時間を過ごしています。

《プリマヴェーラ》の右から三番目にいる女神を、僕は『祭暦』を典拠として春を担当する季節女神ホーラたちの一人だと特定しています。しかし、現在一般的な解釈では、何故かエドガー・ウィントの説が大勢を占めていて、この女性は、隣の口から花を落としているクロリスが変身した後のフローラだとされてしまっています。

僕が書いていることは、ラテン語や古典ギリシア語の知識が多少なくては読めませんから、誰かに理解してもらうのは簡単ではないのは分かっています。それも、かなりねじ曲がった訳し方ですから、もう誤訳なのか何なのか分からなくなることでしょう。それは仕方のないことです。それに数学の難問を解いているようなものですから、信じてもらうのではなく、論理的に納得してもらわなくてはいけません。でもそれに必要な知識は一般常識の範疇を超えています。

とにかく、五百年誰も書いてないことを思いついてしまったのですから、書き残し、まとめてしまうことが、今の僕のやるべきことだと思います。


さて、今回も面白いことが分かりました。この発見は、かなり重要なことだと思いますので、ここに書いておきます。

上に書いたとおり、僕は『祭暦』の一節を引用して、右から三番目の彼女はホーラたちの一人だとしています。しかし、『祭暦』を典拠とするならば、ホーラたちを、三美神のように三人もしくは四人を描くべきなのに、どうして一人しか描かれていないのかという疑問が生じます。三人も描いたら絵がごちゃごちゃしてしまうからなんて考えていましたが、いままで解釈してきた経験からボッティチェリがそんな根拠のないことで、三人を一人にしてしまうことはないでしょう。ちゃんと一人にする根拠があるはずです。

『祭暦』のホーラたちが記述されているラテン語の文章は、次の通りです。

conveniunt pictis incinctae vestibus Horae,
inque leves calathos munera nostra legunt;

これを日本語に訳すと、「装飾された服を着たホーラたちが一緒にやってきて、彼女たちは小さな籠に私たちからの贈り物を摘んでいきます。」となります。

この文章はこの絵の通りに思えたので、ホーラたちの人数を一人に変えただけで、そのままこの文章が描かれていると解釈してきました。しかし、そうではありませんでした。この文章もボッティチェリは別の意味に解釈して絵に描いていました。

Horaeという綴りは主語にするならば複数形しか考えられないのですが、主語にしなければ、単数形の属格/与格と同形ですので、一人のホーラを表せます。つまり、このHoraeが与格単数か属格単数であるように訳した結果が、この絵の描写に合えば、この文章そのものをホーラが一人しか描かれていないことの根拠とすることができるはずです。


では、やってみます。

以下の内容は、次のリンク先の《プリマヴェーラ》の画像を拡大しながら、読んでみてください。
http://www.googleartproject.com/museums/uffizi/la-primavera-spring-67

conveniunt pictis incinctae vestibus Horae,

vestibus は女性名詞 vestis(服)の奪格複数か与格複数です。ホーラが一人である意味の文章にしようとしているのですから、これが複数だと困ります。最初から難題です。絵をよく見ると、腕のところに何か鱗状の模様の布を巻いています。これが何かは分かりませんが、なんだかヒントみたいです。vestis の意味をイタリア語で詳しく調べていくと、veste、abito、coperta、tappeto、tela、spoglia、lanugineとあります。注目すべきは spoglia です。これにも服という意味もありますが、蛇や昆虫の抜け殻を表す言葉です。調べた辞書ではvestis のこの意味の例としてルクレティウスの『物の本質について』4巻での蛇の脱皮についての記述が紹介されています。この鱗模様の布はずっと謎だったのですが、これで答えが出ました。vestibus は服 vestis と蛇の抜け殻 vestis の二つを差し示し、複数形で書かれていると解釈できます。

この語を修飾している pictis ですが、これは pingo(塗る)の完了分詞、与格複数もしくは奪格複数なので、ちゃんとvetibusに合っています。pingo の意味を調べると、イタリア語の dipingere(描く)、ricamare(刺繍する)、ornare(飾る)が出てきます。絵を見ると服の方は花柄の刺繍がされているように見えます。しかし蛇の抜け殻には花の刺繍があるのではなく、美しく装飾されているように見えます。それぞれ別々の意味で修飾されていると考えます。

incinactae は incingo(巻きつける、まとう、身につける)の完了分詞、女性形の属格単数、与格単数、主格複数、呼格複数のどれかになります。ここでやっと主格になってくれる単語が現れました。これを名詞化します。この節の動詞は conveniunt は convenio(集まる、一緒に行く)の三人称複数現在です。本来はホーラたちが主語になりますが、これだと一人のホーラを表せなくなってしまうので、incinactae を主語にして解釈します。

そうすると、妙な文章ですが、こうなります。

刺繍された服や装飾された蛇の抜け殻とともにホーラに巻きついたものが集まっています。

意味が分かりにくいですが、鱗模様の布が紐でとめてあったり、蔓の帯があったり、刺繍がされた服も長い紐状の襞があったり、やたら何かが巻き付いた描写になっていることを表しているとします。

次の文の方が分かりやすいです。

inque leves calathos munera nostra legunt;

leves は価値が低いという意味の形容詞で、ここでは「取るに足らない、粗末な」と訳せます。calathos は小さな籠のことで、calathusの複数形です。この絵では服をたくし上げてそこにバラの花がたまっている様子が描かれているので、籠はこれのことを表していると考えていいでしょう。本物の籠ではなく服で作った急拵えのものなのでlevesという形容も納得がいきます。

しかしこの籠は複数形のはずなのに一つだけです。数が足りません。それを補うために、さっきのようにもう一つのcalathusを見つけなくてはいけません。そこでヴァールブルクの本に書いてあった籠のイタリア語cestoをラテン語のcestusと解釈したために帯が描かれているのでは、という注釈を思い出して、この知識を使います。彼女の胸の下あたりには、バラの花と蔓で作った帯があります。これもあまり立派なものには見えませんので、levesという形容がぴったりです。

これでcalathusが文章の通り複数になりました。この帯と籠に、同じようにバラが使われていることからも、この二つのものが組になっていることが分かります。ホーラは花冠と花の首飾りも身につけていますが、使われている花の構成が帯、籠とは違っています。

munera nostraは、私たちの贈り物という意味になります。これは本来の意味と同じですが、格を違うものとして解釈します。この語形は主格、対格、呼格の解釈ができます。本来の訳ではこれは対格つまり目的語として訳していますが、今回はこれを主格として訳してみます。leguntは動詞の三人称複数で、本来の訳では、「ホーラたち」を主語にして他動詞として解釈していますが、今回は「私たちの贈り物」を主語とする自動詞として解釈します。「私たちの贈り物」の「私たち」は誰のことを指しているのかというと、この文章はずっとフロラ自らがオウィディウスに語っている台詞なので、フロラを含んだ意味になります。複数形なのは、夫であるゼピュロスも含めているからです。絵をよく見ると、頬を膨らませたゼピュロスの口から白い線となって息が出ていますが、その延長線上に女神の口があって、そこからその方向に、葉の付いた花が落ちていきます。そしてさらにその落ちていく先に、ホーラの帯と、籠があります。夫婦で協力して贈り物をしているので、「私たちの」という表現で合っています。

そういうわけで、二番目の文章は次のようになります。

私たちの贈り物は粗末な帯と籠の中に集められています。

この訳を受け入れるならば、次のことが言えるでしょう。いまさらですが、ホーラの腕に縛り付けられている鱗模様の布はどう見たっておかしな物体です。まさしくこの解釈が唯一のこの描写への解答となるでしょう。またホーラとフロラとゼピュロスの配置に無理矢理感があるのは、この二番目の文章を再現し、贈り物を風に乗せて帯と籠に送る構図を作るためだったわけです。僕自身も間違っていましたが、この絵の中でゼピュロスがフロラを抱えているのは、彼女を略奪するためでも、ましてや略奪してきた彼女を地上に下ろすためでもなく、この文章を的確に再現するためだったことが分かります。

今回の解釈から分かることを簡潔にまとめると、次のようになります。
・ホーラが一人しかいないこと
・ホーラの腕の鱗模様の布がヘビの抜け殻であること
・ホーラの右にいるのがフロラたちであり、彼らが贈り物を贈るためにそこにいること
・フロラたちからの贈り物(花)が、帯と籠の中にあること



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2012年06月15日

美の迷宮への旅 三百年の眠りから覚めた女神 ボッティチェリ「春」 のメモ

おととい6月13日、BS朝日でボッティチェリの絵を扱った番組をやっていたので、その内容のメモ。

要潤がナレーションをしているBS朝日の「世界の名画 美の迷宮への旅」というシリーズ。この回は今年の4月25日(水)に放送されたものの再放送。《春》を軸に、ボッティチェリの作品と人生を紹介していく。その中で作品の謎についての解説がある。ボッティチェリの話題だけで無く、当時から続くトスカーナ地方のワイナリーも訪ねている。

21時57分から見始めた。本来は21時からの1時間番組だが、プロ野球中継が延長になったせいで、残り30分を見ることができた。前半は見られなかったけれど、とても分かりやすくまとめられた番組だったと思う。これは再放送らしいので、またいつか再放送されることを願う。

以下、途中からだけど、その内容をまとめた要約。個人的な感想などは次回。

フィレンツェの街角の壁にあいている奇妙な穴。これは昔、貴族が自家製のワインを売るために使っていた窓口で、当時貴族がワイナリーを持っていたことのなごり。『君主論』のマキャヴェリもワイナリーを持っていた。トスカーナ地方の老舗のワイナリー、フレスコバルディーが紹介される。ボッティチェリの購入記録も残っている。フィレンツェ市内にあるフレスコバルディーの豪邸の内部。ギルランダイオGhirlandaioの聖母子が飾ってある。この邸宅はブルネレスキが設計したサント・スピリト教会とつながっている。

ボッティチェリの話に戻る。東ローマ帝国がトルコに脅かされ、逃れてきた学者たちが、古代ギリシア、ローマ思想をイタリアに伝えた。メディチ家のロレンツォが文化サークルを作り、多くの文化人と共にボッティチェリもそこに招かれた。そして《春》が誕生した。古いものから生まれた全く新しい芸術。ギリシア・ローマの神々というモチーフを初めて取り入れた。

この作品の目的は何か?30年ほど前、謎を解く手がかりが見つかった。画の汚れを落としたところ、いくつもの花が浮かび上がってきた。190種ほどのフィレンツェの春に咲く花が描かれている。それぞれの花には意味がある。例えば、アイリス。これはゼフィロスがクロリスとの結婚に際して贈った花。クロリスの口から出ているヒメツルニチソウPeriwinkleは結婚による結束を表している。そして口から出た花は愛の勝利を意味する薔薇に変わり、花の女神フローラの体につながっている。これらの花言葉から、この絵が結婚にまつわるものだと考えられ始めた。結婚や愛に関連する花は他にも描かれている。

この絵の制作当時、ロレンツォの親族が結婚式を挙げていた。この絵はこれを祝して贈られたものだともいわれている。ボッティチェリの《パラスとケンタウロス》も、同じ頃、同じ注文主のために描かれている。この作品が《春》の目的の裏付けになる。知恵の女神パラスが半人半馬の暴れ者ケンタウロスの髪を掴み押さえ込んでいる。ニンフを追い回すケンタウロスは欲望の象徴。知恵を司るパラスは理性の象徴。この絵は欲望に対する理性の勝利を讃え、新婚の二人に愛の理想を説いているようにみえる。

ボッティチェリは聖母の画家とも呼ばれる。市庁舎の謁見の間に飾らために描かれた円形の作品《ザクロの聖母》。この聖母を反転すると《ヴィーナスの誕生》のヴィーナスに似ている。モデルが同じ女性だったかもしれない。そのあと、《受胎告知》の紹介。

パトロンであるロレンツォが亡くなって、ボッティチェリはサヴォナローラに心酔していく。サヴァナローラは大衆に禁欲的な生活を説き、ボッテイチェリも昔の宗教画に逆戻りする。ボッティチェリ自身、手元の異教の神々や裸婦像を焼き尽くした。しかしローマ教皇を批判したサヴォナローラは破門され、反対勢力にとらえられ火刑となる。それでもサヴァナローラを擁護するボッティチェリは《誹謗》という作品を描いた。無実を意味する裸の男が、誹謗を表す青い服の女性に髪を掴まれ、引きずり出されている。その先に待ち構えているのは、ロバの耳を持つ不正という名の審問官。ボッテイチェリはこの絵でサヴァナローラに対する仕打ちが不条理だと訴えている。この絵に描かれている真理の象徴たる裸のヴィーナスも、《ヴィーナスの誕生》に登場した優雅な姿ではなく、無骨な印象を受ける。その後ボッティチェリは、貧困にあえぐ晩年を送り、1510年に65才でその生涯を閉じた。

