2015年02月05日

《春》 描写に関係する文章

この絵を見て分かることから、この絵と関係のありそうな古典を探してみます。

 

画面に向かって左側の一番端には、一人の上を見上げた男性が描かれています。布か皮の茶色の、踵のあたりから翼の生えた二重の折り返しのある靴を履いています。形はサンダルではなくしっかりと足の甲や足首を包んでいますが、つま先の方はサンダルのように親指と人差し指の間にひもが通っていて、足の指がすべて出て、地面に指が着いているようです。左足が正面の鑑賞者の方を向き、左足の先は斜めに開いています。

左手は腰に当て、右手は頭上へと伸ばしています。その右手で二匹の竜のようなものが巻き付いている杖をまっすぐ上へと差し伸ばし、霞のようなものを触れています。頭には金属製の二重のつばのある兜をかぶっています。つばや装飾は金色をしていますが、丸い部分は紺色のように見えます。

その兜の下には、くるくると巻いた茶色がかった豊かな髪があふれ出しています。顔は右横を向き、目は杖の先を見上げています。口は、口笛を吹いているのかしゃべっているのか分かりませんが、薄く開いています。服装ですが、大きな赤い一枚の布の中程を右肩にかけています。帯をしているわけではなく、左腰にある左手で押さえて止めているように見えます。

左手の下に何か留め具があるのかもしれませんが、左手を腰から外したら、そのまま左半身がはだけてしまいそうです。体にかけている布の淵には、ぎっしりと小豆色の丸い装飾が埋め込まれています。この布の全面には、クラゲの足のような四五本の曲がった金色の線の小さな塊がいくつも描かれています。

この布の上から彼は剣をぶら下げています。刀は鞘に入って、左の太もも上を通って斜め外へと描かれています。黒い鞘には、右肩から伸びる黒い輪が留められています。刀の束は黒みがかって植物的な装飾がされています。鞘の先は柄と似た材質でできていているようで、湾曲し鋭くなりながら伸びています。鞘をぶら下げている紐は黒く、等間隔に丸い立体的な装飾が取り付けられています。

 

この像はおそらくメルクリウス(マーキュリー)でしょう。翼の生えた靴を履いていること、これは竜ですが二匹の蛇が巻き付いた杖を持っていること、そして本来は帽子ですがかぶり物をしていることで、彼がメルクリウスだと判断していいでしょう。ただメルクリウスが刀を持っているという記述は知りませんし、蛇であるはずのものが竜である意味も、帽子ではなく兜である理由も、本来の描写と違います。それでも彼はメルクリウスと言えるでしょう。

そこで、メルクリウスが記述された有名な古典を探すと、古典ギリシャ語で書かれた『ホメロス風讃歌』の『ヘルメス讃歌』が見つかります。これには長いものと、要約した短いものがあります。この両方に興味深い表現があります。ヘルメスの母マイアの特徴として「巻き毛の」、「洞窟に隠れ住む」という修飾がされています。

また長い方には「美しい靴をはいた」という記述があります。これは真ん中にいる一般的にはウェヌス(ヴィーナス)とされている女神の特徴に重なります。彼女はベールをかけているので、あまりよく見えませんが巻き毛のようです。ただ他の女性も巻き毛のように見えるのでこれだけでは断定できません。

しかし女神の後ろにある木々でできた丸いアーチは、確かに「洞窟」を連想させます。そして、彼女の履いている金色の細かな細工がされたサンダルは、はっきりと「美しい靴」といえるでしょう。この絵の中には他に靴を履いている女神はいないので、間違いようがありません。これはただの思い過ごしかもしれませんが、この符合は興味深いものです。

このギリシャ語の文章は詳しく解釈する価値があるでしょう。「美しい靴」の記述は長い方にしかないので、そちらを解釈すべきなのでしょうが、全部で580行もあり、そう簡単にはできません。そうやって以前解釈したのが12行の短い方です。これをも一度解釈し直してみましょう。そのあと長い方の重要そうなところを調べていくことにしましょう。

Ἑρμῆν ἀείδω Κυλλήνιον, Ἀργειφόντην,
Κυλλήνης μεδέοντα καὶ Ἀρκαδίης πολυμήλου,
ἄγγελον ἀθανάτων ἐριούνιον, ὃν τέκε Μαῖα,
Ατλαντος θυγάτηρ, Διὸς ἐν φιλότητι μιγεῖσα,
αἰδοίη: μακάρων δὲ θεῶν ἀλέεινεν ὅμιλον,
ἄντρῳ ναιετάουσα παλισκίῳ: ἔνθα Κρονίων
νύμφῃ ἐυπλοκάμῳ μισγέσκετο νυκτὸς ἀμολγῷ,
εὖτε κατὰ γλυκὺς ὕπνος ἔχοι λευκώλενον Ἥρην:
λάνθανε δ᾽ ἀθανάτους τε θεοὺς θνητούς τ᾽ ἀνθρώπους.
καὶ σὺ μὲν οὕτω χαῖρε, Διὸς καὶ Μαιάδος υἱέ:
σεῦ δ᾽ ἐγὼ ἀρξάμενος μεταβήσομαι ἄλλον ἐς ὕμνον.
χαῖρ᾽. Ἑρμῆ χαριδῶτα, διάκτορε, δῶτορ ἐάων.

 

この次に調べるのは右側です。右端にいるのは、薄く青い肌をした翼の生えた男性です。彼は絵の右端から飛んできて、周囲に生えている木々の間から抜けてきたようです。彼の髪と翼、体をまとう布も肌よりも少し濃い青をしています。彼は左下にいる女性を抱えています。右手で彼女の右肩を、左手で彼女の左脇を捕まえて、軽く持ち上げているように見えます。辛うじて彼女の右足の先は地面に着いているようです。

彼女が着ているのは薄い衣で、透けて中の肌まで見えています。その衣は意外に長く、地面について広がっています。この衣は透明な無地ですが、股から下の部分には黒い草の模様が見えます。これは衣の向こう側が透けて見えているようにも見えますが、所々衣に描かれた模様のようでもあります。下の裾にだけ金色の縁取りがついています。

翼の男と彼に手をそえられている女は見つめ合っています。女の体は前を向いているので左の方に振り返りながら彼を見上げています。彼は頬を膨らまし、彼女の方へと息を吐いています。息の流れが白い筋として描かれています。一方、女の方は男の顔を見上げながら、口から花の咲いた草を次から次へとこぼしています。この草花は男の作った風に飛ばされるようにして、左に流されながら落ちていきます。

草花を口からこぼしている女の左隣には、花柄の服を着た女が描かれています。彼女はもっと後ろの方から歩いてきたかのように、左足を前に右足を後ろに描かれています。顔は進む方向をまっすぐ向いています。彼女の全身は花で満たされています。服だけでなく、髪にはいくつもの花を差し、首には花の首飾りを掛け、胸の下にはいくつもの花の咲いたバラの蔓が巻き付いています。おなかが大きいので妊娠しているのかもしれません。隣の女とは違い、服は透けておらず下の肌は見えません。その白い服には、いくつかの種類の植物が丁寧に一株一株描かれています。腕の部分は、金色の鱗状の模様のある布を結びつけたものが見えています。

おなかの下のあたりで、左手で服をたくし上げ、そこにたくさんの花を載せて抱えています。右手はその花の塊の中に入れていて、花をつかんでそれを撒こうとしているようにも、花がそこから落ちないようにしているようにも見えます。よくみるとこの花の塊の横には草履のような焦げ茶色のものも一緒に抱えています。これがいったい何なのかはよく分かりません。

左肘のあたりから右下の方に、白い帯状のものが流れて花の塊につながっています。この帯状のものは何かよく分かりませんが、葉のような大きな白い装飾が縁にいくつも並んでいます。これは左肘にある装飾と同じ形をしています。左肘から出ているものはすぐに体の後ろに回り込んでいるので、右肘からのもののように長いかどうかは分かりません。

この花柄の女の体の上を、透明な衣を着た女の両手が重ねて描かれています。右手はまっすぐ左下に伸ばされ、花柄の女の左ももの方に届きそうです。左手の肘は直角に曲げられ、右手の上を通って、花柄の女の左肘から二の腕のところに描かれています。両手はともに開いて驚いているような仕草になっています。この花柄の服の上に重ねられた手をよく見ると、服の柄のはずの植物の一部分が手の上にもかかっている奇妙な描写があります。

 

画面の右側には、このように三人像が重なるように描かれています。この重なりにはそれぞれの人物が絵の中の物語でも密接に関わり合っていることを予想させます。頬を膨らまし息を吹いている有翼の男と口から花草を出している女の組み合わせは、オウィディウスの『祭暦』5巻に出てくる花の女神フローラ(クロリス)と西風の神ゼフィロスです。194行は口から春のバラの息を出している女神フローラの記述があります。

dum loquitur, vernas efflat ab ore rosas

この後に書かれているのですが、彼女を誘拐して妻にしたのが、西風ゼフィロスです。風の神は翼とともに描かれるので、絵の中の有翼の青い男がゼフィロスだと分かります。体が青いことがとても奇妙ですが、それがなぜなのか今の段階では分かりません。

この行の後に、フローラ自身が自分は以前ギリシャ語でクロリスと呼ばれていたことを語ります。

Chloris eram quae Flora vocor: corrupta Latino
nominis est nostri littera Graeca sono.

この記述をもってEdgar Windは『Pagan Mysteries in The Renaissance』の中で、透明な服の女神をクロリスが花柄の服の女神フローラに変身したと解釈しました。また高階氏は『ルネッサンスの光と闇』の中で、その変身の解釈を踏襲し、さらにクロリスの指の上に花柄の一部が描かれていることを、この女性も服の向こう側にいるべき存在であることを示すとして、変身を強調する描写と指摘しました。

口から花を出す女神よりも、花柄の服を着た女神をフローラと解釈したい気持ちは分かります。しかし花を口から出しているだけでも、上記にそう記述されているので、彼女自身が既にフローラであることは示されています。また《ヴィーナスの誕生》に描かれている花柄の服の女神はフローラではなくホーラとしか解釈できません。つまり花柄の服を着ているからといって必ずしもフローラではないことを示す一例になります。同じ作者の作品においてこのような例があれば、その可能性も考慮する必要があるでしょう。

この記述を先に進んでいると217行目から次の内容があります。これはフローラの台詞ですから、上の句とちゃんとつながりがあります。

conveniunt pictis incinctae vestibus Horae,
inque leves calathos munera nostra legunt;
protinus accedunt Charites, nectuntque coronas
sertaque caelestes implicitura comas.

ここにあるHoraeは季節女神ホーラたち、Charitesは優雅の女神カリスたち(三美神)のことです。三美神はこの絵の中に確かに描かれています。そして《ヴィーナスの誕生》で花柄の服を着ているのがホーラの可能性があったのですから、この記述によって《春》の花柄の服の女神もホーラであると示せるかもしれません。

このように『祭暦』のフローラが出てくる5月2日の記述がこの絵に関係しているようです。言葉遊びを使って詳しく確かめてみましょう。ただ5月2日の記述は、全部で220行もあります。これを解釈するのは大変です。以前調べたのが、下記の213行から228行までの16行だけでした。これの再検証と、もっと範囲を広げていくのが今回の目的です

saepe ego digestos volui numerare colores,
nec potui: numero copia maior erat.
roscida cum primum foliis excussa pruina est
et variae radiis intepuere comae,
conveniunt pictis incinctae vestibus Horae,
inque leves calathos munera nostra legunt;
protinus accedunt Charites, nectuntque coronas
sertaque caelestes implicitura comas.
prima per immensas sparsi nova semina gentes:
unius tellus ante coloris erat;
prima Therapnaeo feci de sanguine florem,
et manet in folio scripta querella suo.
tu quoque nomen habes cultos, Narcisse, per hortos,
infelix, quod non alter et alter eras.
quid Crocon aut Attin referam Cinyraque creatum,
de quorum per me volnere surgit honor?

 

『祭暦』の記述の中に三美神が出てきたので、きっと三美神の描写は上記の中にあるでしょう。しかしもっと詳しい三美神についての文章を見つけました。それが先日述べたフィチーノの『愛について』の一文です。

Circulus itaque unus et idem a deo in mundum, a mundo in deum, tribus nominibus nuncupatur.
Prout in deo incipit et allicit, pulchritudo;
prout in mundum transiens ipsum rapit, amor;
prout in auctorem remeans ipsi suum opus coniungit, voluptas.
Amor igitur in voluptatem a pulchritudine desinit.

この文章は前述のEdgar Wind の『Pagan Mysteries in The Renaissance』の中で引用されていたものです。ピコ・デラ・ミランドラのメダルに刻まれた三美神の周りにある銘文「PULCHRITUDO AMOR VOLUPTAS」の典拠として示されました。メダルの三美神に対して三つの単語ですから、それぞれがその女神の名前を左から順に表していると考えられます。

しかしWind はそのあとで《春》においては、右から順に、PULCHRITUDO CASTITAS VOLUPTASと断定してしまいました。つまりAMOR(愛) がCASTITAS(貞節) に置き換わっています。これは別の当時作られたジョヴァンナ・トルナブオーニの三美神メダルの銘文「CASTITAS PULCHRITUDO AMOR」と折衷させたものです。Wind のネオ・プラトニズム的解釈では、質素な身なりであることや、右辺のクロリスからフローラへの変身に対応させるために、三美神の真ん中の女神はウブな貞節である必要がありました。

しかし《春》を眺めていると、このピコ・デラ・ミランドラの配列で問題ないように思います。その理由は、三美神の周りにいる神々の存在です。右端の女神は美しい画面中央の女神のそばで彼女に手をかざされ祝福されているのでPULCHRITUDO(美)を表し、真ん中の女神は上空のクピドから首筋を狙われているのでAMOR(愛)を表し、そして左端の女神は男性の体のそばに寄り添っているのでVOLUPTAS(快楽)を表すと解釈できます。

そう考えて、このフィチーノの言葉を見直してみると、この記述がこの絵の中の三美神の描写そのものに見えてきました。この文章の前後も含めて、フィチーノの文章を再び解釈してみます。

 

以上のように、三つの文章がこの絵に関係があると思われます。これらの文章は以前も解釈したのですが、範囲が広げられないか試しながら、解釈を整理してみます。





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2015年02月03日

《春》 古典語の言葉遊びが鍵である可能性

今まで考えてきたボッティチェリの《春(プリマヴェーラ)》の解釈をまとめていこうとしているのですが、その前に。

ボッティチェリの神話を描いた絵画、《春》、《ヴィーナスの誕生》、《パラスとケンタウロス》、《ヴィーナスとマルス》は、何の物語を描いているのかがはっきりしません。一見、神話の一場面のように見えるものも、細かい部分では神話の記述とは明らかにずれています。また青いゼフィロスや、ツタの絡まった女神など奇妙な描写がよく見られます。問題のないような絵であっても細部には奇妙な描写が描かれています。そういった記述のずれや、奇妙な描写は古典語の言葉遊びのためではないかというのが、僕の主張の中心です。

繰り返しになりますが、ここでやっている言葉遊びについて改めて説明します。

ボッティチェリの神話がどの物語を描いているのか知りたくて、ラテン語や古典ギリシア語といった古典語の原典を引用しながら長い間調べていました。すると、あるとき三美神の描写とフィチーノの『愛について』というラテン語の文章との間の関係に気づきました。→ 《プリマヴェーラ》における三美神の典拠について

Circulus itaque unus et idem a deo in mundum, a mundo in deum, tribus nominibus nuncupatur.
Prout in deo incipit et allicit, pulchritudo;
prout in mundum transiens ipsum rapit, amor;
prout in auctorem remeans ipsi suum opus coniungit, voluptas.
Amor igitur in voluptatem a pulchritudine desinit.

このラテン語の文章で言葉遊びをすると、彼女たちのダンスの様子を記述しているように解釈できました。例えばmudusという言葉に「世界」という意味と「装飾」という意味があるのですが、これを使うと三美神の左右の女神だけが宝石を付けていることを示していると解釈できます。今から見直すと不正確なところもありますが、この文章との出会いにより、言葉遊びがすべてを解く鍵かもしれないと気づきました。

もちろん、これだけではただの偶然かもしれません。単語にはいろんな意味があるのでかなりのこじつけが可能です。しかし、こじつけが可能だからこそ、抽象的な哲学の言葉を、こんなに美しい具象へと変えることができるとも言えます。これがきっかけになって、見えたままの描写が記述されている古典だけでなく、言葉遊びでこの絵の描写になる古典も探索の対象にすることにしました。大量に連続して古典の記述と絵の描写の対応が見つかれば、それは偶然ではなく、必然と言えるようになるでしょう。

そうやってボッティチェリの神話画について典拠をいろいろ探しながら、いろいろここで書いてきたわけです。この中で見つけた、言葉遊びが確かに描かれていると考えられる作品の例を挙げてみます。

まず、《アペレスの誹謗》です。この絵は神話ではなく、古代ギリシアの画家アペレスが自分の身に起こった出来事を元に表した絵を、ボッティチェリが再現したものです。アペレスの描いたとされる絵の内容は、やはり古代ギリシア時代の作家ルキアノスが文章として残しています。そしてさらにその内容をボッティチェリよりも半世紀ほど前に生まれたアルベルティが書いた『絵画論』の中で詳しく紹介しています。

アペレスが書いたとされる元の絵の描写はルキアノスの著作の中にしかありませんから、ボッティチェリの《アペレスの誹謗》はこの文章を元に描いたとしか考えられません。読むとすぐに分かりますが、この文章に記述されている人物が確かに描かれているのが分かります。あとは絵に使ったのが、ルキアノスの古典ギリシア語の原典そのものか、翻訳かということでしょう。アルベルティの『絵画論』はイタリア語版とラテン語版があるので、そのイタリア語とラテン語の可能性もあります。また『絵画論』とは別のルキアノスの翻訳の可能性もなくはないでしょう。

どの記述を元にしたかについての議論はロナルド・ライトボーンの『ボッティチェリ』や、パノフスキーの『イコロジー研究』で触れられています。自分でも古典ギリシア語、イタリア語訳、ラテン語訳、ついでに英語訳、ドイツ語訳を、それぞれ和訳して絵の内容と比べてみました。→ カテゴリー:アペレスの誹謗

それで分かったのは、直接古典ギリシア語を元にして描いているということです。確かに記述は絵の内容に対応していますが、どうしても絵の中に見つけられない文章が残ります。そこで残ったその文章で言葉遊びをやってみると、どれも絵の中の描写として当てはめていくことができました。最初は絵として表しやすいものだけを描いているのかと考えていましたが、その章のギリシア語の言葉を一語も残さずに絵の中に見つけることができました。この絵の中に描かれていない記述と、この絵の中にある奇妙な描写の対応を示すことができたわけです。

ἐν δεξιᾷ τις ἀνὴρ κάθηται τὰ ὦτα παμμεγέθη ἔχων μικροῦ δεῖν τοῖς τοῦ Μίδου προσεοικότα, τὴν χεῖρα προτείνων πόῤῥωθεν ἔτι προσιούσῃ τῇ Διαβολῇ. περὶ δὲ αὐτὸν ἑστᾶσι δύο γυναῖκες, ῎Αγνοιά μοι δοκεῖ καὶ ῾Υπόληψις・ ἑτέρωθεν δὲ προσέρχεται ἡ Διαβολή, γύναιον ἐς ὑπερβολὴν πάγκαλον, ὑπόθερμον δὲ καὶ παρακεκινημένον, οἷον δὴ τὴν λύτταν καὶ τὴν ὀργὴν δεικνύουσα, τῇ μὲν ἀριστερᾷ δᾷδα καιομένην ἔχουσα, τῇ ἑτέρᾳ δὲ νεανίαν τινὰ τῶν τριχῶν σύρουσα τὰς χεῖρας ο)ρέγοντα εἰς τὸν οὐρανὸν καὶ μαρτυρόμενον τοὺς θεούς. ἡγεῖται δὲ ἀνὴρ ὠχρὸς καὶ ἄμορφος, ὀξὺ δεδορκὼς καὶ ἐοικὼς τοῖς ἐκ νόσου μακρᾶς κατεσκληκόσι. τοῦτον οὖν εἶναι τὸν Φθόνον ἄν τις εἰκάσειε. καὶ μὴν καὶ ἄλλαι τινὲς δύο παρομαρτοῦσι προτρέπουσαι καὶ περιστέλλουσαι καὶ κατακοσμοῦσαι τὴν Διαβολήν. ὡς δέ μοι καὶ ταύτας ἐμήνυσεν ὁ περιηγητὴς τῆς εἰκόνος, ἡ μέν τις ᾿Επιβουλὴ ἦν, ἡ δὲ ᾿Απάτη. κατόπιν δὲ ἠκολούθει πάνυ πενθικῶς τις ἐσκευασμένη, μελανείμων καὶ κατεσπαραγμένη, Μετάνοια, οἶμαι, αὕτη ἐλέγετο・ ἐπεστρέφετο γοῦν εἰς τοὐπίσω δακρύουσα καὶ μετ᾿ αἰδοῦς πάνυ τὴν ᾿Αλήθειαν προσιοῦσαν ὑπέβλεπεν. Οὕτως μὲν ᾿Απελλῆς τὸν ἑαυτοῦ κίνδυνον ἐπὶ τῆς γραφῆς ἐμιμήσατο.