ボッティチェリの死から250年後、メディチ家の美術品を中心に作られたウフィツィ美術館。中庭を囲む28人の彫像の中には、ボッティチェリの姿はない。」ボッティチェリは人々から忘れ去られていた。しかし、1815年、ボッティチェリの作品《春》と《ヴィーナスの誕生》が公開されるやいなや、300年の時を経て、女神たちは微笑み始めた。19世紀末の画家たちがモチーフとして描いた「宿命の女(ファム・ファタール)」のモデルは、この《春》に描かれたヴィーナスだといわれている。

美の歴史を一変させた西洋絵画の金字塔、《春》。それはまさしく、ルネサンスに春を告げた作品だった。

番組ページ:
三百年の眠りから覚めた女神 ボッティチェリ 「春」

予告動画:

300年の眠りから覚めた女神 ボッティチェリ 「春」

この番組での解釈の参考となるのは次の2冊だろう。
・《春》に描かれている全ての花を調べ上げたのは
Mirella Levi D'Ancona  『Botticelli's Primavera: a botanical interpretation including astrology, alchemy, and the Medici』
・《春》を従来の《ヴィーナスの誕生》ではなく、《パラスとケンタウロス》を利用して解釈するのは
ホルスト・ブレデカンプ Horst Bredekamp
『ボッティチェリ《プリマヴェーラ》 : ヴィーナスの園としてのフィレンツェ』



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2012年10月12日

美の迷宮への旅 三百年の眠りから覚めた女神 ボッティチェリ「春」 の前半メモ

以前、この番組の後半部分のメモを書いたが、ようやく前半部分も見られたので、書いておく。

番組情報:
BS朝日 2012/10/10 21:00-21:54
世界の名画 美の迷宮への旅
300年の眠りから覚めた女神 ボッティチェリ「春」
ナレーション : 要潤
(2012/4/25に放送されたものの何度目かの再放送)
公式ページ : BS朝日 - 世界の名画 〜美の迷宮への旅〜 バックナンバー

最初に、この名画誕生の秘密と当時の食文化の探求という2つの旅の目的が挙げられる。

フィレンツェ郊外にあるメディチ家の別荘ヴィラ・カステッロの映像。15世紀後半に制作された「春」は19世紀にここで発見された。人々から忘れ去られたこの絵は、300年もの間、館の中で眠り続けていた。

「春」のそれぞれの登場人物たちの映像を映しながら、ナレーション。そのまま引用すると次の通り:

発見以来この絵の謎めいた登場人物たちは、見る者を迷宮へといざなってきました。
透明のベールをまとった女性は大地のニンフ、クロリス。
体を大きくよろめかせ、何者からか逃れようとしています。
彼女をとらえようとしているのは、ヨーロッパに春を呼ぶ西風の神ゼフィロス。
クロリスの口からあふれる花は大地の芽吹きを表しています。
隣にたたずむのは花の女神フローラ。
ローマの神話ではクロリスはゼフィロスと結婚し、フローラに変身したとされています。
描かれた神話の神々はいったい何を伝えているのでしょうか?
キューピッドが愛の矢を向けたその先に描かれているのは、ローマ神話の三美神です。
優雅に舞う三人の女神たちは、左から順に、愛、純潔、美を表すといわれています。
しかしこの三者の組み合わせが、何を物語るのかその解釈には諸説あり、答えは出ていません。
左端に立つのは神々の使者ヘルメス。
魔法の杖で雲を追い払っているように見えます。
そうしたすべての営みを中央で見守っているのは、愛と美の女神ヴィーナス。
果たしてこの絵は何のために描かれたのか?
多くのミステリーを秘めた名作「春」。

(日本で知られている一般的な解釈。クロリス・フローラ変身のEdgar Windの説に近いが、三美神の左が「愛欲」ではなく、「愛」になっている。)

同じ場所で見つかったのが「春」と双璧をなす「ヴィーナスの誕生」。この絵に関しては、ヴィーナス以外の登場人物が誰なのかについては述べられない。

ボッティチェリの軌跡について語られる。
彼は1445年頃フィレンツェの革なめし職人の家に生まれる。13才の頃金細工の工房に入門。15歳のとき、フィリッポ・リッピに弟子入り。

フィリッポ・リッピの「聖母子」と、独立前二十歳頃のボッティチェリが描いた「聖母子」の構図を比較して、分かりやすく師匠の影響が示される。

独立は23歳頃。飛躍のチャンスとなったのは、裁判所に飾るために描かれた「剛毅」。これは7点連作の寓意図で、他の画家の仕事が遅れたために1枚だけボッティチェリが描いた。この絵が評価され、名声が高まった。

フィレンツェの中心部にあるサン・ロレンツォ教会。ここにはメディチ家の歴代当主が葬られている。ここにある石棺の制作にはボッティチェリも参加している。なお、二十歳くらいのレオナルド・ダ・ヴィンチもこれに関わっている。

花の都フィレンツェの繁栄、そしてルネサンスはメディチ家という一族なしではありえなかったかもしれない。メディチ家は金融業や毛織物業で財をなし、15世紀から18世紀まで、フィレンツェの支配者として君臨した。ウフィツィ美術館は、メディチ家が築き上げた膨大なコレクションからなる。最大の目玉はボッティチェリのコレクション。

ボッティチェリの作品「東方三博士の礼拝」には、メディチ家とボッティチェリの親密な関係を物語る描写がある。博士の一人のモデルは、コジモ・イル・ヴェッキオ。またコジモの孫ロレンツォ・イル・マニフィコも描かれている。彼こそがメディチ家の黄金時代を築いた。多くの芸術家を育て、ルネサンスを花開かせた中心人物。そして、片隅でこちらを見つめる人物は、ボッティチェリだといわれている。

あとは、ボッティチェリも美食家だったという話から、当時の料理の話へと移り、中世の料理を研究しているシェフの料理の紹介。その料理の中で、当時の新しい食材であったオレンジが使われるが、そのとき「春」に描かれている木々の果実のことが指摘される。

 

以前見てなかったのはここまで。あとは、ワイナリーの紹介や、晩年のボッティチェリの話が続く。

後半について書いた記事は、「美の迷宮への旅 三百年の眠りから覚めた女神 ボッティチェリ「春」 のメモ



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2012年10月15日

先日の「春(Primavera)」についての番組の感想

先日見た「美の迷宮への旅 三百年の眠りから覚めた女神 ボッティチェリ「春」 」についての考えたことです。

ようやく前半部分も見れて正直うれしいです。この絵について一般的な知識を得るにはこれでいいと思います。絵が発見された場所や、ボッティチェリの生家の跡など、関連するフィレンツェの場所を映像で示してもらえるだけでも、ためになります。見てて楽しかったです。でも本格的に謎が知りたいと思うと、やはりちょっと物足りなく感じます。

ここで以前書いた僕の独自の解釈を書いても面白くないので、そこまで踏み込まずに今回の解釈の問題点を少し考えてみます。

まず、日本では、この絵はどういうわけかロレンツォ・イル・マニフィコとボッティチェリィの関係で読み解こうとするものが多く見られます。この番組でもそうです。実際ロレンツォはボッティチェリのパトロンだったのですが、神話画に関してはもう一人のメディチ家のパトロン、ロレンツォ・ディ・ピエロフランチェスコの関わりの方が重要だと考えられます。

この番組では、ボッティチェリと親しかったロレンツォ・イル・マニフィコとの関係を柱に読み解いていくために、余計な説は排除して語られています。番組内で、「春」と「パラスとケンタウロス」がロレンツォの親族の結婚式のために描かれたとありましたが、その親族こそがロレンツォ・ディ・ピエロフランチェスコその人です。

番組内では、依頼主が親族(ロレンツォ・ディ・ピエロフランチェスコ)だがロレンツォ・イル・マニフィコの意向でこれらの祝いの作品は作られたとなっていました。しかし、そのままロレンツォ・ディ・ピエロフランチェスコ本人が内容も含めて依頼したとしても成り立つでしょう。

ただしその場合、結婚に際しての戒めというこの番組での解釈は諦めなくてはならないかもしれません。そうなると結婚式に合わせる必要もなくなってしまうかもしれません。しかしポリツィアーノが讃えていることからも、ロレンツォ・ディ・ピエロフランチェスコのラテン語やギリシア語に関する教養はそうとう高く、この難解な絵の内容を細部まで注文できる人物として十分候補となりえます。

同じ名前の二人は又従兄弟の間柄です。つまり「祖国の父」コジモ・イル・ヴェッキオの弟の家系がロレンツォ・ディ・ピエロフランチェスコとなります。メディチ家の歴史を調べると直ぐに分かることですが、ロレンツォ・イル・マニフィコとロレンツォ・ディ・ピエロフランチェスコは実際は仲がよくありませんでした。

13歳のときロレンツォ・ディ・ピエロフランチェスコは父を亡くし、14歳年上のロレンツォ・イル・マニフィコによって弟ジョバンニと共に養育されます。ロレンツォ・イル・マニフィコのもとで、フィチーノやポリツィアーノといった高名な人文学者を家庭教師にして学び、恵まれた教育を受けることができましたが、一方で彼のもとにいることで、財産の面で不利益もこうむりました。

彼らが成人するまで管理すべき財産をロレンツォ・イル・マニフィコが使い込んでしまい、それを取り戻すために裁判沙汰にまでなりました。1492年にロレンツォ・イル・マニフィコが亡くなるとその溝は決定的になり、ロレンツォ・イル・マニフィコの後を継いだ息子のピエロと対立し、1494年には兄弟はフィレンツェを追放されてしまいます。

しかしその年フランス軍がフィレンツェに侵攻してくると立場が逆転します。フランス軍との対応を誤ったメディチ家は民衆たちから非難を浴び、ピエロは兄弟たちとともにフィレンツェから追放されます。共和国体制となったフィレンツェに戻ったロレンツォとジョヴァンニは、民衆たちの側に立ち、ポポラーノのという名字で呼ばれるようになります。そしてフィレンツェで台頭してきたサヴォナローラを支援するのです。

この番組ではメディチ家の邸宅にあったために神話画が難を逃れたと言っていますが、この事実を踏まえると、印象が変わってきます。メディチ家が追放されたのに無事だったのはポポラーノ側にあったことを示しているのでしょう。しかし疑問が残ります。サヴォナローラを支援しているポポラーノ自身が異教的な絵画を捨てなかったことです。支援はしても、信仰までは深く影響は受けていなかったからと言えばそれまでですが。

そして番組ではサヴォナローラの死に抗議して「誹謗」を描いたとしていますが、この絵には裸婦像が描かれていたり、彫刻の中にある神話の描写などから、サヴォナローラへの狂信以前でないと辻褄が合わなくなります。自分の絵を焼いてしまうほど彼に心酔していたのならば、彼の死を抗議する作品でこういう描写は描けないでしょう。「誹謗」を描いた理由は単に、アルベルティの「絵画論」に素晴らしい作品だと書いてあったからという理由で十分ですよね。

 

次は三美神の名前についての諸説について。

この番組では三美神の解釈は諸説あるとしながらも、それぞれが左から愛、純潔、美としていました。三美神についての詳しい研究が書かれているWind(ウィント)の本では、ルネサンス期の三美神の名前として次のパターンが示されています。
Voluptas - Amor - Pulchritudo
Voluptas - Caritas - Pulchritudo
Amor - Caritas - Pulchritudo
つまり、今回紹介されたパターンは、Amor - Caritas - Pulchritudo となります。この組み合わせの意味は、高階秀彌氏の「ルネッサンスの光と闇」に詳しく述べられています。海外の資料でこの配列を調べると、「春」の三美神を特定としたものではありませんが、ヴァールブルグの本にこの言葉が刻まれたメダルが紹介されています。なお、ウィントの説は、Volputas - Caritas – Pulchritudo です。詳しくは、彼の「ルネサンスの異教秘儀」で述べられています。なお、前回 Voluptas の意味として愛欲という言葉を使いましたが、これは間違いでした。「喜び、官能、快楽」の方が相応しいです。


最後に1つ。この番組とは関係ないのですが、前から気になっていたのですが、ウィキペディアの「プロマヴェーラ」の記事に、この絵の所有者について次の文があります。

しかしながら、1975年に再発見された1499年当時の財産目録には、ロレンツォ・ディ・ピエロフランチェスコと彼の弟のジョヴァンニ・デ・メディチ・イル・ポポラーノの資産が記録されており、以前には『プリマヴェーラ』がフィレンツェの大邸宅に飾られていたことが明記されている。その後でこの作品はロレンツォ・ディ・ピエロフランチェスコの私室への待合室に飾られたのであり、ロレンツォ・ディ・ピエロフランチェスコが最初の所有者ではないことが判明した。

と書いてありますが、この財産目録は、1499年当時、ロレンツォ・ディ・ピエロフランチェスコ所有のラルガ通りにある邸宅に絵があったことを示した資料で、この資料で別の所有者の存在を語っていなかったはずです。以前紹介したブレデカンプの本などでも、この財産目録については触れていますが、ロレンツォ・ディ・ピエロフランチェスコが本来の所有者であることを示す根拠として使われています。Wikipedia のこの記事の記述は出典がはっきりしていないので、どのような解釈で別の所有者の話が出てきたのか確かめようがありません。



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2013年02月28日

《春(プリマヴェーラ)》 中央の女神のお腹が大きい理由

今回は久しぶりに《春(プリマヴェーラ)》についての話です。あらかじめ言っておきますが、納得しないままこの説を鵜呑みにしないでください。言葉遊びが鍵だとするとこの理由を導くことができるという話です。

この絵のことを調べて、研究者の原文も確認しながら読み込んでいくと、一般的に言われているような中央の女神がウェヌス(ヴィーナス) である根拠が、一つしかないことが分かりました。その根拠とはもちろん、ヴァザーリが描写の不正確な文章の中で書き残していた「ヴィーナスが描かれた二枚の絵がある」という一節です。しかしヴァールブルクをはじめ多くの研究者は、そのことを疑いもせず、中央の女神をウェヌスであるという前提でこの絵をあらゆる知識をつぎ込んで解釈しようとしました。そしてことごとく失敗してしまいました。そりゃ失敗します。だって、彼女はウェヌスではないのですから。彼女はメルクリウス(ヘルメス)の母マイアです。

この絵の三美神の描写がフィチーノの抽象的な愛についての言葉を具象的に描いたものだというのに気付いたことが、ここで解き明かしていった、ボッティチェリの神話画の典拠の発見につながっていきました。ただこの三美神の解釈をしたときは、詳しい辞書を持っていなかったので、ラテン語desinoを英語でleave offと訳して、そのleave offの意味の一つである「服を脱ぐ」を使って単純に解釈したりしていました。いろいろ修正は必要ですが、でもこのとき分かった「言葉遊び」が鍵だという着目はやはり正しかったようです。

さて、本題です。中央の女神がマイアであるという根拠として、『ヘルメス讃歌』のマイアの記述がこの絵に見られるということを以前書きました。この文章にはギリシャ神話のヘルメスつまりローマ神話でのメルクリウスを讃える物語が書かれているのですが、ところどころにその母マイアの記述があります。特徴的なものを抜き出すと、「νύμφη ἐυπλόκαμος」、「ἄντρον ἔσω ναίουσα παλίσκιον」、「καλλιπέδιλον」というのがあって、日本語にすると「豊かな巻き毛のニンフ」、「鬱蒼とした洞窟に住んでいる」、「美しい靴を履いている」という意味なのですが、それをこの絵の描写に見つけることができるということを指摘しました。この描写があることが彼女がマイアである僕の根拠でした。

この描写は全くそのままでこの絵の中に見出すことができたので、わざわざ「言葉遊び」は関係ないと思っていました。しかし、改めて『ヘルメス讃歌』のギリシャ語を訳してみると、やっぱり中央の彼女はマイアでよかったんだという内容が見つかりました。この三箇所では正直根拠としては弱いものでしたが、今回のやつは決定的です。

 

『ホメロス風讃歌』の中には二つの『ヘルメス讃歌』がありますが、長編のほうの『ヘルメス讃歌』は次の出だしになっています。9行目まで引用します。

Ἑρμῆν ὕμνει, Μοῦσα, Διὸς καὶ Μαιάδος υἱόν,
Κυλλήνης μεδέοντα καὶ Ἀρκαδίης πολυμήλου,
ἄγγελον ἀθανάτων ἐριούνιον, ὃν τέκε Μαῖα,
νύμφη ἐυπλόκαμος, Διὸς ἐν φιλότητι μιγεῖσα,
αἰδοίη: μακάρων δὲ θεῶν ἠλεύαθ᾽ ὅμιλον,
ἄντρον ἔσω ναίουσα παλίσκιον, ἔνθα Κρονίων
νύμφῃ ἐυπλοκάμῳ μισγέσκετο νυκτὸς ἀμολγῷ,
ὄφρα κατὰ γλυκὺς ὕπνος ἔχοι λευκώλενον Ἥρην,
λήθων ἀθανάτους τε θεοὺς θνητούς τ᾽ ἀνθρώπους.

この文章の意味は次の通りです。筑摩書房刊の沓掛良彦氏訳よりの引用です。

ヘルメースを讃め歌え、ムーサよ、ゼウスとマイアの御子、
キューレーネと羊多いアルカディアを統べる神、
幸運もたらす御使者を。うるわしい巻毛の畏いニンフのマイアが、
ゼウスと愛の交わりをなしてこの神を産んだ。
マイアは浄福なる神々のまどいを避けて、
濃く蔭をなす洞窟の奥深く住まっていたのだが
その中でクロノスの御子は、夜の帷の垂れこめるさなかに、
うるわしい巻毛のニンフと愛の交わりをなしたのだ。
それは腕白きヘーラーを甘い眠りがとらえていた折のことで、
不死なる神々も死すべき身の人間も、気付きはしなかった。

この文章の中に以前指摘した3つのマイアの特徴のうちの2つがあります。日本語訳だと文の区切りが本来のものと変えているので、分かりにくいのですが、原文でマイアを説明しているのはこの2か所を含む次の部分になります。

νύμφη ἐυπλόκαμος, Διὸς ἐν φιλότητι μιγεῖσα,
αἰδοίη: μακάρων δὲ θεῶν ἠλεύαθ᾽ ὅμιλον,
ἄντρον ἔσω ναίουσα παλίσκιον, ἔνθα Κρονίων
νύμφῃ ἐυπλοκάμῳ μισγέσκετο νυκτὸς ἀμολγῷ,
ὄφρα κατὰ γλυκὺς ὕπνος ἔχοι λευκώλενον Ἥρην,
λήθων ἀθανάτους τε θεοὺς θνητούς τ᾽ ἀνθρώπους.

この文章の中には今まで気づかなかった何かが隠されているかもしれません。調べてみる価値は十分にあります。

νύμφη ἐυπλόκαμος,

素直に訳すと、「豊かな巻毛のニンフ」です。ニンフを女性と訳してもいいでしょう。ただ、絵の中では彼女は頭に花嫁のような薄いベールをかけているので、髪があまりはっきりしません。それでも隙間から見える髪は巻いているように見えます。でもこの絵には他の女性も巻毛と呼べる髪もあるので、今まであまりこの描写を推してはいませんでした。でもこの絵をじっくり見なおしてみると中央の女性は「たくさんの巻毛を持ったニンフ」です。彼女以外に考えられません。

riccioluto

ほら、彼女の襟の回り、胸の回り、曲がった髪の毛のような金色の装飾がたくさんぶら下がっています。これが、豊かな巻毛です。こんな描写のある人物なんて他にはいません。この言葉は「たくさんの巻毛状のもので飾られたニンフ」という意味になります。なおここで使っている画像はGoogle Art Projectのものです。

そして、このデザインが巻毛ならば、メルクリウスがまとっているのも巻毛デザインだと考えられます。メルクリウスの髪の毛ははっきりとした豊かな巻毛ですが、着ている服にもちゃんと共通する巻毛があるので、これは特別な関連のある巻毛ということになります。つまり髪の毛は遺伝なので、血のつながりの可能性を示しています。

mercurius2

Διὸς ἐν φιλότητι μιγεῖσα,

本来の意味は「ゼウスと愛の中で交わった」となります。彼女のおなかが大きいので、最初はこれはこのままの意味だと思っていました。いや、でも言葉遊びの好きなこの作者はこの文章までも絵の中に描きこんでいるはずです。そう考えると、すぐにわかりました。

maiawithgod

この女性はお腹の大きい妊婦として描かれています。この女性をウェヌス(ヴィーナス)とする説では苦しい説明でこの大きなお腹の理由を示していましたが、これはどう見てもお腹に誰かいることの徴です。お腹にいるのは神であるマイアの子どもメルクリウスその人のはずです。つまり神と彼女が妊婦という姿で一体になって描かれていると考えます。つまりこの文は「愛によって神を宿している。」という意味に解釈できます。彼女のお腹が大きく描かれている根拠がこの文にこうしてありました。でも、メルクリウスが画面の左端にいるのに、ここにもメルクリウスがいるというのはちょっとおかしいですね。

αἰδοίη:

これは「高貴な」とか「恥ずかしがっている」という意味の形容詞です。これは正直よく分かりません。彼女は控えめではあるけれど、恥ずかしがっている表情はあまり感じられません。強いて挙げれば、高貴さでしょうか。彼女が右肩からかけている赤いローブです。この布はとても丁寧に複雑な模様が描かれています。縁には真珠の飾りが並んでぶら下がっています。高貴な人がまとっていそうな布です。また胸にかかっている金色のメダルも高貴な物に見えます。紐の部分にはここにも真珠がたくさん埋め込まれています。メダルの模様ははっきり見えませんが、ボッティチェリがよく描いた受胎告知か母子像のようなシルエットが描かれているように見えます。

ここまででまとめると、このようになります。これは中央の女神を形容する言葉の並びです。

たくさんの巻毛状の物を持っているニンフの、愛によって神を宿している、高貴な(彼を生んだマイア)

次は文になります。

μακάρων δὲ θεῶν ἠλεύαθ᾽ ὅμιλον,

δὲ は単純な接続詞です。μακάρων θεῶν は複数属格で「幸多き神々の」です。ὅμιλον は名詞で単数男性対格で「集団」です。動詞ἠλεύαθ᾽は「避ける」の中動態、三人称単数アオリストです。まとめると、「幸多き神々の集団を避けた。」です。この動詞の主語は中央の女神ですので、この絵の状況にとても合っています。確かに左側にいるメルクリウスに恋する三美神は幸せのようです。右側にいるゼピュロスとフロラからの贈物を受け取っているホーラも満足のようです。そんな彼らから中央の女神は一歩下がって、避けるようにそこにいます。まさにこれは中央の女神が一歩下がって描かれている根拠となる文章です。

ἄντρον ἔσω ναίουσα παλίσκιον,

名詞「洞窟」ἄντρον は最後の形容詞「暗い」παλίσκιονと結びついていて、副詞か前置詞のἔσωの支配を受けています。つまり、 ἔσω παλίσκιον ἄντρον で「鬱蒼とした洞窟の中で」となります。ναίουσα は現在分詞の単数女性形で、英語での意味はdwellかabideとなります。本来の意味では「住んでいる」となりますが、この絵に合わせると「とどまっている」となるでしょう。現在分詞なので、これは前にある文章と同時期にある出来事を表しています。まとめると、「そのとき鬱蒼とした洞窟の中にとどまっていた。」となります。しかし、この絵の中には洞窟はありません。とは言ってももちろん中央にある丸いアーチがつくるその内側のことを表しているので、この絵に合わせた言葉の言い換えを考え、「洞窟」ではなく、「空洞」とします。改めて、まとめると「そのとき鬱蒼とした空洞の中にいた。」となります。まさにこの絵の描写です。

cave2

この文をまとめると、次のようになります。

女神は、幸多き神々の集団から遠ざかっているとき、鬱蒼とした空洞の中にいた。

今まで何度か言ってきた彼女がマイアである理由を、より明確した内容になりました。これだけでも十分かもしれませんが、さらに重大な内容が続きます。

ἔνθα Κρονίων νύμφῃ ἐυπλοκάμῳ μισγέσκετο νυκτὸς ἀμολγῷ,

ἔνθα は there でこの場所のことです。Κρονίων は主語でクロノスの息子、つまりユピテルです。νύμφῃ ἐυπλοκάμῳ は既に出てきた言葉ですが、ここでは与格になっています。動詞は μισγέσκετο で、これは分詞として一度出てきています。ここでは三人称単数未完了過去。νυκτὸς ἀμολγῷ は熟語で「夜中に」という意味です。まとめると、この文の意味は「その場所で真夜中にクロノスの息子は巻毛のニンフと一つになっていた。」となります。神々が愛し合う描写ですが、この描写はこの絵の中に見つかりません。そもそもユピテルがいません。

最初、この文章は描かれておらず、前の節までが絵の中に描写されていると思いました。最初に出てきたμίγνυμι は神としか書かれていないと解釈できたので、子どものメルクリウスを宿したと変更できたのですが、ここではクロノスの息子と相手が規定されてしまっているので、メルクリウスにすり替えることはできません。相手がユピテルならば性的な行為として一つになることしか μίγνυμι の意味は選択できません。だからこの描写はこの絵には描かれていないのだと思いました。

しかし、ここで、ものすごくショッキングなアイデアを思いついてしまいました。中央の女神のお腹には、ユピテルがいるんじゃないだろうかと。とても異常な状況ですが、それを一つ受け入れるといろいろ解決しそうです。するとこの文は「その場所で真夜中にクロノスの息子は巻毛のニンフの体に入り込みました。」となります。今もその体の中にいるわけです。さきほど「メルクリウスを宿している」と解釈した文も、「ユピテルと一つになっている」と修正する必要があります。しかしそうすると、メルクリウスが二人いるという矛盾を解決することができます。

次の節はこれです。

ὄφρα κατὰ γλυκὺς ὕπνος ἔχοι λευκώλενον Ἥρην,

この節の最後にあるἭρηνの解釈がとても難しいです。なぜならこの絵の中にゼウスの正妻ヘラが見つからないからです。しかし詳しい辞書を調べてみるとピタゴラス学派の用語でこの単語が「9」の意味を持つことが分かりました。これはまさにこの絵の中に描かれている神々の数です。そこで、これを活かした訳を考えることにしました。試行錯誤の結果、節の区切りをちょっと変えて、Ἥρην を後ろの節に移すとうまくいきそうです。

ὄφρα κατὰ γλυκὺς ὕπνος ἔχοι λευκώλενον,

λευκώλενον は本来女神ヘラを表す形容詞で「白い腕の」です。本来はこのあとにἭρηνヘラがあるので、形容詞として使われますが、今回は名詞化した「白い腕の者」と訳します。この絵の中で人物たちの腕を見てみると、手首まで袖があるのは、花柄のホーラとこの中央の女神だけです。そのほかの神々は男神たちは元々袖などないし、女神は申し合わせたように袖がまくれまくっています。そしてホーラの腕は以前指摘したように蛇の抜け殻模様の袖を付けていて白くありません。白い布の袖を付けているのは中央の女神だけとなります。まさにこの単語 λευκώλενον が示すのは中央の女性のことです。あとは本来の解釈に近い訳になります。γλυκὺς ὕπνος はこの節の主語で「甘き眠りが」となります。まとめると、「甘き眠りが白い腕の女性を捕らえたときに、」となります。これは一つ前の節が成り立った時間を示している従属節です。

Ἥρην λήθων ἀθανάτους τε θεοὺς θνητούς τ᾽ ἀνθρώπους.