この文章か翻訳以外にこの絵の描写を知ることができない状況で、これだけの長さのひとまとまりの文章を、たとえこじつけの言葉遊びを使って、すべて絵の中に見つけることができたということは、これが古典ギリシア語そのものを元にし、そのこじつけが絵の作られたときにも行われたことを示していると考えていいと思います。

(この文章は人物の特徴だけを表現していますが、この絵にはもっとたくさんの描写が描かれています。つまりこの章の前後の文章もこの絵の中に描かれていると考えるのが自然でしょう。正直将来残りの解釈をすることが楽しみで楽しみでしょうがない。)

同様なことが、有名な《ヴィーナスの誕生》の典拠についても言うことができます。《ヴィーナスの誕生》と『ホメロス讃歌』の二番目の長さの『アフロディーテ讃歌』を比べてみます。『ホメロスの参加』の中には三種類の『アフロディーテ讃歌』があって、その中の二番目の長さのものに、西風ゼフィロスに運ばれて上陸するアフロディーテ(ヴィーナス)と、彼女を迎え入れる季節女神ホーラたちの場面が描かれています。

Εἲς Ἀφροδίτην
αἰδοίην, χρυσοστέφανον, καλὴν Ἀφροδίτην
ᾁσομαι, ἣ πάσης Κύπρου κρήδεμνα λέλογχεν
εἰναλίης, ὅθι μιν Ζεφύρου μένος ὑγρὸν ἀέντος
ἤνεικεν κατὰ κῦμα πολυφλοίσβοιο θαλάσσης
ἀφρῷ ἔνι μαλακῷ: τὴν δὲ χρυσάμπυκες Ὧραι
δέξαντ᾽ ἀσπασίως, περὶ δ᾽ ἄμβροτα εἵματα ἕσσαν:
κρατὶ δ᾽ ἐπ᾽ ἀθανάτῳ στεφάνην εὔτυκτον ἔθηκαν
καλήν, χρυσείην: ἐν δὲ τρητοῖσι λοβοῖσιν
ἄνθεμ᾽ ὀρειχάλκου χρυσοῖό τε τιμήεντος:
δειρῇ δ᾽ ἀμφ᾽ ἁπαλῇ καὶ στήθεσιν ἀργυφέοισιν
ὅρμοισι χρυσέοισιν ἐκόσμεον, οἷσί περ αὐταὶ
Ὧραι κοσμείσθην χρυσάμπυκες, ὁππότ᾽ ἴοιεν
ἐς χορὸν ἱμερόεντα θεῶν καὶ δώματα πατρός.
αὐτὰρ ἐπειδὴ πάντα περὶ χροῒ κόσμον ἔθηκαν,
ἦγον ἐς ἀθανάτους: οἳ δ᾽ ἠσπάζοντο ἰδόντες
χερσί τ᾽ ἐδεξιόωντο καὶ ἠρήσαντο ἕκαστος
εἶναι κουριδίην ἄλοχον καὶ οἴκαδ᾽ ἄγεσθαι,
εἶδος θαυμάζοντες ἰοστεφάνου Κυθερείης.
χαῖρ᾽ ἑλικοβλέφαρε, γλυκυμείλιχε: δὸς δ᾽ ἐν ἀγῶνι
νίκην τῷδε φέρεσθαι, ἐμὴν δ᾽ ἔντυνον ἀοιδήν.
αὐτὰρ ἐγὼ καὶ σεῖο καὶ ἄλλης μνήσομ᾽ ἀοιδῆς.

この記述と絵の描写の違いは、アフロディテが貝ではなく泡に乗ってやってくること、ゼフィロスが一人でいること、迎え入れるホーラが複数であることなどで、登場人物はだいたい合っているのに、絵の場面としては明らかに違っています。そのためこの詩に影響を受けていると思われるポリツァーノの『ラ・ジョストラ』の方が一般には典拠だと考えられます。こちらには、貝とゼフィロスの連れアウラ(そよ風)が記述されているからです。ただこの詩でも出迎えが複数だったり、完全に記述と描写が一致するわけではありません。

そこで、この古典ギリシア語の文章も言葉遊びをしてみました。すると、これもすべての単語をこの絵の中に見つけることができました。例えば、本来複数のはずの出迎えのホーラが一人しかいないのは、古典ギリシア語の語形変化によって説明できます。またゼフィロスと一緒にいる有翼の女神は、勝利の歌を歌う女神ニケと解釈できます。さらにこの絵の左の角にある点描で書かれた部分はἄλλης ἀοιδῆςの言葉遊びの「異質な隅」のことだと分かります。今回は特に一つの詩全部が残らず描かれています。つまりこの絵は一つの詩と等価な存在と言えるでしょう。詳しくは→  《ヴィーナスの誕生》アフロディーテ讃歌の翻訳(1) 以降。

このように古典語の文章を言葉遊びをすることで、連続して大量に絵の中に見つけ出すことができます。これらの古典は大抵いままで研究者が何らかの関係があると指摘をしてきたものです。なぜなら単語の意味すべてが言葉遊びによって別の意味に変えられるわけではなく、意味を変えなくても絵として描ける場合は、そのままの内容で描かれているからです。出典を分からなくするために、言葉遊びをしているのではなく、抽象的で絵の描写にしにくい記述を、仕方なく、具象的な意味に置き換えているに過ぎないと思われます。しかしこれを理解するには最低限、ラテン語やギリシア語の意味が分からないと無理なので、そう簡単には分からなかったというわけです。さらにヴァザーリや初期の解釈者が与えたもっともらしい先入観が、思い込みや願望を誘発させて、みんなを解けない方向に導いてしまいました。

そういうわけで、手法の説明が済みました。次は《春(プリマヴェーラ)》と関係ある古典について説明を行います。どういう理由で、それらの古典が関係あると思われるのか詳しく述べていきます。また古典ではありませんが、最初に説明したフィチーノの『愛について』の一節が関係あると思われた理由も説明します。



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2015年01月27日

《春》 典拠解釈の再開

再び《春(プリマヴェーラ)》についての典拠の解釈をやっていきます。断続的でしたが、《春》についての考察をし始めてもう6年です。もうそろそろ解釈を完成させたいと思います。わざわざ宣言してから再開しなくてもいいのですが、意識してスイッチを切り替えないと、なかなか集中力を高められないのです。

今までの考察によって次のことが分かってきました。この絵の典拠となるものは、『ホメロス風讃歌』の『ヘルメス讃歌』、Ovidiusの『祭暦』第五巻の一部分、そしてFicinoの『愛について』第二巻第二章の一部分だと思われます。それも、これらの文章をそのまま描いたのではなく、ラテン語や古典ギリシャ語の意味を言葉遊びで変化させて描いています。本来の解釈とは違う意味だからこそ、よく分からない描写がいくつもこの絵に現れているのであり、典拠となる文章がどうしてもはっきりしなかったわけです。このことはBotticelliの他の異教画についても言えます。去年の段階での他の作品を含めた要約は「ボッティチェリの神話画の解釈」に書いています。

典拠の解釈によって導き出されたこの絵の神々は、従来指摘されていたものと違ってきます。Vasariの記述を根拠に中央の女神はヴィーナス(ウェヌス)と信じられてきましたが、彼女はマーキュリー(メルクリウス)の母親マイアとなります。またEdgar Windが唱えてから有力な解釈とされてしまったクロリスからフローラへの変身は否定されるべきものです。口から花をこぼしている女神はフローラで、その花を服を寄せて作った急ごしらえの籠で受けている女神は季節女神ホーラの一人です。

このように神々の特定など、ほぼこの絵の解釈は完成しています。ただ断片的に考察を続けてきたので、整合性がとれていなかったり、全体像がつかみにくくなっています。去年の《ヴィーナスとマルス》の解釈でやったようなまとめをしばらくやってみようと思います。

それはそうと、去年の年末、《パラスとケンタウロス》が日本にやってきました。不思議なこの絵について関心を持った人が、ここを見てまだ完成していない僕の解釈が世の中に広まるか、ちょっと心配したのですが、そうはなりませんでした。20万人以上絵画展に行ってて、《春》と違って、《パラスとケンタウロス》は検索上位なのに、ここまで理解してもらえないのも、それはそれで相当へこんでしまいます。でもやはり今はそのほうが都合がいいです。訳が分からないことを書いていると思って無視してもらった方が集中できます。



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2014年10月20日

『アナクレオンテア』と《ヴィーナスとマルス》

前回まではルクレティウスの『物の本質について』とボッティチェリの《ヴィーナスとマルス》との関係を調べてみました。『物の本質について』の冒頭にあるウェヌスを讃えている文章を意図的に違う意味になるように翻訳すると、絵に落書きする人の独白になることが分かりました。そしてこの記述がまさに《ヴィーナスとマルス》の描写そのものだと示せました。今回はアナクレオンテアの一つの詩と《ヴィーナスとマルス》との関係を示します。絵に落書きをするからには、落書きの対象となる絵が前もって存在しなくてはなりません。今回示すのは落書き以前のその絵の典拠となるものです。

アナクレオンテアのこの詩については以前もここに書いたのですが、そのときはとてもいい加減な翻訳をしていました。一つの詩の言葉遊びが絵の描写の典拠となりうるという、他のボッティチェリの神話画の解釈にとっても重要な手掛かりとなるものですが、当時の私の古典ギリシャ語文法の知識に限界があって正確には訳出できませんでした。断片的な解釈では、この絵との対応を指摘できていましたが、細かな詰めの部分では完全に証明できていませんでした。今回はできるだけ厳密に単語の意味を調べ、絵との対応を深めていこうと思います。

その前に言葉の説明です。アナクレオンテアとは紀元前六世紀に活躍した古代ギリシャの詩人アナクレオンの作風に似た詩のことです。16世紀に詩集が出版されると西洋の芸術に大きな影響を与えました。この詩の一つに、クピドが蜂に刺されて母ウェヌスに泣きつくと、ウェヌスが彼に人の痛みについて諭すという内容の作品があります。ちなみにこの詩に近い内容のものとしてテオクリトスの『牧歌』第19歌『蜂蜜泥棒』(偽作)があり、この詩をもとにルーカス・クラナッハはヴィーナスとクピドの絵を描いています。さて、アナクレオンテアのこの詩と《ヴィーナスとマルス》の絵の共通点は、「ウェヌス」と「蜂」だけです。記述されるべきマルスがいません。そして従来の解釈では描かれていないはずのクピドがいます。しかしこのアナクレオンテアの詩を真面目に誤訳していくと、この絵を見ながら書いた詩であるかのような内容に変えることができます。

Ἔρως ποτ΄ ἐν ῥόδοισι
κοιμωμένην μέλισσαν
οὐκ εἶδεν, ἀλλ΄ ἐτρώθη
τὸν δάκτυλον. Πατάξας
τὰς χεῖρας, ὠλόλυξε·
δραμὼν δὲ καὶ πετασθεὶς
πρὸς τὴν καλὴν Κυθήρην,
ὄλωλα, μῆτερ, εἶπεν,
ὄλωλα, κἀποθνήσκω.
Ὄφις μ΄ ἔτυψε μικρὸς,
πτερωτὸς, ὃν καλοῦσι
μέλισσαν οἱ γεωργοί.
Ἡ δ΄ εἶπεν· εἰ τὸ κέντρον
πονεῖ τὸ τῆς μελίσσης,
πόσον δοκεῖς πονοῦσιν,
Ἔρως, ὅσους σὺ βάλλεις;

これがその詩のギリシャ語原文です。記号付のギリシャ文字を使っているので、スマホなどでは正しく表示されない可能性があります。以下の文章内でのギリシャ文字も同様です。原文を確認したい場合は次のリンク先にある画像化したものを見てください。[画像化したテキスト]

それでは、まずこの詩の本来の意味を解釈してみます。なお古典ギリシャ語の詩を解釈するため、神々の固有名詞はギリシャ神話のものを使います。対応が必要なローマ神話での名前は括弧内に記しています。


Ἔρως ποτ΄ ἐν ῥόδοισι κοιμωμένην μέλισσαν οὐκ εἶδεν, ἀλλ΄ ἐτρώθη τὸν δάκτυλον.