Ἥρην は数詞として ἀθανάτους θεοὺς にくっついて、「9柱の不死なる神々」となります。もちろんこの絵に描かれた神々のことです。このようにこの絵の中に描かれている神々の数の根拠は Ἥρην という単語となります。 このあとの θνητούς ἀνθρώπους も複数対格で「死すべき人間たち」の意味になります。おそらくこの絵を見ている鑑賞者のことでしょう。これらを τε を使って並べています。まとめると、「9柱の不死なる神々だけでなく、死すべき人間たちにも気付かれることなく」となります。9柱ということは、中央の女神本人も気付いていないということです。眠っていたので彼が体の中に入り込んだことに気付かなかったということでしょう。

その場所で真夜中にクロノスの息子は巻毛のニンフの体に入り込みました
それは甘き眠りが白い腕の女性を捕らえたとき
9柱の不死なる神々だけでなく、死すべき人間たちにも気付かれることなく

これで中央の女神のお腹が大きくなっている理由が分かりました。それは彼女の胎内に神が隠れているからです。彼女が甘い眠りに捕まっているときに行われたので、女神本人も気付いていません。雨粒にも変身できるユピテルなので不可能なことではありません。お腹が急に大きくなったのは妊娠したせいだと思っているかもしれません。お腹の中がユピテルならば、同時にメルクリウスが二人描かれているという矛盾もありません。そして彼女がこの絵の中心にいる理由もはっきりします。それはこの絵の中心にユピテルがいるからです。

今回引用した箇所から少し離れていますが、『ヘルメス讃歌』には中央の女神の美しい履き物の記述だと考えられるものもあります。57行目にあるマイアを形容するκαλλιπέδιλονという単語です。これは名詞πέδιλονに、美しいという意味の接頭語καλλι-がくっついた単語です。πέδιλονの意味はサンダルもしくは履き物なので、全体で「美しいサンダル」という意味になります。絵の中ではただの靴ではなくサンダルという意味を強調して、細い金色の紐でできた履き物になっています。

sandals

以上のように一連の記述がこの絵の中に見いだされるということにより、中央の女神がマイアであると結論づけられます。そしてそれと同時にこの絵の描写の典拠の一つが『ヘルメス讃歌』の一節であると断定できます。さらにこの部分の意味が本来の意味ではなく、上記のような言葉遊びを駆使した物語が隠されたものだと指摘できます。

ユピテルが女神の体の奥に隠れているなんて内容を絶対知られてはいけません。それに作者がこの解釈を成り立たせるには「死すべき人間たちにも気付かれずに」という言葉を実現する必要があります。この内容は依頼者とボッティチェリだけの秘密だったはずです。これがこの絵の本当の意味が伝えられなかった理由となるでしょう。この絵に隠れていたユピテルの居場所は、ずっと死すべき人間たちには気付かれることはありませんでした。ヴァザーリのおかげで女神の正体も気付かれず、したがってこの物語の典拠も知られることなく、ユピテル(ゼウス)がこの絵の中に隠れていることさえ気付かれませんでした。



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2013年03月04日

《春(プリマヴェーラ)》と『ヘルメス讃歌』

そういうわけで、ボッティチェリの《春(プリマヴェーラ)》の中央の女神の描写は「ホメロス風讃歌」の第4歌『ヘルメス讃歌』のある部分の記述を元に描かれていることが明らかにできました。

しかし前回はマイアの描写だけを着目したので、『ヘルメス讃歌』4行目から解釈を始めましたが、あとから思うと冒頭3行にあるヘルメス(メルクリウス)を讃える言葉だって何らかの形でこの絵に描かれていたのかもしれません。それ以前に、読み返してみると長い『ヘルメス讃歌』の前回解釈した部分はまるまる短編の方の『ヘルメス讃歌』の内容でした。

マイアの解釈にだけ集中しすぎて単純なことに気がつきませんでした。冷静に考えて、『アフロディーテ讃歌』のときと同じで、一つの讃歌全体を絵にしていると考えた方が理にかなっています。

長い方はホメロス風讃歌の第4歌で、短い方は第18歌です。以下第18歌全文です。長いほうは580行もあるのですが、こちらは12行ととても短いです。

Ἑρμῆν ἀείδω Κυλλήνιον, Ἀργειφόντην,
Κυλλήνης μεδέοντα καὶ Ἀρκαδίης πολυμήλου,
ἄγγελον ἀθανάτων ἐριούνιον, ὃν τέκε Μαῖα,
Ατλαντος θυγάτηρ, Διὸς ἐν φιλότητι μιγεῖσα,
αἰδοίη: μακάρων δὲ θεῶν ἀλέεινεν ὅμιλον,
ἄντρῳ ναιετάουσα παλισκίῳ: ἔνθα Κρονίων
νύμφῃ ἐυπλοκάμῳ μισγέσκετο νυκτὸς ἀμολγῷ,
εὖτε κατὰ γλυκὺς ὕπνος ἔχοι λευκώλενον Ἥρην:
λάνθανε δ᾽ ἀθανάτους τε θεοὺς θνητούς τ᾽ ἀνθρώπους.
καὶ σὺ μὲν οὕτω χαῖρε, Διὸς καὶ Μαιάδος υἱέ:
σεῦ δ᾽ ἐγὼ ἀρξάμενος μεταβήσομαι ἄλλον ἐς ὕμνον.
χαῖρ᾽. Ἑρμῆ χαριδῶτα, διάκτορε, δῶτορ ἐάων.

そして、日本語の意味を前回のと同じように、筑摩書房刊の沓掛良彦氏訳より引用します。

キューレーネー生れのヘルメースを、アルゴスの殺し手を歌おう、
キューレーネーと羊多いアルカディアを統べる神、
幸運もたらす神々の御使者を。アトラースの畏い娘マイアが、
ゼウスと愛の交わりをなしてこの神を生んだ。
マイアは浄福なる神々のまどいを避けて、
濃く蔭をなす洞窟の奥深く住まっていたのだが、
その中でクロノスの御子は、夜の帷の垂れこめるさなかに、
うるわしい巻毛のニンフと愛の交わりをなしたのだ。
それは腕白きヘーラーを甘い眠りがとらえていた折りのことで、
不死なる神々も死すべき身の人間も、気付きはしなかった。
ではこれにてさらば、ゼウスとマイアの御子よ、
あなたを歌うことから始めたが、他の讃歌に移ろう。
さらば、恵みの神ヘルメースよ、導きの神よ、よきことども与えたもう神よ。

内容は前回解釈した部分とほとんど同じです。文法的には動詞の法が変わっていたりしているのですが、マイアの部分に関してはほとんど前回の解釈を変更せずにいけそうです。問題は最初と最後。冒頭の固有名詞はそのままの形ではこの絵に描かれていなさそうだし、そうとうやっかいです。

Ἑρμῆν ἀείδω Κυλλήνιον,

Ἑρμῆν は Ἑρμῆς の対格です。Κυλλήνη というのは、アルカディア地方にある山の名前で、マイアが住んでいたのはこの山の洞窟でした。つまりヘルメスの生まれた場所を表し、ヘルメスの称号の一つです。語形は対格で Ἑρμῆν を修飾しています。ἀείδω は動詞で、意味は「歌う、讃える」、形は1人称単数現在の直説法か接続法です。素直に訳すと「私はキュレネーのヘルメスを讃えよう!」となりますが、この絵にはキュレネー山らしきものも描かれていません。何か違う意味に置き換える必要があるようです。

Κυλλήνιος を辞書で調べると近くに形容詞 κυλλός があります。イタリア語での訳は monco、zoppo などがあります。これらの語の比喩表現を見ると、「不十分な、不完全な、つじつまの合わない」といった意味があります。これは使えそうです。何故かというと、ヘルメスの足首を見ると、左足のブーツに翼が見えません。角度的に見えていないだけかもしれませんが、確かに不十分な描写です。

monco

しかし、この単語は κυλλήνιος であって κυλλός でありません。さあ、どうすれば変換できるでしょう。これは難易度がとても高かったです。思いつくのにちょっと時間がかかりました。κυλλήνιος と κυλλός の差は ήνι です。ήνι という語が実際にないか調べてみると、ἡνία という語があります。この語がエリジオンを起こすと、ἡνί᾽ という綴りになり得ます。そこで、ἡνία の意味はというと、briglia 「手綱」、cinghia 「ベルト」です。この絵だとすぐにヘルメスの肩から剣をぶら下げるためにかけてある紐のことを思い出します。当然ですが、このベルトは体やマントの後ろを通っているので完全には描かれていません。しかしそれはそうなのですが、重要なのは背中を通っている影がまるで塗り残しのように描かれていることです。これが不完全なベルトです。つまり、κυλλός と ἡνία が一緒になった κυλλήνιος となります。ベルトがそれ一つだけでこの単語を表せれば、不完全なブーツを使う必要はなくなりました。まとめると、「不完全なベルトを提げたヘルメスを讃えよう!」となります。

cinghia

Ἀργειφόντην,

これはアルゴスという百目の怪物を退治したの武勇伝からくる彼の異名です。これも対格です。アルゴスはたくさんの目を持っているために死角のない怪物だったのですが、ヘルメスは笛を吹いてすべての目を眠らせ殺しました。この言葉の描写がこの絵の中にもあるわけです。しかしそのままの形ではおそらく見つからないでしょう。

ここで原義通り単語を分解します。ἀργος「アルゴス」 と φονεύς「殺人者」 です。ἀργοςの意味を調べると、いくつかの意味があって、その中に形容詞でsplendente「輝く」、lucente「光る」、rapido「素早い」、bianco「白い」というのがあります。メルクリウスのそばに何か白く輝いているものを探すと、頭上の雲状のものが見つかります。ハイライトがあって輝いています。雲が棚引いて見えるのもrapidoの意味も描かれているからでしょう。この形容詞ἀργοςを名詞化します。φονεύς の意味としてdistruttore 「破壊者」というのもあります。これは雲の形を壊していることになります。つまり、「白く輝くものを破壊する者を!」となります。

argos

 

こう解釈すると、この絵の中にἈργειφόντην としてのメルクリウスが現れます。それが分かって、ヘルメスの顔を見ると、唇を心持ち突き出し口笛を吹いているように見えてきます。笛の代わりに口笛というわけです。ヘルメスが手に持っているのは笛ではなく、カドゥケウスですが、これも眠りに誘う機能がありますからアルゴスと戦うには正しい武器です。彼がこの場でカドゥケウスを持っている必然性がここに見つかりました。普段の彼の持ち物ではないヘルメットも剣も彼が実は彼が戦闘中であることを示していたことになります。左上にはオレンジを掴んで逃げようとしている怪物にも見えてきます。雲のようなものにたくさんの目が描かれておらず普通の雲に見えてしまうのは、カドゥケウスと口笛のせいで目をつむってしまっているからなのでしょう。

whistling

 

Κυλλήνης μεδέοντα καὶ Ἀρκαδίης πολυμήλου,

本来の意味は、「キュレネー山と羊の多いアルカディアの守護者を」なのですが、この内容も別の形で描かれているはずです。Κυλλήνης はさっきと同じように「不完全なベルトをした」とします。Ἀρκαδίης は属格です。そこでイタリア語の名詞 arcadia の形容詞形 arcadico の意味を調べます。すると、「アルカディアの」、「牧歌的な」、「アルカディア派の」という意味の次に、「気取った、技巧的な、わざとらしい」という意味があります。現代のイタリア語だと lezioso、 manierato の意味です。この語がヘルメスの不自然な姿勢を表す言葉であると解釈することにします。この絵が描かれた時点で manierato にこの意味があったかどうか微妙ですが、マニエリスムに通じる姿勢であることはあきらかでしょう。

πολυμήλου は「羊の多い」というアルカディアを形容する言葉ですが、この絵にはどう見ても羊はいないので、別の解釈をします。この語は πολυς 「多い」 と μήλον 「羊」 の合成語です。μήλον の他の意味を調べると、pomo、mela とあり、「リンゴ、リンゴのような果実」という意味です。まさにこの絵の中にはリンゴのように丸いオレンジがたくさん実っています。したがって、まとめると「不完全なベルトをした、わざとらしい、たくさんの果実のある場所の番人を!」と解釈できます。

ἄγγελον ἀθανάτων ἐριούνιον,

本来の解釈では、対格単数の名詞 ἄγγελον 「伝令」、対格単数の形容詞 ἐριούνιον「恩恵をもたらす」、複数属格の ἀθανάτων 「神」は複数属格で、合わせて、「恩恵をもたらす神々の伝令を!」となります。これを絵の中に探してみましょう。

ἄγγελον には伝令や天使の意味がありますが、これは彼のブーツの翼が表しているとします。属格 ἀθανάτων とくっつけて、ここで区切って、「神々の伝令者を!」とします。ἐριούνιον はヘルメスの呼び名の一つで「恩恵を与えるもの」ですが、このイタリア語での意味は benefattore となります。意味はもちろん、そのまま「恩恵を施す人、恩人、後援者」です。この恩恵を施すというのが絵の中では分かりません。しかしこの綴りをよく見てみると bene と fattore に分けられることに気がつきます。bene は「善」で、fattore は「創作者、製作者、農地管理人」です。アルゴスからオレンジを守っているわけですから、「果樹園を立派に管理する者を!」となります。

ὃν τέκε Μαῖα,

ὃν は単数男性の関係代名詞で、対格です。先行詞は Ἑρμῆν です。関係節の動詞は τίκτω のアオリスト三人称単数です。関係節の意味は「マイアが(彼を)産んだ」となります。この主語のマイアを形容する付加語がしばらく続きます。

Ατλαντος θυγάτηρ,

これは、そのまま「アトラスの娘」と訳します。プレアデス姉妹の父はアトラスなので問題ありません。

Διὸς ἐν φιλότητι μιγεῖσα,

マイアを説明する言葉が続きますが、これからは前回の内容の簡潔な言い換えになります。ここは第8歌と全く同じです。前回の考察を省略して結論だけを書くと、「愛の中で神を宿した」となります。

αἰδοίη:

これも第8歌と同じです。形容詞 αἰδοῖος の女性単数の主格です。「尊敬に値する」という意味とともに、「恥ずべき」とか、「内気な」という意味がありますが、威厳のあるローブをまっとっていることなどから、最初の意味で解釈します。他の神々から一歩引いている様子が「内気さ」を表していると言えなくもないですが、あまり明確な表現ではありません。

μακάρων δὲ θεῶν ἀλέεινεν ὅμιλον,

これは第8歌と動詞だけが違います。アオリストの ἠλεύαθ᾽ から未完了過去 ἀλέεινεν に変わっています。こちらの方が過去の習慣をあらわせるので、物語の表現としてはいいのですが、絵の表現の解釈としてはちょっと難しくなります。今までの解釈において、ボッティチェリの絵では、imperfetto 未完了過去は、字義通り不完全な描写で表している例をいくつも指摘してきました。これはちょっと難しいです。

今回も絵をよく観察して、一つ解決策を見つけました。中央の女神のマントの裾です。彼女が完全に神々を避けているのならば、裾も重ならないように描くでしょう。しかし絵では不完全 imperfetto です。これで未完了過去を表しています。完全に離れているべきなのに、右側の集団の連なりに中央の女神もつながってしまっています。まとめると、「幸福な神々の一つの集団を不完全に避けている。」となります。

throng

ἄντρῳ ναιετάουσα παλισκίῳ:

この文では、動詞 ναίω がほとんど同じ意味の ναιετάω に変わっています。また場所を表している言葉が、前置詞句を使っていたものが、処格的与格の παλισκίῳ ἄντρῳ になっています。 「陰をなす空洞のところにいる」となります。

ἔνθα Κρονίων νύμφῃ ἐυπλοκάμῳ μισγέσκετο νυκτὸς ἀμολγῷ,

これは完全に第4歌にある文と一致します。これも時制は未完了過去です。本来の意味では、過去の習慣を表しいて、逢瀬を重ねたことを表していますが、やはり今回も絵の中では不完全な出来事を表していると考えられます。μίγνυμι は mescolare 「混ぜる」や unire 「結びつける」の意味です。この動詞が不完全だということになります。例えば、混ざり合うことなく胎児のように独立した姿でお腹の中にいると考えれば成立します。これはマイアが妊婦のように描かれることによって明確に描写されています。「その場所で真夜中にクロノスの息子は巻毛のニンフの中で不完全に混ざり合っていた。」となります。

次の文は Ἥρην の前で区切ります。

εὖτε κατὰ γλυκὺς ὕπνος ἔχοι λευκώλενον:

ὄφρα から εὖτε に接続詞が変わっているだけです。こちらには whenever の意味があります。「甘い眠りが白い腕の者をとらえたときは」となります。上の主節が成り立つ条件です。

Ἥρην λάνθανε δ᾽ ἀθανάτους τε θεοὺς θνητούς τ᾽ ἀνθρώπους.

これは同じ動詞が分詞から未完了過去に変わっています。これも絵の中では不完全な描写のはずです。「9柱の不死なる神々だけでなく、死すべき人間たちにも不完全に気付かれなかった。」となるでしょう。つまり誰かに気付かれているわけですが、これは誰でしょう。今まで通り絵の中に描かれていると考えるのが自然でしょう。誰かがこうして謎を解いてしまったら、その解答を読んだ人も含めて、不完全が成立します。しかしそれはこの絵の中の時間ではありません。

では絵の中で誰が知っているでしょうか。それはマイア以外にいないでしょう。他の人物の視線や仕草を見てもはっきりと彼女のお腹に意識を向けている者は描かれていません。そうならば神を宿しているマイア本人以外に可能性は残っていません。マイアはとても壮麗なマントを身につけています。それも自分の体というよりは、お腹に対して巻いています。そのマントの色が表と裏で違っていることが2つのものが1つになっていることを示していると考えられます。それをマイアが自分の手で押さえ身につけているので、これで彼女がこの事実を知っているとみなせるでしょう。赤い面はマイア、青い面がユピテルを表していることになります。妊婦なのでお腹に意識を向けるのは当然かもしれませんが、ここまで注意深く描かれた絵の中でわざわざ裏表で色の違うマントを使う意味は一つしか考えられません。

ここから最後まで、ヘルメスを讃える内容に戻ります。

καὶ σὺ μὲν οὕτω χαῖρε,

これはそのままでヘルメスを讃えます。「そしてあなたに幸あれと願う!」。

Διὸς καὶ Μαιάδος υἱέ:

これもまったくそのままでいいでしょう。「ゼウスとマイアの息子よ!」

σεῦ δ᾽ ἐγὼ ἀρξάμενος μεταβήσομαι ἄλλον ἐς ὕμνον.

「私はあなたの歌を始めましたが、次の歌に移りましょう。」という意味ですが、これではこの絵の描写にはなりません。似た文章は『アフロディーテ讃歌』にもありました。それでは ἄλλης ἀοιδῆς を奇妙な塗り方の角のことであると解釈しました。ἀοιδή のイタリア語訳 canto 「歌」に別の意味「角、片隅」 があったからです。ὕμνος はイタリア語だと inno 「賛歌、賛美歌」という訳になります。ὕμνος には他にlode 「賞賛、賛美」という訳もあります。このlode には古い用法に「手柄、勲功」という意味があります。これはまさに今回この讃歌の中に見つけた Ἀργειφόντην の奇妙な描写のことでしょう。

ἀρξάμενος は「先頭にいる、導く」といった意味の ἄρχω のアオリスト分詞で、属格を目的語に取ります。ここではヘルメスを示す属格人称代名詞の σεῦ を目的語に取り、「あなたを先頭に置きましたが、」となります。μεταβήσομαι は μεταβαίνω 未来形とみなすべきでしょうが、躊躇を表す接続法アオリストとして考えます。イタリア語の訳は trasportare とし、さらにその中の「翻訳する」とします。まとめると、「私はあなたを最初に置きましたが、そのとき奇妙な手柄に翻訳するか迷いました。」となります。最初の行に Ἀργειφόντην があることに合致します。

χαῖρ᾽.

先ほども出てきましたが、「幸あれ!」とします。その後に続く、ヘルメスを讃える言葉に対して発せられたものだと考えます。

Ἑρμῆ

これは本来は次の言葉と一緒に訳されますが、ここでは単独で訳します。呼格と考えて、「ヘルメスよ!」

χαριδῶτα,

これもヘルメスの称号の一つです。χαριδώτης はχαρά 「gioia」と δίδωμι 「dare」からなる言葉で、本来の意味ではイタリア語で「che da gioia」、日本語で「恵みを与える者」となります。しかし、これをもっとこの絵の描写に近づけた表現に変換してみます。χαρά には同じ形の違う意味の言葉があります。イタリア語ではcagna 「雌犬」ですが、ここではもちろん比喩表現とします。δίδωμι と接続法だと同じ形になる動詞にδίδημι、意味はlegare「結ぶ」があります。まとめると「尻軽女とつながっている者よ!」となります。絵の中では剣が二人を結びつけています。

legare

διάκτορε,

これは διάκτορος の呼格単数です。イタリア語で messaggero 「使者」という意味と、che assiste という意味があります。assistere はラテン語 assisto に由来する単語で「近くに立つ」という原義があります。これを使って、「寄り添っている者よ!」と解釈します。この絵でメルクリウスは三美神に寄り添うように立っているので、それを表す表現とします。

δῶτορ ἐάων.

δῶτορ は δώτωρ の呼格男性単数です。datore 「与える人」、dispensatore 「分配者、支配者」の意味があります。ἐάων は ἐύς の属格複数です。ἐύς の意味は buono です。したがって本来の意味だと「いくつもの良いものを与える者よ!」となります。しかしこれでは絵ではよく意味の分からない表現となります。ἐάων  は複数ですから「優しい者たち」と解釈してこの絵に描かれている三美神のことだとします。そしてdispensatore の意味を使って、まとめて「優しい者たちを支配する者よ!」とします。この絵でメルクリウスが三美神を誘導しているような描写やそれぞれの心を捕らえているような描写の根拠とします。

mercuriusandgraces

 

このように第18歌の言葉を全てこの絵の中に見出すことができました。未完了過去の文の変換などから、第4歌よりもこの短編をもとにしたほうが的確な描写になります。《ヴィーナスの誕生》も第6歌のすべての言葉を見出すことができたことから、《プリマヴェーラ》と《ヴィーナスの誕生》が特別な関係にある絵だと分かります。制作した時期までが同時期かどうかまでは分かりませんが、『ホメロス風讃歌』の歌を秘密裏に絵画化するという同じ目的で描かれた絵画です。

ボッティチェリと依頼人はこれらの絵の内容をはっきり知っていたのは当然でしょう。では他にその秘密は知っていた者はいるのでしょうか。ヴァザーリが『列伝』で報告していたように、この二つの絵は並べられて飾られていました。もしかすると、そこに集めた者は、この隠された事実を知っていて並べたのかもしれません。この二つの絵の関係は、近年研究が進むにつれて離れていってしまいました。ここでの分析でも一番重要な点だと考えられていたウェヌス(アフロディーテ)が描かれているという共通点を完全に否定してしまいました。しかしその結果、今まで見つからなかった、絵そのものが『ホメロス風讃歌』の歌を表すという明確な共通点が現れました。



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2013年03月10日

《春(プリマヴェーラ)》 女神の指輪

前回前々回の2回で、『ヘルメス讃歌』の古典ギリシア語を言葉を選びながら翻訳すると、《プリマヴェーラ》の中央の女神とメルクリウスの描写となることを示しました。

自分が書いたものを読み直してみると、新たに思いついたことがあるので補足しておきます。赤い文字が今回修正するところです。

Ἑρμῆν ἀείδω Κυλλήνιον, Ἀργειφόντην,
Κυλλήνης μεδέοντα καὶ Ἀρκαδίης πολυμήλου,
ἄγγελον ἀθανάτων ἐριούνιον, ὃν τέκε Μαῖα,
Ατλαντος θυγάτηρ, Διὸς ἐν φιλότητι μιγεῖσα,
αἰδοίη: μακάρων δὲ θεῶν ἀλέεινεν ὅμιλον,
ἄντρῳ ναιετάουσα παλισκίῳ: ἔνθα Κρονίων
νύμφῃ ἐυπλοκάμῳ μισγέσκετο νυκτὸς ἀμολγῷ,
εὖτε κατὰ γλυκὺς ὕπνος ἔχοι λευκώλενον Ἥρην:
λάνθανε δ᾽ ἀθανάτους τε θεοὺς θνητούς τ᾽ ἀνθρώπους.
καὶ σὺ μὲν οὕτω χαῖρε, Διὸς καὶ Μαιάδος υἱέ:
σεῦ δ᾽ ἐγὼ ἀρξάμενος μεταβήσομαι ἄλλον ἐς ὕμνον.
χαῖρ᾽. Ἑρμῆ χαριδῶτα, διάκτορε, δῶτορ ἐάων.