ここで使われている単語は次の通り。Ἔρωςは男性名詞Ἔρως「愛、エロス(クピド)」の単数主格。ποτ΄はποτε「あるとき、かつて」の母音省略。ἐνは与格支配の前置詞ἐν「の中で」。ῥόδοισιは中性名詞ῥόδον「バラ」の複数与格。κοιμωμένηνは動詞κοιμάω「眠らせる」の中動態現在分詞の単数女性対格。μέλισσανは女性名詞μέλισσα「蜂」の単数対格。οὐκはοὐ「英語のnot」。εἶδενは動詞εἶδον「見る」の三人称単数アオリスト。ἀλλ΄は接続詞ἀλλά「そして、しかし」の母音省略。ἐτρώθηは動詞τιτρώσκω「傷つける」の受動態三人称単数アオリスト。τὸνは冠詞ὁの単数男性対格。δάκτυλονは男性名詞δάκτυλος「指」の単数対格。

この文の主節はἜρως ποτ΄ μέλισσαν οὐκ εἶδενで「あるときエロスは蜂を見ていなかった。」となります。ἐν ῥόδοισι κοιμωμένηνは分詞句でκοιμωμένηνは中動態なので「眠っている」となり、合わせて「バラの中で眠っている」となります。この分詞は女性単数対格なので、蜂μέλισσαと性数格が一致して、これを修飾しているのが分かります。そのあとに接続詞ἀλλάに導かれて従属節「ἐτρώθη τὸν δάκτυλον」が続きます。動詞が受動態なので「彼は指を傷つけられた。」という意味になります。全体をまとめると、「あるとき、エロスはバラの中で眠っていた蜂に気付かず、指を刺されてしまった。」となります。


Πατάξας τὰς χεῖρας, ὠλόλυξε· δραμὼν δὲ καὶ πετασθεὶς πρὸς τὴν καλὴν Κυθήρην, ὄλωλα, μῆτερ, εἶπεν, ὄλωλα, κἀποθνήσκω.

πατάξαςは動詞πατάσσω「叩く」のアオリスト分詞の男性主格単数。τὰςは冠詞ὁの単数女性属格もしくは複数女性対格。χεῖραςは女性名詞χείρ「手」の複数体格。ὠλόλυξεは動詞ὀλολύζω「大声で泣く」の三人称単数第2アオリスト。δραμὼνは動詞τρέχω「走る」のアオリスト分詞の単数男性主格。δὲは接続詞「そして、しかし」。καὶは接続詞「そして」。πετασθεὶςは動詞πέτομαι「飛ぶ」の受動態第2アオリスト分詞の単数男性主格。πρὸςは対格支配の前置詞「の方へ」。τὴνは冠詞ὁの単数女性対格。καλὴνは形容詞καλός「美しい」の単数女性対格。Κυθήρηνは名詞Κυθηριάς「キュテレイア、アフロディーテ(ウェヌス)の別名」の単数女性対格。ὄλωλαは動詞ὄλλυμι「失う、死ぬ」の一人称単数完了。μῆτερは女性名詞μήτηρ「母」の単数呼格。εἶπενは動詞εἶπον「言う」の三人称単数アオリスト。κἀποθνήσκωは動詞ἀπόθνήσκω「死ぬ」の直説法か接続法の一人称単数現在。

ὠλόλυξεが主動詞で、その省略されている主語は文脈からエロスとなり、意味は「彼(エロス)は大声で泣いた。」です。πατάξας τὰς χεῖραςの分詞は男性主格単数なので、このエロスを修飾していると考えます。まとめると「両手を叩きながら彼は泣き喚いた。」となります。

δὲは前の文との接続詞。そのあとのκαὶが二つの分詞をつなぐ等位接続詞。δραμὼνは分詞の単数男性主格、πετασθεὶςも分詞の単数男性主格で、両者ともエロスの動作を表しています。πρὸςはこれらの動作の方向を示す前置詞で、その目的語が単数女性対格のτὴν καλὴν Κυθήρην「美しいキュテレイア(アフロディーテ)」です。ここでπετασθεὶςは受動態の活用語尾をしていますが、能動態のないデポネント動詞なので、受動態でも「飛んで」と訳します。ここまでをまとめると、「そして、彼(エロス)は走ったり、飛んだりして美しいキュテレイア(アフロディーテ)の方に向かった。」となります。

εἶπενは三人称単数アオリストで、この前後にある言葉がエロスの台詞であることを示しています。ὄλωλαは一人称単数完了の動詞で、エロスが自分を主語にして話している言葉です。同様にκἀποθνήσκωも一人称単数の動詞で、これもエロス自身の言葉です。ただしこれは完了形ではなく、現在形です。ὄλωλαは蜂に刺されたさっき起きた出来事を表していて、κἀποθνήσκωは死ぬほど痛くてたまらないという現在を表しています。ὄλλυμιもἀπόθνήσκωも「死ぬ」という意味がありますが、前者は刺されたときの様子なので、「怪我をした」と訳してみます。途中にあるμῆτερは呼格で「お母さん!」、これもやはりエロスの台詞です。まとめると、「『僕怪我しちゃったよ、お母さん、怪我しちゃったよ、僕死んじゃうよ』と彼(エロス)は言った。」と訳せます。


Ὄφις μ΄ ἔτυψε μικρὸς, πτερωτὸς, ὃν καλοῦσι μέλισσαν οἱ γεωργοί.

ὄφιςは男性名詞ὄφις「蛇」の単数主格か複数対格。μ΄はμεの母音省略で、人称代名詞の一人称単数対格。ἔτυψεは動詞τύπτω「叩く、刺す」の三人称単数アオリスト。μικρὸςは形容詞μικρός「小さい」の単数男性主格。πτερωτὸςは形容詞πτερωτός「羽のある」の単数(男性/女性)主格。ὃνは代名詞ὅς「」の単数(男性/中性)対格。καλοῦσιは動詞καλέω「呼ぶ」の三人称複数現在。μέλισσανは女性名詞μέλισσα「蜂」の単数対格か複数属格。οἱは冠詞ὁの複数男性主格。γεωργοίは男性名詞γεωργόςの複数主格。

主節はὄφις με ἔτυψεで、ἔτυψεは蛇による攻撃なので「噛まれる」として、子どもの台詞っぽくして「蛇が僕を噛んだんだ。」となります。ここも前の文からの続きで、エロスの台詞と考えています。μικρὸςとπτερωτὸςはともに単数男性主格で主語のὄφιςを修飾しています。ここまでで「小さくて、羽の生えた蛇が僕を噛んだんだ。」とします。実際はエロスは刺されたわけですが、蜂のことを知らないので、蛇をたとえに出したのでしょう。蛇を知っているエロスは、おそらく蛇の毒のことも知っていて、そのために彼は自分が死んでしまうと考えたのかもしれません。単数男性対格のὃνは人称代名詞ですが、ここでは関係代名詞の役割をしています。先行詞はὄφιςです。関係節の主語は複数男性主格のοἱ γεωργοίで、意味は「農家の人たち」です。動詞はκαλέωで、この動詞は二つの対格をとるとき「AをBと呼ぶ」という意味で訳せます。この文ではὃνとμέλισσανがその二つの対格です。関係節をまとめると、「農家の人たちが蜂と呼んでいる〜」となります。全体で、「農家の人たちが蜂と呼んでいる、小さくて羽の生えた蛇が僕を噛んだんだ。」となります。


Ἡ δ΄ εἶπεν· εἰ τὸ κέντρον πονεῖ τὸ τῆς μελίσσης, πόσον δοκεῖς πονοῦσιν, Ἔρως, ὅσους σὺ βάλλεις;

ἡは代名詞ὅςの単数女性主格。δ΄は接続詞δέの母音省略。εἶπενは動詞εἶπον「言う」の三人称単数アオリスト。εἰは接続詞εἰ「英語のifに相当」。τὸは冠詞ὁの単数中性(主格/呼格/対格)。κέντρονは中性名詞κέντρον「刺激、針、突き棒」の単数(主格/呼格/対格)。πονεῖは動詞πονέω「(自動詞)苦労する、(他動詞)苦しめる」の能動態三人称単数現在か受動態/中動態二人称単数現在。τῆςは冠詞ὁの単数女性属格。μελίσσηςは女性名詞μέλισσα「蜂」の単数属格。πόσονは疑問の相関代名詞πόσος「どれだけ?」の単数男性対格か単数中性(主格/呼格/対格)もしくは副詞。δοκεῖςは動詞δοκέω「考える、思う」の二人称単数現在。πονοῦσινは動詞πονέω「(自動詞)苦労する、(他動詞)苦しめる」の三人称複数現在。Ἔρωςは男性名詞Ἔρως「エロス(クピド)、愛」の単数主格。ὅσουςは関係の相関代名詞ὅσος「〜と同じくらいであるところの」の複数男性対格。 σὺは人称代名詞σύの二人称単数主格。βάλλειςは動詞βάλλω「投げる、攻撃する」の二人称単数現在。

δέは接続詞。ἡは三人称単数の代名詞で、文脈からエロスに話しかけられているアフロディーテのことだと分かります。ἡ δ΄ εἶπενは「そして彼女(アフロディーテ)は話した。」となります。その内容がこの後すべてです。すぐ後のεἰで条件節τὸ κέντρον πονεῖ τὸ τῆς μελίσσηςを導きます。ここで分からないことが一つあります。πονεῖの前のτὸ κέντρονと後ろのτὸが同じものを表しているとしか考えようがないことです。この文法的な理由がよくわかりません。とりあえず詩としての構成の関係上、τὸ κέντρονをπονεῖの前に置かざるを得ないのだけれど、前に出してしまうと、それを修飾する属格との距離が離れてしまうので、属格の修飾を受けるために代名詞をそこに残した。そう考えてみました。間違っていたらすみません。つまり条件節をπονεῖ τὸ κέντρον τῆς μελίσσηςと考えて解釈します。πονεῖは受動態二人称と考え「あなたは苦しめられる」とします。従って、τὸ κέντρον τῆς μελίσσηςは「蜂の針」と訳せるので、「あなた(エロス)が蜂の針に苦しめられているのならば、」となります。

次に主節です。主節はπόσον δοκεῖς πονοῦσινです。動詞はδοκεῖς「考える、思う」です。その後にも動詞πονοῦσινが並んでいますが、δοκέωは独立節を目的語にすることができるので、考える内容を表す節の動詞だと分かります。先頭の疑問詞πόσονは英語のhow much?、how many?などに相当する単語ですが、この場合δοκεῖς ではなくπονοῦσινに付属する間接疑問詞と考えます。πονοῦσινは前に別の形で出てきた動詞ですが、ここでは自動詞の能動態で「苦労する、苦しむ」と解釈します。主語は三人称複数となりますが、これはここまでに出てきた言葉にはありません。ここでは単に「人々、みんな、他の人」とします。動詞を自動詞と考えるので、πόσονは副詞となります。「みんながどんなに苦しいか、あなたは考える?」となります。

次のἜρωςは呼びかけです。そのあとはὅσουςが導く関係節σὺ βάλλειςです。男性複数与格のὅσουςは英語のas much asやas many asなどに相当する言葉です。先行詞にあたるのはπονοῦσινの複数主語となるでしょう。そして、σὺ βάλλειςのσὺ(英語の単数主格のyouに相当)は、ここもまだアフロディーテの発言なので、エロスを表しています。そして主語がエロスならば、彼は常に弓矢を携行しているので、動詞βάλλειςは「矢を射る、矢を刺す」となります。もちろん同じように人を尖った物で刺す蜂との対比です。複数対格のὅσουςはこの動詞の目的語になるので、エロスの矢の餌食になるたくさんの人々のことを表しています。「同じようにたくさんの人たちにあなたは刺している。」となります。

まとめるとこうなるでしょう。

すると彼女は言った。「あなたが蜂の針に苦しめられているのならば、他の人もどんなに苦しいか、考えてごらん?エロス!同じようにたくさんの人にあなたも矢を刺しているのよ。」


少し推敲して全体をまとめるとこうなります。

あるとき、エロスは、バラの中で眠ていた蜂に気が付かずに、指を刺されてしまった。両手を叩きながら、彼は泣き喚いて、美しきキュテレイアへ駆けて飛んで、「僕ケガしちゃったよ、お母さん!」彼は言った。「ケガしちゃったよ、僕死んじゃうよ。」「農家の人たちがハチと言ってる、小さくて羽の生えた蛇が僕を噛んだんだよ」。すると彼女は言った。「あなたが蜂の針に苦しんだのならば、他の人もどんなに苦しいか考えてごらんなさい。エロス!同じようにたくさんの人にあなたも矢を刺しているのよ。」

このままだと《ヴィーナスとマルス》とは似ても似つきません。キュテレイア(ウェヌス)と蜂という単語があるだけの詩にすぎません。


今度は、絵に合わせた翻訳を行います。

Ἔρως ποτ΄ ἐν ῥόδοισι κοιμωμένην μέλισσαν οὐκ εἶδεν, ἀλλ΄ ἐτρώθη τὸν δάκτυλον.