Διὸς ἐν φιλότητι μιγεῖσα という分詞節ですが、この中に φιλότης 「愛」という言葉があるのにそれを活かさないのはもったいないことに気がつきました。案の定、辞書で調べてみると大文字化した φιλότης はエロス(クピド)のことも表します。そう、中央の女性のすぐそばにいる彼です。いままでは「愛の中で」という意味で解釈しましたが、ἐν を presso (at) の意味で解釈して、「エロスの近くで」と訳します。この節をまとめると「エロスの近くでゼウスと一つになっている」となります。

cupidandmaia

この節こそが、絵の中にクピド(エロス)が存在する理由となります。同時に、この女神がいる場所の目印としてクピドが描かれている根拠となります。通説では、クピドを従えていることが彼女がウェヌス(ヴィーナス)である数少ない根拠の一つでしたが、その根拠も否定できるようになりました。

以前、三美神の解釈のとき、三美神のAmor 「 愛」を指し示すためにクピドが存在するとしました。しかしクピド自身の存在に典拠があるのなら、それに越したことはありません。これですっきりします。この讃歌によりメルクリウスとマイアとユピテルとクピドがこの絵に登場し、それらの神々の存在を利用してフィチーノの三美神を配置していることになります。

 

次に、以前中央の女神が花嫁のような薄いベールを頭にしていると書いていましたが、その根拠となる言葉がこの中にありました。それは、νύμφη です。この言葉にはギリシャ神話に出てくる女性の精霊としてのニンフの意味の他に、fidanzata 婚約者、sposa 花嫁といった意味があります。中央の女神だけにベールが描かれているので、この言葉 νύμφη を表すためにベールを描いた可能性を言うことができるでしょう。

さらに、中央の女神の小指をよく見ると指輪があるのが分かります。グーグル・アート・プロジェクトは素晴らしいですね。

ring

小指が襞の中に隠れているので、気をつけて見ないと分からないでしょう。今回、花嫁というキーワードが見つかったので、念のために彼女の指を見てみたら、運良く見つけられました。左手の小指にしていることに意味があるかどうかは、当時のフィレンツェの風習を調べてみないと分かりません。それよりも見たままの、彼女が婚約指輪か結婚指輪をしているという事実で十分でしょう。指輪が見えにくいのも彼女の意思を描いていると考えていいでしょう。

彼女が花嫁ならば、αἰδοίη という言葉の解釈を変えなくてはいけません。この言葉には「尊敬に値する、恥ずべき、内気な」という意味があります。以前は装飾品から「尊敬に値する」という意味を選びましたが、花嫁でありながら、お腹が大きいというのならば、「恥ずべき」という意味が相応しいでしょう。しかし、このような意味になるように描いてはいますが、侮蔑する意図はないでしょう。

 

さらに読み直してみると、 νυκτὸς ἀμολγῷ の意味がちょっと物足りないのに気がつきました。これは未完了過去の文ですが、ボッティチェリの絵では、不完全な出来事を描いた絵の中のその時でなくてはいけません。真夜中というのはこの絵の場面ではありません。ですから、この言葉 νυκτὸς ἀμολγῷ も他の意味にできた方が美しくなります。

νυκτὸς  は νύξ 単数女性属格で普通は notte「夜」ですが、他に oscurita 「暗いこと、暗がり」、tenebra 「闇、謎」などの意味があります。ἀμολγῷ は ἀμολγός の単数男性与格で「牛乳の容器」という意味があります。中央の女神のそばで牛乳のようなもの、容器のようなものを探すと、頭上のクピドの弓のところにある白い細い雲が見つかります。これは弓と、その下の三角のシルエットと、注ぎ口のようなものなどいろいろ合わさった異様な容器からこぼれている牛乳に見えなくもないです。このあたりの葉っぱのシルエットをよく見ると、つじつまの合わない形がちらほら見えます。特に白い帯の上には、気付いてくれと言わんばかりに、他のどこにも接していないシルエットがあります。この黒いものは牛乳の流れに乗っているかのようです。ここには何か意味がありそうな奇妙なものがあります。tenebra の意味を使って、「謎の牛乳容器」と訳しましょう。ἀμολγῷ は与格なので、これを場所を示す処格的与格と解釈して、「謎の牛乳容器の近くで」とします。まとめると、「謎の牛乳容器が近くにあるそこで、クロノスの息子は巻毛で飾られた花嫁と不完全に一つになっていた。」となります。

secchia

 

この解釈では、この作品はマリアの受胎を連想させるものになっています。Zeus がギリシャ神話的にもキリスト教的にも解釈できる言葉であることを利用しています。一方マイアは長い方の『ヘルメス讃歌』では πότνια Μαῖα と呼ばれ、これはイタリア語で regina madre となり、イタリア語の聖書ではマリアの呼称の一つとなっています。典拠の言葉からもはっきりと異教の神々を使ってキリスト教の世界を描こうという意図のあることが分かります。異教の神々ですから、自由な表現は許されるのでしょうが、それでも信仰に関することですから、大っぴらにこの絵の意味を言えなかったであろうと考えられます。



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2013年03月18日

《春(プリマヴェーラ)》 空色のゼフュロス

《プリマヴェーラ》を言葉遊びを使って解釈しようとするシリーズの続きです。今回はどうしてゼフュロスが青いのかについて考えてみました。

caelestes

きっとゼフュロスが青いのも何らかの言葉遊びに違いないと予想します。いろいろ「典拠」と思われるものを読んできて今まで気付かなかったので、これも本来とは違った意味を選ばないといけないのだと思います。

方針としては、まずイタリア語で青い意味の単語にどんなものがあるか調べて、さらにその語源となるラテン語が今まで出てきた「典拠」にないか調べてみます。見つからなければ、また別の方法を考えましょう。

google 翻訳では単語だけを入れると、必ずではありませんが、辞書代わりに使えます。入力側を日本語にしてそこに「青い」を入れて英語で出力すると、右の枠の下にいくつかblueとかunripeとか候補が出てきます。しかし、入力側を日本語のままにしてイタリア語を出力にすると枠の中は単にbluだけでしか出てきません。そこで入力を英語にして「blue」と打って、出力をイタリア語にすると、右枠の下に候補が次のように出てきました。

blue

blu,zaaurro,celeste,turchino,…

これは!この中に見覚えのある単語があります。正確に言うと見覚えのある単語に似たものがあります。

下のラテン語の文章は、『祭暦』の5月2日で、三美神(カリテス)が現れて、花冠を編み、神々しい頭に花冠を載せようとしている様子を記述した文章です。この文章を思い出しました。

protinus accedunt Charites nectuntque coronas
sertaque caelestes implicitura comas.

ここにある caelestes (見出し語形 caelestis )です。celeste と caelestis とは綴りが微妙に違いますが、子音の配置がよく似ています。辞書で確認すると確かに語源です。羅伊辞典でも caelestis の最初の意味として celeste があります。

ラテン語では、「天空の、神の」といった意味だけで色としての用法はないようですが、イタリア語の celeste には名詞として「空色」、形容詞として「空色の」という意味があります。まさに、ここに描かれているゼフュロスの色です。風の神が空色をしていると考えれば、なんとか納得ができます。

ラテン語の文では形容詞として使われているので、ここでも形容詞として「空色の」と訳すことにします。しかしここを単純に置き換えて翻訳が可能かというと、そうはうまくいきません。この絵のゼフュロスの姿を見ても、花冠を空色の髪に結びつけている様子は描かれていません。この文章の他の単語も意味を置き換えていく必要があるでしょう。

caelestes のそばには implicitura ( 見出し語形 implico )があります。この語の意味は、包んだり、巻き付けたり、まぜあわせたりすることです。これはその未来分詞です。絵の中の空色のものを眺めてみると、この implico の意味が見えてきます。空色のマントはゼフュロスの体に巻き付いています。空色の肌のゼフュロス本人もフロラの体に手を巻き付けています。しかしなかなかいい発見だと思いましたが、それ以上訳を展開させていくことができません。そもそも未来分詞らしい表現になっていません。

今度はゼフュロスの髪を見てみます。棚引いているその髪の続きにちょうど翼が描かれています。見ようによっては、髪と羽がごっちゃになって描かれています。この空色の髪も翼も、混ぜ合わせるという implico の意味がここに描き込まれていると考えることができます。comas 単数主格coma) 「髪」のイタリア語訳 chioma の古い意味には兜などの「羽根飾り」があります。つまり髪としての comas がいつのまにか、羽根飾りとしての comas に入れ替わり、言葉としてごっちゃになっている様子が絵に描かれていると考えることもできます。さらに、coma の意味として植物の「葉」という意味もあります。この絵では、髪も翼も木々の葉が覆いかぶさって、ごちゃごちゃになっています。細かく見ると羽根が葉のように描かれたり、葉が空色になっていたり、この点においても混ぜ合わせるという意味での implico になっています。次の切り抜きはcomas(髪)とcomas(羽根飾り)とcomas(葉)が混ぜ合わさっていると解釈できるところです。

comas

しかし、やはりここで implicitura が未来分詞であることが問題になってきます。主動詞が現在形なので、これから起ころうとすることを表現しているはずなのですが、この混ぜ合わせていることは今起きてしまっています。他にどこか未来分詞らしい描写があるはずです。

それにしても、この解釈で分かった comas が羽根飾りと訳せることは素晴らしい発見でした。翼の先が、一枚一枚の羽根に分かれて描かれているのは、以前から奇異には思っていましたが、その理由が、翼ではなく飾りの羽根として描かれているのならば納得できます。ゼフュロスのこの翼の先はおかしいです。《ヴィーナスの誕生》の彼の翼と比べても分かります。先ほど、髪が羽根飾りにすり替わっているとした両者が接続された描写は、頭の飾りだと見せるためにそう描かれたと考えればいいでしょう。ただの翼では comas にはなりません。髪の後ろに立てるように描くことで、この翼は comas と呼べるようになります。もちろん、木々の葉が comas と呼べることも重要です。木々の葉はゼフュロスのところにだけあるわけではありませんが、わざわざ髪と翼の上に葉を描く理由が何かあるに違いありません。

ところで、この絵のほとんどの木には見事なオレンジ(黄金のリンゴ)が実っています。しかしゼフュロスがいる画面の右側、全体の四分一にはオレンジは見当たりません。何もないかというとそうではありません。暗い木の葉の茂みだけのように見えますが、くすんだ黄色の何かが描かれています。クルミの実のような丸いものが集まったものと杉の花のようなものが描かれています。どうしてこんなものがゼフュロスの周りにだけに描かれているのか、今まで理由はよく分かりませんでした。しかし、杉といえば、マイアの住んでいたキュレネーは『祭暦』においてcupressiferae Cyllenes 「糸杉の繁るキュレネー」と形容される場所でもあります。マイアがいるこの絵の中では、ゼフュロスの後ろにある木は当然、糸杉で、丸いものはその実、房状なのは花と考えていいでしょう。

ここの描写もまさに cupressiferae (見出し語形 cupressifer )が描かれています。 cupressifer は cupressus 「糸杉」と動詞 fero の合成語です。動詞 fero にはたくさんの意味があるので訳しにくいのですが(OLDだと39項目)、植物が対象であるときは英語だと bear の意味で考えてよく、「花が咲く、実をつける、葉をつける」という意味になります。つまり、cupressiferae Cyllenes は「糸杉が葉を茂らせ花と実をつけているキュレネー」となり、この絵の右上の描写になります。

(次の画像は細部がよく分かるように明るさを上げたものです。)coronasserta

ここで本来の解釈で花冠と訳されている corona と serta を詳しく調べてみます。corona は冠やリースのような円形の飾りです。serta は corona とほとんど同じで意味で使われていますが、語源の動詞 sero を意識すると、編んだり、つなぎ合せたりしてひと続きになっている飾りとなります。もちろん最初と最後を閉じて輪にしてしまえば花冠になるので、これは本来の解釈の意味に反しません。しかしさらに sero の意味を調べてみると、面白いものが見つかります。語源になった動詞 sero の意味は intrecciare 「編む」ですが、これとは別に現在形は同じ活用で、過去形などが違う活用をする別な動詞 sero があって、これは seminare 「種をまく」などの意味があります。比喩表現としては、spargere 「撒き散らす」があります。この意味は使えます。

この意味を踏まえます。円形をしている杉の実はすぐに corona を表している「丸いもの」と考えられます。そしてもう一方の杉の花は花粉をまき散らすものですから、わざと語源をもう一方の sero に間違えてると、serta を「撒き散らすもの」と考えることができます。こうすると、この絵の中にも coronas と serta が配置されていることになります。

さて、今度は未来分詞 implicitura について考えてみます。この分詞は本来の意味では熟語 sertis implicuisse comas 「頭に花冠を載せている」の一部です。本来は setum がこの句に含まれていますが、上記のように serta は coronas と一緒に使われていると考えられるので、従って意味のまとまりの可能性は caelestes implicitura comas もしくは implicitura comas もしくは caelestes implicitura となるでしょう。

今まで見てきたように、この絵のゼフュロスの回りには、動詞 implico を連想させる動きが繰り返し現れています。また comas と呼べるものも何種類か存在しています。後は implicitura の解釈です。動詞 implico の意味は先ほども書きましたが、巻き付ける、包む、混ぜ合わせるなどがあります。問題は未来分詞らしく表現されている箇所の存在です。一か所でもそのような描写があれば、かえって変化しつつある状況が表現されているとみなせるでしょう。

改めて、ゼフュロスの回りを詳しく観察してみます。

caelestes

絵を見てみると、空色のゼフュロスの手前にある、2本の月桂樹が極端に湾曲し倒れかかっています。フロラの視線も旦那にではなく、この木へ向けられていると考えるとより劇的になります。アポロンと結び付けられている月桂樹の葉も caelestes comas と呼ぶことができます。この2本の木を眺めてみると、この木々の葉が髪と翼に巻き付くように描かれているのが分かります。木々は明らかにゼフュロスの方へと曲がっています。この後さらに曲がっていけば、この木々の葉は髪にも翼にも巻き付き、絡みついてしまうでしょう。このように考えるとこの2本の木の描写は未来分詞 implicitura を踏まえたものであると解釈できます。またこの月桂樹の葉が caelestes comas であるならば、後ろにある糸杉の葉も caelestes comas と呼べるでしょう。なぜならこの絵ではマイアの住む場所として出てきますが、この木は同じくオリンポス12神の一人であるアルテミスの神木でもあります。この木の葉もぎっしりと描きこまれ混ぜ合わされた表現になっています。

さて、この文章の動詞はというと、nectunt ですが、これは necto の三人称複数現在形で、「つなぐ、くっつける」の意味です。本来ならば三美神が主語となるはずですが、この絵では違います。先に示したように、coronas と serta が杉の実と杉の花となるのならば、この主語は糸杉そのものとなるはずです。しかし、この文章の中に糸杉という言葉はありません。そこで、分詞句 caelestes implicitura comas を主語とみなします。implicitura は本来は奪格単数と解釈されていますが、ここでは同じ形の主格複数と考えれば可能です。つまり「神の葉を混ぜ合わせようとしているもの」と考えれば、糸杉を表せます。その代わり、手前の月桂樹の木々も主語になってしまいます。つまり、月桂樹にも coronas と serta が必要になります。この木にそんなものあったでしょうか。そこで、月桂樹の木も注意深く見てみると、丸い黒い実と、落ちそうな黄色い葉が描かれていることに気づきます。確かにこれも coronas と serta とみなすことができます。手前の月桂樹もこの文の主語となる資格をちゃんと持っていました。

この部分をまとめると、「空色の髪や空色の羽根飾りや神々しい葉を混ぜ合わせようとしているもの(糸杉と月桂樹)たちは、丸いものや撒き散らすものを(自分自身に)くっつけています。」となります。

最後になりましたが、後半の意味が分かったので、最初の部分をこの状況に合わせて解釈します。「protinus accedunt Charites」は本来は Charites が主格ですが、この絵では対格とします。そして主語は、この絵の中に追加された3人、ホーラ、クロリス、ゼフュロスとしまう。「彼らは続けて三美神に近づいています。」と解釈します。前の文で、ホーラ、クロリス、ゼフュロスの配置などの描写が記述されていましたが、この文で、さらに彼らの動きの方向を示しています。

今回対象になったラテン語全体を訳すと、「彼ら(ホーラ、クロリス、ゼフュロスの三人)は続けて三美神に近づき、空色の髪や空色の羽根飾りや神の葉を混ぜ合わせようとしているもの(糸杉と月桂樹)たちは、丸いものや撒き散らすものを(自分自身に)くっつけています。」となります。日本語では意味の分かりにくい文章ですが、ラテン語で書くと、簡潔な「protinus accedunt Charites nectuntque coronas sertaque caelestes implicitura comas」です。

たった9つの単語の解釈でしたが、内容を理解するのに恐ろしく多くの言葉が必要になりました。三美神の行動を表しているはずのラテン語の文が、ゼフュロスの描写を表しているなんて思ってもみませんでした。しかし、celeste が空色だと分かってしまうと、このゼフュロスの周りの描写は、この文を表しているとしか考えられなくなりました。ゼフュロスの後ろの木々にオレンジが無いのは、代わりに糸杉の花や実が描くためでした。糸杉の葉が必要以上に重なり合っていることも、ゼフュロスの髪と翼が空色であることも、手前の2本の月桂樹がゼフュロスの方へ湾曲していることも、月桂樹の実が存在を誇示していることも、月桂樹にわざわざ黄色い葉が描かれていることも説明できます。2本の月桂樹がそれぞれ髪と翼に触れようとしている理由はラテン語にはありませんが、この文の単語のイタリア語訳が髪と羽根飾りのどちらにも訳せるという解釈しか成り立ちません。ゼフュロスの翼の先がありえない形になっていて羽根を一つ一つ描かれているのは、これが羽根飾りとして描かれているとしか説明できません。これらの意味になるように選んで訳したのですから当然ですが、『祭暦』のこの場所にある9つの単語からこれだけの情報が導きだせることに重要な意味があります。

ゼフュロスの奇妙な色については、昔からいろんな解釈が試みられてきました。しかし、ここに深い暗示などありませんでした。これはゼフュロスの体にある comas に caelestes という属性を付加するために描かれたものにすぎませんでした。



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2013年04月02日

《春(プリマヴェーラ)》と『祭暦』

《プリマヴェーラ》の描写と『祭暦』の記述との関係は19世紀末から指摘されていたことです。その5月2日の記述にこの絵の9人中6人が描かれています。ホーラの口からバラの息を出す記述はこの絵の描写を十分連想させてくれます。しかし、この絵の主役であるはずのヴィーナスがいないことや、完全な一致が見られないことなどから、ほんの少し参考にした程度で、出典そのものだとは考えられてきませんでした。

しかし、このように『祭暦』の記述を言葉遊びによって変換すると、この絵の描写を導き出すことができました。以前も花柄の服を着た女性が一人きりの季節女神ホーラであることを同様に『祭暦』の文章の言葉遊びから説明しました。

当然、他の記述もこの絵の描写に変換できないか考慮する価値があるでしょう。実のところ、ホーラが一人であると解釈した頃いろいろ挑戦してみましたが、そのときは難しすぎて解けませんでした。でもこの前の解釈で十分確信が持てたので、再度『祭暦』の5月2日の記述を解釈することにしてみました。

該当する部分は『祭暦』の第5巻213-228です。この部分が意味的に一つの段落になっていて、ゼフュロスから婚資に贈られた庭園の美しさを記述してあるところです。

saepe ego digestos volui numerare colores
nec potui: numero copia maior erat.
roscida cum primum foliis excussa pruina est,
et variae radiis intepuere comae,
conveniunt pictis incinctae vestibus Horae
inque leves calathos munera nostra legunt.
protinus accedunt Charites nectuntque coronas
sertaque caelestes implicitura comas.
prima per immensas sparsi nova semina gentes!
unius tellus ante coloris erat.
prima Therapnaeo feci de sanguine florem,
et manet in folio scripta querella suo.
tu quoque nomen habes cultos, Narcisse, per hortos,
infelix, quod non alter et alter eras.
quid Crocon aut Attin referam Cinyraque creatum,
de quorum per me volnere surgit honor?

この部分の日本語での内容を高橋宏幸氏訳の国文社刊『祭暦』から引用すると次のようになります。

何度も私は、いったい何色あるのかと、並んだ花を数えたいと思いましたが、できませんでした。数が及ばないほどたくさんだったのです。朝露の滴が葉からこぼれ落ち、色とりどりの草花が日の光に暖められるや、ただちに彩り鮮やかな衣を身にまとった季節女神ホラたちが集まり、私からの贈り物を籠に摘んでゆきます。それにすぐさま優雅の女神カリスたちも加わって、冠を編み、編んだ冠を神々しい髪に結ぼうとします。私がはじめて数え切れないほど多くの民族のあいだに新しい種子を蒔き広めました。それ以前の大地にはただひとつの色しかありませんでした。テラプネの町の美少年の血から咲かせたのも私が最初です。それで嘆きの言葉が花びらに残っているのです。ナルキッススよ、あなたの名も丹精した庭に見られます、おまえ自身がおまえと別人でないおまえの相手となった不幸な者よ。クロコスやアッティス、それにキニュラスの息子のことをどうして語る必要があるでしょう。彼らの傷を讃える花は私の力で育つのです。

このままではカリスたち(三美神)ぐらいしかこの絵の描写に生かせる部分はないでしょう。

このラテン語を、この絵に合うように言葉遊びをして訳してみると次のように変換できます。以前訳した部分もありますが、それも少し修正しています。

度々私は撒き散らした物をひっくり返したので、
色を数えることができませんでした。大げさな大きな写しが不完全にあります。
まず複数の葉とともに露のある場所に白髪があります。
あらゆるcoma(髪、葉など)が枝によってぬるく(冷静に、冷たく)なりました。
ホーラの飾られた服に巻き付けられた物が集まっています。
彼ら(ホーラと胎児)は粗末な帯や急拵えの籠に私たちの贈物を集めています。
神聖な(空色の)comas(髪、葉、羽根飾りなど)にかぶさろう/混ぜ合わそうとしている物が、丸いものや散らばる物をくっつけています。
私は新しい若木を無数のつぼみとともに撒き散らしました。
一つの色で着色された表面が不完全にあります。
まず、メヒシバ(sanguine)のところでスパルタ人(ヒァキントス)の花を咲かせました。
そしてその葉のところには嘆きの言葉が残っています。
うぬぼれやさん!あなたもまた飾られた庭という名のものを持っています。
それは何も生み出しません。あなたはあなた以外の者ではありませんが、同時にあなた以外の者になっています。
私がクロッカスやアッティスから作り出したかもしれないもの(サフラン/クロッカス、スミレ)、そしてキュラニスの息子(アドニス/フクジュソウ)、
それらのめしべのところで尊敬する人は私とともに飛んでいます。

これだけではわかりにくいですが、こう訳すと絵の描写を説明できるようになります。詳しいことは後日書きますが、この中でとくに重要なものをいくつか上げておきます。

 

roscida cum primum foliis excussa pruina est

pruina は白霜のことですが、詩的表現では白髪という意味もあります。この絵の中で白髪の者はいません。しかしそれぞれの頭を見ていくと、クピドの目隠しの帯が頭の後ろで揺れていて白髪のように見えます。そして彼の顔の周りに露のような丸い小さな塊が描かれています。他の場所には白い小さなつぼみが描かれていますが、特にこの場所のものが球形になっていて、葉に付いている本物の露として描かれているように見えます。

この訳は次のようにしました。「まず複数の葉とともに露のある場所に白髪があります。」

pruina

 

inque leves calathos munera nostra legunt.

これは以前訳したものですが、主語を修正します。中央のマイアが妊娠しているという結論を先日導いたので、ホーラのお腹も無視することはできないでしょう。バラの蔦でできた帯も、裾をたくし上げて作った籠も出っ張ったお腹を使って花を支えています。この文の動詞は三人称複数なので、ホーラとお腹の子どもの二人を主語にするとうまく解釈できるようになります。

このように訳してみました。「彼ら(ホーラと胎児)は粗末な帯や急拵えの籠に私たちの贈物を集めています」。つまりお腹が大きく描かれている理由は、記述の通りに主語を複数にするためだということになります。

それにしても左肘の内側にこっそりある焦げ茶色の物体は何でしょう。もっと解像度の高い画像があれば判別できるかもしれませんがよく見えません。僕の説を裏付けるにはこの物体も言葉遊びで解決できなくてはいけないのですが、現時点では分かりません。

munera

 

unius tellus ante coloris erat.

下の図はフローラの透明な服にある草の模様です。一見向こう側にある植物の影のように見えますが、ちゃんと見ると服に描かれている模様としか考えられません。ホーラの服に描かれているカラフルな模様とは対照的な存在です。存在さえ気付かれないかもしれません。さらによく見ると、右のふくらはぎの後ろに色の付いた花があります。これは隙間から地面にある花が見えてるだけかもしれませんが、未完了過去が示す不完全な描写だとみなしてもいいでしょう。訳は次のようにしました。「一つの色で着色された表面が不完全にあります。 」

uniuscoloris

prima Therapnaeo feci de sanguine florem,
et manet in folio scripta querella suo.