ποτ΄はπότεの省略形ですが、名詞πότηςの省略と考えることもできます。πότηςは男性名詞で「酔っ払い、酒豪」という意味の単語です。語尾が省略されているので、いろんな格・数とみなすことができます。この絵で酔っ払いに見えるのは横になっているアレス(マルス)です。次にἐν ῥόδοισιです。本来「バラの中」と訳されますが、ῥόδοισιを「バラ色の物」と考えてみます。またἐνは英語のinだけでなくon、at、byでもいいので、ἐν ῥόδοισιは「バラ色の物の上で」と解釈できます。κοιμωμένηνは中動態現在分詞の「眠っている」ではなく、受動態現在分詞で「なだめられている」とします。したがって、πότε ἐν ῥόδοισι κοιμωμένην μέλισσανは、ピンク色の敷布の上にいる酔っ払ったアレスが暴れないようになだめている蜂を表すことになります。この絵のようにぐったりとする前のことでしょう。蜂をなだめるというのがちょっと奇妙な表現ですが、蜂が暴れ出したら大変です。

rose

主節のἜρως μέλισσαν οὐκ εἶδενは本来「エロスは蜂を見ていなかった」となりますが、エロス(クピド)が大きな兜をかぶったサテュロスだとすれば、その兜が邪魔で周りが見えないのは絵のとおりです。まさに兜がいつもの布きれの代わりの立派な目隠しとなっています。エロスが矢でなく、槍で攻撃していることが奇妙ですが、矢は古典ギリシャ語でβέλοςであり、これは飛び道具全般も表します。イタリア語だとarma da lancioとなります。この絵の槍は投げない馬上槍試合で使うランスですが、これはイタリア語ではlancia da giostraであり、lanciaの一種であれば、投げる槍と同様にβέλοςの範疇となります。このように兜も槍もいつものエロスの装備の単なる言葉遊びになっているのが分かります。彼は確かにエロス(クピド)となります。

μέλισσανを修飾していた先ほど解釈した分詞句と合わせると、「酔っ払い(アレス)がバラ色の敷布の上でなだめている蜂をエロスは見ていなかった。」となります。これはアレスが起きているときの記述なので、この絵よりも前の出来事となり、この絵の中で見つけることはできません。やがて彼は眠くなり、この絵で描かれているように、そのバラ色の物の上で寝ているわけです。

blinderos

ἐτρώθη τὸν δάκτυλονが、そのまま「指を傷つけられた」だとすると、エロスの指に傷がないといけません。しかしどの指にも見つかりません。そこで三人称単数の主語が、この絵の中の別の誰かと仮定して、一本一本丹念に探していくと、ウェヌスのこれ見よがしに放り出している左足の親指に傷があります。意味ありげにアレスの右の人差し指が、この傷を指さしています。なおこのアレスの指差しの描写は、この詩ではなく、『物の本質について』の記述の中で明らかになります。

fingerwound

この文をまとめると、次のようになります。

酔っ払い(アレス)がバラ色の敷布の上でなだめている蜂をエロスは見ていなかった。そして彼女(アフロディーテ)は指を傷つけられた。


Πατάξας τὰς χεῖρας, ὠλόλυξε· δραμὼν δὲ καὶ πετασθεὶς πρὸς τὴν καλὴν Κυθήρην, ὄλωλα, μῆτερ, εἶπεν, ὄλωλα, κἀποθνήσκω.

πατάξαςはπατάσσω「叩く、傷つける」の三人称単数アオリストとみなすことができるので、ここを分詞句ではなく節として考えます。τὰςを単数女性属格、χεῖραςを女性名詞χειράς「ひび」の主格と考えれば、この節の意味は「あなたは彼女のひびを傷つけた。」となります。これだとひびが既にあったように思えてしまうので、「あなたは彼女のひびをつけた。」とします。この「ひび」とは先ほど確認したアフロディーテの傷のことになります。ただこの主語は、この中に描かれた者でしょうが、まだ誰だかわかりません。ただアフロディーテを彼女と呼んでいるので、これはアフロディーテ以外の人物視点の言葉でしょう。そうなると傷を付けた者への批判の言葉となるでしょう。

次にὠλόλυξεです。これは「鋭い声を出す」という意味ですが、声代わりに音とすれば、これは右端のサテュロスが持っているほら貝の音を表していると考えることができます。イタリア語のvoceは声も楽器の音色も表すことができるので、この言い換えは可能です。つまり、ὠλόλυξεで「彼は鋭い音を発した。」となり、右端のサテュロスについての記述となります。

loudcrying

δὲは「そして」。δραμὼν καὶ πετασθεὶς πρὸς τὴν καλὴν Κυθήρηνは真ん中のサテュロスの描写と考えます。彼は足を大きく開いて、走っている姿をしています。またしっぽの様子から彼が飛び跳ねている様子もわかります。そして顔がアフロディーテ(ウェヌス)の方を向いていいます。アフロディーテはそれだけで美しく描かれていますが、念を押すために宝石を身につけています。καλόςのイタリア語の意味の中にglorioso「輝かしい」があります。ここをまとめると「輝かしいアフロディーテの方を向いて走って、跳ねていた」となります。

runandjump

toAphrodite

次はὄλωλαの意味です。彼はどこも怪我はしていません。しかし、見ようによっては右腕を槍が貫通しています。この描写に対して、僕は壊れたと訴えているわけです。そしてアフロディーテをお母さんと呼んでいて、なおかつこの子は男の子のようですから、アフロディーテとアレスの間の男の子ども、フォボスかダイモスになるでしょう。εἶπενはそのまま「彼は言った」と訳します。確かに彼は口を開いています。もう一つ、ὄλωλαがあります。これはただ繰り返しとします。そしてκἀποθνήσκωです。これは自動詞のままで「僕死んじゃうよ!」とします。彼の顔の表情から母親の気を引こうとしているだけのように思われます。

まとめるとこうなります。

あなたは彼女(アフロディーテ)のひびを付けた。彼(右端のサテュロス)は鋭い音を発した。そして輝くアフロディーテの方を向いて走って跳ねながら、「僕壊れちゃったよ!お母さん」と彼(真ん中のサテュロス)が言った。「僕壊れちゃったよ。」「僕死んじゃうよ。」


Ὄφις μ΄ ἔτυψε μικρὸς, πτερωτὸς, ὃν καλοῦσι μέλισσαν οἱ γεωργοί.

ὄφιςは蛇のことですが、この絵の中には描かれていないようです。ただこの絵の中に描かれているサテュロスたちがアフロディーテの子どもを表しているのならば、右下の子どもはハルモニアになるでしょう。服を着ている点が女性であることを示しているのかもしれません。彼女がハルモニアならば、彼女は蛇に関係ある存在です。なぜなら、彼女は将来カドモスと結婚しますが、晩年彼とともに蛇の姿に変えられてしまいます。とはいっても彼女はまだ人の姿をしています。蛇といえばイタリア語ではserpente、ラテン語でもserpenteです。この語はラテン語の動詞serpo「這う」に由来する言葉です。したがってὄφιςjは語源にさかのぼって「這うもの」と考えれば、これは右下のサテュロスの腹這いになっている姿を表していることになります。この子は他の子よりも小さいのでμικρὸςはそのまま「小さい」と訳します。πτερωτὸςは「翼のある」という意味ですが、これはサテュロスたちの耳の形のことだとします。με ἔτυψεはそのまま「私を叩いた」とします。主節の部分をまとめると、「小さくて、翼のようなものがある、這っている者が私を叩いた」となります。つまり、アフロディーテの足指の傷を作ったのは右下の小さなサテュロス、そしておそらく彼女はアレス(マルス)とアフロディーテ(ウェヌス)の娘ハルモニアです。

serpo

後半のὃν καλοῦσι μέλισσαν οἱ γεωργοίは関係節で、本来の解釈と同じで先行詞はὄφιςです。οἱ γεωργοίは農家の人たちを表しますが、この絵には複数の農家の人たちは描かれていません。ハルモニアの前には植物があるので、彼女は農家かもしれませんが、彼女だけだと単数です。そこで辞書を探してみます。γεωργόςに近い綴りの言葉にΓεώργιοςがあります。この語はγεωργόςを語源とするもので、綴りとしては「i」があるかないかの違いです。このΓεώργιοςはキリスト教の英雄、聖ゲオルギオス(セント・ジョージ)のことで、国名のGeorgiaジョージアや人名のGeogeジョージの由来となるものです。聖ゲオルギオスは槍を使って竜を退治したことで有名な聖人です。そしてこの絵にも立派な槍が描かれています。つまり槍を抱えて悪者退治をしている彼らは「聖ゲオルギオスたち」というわけです。ゲオルギオスの綴りに「i」が足りませんが、それはアレスが支えている立てた棒で補えということでしょう。そういう綴りの不整合も、子どもたちの可愛らしい未熟さとそれを見守る親の姿として表現されています。

georgios

本来のこの文ではκαλοῦσιは呼び名を表す動詞として使いますが、この意味を絵で表現することは難しそうです。そこで、今回はこの動詞の意味をイタリア語のconvocore「呼び寄せている」とします。蜂の方向を向いて法螺貝を吹いている右端のサテュロスの行為を表す言葉とします。しかしそうするとμέλισσαν「蜂」という単語の解釈に困ります。このままでは文法的にうまく訳せません。そこでまた別の意味を考えます。μέλισσαは動詞μελίζω「ばらばらにする」もしくは「歌う」のアオリスト分詞の中性(主格/呼格/対格)でもあります。つまり、この語を分詞と考え、関係詞を修飾する形容詞とします。μέλισσα「蜂」は本来μέλι「蜂蜜」が由来とされますが、頭・胸・腹とはっきりと分かれた姿はこの分詞を使って形容することができます。そしてこれは右下のハルモニアを表す言葉にもなります。彼女は鎧の二つの穴から別々に体を出しています。つまり「体が別々のそれ」は蜂もハルモニアも表していると考えることができます。ただし聖ゲオルギオスたちからは、ハルモニアはそのような姿になっていることは見えていないので、これは「私」つまりアフロディーテの視点でのハルモニアの描写になるでしょう。

さて、最初の文にもμέλισσανという言葉がありました。そこでは蜂をなだめると解釈していましたが、μέλισσανがハルモニアを表しているとすると、蜂と解釈するよりももっとこの絵にあったものになります。小さな子どもなので、「なだめる」でもいいですが、「あやす」とします。この修正は最後のまとめで行います。ただアレスがあやしているときも、ハルモニアが絵のように体が別々に出ていたとは考えにくいので、この絵が描かれている時点での彼女の様子で、過去の彼女のことを呼んでいるとします。