この2行は、ヒァキントスの血から花のヒアシンスが生まれたという神話を踏まえた記述です。《プリマヴェーラ》には確かにヒヤシンスが描かれています。この絵に描かれている植物について研究した Mirella Levi D’Ancona の著作『BOTTICELLI’S PRIMAVERA : a botanical interpretation including astrology, alchemy and the medici』でも確かに指摘されています。下の図は花柄の服を着た女神の進んでいく足先にあるヒアシンスです。

この文の sanguine は sanguis の単数奪格で、sanguis の意味は「血」の意味です。この絵を見回して血らしい描写が見つからないので、この単語の別の意味となるかどうか調べてみると、イタリア語の辞書に sanguine という単語があり、その意味の一つとして雑草のメヒシバがあります。そう言われれば、花の周りにはたしかに雑草が描かれています。なおこの植物は先のD’Ancona の研究には指摘は無いようです。本来の訳ではこの奪格は起点の意味で訳されていますが、この絵では奪格の別の用法である処格的な場所を示す意味で使われたと考えることができます。

次の行は本来の解釈ではそのヒヤシンスの花びらに嘆きの言葉が刻まれているという内容の文です。ヒヤシンスの花びらに字を刻むのは読みにくいとは思いますが、そういう神話になっています。実際、この花を見ても何も描かれてはいません。でも葉を見ると何か白い模様があります。下の白いバラを描くときに、筆がすべった後のようにも見えます。folio は folium の単数奪格で、folium の意味には「葉」という意味もあるので、葉に文字があるという解釈も成り立ちます。

この2行は次のように訳しました。「まず、メヒシバ(sanguine)のところでそのスパルタ人(ヒァキントス)の花を咲かせました。 そしてその葉のところには嘆きの言葉が残っています。 」

ところで、この嘆きの言葉は何でしょう。ヒァキントスの物語は、オウディウスの『変身物語』10巻の162行から219行に記述がありますが、215行目にこの言葉が書かれています。

ipse suos gemitus foliis inscribit, et AI AI

つまり、ラテン語でその言葉は「AI AI」です。葉のシミを見ると丸いものと棒状のものが描かれています。棒状のものはアイ「i」に見えなくもないでしょう。丸いものは、Aの小文字というよりは、オー「O」のように見えます。そこでイタリア語で感嘆詞を調べると、辞書には「Oh」や「Ohi」がありますが、「Ohi」の別表記として、「Oi」というのもあります。もう少し解像度の高い画像があればきっとはっきりするでしょうが、これは「OI」が描かれていると考えて間違いないと思います。

hyacinth

 

とりあえず、こんなところです。最後に紹介したヒアシンスの嘆きの言葉は、この絵が言葉遊びで描かれていることの分かりやすい根拠になるでしょう。分かってしまえば、それ以外に考えることはできません。

以上のように、『祭暦』の上記の部分を別の解釈にすると、《プリマヴェーラ》のいくつかの描写を説明できるようになります。



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2014年05月31日

ボッティチェリの神話画の解釈

プログラミングなどいろいろ書きかけていますが、以前から止まったままのボッティチェリの神話画の典拠の探索を再開します。再開するにあたって、いままでの整理を試みます。

対象としているのは、従来次のように呼ばれてきた作品です。《春(プリマヴェーラ)》、《ヴィーナスの誕生》、《ヴィーナスとマルス》、《パラスとケンタウルス》、そして神話が題材ではありませんが、《アペレスの誹謗》もそれに加えます。なお《》で囲むのは芸術作品、『』で囲むのは文学作品・出版物、「」は言葉の引用や強調としています。

始まりは《春》の登場人物への疑問でした。調べてみると中央の女神がウェヌス(ヴィーナス)である根拠が明確ではありません。そして右から2番目のニンフが3番目の女神へと変身している、つまりクロリスからフローラへの変身という解釈に納得がいきませんでした。

ウェヌスでなければ、中央の女神は誰なのかと考えて、その答えをメルクリウスの母マイアと推定しました。当時読んだばかりの『ホメロス風讃歌』に収められている『ヘルメス讃歌』に出てくるマイアの描写が中央の女神の印象と重なったからです。《ヴィーナスの誕生》が『ホメロス風讃歌』にある『アフロディーテ讃歌』の影響を受けているという話はよく目にすることだったので、実際どれくらい受けているのかを調べるためにこの本を読んだのですが、ついでに《春》に描かれているメルクリウスを知るためにその中にある『ヘルメス讃歌』を読んでおいたのです。そこに描かれているマイアは、巻き毛で、控えめで、美しい靴を履いています。ベールの下の髪は巻き毛のようにも見えます。彼女はウェヌスらしからぬ控えめな印象を与えています。そして有名なアトリビュートである翼の生えた靴を履いているメルクリウスは別として、この絵の中で中央の女神だけが美しいサンダルを履いています。わずかな根拠でしたが、彼女をウェヌスとするよりも、マイアとした方がうまくこの絵が説明できるように思いました。

この頃読んだ本は『ホメロス風讃歌』だけではありません。クロリスからフローラへの変身の根拠となっているオウィディウスの『祭暦』の該当する部分(5月2日)を読んでみました。確かにクロリスからフローラと名前が変わったことは書いていて、そう解釈もできなくもないのですが、フローラの庭園に季節女神ホーラたちと三美神が現れるという記述の方が興味深く感じました。季節女神は神話によって様々な役割がありますが、その中にそれぞれの季節を象徴する女神として登場する神話も存在します。つまり彼女たちの一人の春の女神だけが描かれていると解釈することもできるのではないかと考えました。何故複数ではなく一人だけなのかという謎は残りますが、花柄の彼女を春の女神と考えると、この絵の登場人物が中央上空のクピドを除いて『祭暦』の5月に出てくる神々となり、彼らがどうしてここに集まっているのかが説明できそうでした。ホーラたちがどうして一人だけなのか、どうしてここにクピドがいるのか、解決できない謎は残りましたが、今までの通説よりも筋の通った解釈のように感じました。今思うとこの考えは穴ばかりですが、しかし今でも典拠も人物の特定も間違っていないと思っています。この絵に疑問を持った極めて初期にこのことに気づけたことが、何よりも幸運でした。

『ホメロス風讃歌』、オウィディウスの『祭暦』『変身物語』、ルクレティウスの『物の本質について』。これらの作品がボッティチェリの神話画に影響を与えたのではないかという指摘は、再発見され不思議な内容を理解しようと研究が始まった19世紀から既にあります。実際原文を確かめてみると、絵の描写を思わせる表現が出てきます。しかしどうしても一致しないところが必ず現れます。しかたなく研究者たちはこう考えました。断片的にそれらの作品を取り入れて、後は画家ボッティチェリが自由に創作したものであると。その独創性がボッティチェリの神話画の独特な突飛な描写を生み出したのだと。しかし、神話の原典にある一致する描写の周辺にある一致しない記述に現れる単語の意味を調べていくと、その言葉そのものが特異な描写と解釈できることが分かってきました。複数のはずの季節女神が一人だけだったり、ゼフュロスが青い色をしていたり、メルクリウスがカドュケウスでかき回す白い霞だったり、お腹の大きな女神の描写もです。意味の分からないそのような不思議な描写を表す記述とすることができました。ボッティチェリは断片的にではなく、一言一句何一つ残さずにこの絵の中に描き込もうとしていたと推測できます。この奇妙な描写と描かれていない記述との対応は《春》に限らず、《ヴィーナスの誕生》《パラスとケンタウロス》や《ヴィーナスとマルス》等にも見つけることができます。

この仮説の問題点は、描写の箇所との対応や言葉の意味の解釈が恣意的にできてしまうことです。本当にボッティチェリがそこをそう描いたのかもしれないし、偶然そういう意味にとれるように解釈できてしまったのかもしれません。これは当事者たちの制作方針が文書として残っていない以上、本当のところは誰にも分かりません。ただ言えることはただの偶然では片付けられないほど連続して大量に対応させることができたという事実です。

現時点で、それぞれの絵画の典拠と人物は次のように考えています。
《春》は『ホメロス風讃歌』の『ヘルメス讃歌』とオウィデイゥスの『祭暦』の5月2日の部分、そしてフィチーノの『愛について』の第2巻第2章にある神と人との間にある円環の三つの呼び名についての文章です。これらの文章は何十年も前からその影響を指摘されていたもので、特に目新しいものではありません。これまでの人々の研究が決して無駄ではなかったということです。登場人物はというと、左から、Mercurius(頭上にいるのはArgos)、三美神(Pulchritudo、Amor、Voluptas)、Maia(お腹にいるのはZeus)、彼女の頭上にいるのはCupid(ギリシャ語Φιλότηςの意味がイタリア語Amoreなので)、Hola(お腹にいるのはMars)、Flora、Zephyrusです。三美神の並びはウィントの説とも、高階氏の『ルネッサンスの光と闇』に書かれた説とも違います。この絵の創作のきっかけはアルベルティが推薦する三美神で間違いないでしょうが、もはやそれは絵の一部分でしかありません。

次に、《ヴィーナスの誕生》ですが、これは『ホメロス風讃歌』の『アフロディーテ讃歌』とルキアノスの『海神たちの会話』にあるアフロディーテが海上で姿を表す部分です。前者は確実だと思いますが、後者の方は短すぎるので意味の一致が偶然なのか判別はつきにくいです。ただこの引用は海に現れるウェヌスが主題であることを示すために必要だと考えています。人物は左から、Zephyrus、Nike(勝利の女神)、Venus、Holaです。単語の解釈を絵に合わせて変えていくと、ウェヌスは虚ろな目をしているのではなく、手前にいるニケたちを見つめ、彼女の歌う勝利の歌に感動し胸に手を当てていると解釈できます。

《ヴィーナスとマルス》ですが、これはルクレティウスの『物の本質について』の冒頭部分、ウェヌスを賛美する言葉をまるまる絵にしたものだと解釈できます。また『アナクレオンテア』にある怪我をしたクピドの詩も元にして描かれています。『物の本質について』があれば『アナクレオンテア』の詩は必要ないかもしれません。しかし、この詩には蜂、蜂の針、指を怪我するといった言葉があります。男性の頭がさす方向に蜂が描かれ、男性の左手の指がさしている突き棒はギリシャ語の蜂の針と同じ単語で、そして男性の右手の指がさしている方向に指の傷があります。これらは意図的な配置にしか思えません。人物の特定ですが、人の姿をした女性と男性はそれぞれVenusとMarsで問題はありません。問題なのは子供のサテュロスたちです。彼らはウェヌスの子供たちです。兜をしたサテュロスはCupid、中央で槍を持っているのとほら貝を吹いているのが、DeimosとPhobosです。二つの言葉はとても似た意味なのでそれぞれどちらかの特定は難しいです。ほら貝を吹いている方はPanicという語の語源との関連があるので、当時のイタリア語でPanicの意味に近いほうがほら貝を吹いている方だと考えられます。そして、右下の方で鎧の中にいるのが娘のHarmoniaです。フォボスとダイモス、そしてハルモニアはウェヌスとマルスの間の子供です。フォボスとダイモスは観念的な存在ですが、ハルモニアにはカドモス王との結婚という物語があります。クピドは彼の特徴である、目隠し、尖ったもの(ギリシャ語では矢には槍の意味もある)といった従来のクピド像と共通点を持っています。クピドつまりギリシャ神話でのエロスは、アフロディテ(ウェヌス)が誕生する前までは愛を司る神でしたが、アフロディテが現れた後は彼女の従者となりました。そののちエロスをアフロディテの子供として記述する神話も見られるようになり、一般的にはクピドは幼児化され二人は母と子とみなされるようになりました。この子の毛の色がほかのサテュロスよりもウェヌスの髪の色に近いことや、この子にへそが描かれていないことで、マルスと血縁がないことや、特別な出生であることを示していると考えられます。ただこの絵が対抗している古代の作品はまだはっきりしません。

《パラスとケンタウロス》の典拠はオウィデイゥスの『変身物語』の第三巻にあるアクタイオンの物語と、パウサニアスの『ギリシア案内記』の第10巻第37章にあるプラクシテレスの作ったアルテミス像の描写がもとになっていると考えられます。従来、この女神はパラスつまりアテナと解釈されていましたが、そう考えていてはこの不思議な絵について何の説明できません。この女神はディアナ(ギリシャ神話ではアルテミス)です。そしてこのケンタウロスとして描かれているのはアクタイオンの祖父カドモス王その人です。アクタイオン自身の顔も壁のシミに見せかけて描かれています。何故カドモス王がケンタウロスとして描かれているかですが、彼をケンタウロスとして描くと、うまくこの一枚の絵の中にアクタイオンの物語が描きこめてしまうからというしかないでしょう。ボッティチェリは今まで見てきたように古代の名作を新たに作り出してきているのですが、この作品のモデルであるプラクシテレスのアルテミスは傍らにけだものを従えているのでその形式を踏襲するためにも彼を半獣にする必要があったのだと考えられます。この絵をよく見ると女神の横に何かの人物像が描かれています。消し忘れの下書きのようでもありますが、これは泉の精Gargaphie(ガルガフィエ)と解釈できます。この語はアクタイオンの物語では単なる地名ですが、その名前の元となったニンフとみなすとこの線画の像をうまく説明できます。こんな感じで、特に不思議な描写で満ちているこの絵の説明は女神をディアナとすることによってのみ可能となります。

≪アペレスの誹謗≫に関しては人物も同じで、典拠も従来通りルキアノスの『誹謗』の第5節です。ただ登場人物たちの不思議な描写もすべてこの文章からのものだということと、この作品の背景も、例えばシンバルを叩く人など、『誹謗』の他の節との対応が見られます。

以上がこれまでの考察で分かってきたことです。根拠となる詳しい説明は今までの記事にありますが、試行錯誤の記録なので全体を把握するのは簡単にはできないでしょう。それにまだここに書いてなかったこともいくつかあります。



posted by takayan at 23:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | プリマヴェーラ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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