この文章の解釈に戻ります。お母さんであるアフロディーテが傷つけられたことを知った彼らは、その犯人を退治しようとしているのでしょう。このときμέλισσανという言葉をそのまま「蜂」と理解してしまったようです。槍が蜂の巣の方を向いているので、エロスがちゃんと見えていないので断言はできませんけれど、その可能性が高いでしょう。しかし、そもそもアフロディーテは、ハルモニアが犯人だとエロスたちに気付かれないようにしたのかもしれません。そのため、小さくて、羽が生えて、体がばらばらな蛇が噛んだと言ったのかもしれません。神様が自分の子どもに対して嘘がつけないでしょうから、わざと難しい謎々の形で話したのでしょう。もちろん、この絵の謎解きをする人への問題でもあります。ところでμέλισσανという言葉がエロスたちに伝わっていなくてはなりませんが、アフロディーテは口を開いていません。厳密に考えると、同じ内容を子どもたちに少し前にしゃべっておく必要があるでしょう。

まとめると、こうなります。

小さくて翼のようなものが付いてる這う者(ハルモニア)が私(アフロディーテ)を叩いた。そして体が分かれているその者を聖ゲオルギスたち(男の子たち)が呼び寄せている。


Ἡ δ΄ εἶπεν· εἰ τὸ κέντρον πονεῖ τὸ τῆς μελίσσης, πόσον δοκεῖς πονοῦσιν, Ἔρως, ὅσους σὺ βάλλεις;

δέは接続詞です。ἡは三人称単数の代名詞で、この絵の中でしゃべっているように見えるのは真ん中のサテュロスか、右下のハルモニアです。今回はハルモニアとしましょう。ἡ δ΄ εἶπενは「そして彼女(ハルモニア)はしゃべった。」となります。

すぐ後のεἰで条件節τὸ κέντρον πονεῖ τὸ τῆς μελίσσηςを導きます。今回もこれを、πονεῖ τὸ κέντρον τῆς μελίσσηςと考えて解釈します。τὸ κέντρον τῆς μελίσσηςは本来「蜂の針」ですが、ハルモニアを体がばらばらな者と形容したので、τῆς μελίσσηςはハルモニアも表していると考えます。しかし、そうするとτὸ κέντρονの意味が「針」のままだとおかしくなります。そこで別な意味を考えてみるわけですが、κέντρονのイタリア語の意味を調べると、pungolo、stimoloという言葉が出てきます。英語ではgoadです。こらは刺激という意味を持ちますが、同時に家畜を追うときなどに使う「突き棒」を表します。これはハルモニアのすぐそばでアレスが左手で立てている金属の棒を表す言葉になるでしょう。この棒にハルモニアの手が触れた描写になっているので、それにより彼女に属する物という表現も可能になります。つまり、τὸ κέντρον τὸ τῆς μελίσσηςは「体がばらばらな者の突き棒」と解釈できます。この解釈は元々の蜂の針を表すこともできます。というより、これはハルモニアの台詞なので、自分への追及をかわそうと蜂へ転嫁した言いようだと考えた方がいいでしょう。そうするとこの節は、「蜂の針(体がばらばらな者の突き棒)が苦しめたのならば、」となります。

serpo

次にπόσον δοκεῖς πονοῦσινです。これは本来の解釈とほとんど同じでいいでしょう。πονοῦσινは自動詞とします。「みんながどれくらい困っているか、あなた考えてるの?」です。この場合、前も見ずに大きな槍を振り回しているエロスへの批判となります。構図的に槍はエロスの前の二人のサテュロスに刺さっているようにも見えます。アレスも槍に倒されたかのようになっています。ハルモニアは罪を犯しましたが、大騒ぎをしているエロスにも確かに非があります。こちらの節がこのような意味になると、前の節は条件よりも譲歩がいいかもしれません。ここまでをまとめると、「蜂の針(体がばらばらな者の突き棒)が苦しめたとしても、みんながどれくらい困っているか、あなた考えてるの?」となります。

georgios

次のἜρωςは呼びかけです。二人称の動詞の主語が誰であるかを示しています。そして次の文です。ὅσους σὺ βάλλειςは本来ὅσουςを関係詞として、英語のas many asのように訳していました。しかしこの語は感嘆文のhow many!やhow large!の意味でも使えます。ὅσουςは男性複数対格です。他動詞βάλλω「投げる」は、対格によって、攻撃する対象を表現する場合にも武器を表現する場合にも使えますが、その対格が男性複数ですから、この絵の場合は複数ある攻撃の対象と考えられます。つまり、絵で槍が二人のサテュロスとアレスを貫いているかのように描かれているので、これをこの言葉が表しているとするわけです。ちょうど全員男性です。「エロス!あなたはなんてたくさんの男の人を突き刺しているの!」という非難めいた台詞になっています。エロスは大きな槍まで持ち出して大騒ぎしていて、槍が人物に重なって描かれていますが、実際に刺さっているわけではありません。

まとめると、こうなります。

そして彼女(ハルモニア)はしゃべった。「蜂の針(体がばらばらな者の突き棒)が苦しめたとしても、みんながどれだけ困っているか、あなた考えてるの?エロス!あなたはなんてたくさんの男の人を突き刺しているの!」


絵に合わせてまじめに誤訳したものをまとめると次のようになります。

酔っ払い(アレス)がバラ色の敷布の上であやしているこの体が分かれている子(ハルモニア)をエロスは見ていなかった。そして彼女(アフロディーテ)は指を傷つけられた。お前は彼女(アフロディーテ)のひびを付けた。彼(右端のサテュロス)は鋭い音を発した。そして輝くアフロディーテの方を向いて走って跳ねながら、「僕壊れちゃったよ!お母さん」と彼(真ん中のサテュロス)が言った。「僕壊れちゃったよ」。「僕死んじゃうよ」。小さくて翼のようなものが付いてる這う者(ハルモニア)が私(アフロディーテ)を叩いた。そして体が分かれているその子を聖ゲオルギスたち(男の子たち)が呼び寄せている。 そして彼女(ハルモニア)はしゃべった。「蜂の針(体が分かれている子の突き棒)が苦しめたとしても、みんながどれだけ困っているか、あなた考えてるの?エロス!あなたはなんてたくさんの男の人を突き刺しているの!」


この詩を以前訳したものといくつか違ってしまいましたが、この記述が落書きされる前に描かれていたという設定の絵となります。ある日の日中の、夫婦と四人の小さな子どもたちの、ちょっとした事件の一コマという絵です。ぼーっと見ていただけでは絶対に気付かない内容です。『物の本質について』の文章はこの絵に対して落書きをする様子を記述したものとなります。アフロディーテに傷を負わせたのは、ハルモニアですが、彼女は既にアレスに捕らえられ、もうこれ以上悪さをしないように彼の鎧の中に閉じ込められています。彼女が罪を犯し捕らえられていることは、金属の棒とアレスの腕で作った牢屋がそれを表しています。

この詩の解釈だけでは、フォボス、ダイモス、ハルモニアという名前は推測できるだけで断定することはできません。しかし、サテュロスたちはそのような姿をしていますが、彼らはアレス(マルス)とアフロディーテ(ウェヌス)との間の子どもたちと考えてよいでしょう。大人のサテュロスは、暴力的な愛欲を象徴する存在なので、アレスとアフロディーテの子どもを表すものとしては、この姿は視覚的にとても的確なものと言えるでしょう。彼らが二人の子どもであるならば、それぞれフォボスかダイモス、そしてハルモニアとなります。またエロスはアレスの子ではありませんが、武器を持っているので暴力的な属性を満たしているとして彼もサテュロスのように描いていると考えられます。なおエロスのお腹が丸見えなのにおへそが描かれていない描写は、アフロディーテから生れたわけではないがアフロディーテの子どもとして扱われている、その特殊性を端的に示しています。

以前から「愛は力に勝つ」という、マルシリオ・フィチーノの『愛について』の金星(アフロディーテ)と火星(アレス)の説明から導かれるその思想が、この絵に描かれているということが言われていましたが、その解釈は当たらずといえども遠からずで、アレスを倒しているのは、アフロディーテではなく、本職のクピドです。もちろん、本当にクピドが槍で倒したわけではありませんが、そう見えるように描いていることに意味があると思われます。

書いている途中で度々新たな発見があったため、各投稿の間に不整合なところがいくつかありますが、以上のように今回と前回までの解釈により、《ヴィーナスとマルス》は『アナクレオンテア』の蜂とエロスの詩と『物の本質について』のウェヌスを讃える冒頭の部分の記述を重ねて描かれていることが説明できます。



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2014年09月29日

『物の本質について』と《ヴィーナスとマルス》(8)

今回は38行目からです。 これで『物の本質について』の冒頭のウェヌスを讃えている部分が終わります。

Hunc tu diva tuo recubantem corpore sancto
Circumfusa super suaveis ex ore loquelas
Funde petens placidam Romanis incluta pacem.
Nam neque nos agere hoc patriai tempore iniquo
Possumus aequo animo: nec Memmi clara propago
Talibus in rebus communi deesse saluti.

現在流布されている『物の本質について』のラテン語原文は、この後に数行挿入されてから、二人称の相手がウェヌスから切り替わった次の段落に続いていきます。しかしgoogle booksで調べてみると、ルネサンス期に近いものは、いわゆる『ウェヌスの讃歌』の部分がこれで終わっています。19世紀以降でないとその挿入は現れません。挿入されたものの方がルクレティウスが書いたものに近いのかもしれませんが、ここではボッティチェリの時代に読まれていたものに近いほうがいいわけですから、とりあえず、ここで終わりとします。


hunc tu diva tuo recubantem corpore sancto circumfusa super suaveis ex ore loquelas funde petens placidam Romanis incluta pacem.

まず単語の情報をまとめておきます。huncは代名詞、対格男性単数、意味は「これ」。tuは代名詞、主格/呼格男性/女性単数、意味は「あなた」。divaは女性名詞diva「女神」の主格/呼格/奪格単数、もしくは中性名詞divum「天空」の主格/呼格/与格複数、もしくは形容詞divus「神の、神聖な」の主格/呼格/奪格女性単数、主格/呼格/対格中性複数。tuoは形容詞tuus「あなたの」の奪格/与格男性/中性単数。recbantemは動詞recubo「横になる、寄りかかる」の現在分詞の対格男性/女性単数。corporeは中性名詞corpus「身体、肉、胴体」の奪格中性単数。sanctoは動詞sacio「承認する、制定する」の完了分詞の与格/奪格男性/中性単数、もしくは名詞sanctus「聖人」の与格/奪格男性単数、形容詞sanctus「神聖な」の与格/奪格男性/中性単数。circumfusaは動詞circumfundo「まわりに注ぐ、取り囲む」の完了分詞の主格/呼格/奪格女性単数、主格/呼格/対格中性複数。superは動詞supo「投げる、まき散らす」の接続法受動態現在一人称単数、もしくは副詞super「上に、上から、上で、さらに」、もしくは前置詞super「(奪格)の上で、の上に、の時に、について」「(対格)の上に、の上へ、を越えて、の向こうに」。suaveisは形容詞suavis「甘い、柔らかい、耳に快い」の主格/対格男性/女性複数。exは奪格支配の前置詞、意味は「から、より、に由来する、のために」。oreは動詞oro「懇願する、祈る、論じる」の命令法二人称現在、もしくは中性名詞os「口、話、表現、顔、発音」の奪格単数、もしくは中性名詞aurem「黄金」の呼格単数。loquelasは女性名詞loquela「言葉、話」の対格複数。fundeは中性名詞fundus「底、基礎」の呼格単数、もしくは動詞fundo「注ぐ、こぼす、ぬらす、(言葉を)発する」の命令法二人称単数現在。petensは動詞peto「向かう、攻撃する、追う」の現在分詞の主格/呼格単数、対格中性単数。placidamは形容詞placidus「静かな、穏やかな」の対格女性単数。romanisは男性名詞Romanus「ローマ人」の与格/奪格複数、もしくは形容詞Romanus「ローマの、ローマ人の」の与格/奪格複数。inclutaは形容詞inclutus「よく知られた、有名な」の主格/呼格/奪格女性単数、主格/呼格/対格中性複数。pacemは動詞paco「平和にする、平定する、開墾する、静める」の接続法一人称単数現在、もしくは女性名詞pax「平和、調和」の対格単数。

分詞句を複雑に含んだ長い文章です。分かりやすく主文だけを抜き出すと、tu diva suaveis loquelas ex ore funde です。そしてこの文に含まれている分詞句は、現在分詞対格男性単数のrecubantemを使ったhunc tuo recubantem corpore sanctoと、さらにこれを目的語に持つ完了分詞主格女性単数circumfusaを使ったcircumfusa super、そして現在分詞主格女性単数petensのpetens placidam Romanis incluta pacemです。

主文から解釈します。動詞は命令法二人称単数のfundeです。主語はtuで確かに二人称単数です。これは文脈から女神ウェヌスを表しています。divaは呼格で、主語の強意になっています。目的語はsuaveis loquelasで「甘い言葉を」です。oreは奪格で、ex oreは「口から」になります。fundo「こぼす」の意味は、これらの「言葉」と「口」から「(言葉を)発する」と考えられます。女神への命令なので祈り、懇願の表現になります。したがって主文だけまとめると、「女神よ!甘き言葉を発したまえ」です。

次にhunc tuo recubantem corpore sanctoを考えます。huncとrecubantem、tuoとcorporeと sanctoがそれぞれ結びつきます。そしてhunc recubantemは対格男性単数で、名詞化されて「このもたれている者」となります。これはウェヌスの膝の上に横になり下からウェヌスの顔を見上げているマルスを表しています。tuo corpose sanctoは与格中性単数で 「あなたの聖なる体に」となります。もちろんこれはウェヌスの体です。この与格は動詞としてのrecubantemの間接目的語になっていて、この分詞句全体で「あなたの聖なる体にもたれている者を」となります。これらはさらに完了分詞circumfusaの目的語になっています。

次はhunc tuo recubantem corpore sancto circumfusa superの意味を考えます。circumfusaが主格女性単数と解釈できるので、主文の主語であるウェヌスのことを表す語句であることが分かります。hunc tuo recubantem corpore sanctoは対格男性単数の目的語となり、意味は先ほどの通り「あなたの聖なる体にもたれている者を」です。superは前置詞の可能性もありますが、直後のsuaveisは既に示した通り主文の一部として考えた方がうまくいくので、ここでは副詞として解釈します。circumfundo「取り囲む」の意味が少し難しいです。これは受動態が中動態として解釈される動詞です。つまりここで使われているcircumfusaは完了分詞の形をしていますが、受動ではなく能動に訳されます。自分の体で囲んでいるわけですから、分かりやすく言い換えれば、「抱きしめている」と訳せます。それに副詞superがついて、「上から抱きしめている」となります。まとめると「あなたの聖なる体にもたれている者を上から抱きしめて」です。

次はpetens placidam Romanis incluta pacemです。petensも主格女性単数と解釈できるので、これもウェヌスについて記述された語句だと考えます。inclutaは呼格女性単数として、この語句が修飾しているものを強調しているとします。意味は「よく知られた女性よ!」です。placidamはpacemと結びついて、対格女性単数となり、意味は「穏やかな平和を」とします。Romanisは与格で、「ローマ人のために」とします。現在分詞petensは主動詞と同時と考えて、「請い求めながら」とします。まとめて「よく知られた女性よ!ローマ人のために穏やかな平和を請い求めながら」とします。

全体を合わせると、「女神よ!あなたの聖なる体にもたれている者を上から抱きしめながら、よく知られた女性よ!ローマ人のために穏やかな平和を請い求めながら、甘き言葉を発したまえ!」となります。マルスはウェヌスに膝枕をしてもらいながら、その愛の女神の美しい顔に見とれています。そして著者ルクレティウスは、ウェヌスに対して、あなたの膝の上に横になっている戦いの神マルスを上から抱きしめて、甘ったるい声でローマを平和にしてちょうだいっておねだりしてくれませんか、と願ったわけです。

 

絵に合わせた解釈を考えます。当然、この絵の中には本来の記述は描かれていません。他の解釈を考えます。この文で最初に分かるのはpacemです。以前paxに「調和」の意味があるので、右下の女の子ハルモニアを表していると解釈しました。ギリシャ神話のイレーネに相当する平和を司る女神パクスがいますが、ここでは調和の意味を優先させてハルモニアを指し示す言葉とします。そしてpacemがハルモニアを表すとなるとplacidam romanis pacemという語句はromanisが奪格と解釈できるので、「複数のローマ物のところにいる穏やかなハルモニア」と解釈できます。placidam pacemは対格単数になるので、何かの目的語になるのでしょうが、この段階ではまだ分かりません。ただこの解釈が正しければ、ハルモニアの周囲にローマと呼べるものがあるということになります。

そして見つけたローマと呼べるものが、ローマ秤(romano)とローマン・ヒヤシンス(giacinto romano)です。ハルモニアのすぐ前にある丸く凹んだ金属は、こちらにそこの部分を向けて置いてあるローマ秤のおもりだと思われます。正直この秤のおもりという解釈には自信がありません。他にローマと呼べるものがあるのかもしれませんが、とりあえず現時点ではこう解釈します。農業をやっているハルモニアならば、収穫物を測る秤ぐらい持っていてもおかしくありません。一方のローマン・ヒヤシンスとしているのは、ハルモニアの左手の前にある葉の茂った植物です。あまりヒヤシンスらしくありませんが、同じくボッティチェッリが描いた《春》の足下に生えているヒヤシンスが参考になります。

hyacinthharmonia

hyacinthprimavera

《春》の地面には少なくても三株のヒヤシンスが生えています。この中で一番分かりやすいのが上の図のものです。確かに《ヴィーナスとマルス》の右下にある植物と似ています。ちなみに《春》のこの植物の葉には「OI」という文字が刻まれているように見えます。これはオウィディウス『祭暦』5巻224行および『変身物語』10巻215行に記述されているヒアキントスが刻んだ嘆きの言葉を元にした描写だと考えられます。この文字は《春》のこの植物がヒヤシンスであることを示しています。

budszoom

ハルモニアが左手で抱えている果物のようなものはよく見ていると、意外にでこぼこしていて、筋が何本も通っています。これはヒヤシンスの蕾の塊かもしれません。実物よりも丸々としていて、葉の大きさと比べて大きすぎるように思えます。しかしヒヤシンスは甘い香りがするので、以前この塊を甘いものと解釈したことと矛盾は起きません。ハルモニアはこの蕾の塊を手で押さえつけているとします。出所の分からない植物の実よりも、そこに生えている甘い花の蕾のほうが合理的な解釈になるでしょう。下の写真は以前育てたヒヤシンスの蕾の写真です。

hyacinthbud

今度は主動詞fundeを考えてみます。これは二人称単数命令です。主な意味は「注ぐ、ぬらす、(言葉を)口に出す」で、すぐ近くにex oreがあることから、しゃべっているか、口から何かを出していると解釈できます。絵の中で口を開いているのは、マルス、真ん中のサテュロス、そしてハルモニアです。この後の語句でハルモニアのことを記述しているので、おそらくこれもそうでしょう。ハルモニアは口を開き、舌を見せ、何かしゃべっているような様子です。

ただこの主文の中で本来の目的語になっているsuaveis loquelasは、そのまま「言葉」の意味では描写として使えません。他の表現を考えてみます。loquelaのイタリア語の意味にlinguaggio「言葉」があり、これはラテン語のlingua「舌、言葉」に由来する言葉です。イタリア語にも同じ綴りのlingua「舌、言葉」があります。このlinguaの「舌」の意味を使うと、これで絵として描けるようになるでしょう。ハルモニアは舌を見せています。この単語でこの様子を表せそうに思えます。しかし、そう簡単にはいきません。このloquelasは対格複数としてしか解釈できないので、舌は複数必要です。真ん中のサテュロスも口を開けて舌を見せているので、この舌を含めた表現なのかもしれません。しかしこれだと動詞fundoが単数であることと矛盾が生じてしまいます。ではこれは舌ではなく、舌のような物を表していて、ハルモニアのそばに複数の物が描かれているのかもしれません。探してみると、彼女のすぐ近くに複数の舌の形をしたものが描かれていました。ハルモニアの下にある植物です。名前は分かりませんが、四方に四枚の舌状の葉が広がっています。これが二株描かれています。この植物があればハルモニアの舌を使って文章を考える必要もありません。この植物にふさわしい形容詞suaveisの意味は「柔らかい」でしょう。この植物が特定され、甘いものだとはっきりすれば、「甘い」という意味もあり得ます。それでは動詞fundoの意味です。ハルモニアの顔をよく見てみると、左頬によだれが流れているような描写があります。そして舌状の植物の右側のものには、四枚の葉の間に白い何かがあります。これはハルモニアのよだれを表しているように見えます。まとめると、tu diva suaveis ex ore loquelas fundeは「女神よ!あなたは柔らかな舌状のものたちを口から濡らしたまえ!」と解釈できます。実際この絵にそう解釈できるように描かれていますが、そういう意味になるように落書きをして手を加えたというストーリーなのでしょう。ハルモニアの口の周りをよく見るとよだれが描かれているのも分かります。これも後から書き足した落書きのように見えます。

os

 

tongues

次は、hunc recubantem tuo corpore sancto circumfusa superの意味を考えます。circumfusa superという記述がそのまま使えそうです。ハルモニアは左手で蕾の塊(もしくは果物)を上から自分の方へ抱え込んでいます。suaveisはさっきの解釈で既に使ったので、superは前置詞ではなく副詞として使います。

hyacinthharmonia

ところが、circumfusaという言葉を踏まえて、この絵をよく見るとさらに重要なことに気付きます。他のサテュロスも上から抱え込んでいます。左端のクピドと真ん中のサテュロスは槍を上から抱え込んでいます。右端のサテュロスも法螺貝をやはり上から抱え込んでいます。circumfusaは複数と解釈することもできるので、この語句で子どもたち全員の仕草を表していると考えても文法的に問題ありません。ただそうすると主動詞が示す単数主語との関係が切れてしまうので、文全体の構造を変える必要が出てきます。

circumfusa1

circumfusa2

circumfusa3

このアイデアに合わせて今度はtuo corpose sanctoの意味を考えます。本来これは与格ですが、場所を表す奪格と考えて、抱きかかえている仕草をしている子どもたちのいる場所を示していると考えます。そうすると、神聖な体はウェヌスではなくマルスと考えた方がいいでしょう。なぜならハルモニアが含まれているからです。したがって、tuo corpose sanctoは「神聖なあなた(マルス)の体のそばに」となります。残りはhunc recubantemです。本来は横になって膝枕をしてもらっているマルスを表現していますが、今回は子どもたちがそれぞれ抱え込んでいるものになります。つまり、左端のクピドと真ん中のサテュロスにとっては槍です。右端のサテュロスにとっては法螺貝です。そしてハルモニアにとっては蕾の塊(もしくは果物)です。これらの物に共通する性質は、recubantemまさに横になっていることです。circumfusa superを中性主格複数の名詞として主語とします。動詞はsum「いる」が省略されているとします。まとめると「あなた(マルス)の神聖な体のところでそこにある横になっている物を上から抱きしめている者たちがいる。」となります。

ところが、ここまで解釈してみると、さらに hunc tuo recubantem corpore sancto circumfusa super という語句で表現できるものがあることに気付きます。それはマルスの左腕の描写です。

circumfusa4

何度も指摘しているようにマルスの左腕は、突き棒と、絵の角とで矩形を作って、寝そべっているハルモニアを囲んでいます。動詞circumfundoの意味の一つ、accerchiare「取り囲む」を使えば、この描写を説明できます。確かにハルモニアは横になっていて、マルスの腕は上からハルモニアの体を囲んでいます。tuo corpore sanctoは随伴の奪格と考えて、自分の腕とともにハルモニアを囲んでいる様を表していると考えるわけです。腕とともにハルモニアを囲んでいるのは、突き棒ですが、これだけでは閉じません。絵の下の端まで届いていません。文法的に囲んでいる物が複数である必要があるので、この連結は必然となります。したがって「あなた(マルス)の聖なる体とともにこの横になっている者(ハルモニア)を囲んでいる物(突き棒と白い布)がある。」という解釈になります。

こうなると、次々に分かってきます。動詞circumfundoにはcingere「巻き付ける、まとう、身につける」という意味もあります。この絵の中で服を着ているのは横になっている者たちです。腰に布を掛けているマルスも例外ではありません。circumfusaは彼らが身につけている物を表すと考えます。服ですから体の上にあります。そしてウェヌス、ハルモニア、マルスはそれぞれ単数対格のhunc recubantemで表されるとします。複数の身につける物がありますが、それぞれは一人しか覆っていないからだと考えます。tuo corpore sanctoは場所を表す奪格として、マルスの体を表します。ウェヌスの服はマルスの足に接しています。ハルモニアの服も袖のところでマルスの指と接しています。そしてマルスの腰の布は当然マルスに触れています。この場合もsum「ある」が省略されているとします。したがって彼らの身につけている物を表す記述は「あなた(マルス)の聖なる体のそばにこの横たわっている者(ウェヌス/ハルモニア/マルス)を覆っている複数の物がある。」と解釈できます。横になっている者たちが体に何かをまとっている理由がこの記述にあるというわけです。

circumfusa5

circumfusa4

circumfusa6

途中に節ではなく、文があることにしたので、tu diva suaveis ex ore loquelas fundeは、tu divaとsuaveis ex ore loquelas fundeは分断されます。後半は主語の代名詞は省略していると考えれば、そのまま使えます。問題は前半のtu divaです。tuoは呼格と考えます。直後にマルスの体を示すtuo corposeがあるので、tuoはマルスを示していると考えます。次にdivaは、あとからハルモニアへの命令文が出てくるので、ハルモニアとし、さらにこれを奪格と考えます。したがって、tu divaは「女神(ハルモニア)のそばにいるあなた(マルス)よ!」とします。

解釈が残っているのは、最後の分詞句にあるpetensとinclutaです。本来の解釈では、petensは「追い求めながら」という副詞節の一部になっていますが、残りの目的語などを別の意味に使っているので、これも別の使い方をしなくてはいけません。一方のinclutaですが、「有名な」という意味では絵になりません。他の意味を考えます。inclutusのイタリア語での意味は形容詞illustreです。この語の古語表現は現代のchiaro「明るい、輝く」、luminoso「明るい、光を発する」という意味と同じになります。この絵が描かれたルネサンス期ではこの表現は古語ではなかったでしょう。この語はラテン語の動詞illustro「明るくする」に由来しています。そこでpetensとinclutaを組み合わせます。inclutaを中性対格複数と考えれば、petensの目的語にすることができます。そうすると「複数の輝く物を追い求めながら」となります。これはハルモニアの視線のことを表していると考えます。ハルモニアのおでこの角は二つとも輝いています。これがinclutaです。そしてこれを見上げる視線によって、彼女がそれを追い求めていることを表しています。先日解釈したときは角を単数形にするために、片方の角を線で消している描写があると指摘しましたが、それがよく見ないと分からなかったのは、他の場面ではここのように複数として解釈可能でなくてはならなかったからだと考えます。

最後に、この文の最初で、placidam pacem Romanisをひとまとまりに解釈していましたが、petens inclutaの解釈が分かると、Romanisをこれに含めた方がいいでしょう。そして残ったplacidam pacemは対格なので、感嘆の対格と解釈して、「穏やかなハルモニアよ!」とします。

この文全体をまとめるとこうなります。

女神(ハルモニア)のところにいるあなた(マルス)よ!あなた(マルス)の神聖な体のそばに横になった物(槍/法螺貝/蕾の塊)を上からか抱え込んでいる者たち(子どもたち)がいる/あなた(マルス)の聖なる体とともにこの横になっている者(ハルモニア)を囲んでいる物(突き棒と白い布)がある/あなた(マルス)の聖なる体のそばにこの横たわっている者(ウェヌス/ハルモニア/マルス)を覆っている複数の物がある。穏やかなハルモニアよ!あなたは、複数の輝く物を追い求めながら、柔らかな舌状の者たちを口から濡らしたまえ!

You(Mars) near goddess(Harmonia)! The persons(children) who is holding the lying object(spear/conch/buds) from above are near your(Mars) sacred body/The objects(stick&loincloth) which is surrounding the lying person(Harmonia) from above are with your(Mars) sacred body/The objects(cloths) which is covering the lying person(Venus/Harmonia/Mars) from above are near your(Mars) sacred body. Desiring the bright objects(horns of Harmonia), calm Harmonia!, Moisten  the soft tongue-like objects(four-leaf plants) from mouth!


nam neque nos agere hoc patriai tempore iniquo possumus aequo animo

namは接続詞で意味は「というのも、なぜなら、もちろん、確かに、一方、たとえば」。neque(nec)は、副詞「ではない」、接続詞「そして〜ではない」、もしくは接尾辞queの付いたne。neは動詞neo「紡ぐ、織る」は命令法二人称単数、もしくは副詞「しない、でない」、もしくは接続詞「〜しないように、〜するといけないから」、間投詞「本当に、実に、確かに」。nosは代名詞nos「わたしたち」の主格/呼格/対格男性/女性複数。agereは動詞ago「進める・・・」の不定法現在、命令法受動態二人称単数、受動態未来二人称単数、もしくは動詞agero「取り除く」の命令法二人称単数。hocは代名詞hic「これ」の主格/奪格/対格中性単数、奪格男性単数。patriai女性名詞patria「祖国」の属格/与格単数。temporeは中性名詞tempus「時間、時期」の奪格単数、もしくは中性名詞tempus「こめかみ、側頭部」の奪格単数。inquoは形容詞iniquus「平らではない、不満な」の与格/奪格男性/中性単数。possumusは動詞possum「できる」の一人称複数現在。aequoは形容詞aequus「平らな、水平な」の与格/奪格男性/中性単数、もしくは中性名詞aequum「平地、平等、正当」の与格/奪格単数、もしくは動詞aequo「平らにする、まっすぐにする、等しくする」の一人称単数現在。animoは男性名詞animus「精神、心」の与格奪格単数、もしくは動詞animo「生命を与える」の一人称単数現在。

動詞はpossumusで一人称複数現在で主語は一人称複数のnosです。hocとiniquoは奪格中性単数としてtemporeを修飾します。またpatriaiは属格単数としてtemporeを修飾します。aequoは奪格男性単数としてanimoを修飾します。hoc iniquo tempore patriaiは時期を表す奪格として「祖国の不安定なこの時期」となります。この本が書かれた時期は、岩波文庫の注釈には第一期三頭政治直前と書いてあります。ローマの歴史に明るくはありませんが、政情不安だったのでしょう。aequo animoも奪格ですが、これは手段を表し「平穏な心で」とします。問題は動詞agoの意味です。この語にはたくさんの意味が含まれますが、ここでは「行動する」としておきます。文の内容から考えて最初にあるnamは「なぜならば」とします。前の文をまとめると、「なぜならば、私たちは祖国の不安定なこの時期に平穏な心で行動できない。」となります。主語は私たちと複数ですが、ルクレティウス本人に限れば、平穏な心で行動することとは、この詩を書くことを指しているのでしょう。

絵に合わせた解釈を考えます。これはとても抽象的な記述なので、絵として描くのはとても大変だったでしょう。まず目に付くのがtemporeです。これは以前も出てきましたが、「こめかみ、頭」と同じ綴りです。これがiniquo「平らではない」というのですから、この絵の中で頭が平らではない人物を探してみます。すると、マルスの額だけがでこぼこしている描写であることに気付きます。これでこの記述全体がこの付近を表したものである可能性が出てきました。こうなるとpatriaiが表すものも限定されてきます。本来は「祖国」ですが、「起源となる場所」と考えるとマルスの頭のすぐ右に描かれている「蜂の巣」を表すと考えられます。この中から彼らは生れてくるわけですから。

次にaequo animoの意味です。aequoには「水平な」という意味があります。額のそばで水平と言えば、マルスの額と蜂の巣の間にある絵に付いた傷のような奇妙な直線が目にとまります。この存在には以前から気付いていましたが、保存中に絵が傷んでついたものだと思っていました。しかしこの記述があれば、この線も故意に描いたものになるでしょう。animusの意味を調べていくと、イタリア語で「inclinazione」という意味があります。この語には「傾斜」という意味があります。したがってaequo animoで「水平な傾斜」になります。またhoc tempore iniquoを奪格、patriaiを与格とすると、この直線の起点と終点を表していると考えることができます。あとは、これらの語をうまくまとめる動詞の意味を考えれば良さそうです。そこで蜂の巣の中を見ると、線の先端が一匹の蜂の体で終わっています。このことからagoは他動詞として、いままで奪格としてきたhocを単独の対格とし、この一匹の蜂を表すと考えます。そしてこの線がこの蜂のたどった軌道だとすると、動詞agoの意味として「導く」が使えそうです。

aequoanimo

この文は本来否定文ですが、線が実際引かれているので否定文ではないようです。そのためnequeを副詞ne「一方」に接尾辞queが付いたものと考えます。主語のnosは、今まで通りこの絵に手を加えているミンメウス主義者の人物です。この言葉からすると落書きをしているのは一人ではないようです。この文は現在形ですが、蜂はたどり着いた後なので、蜂がたどり着いて可能性が確認された後の絵という解釈にします。まとめるとこうなります。

そして一方で本当に私たちはそれ(蜂)を平らではない額から起源となる場所に水平な傾斜のものによって導くことができる。

and on the other hand truly we can lead it(bee) from the bumpy forehead to the origin by using the horizontal degree.


nec Memmi clara propago talibus in rebus communi deesse saluti.

nec(neque)は、副詞「ではない」、接続詞「そして〜ではない」。Memmiは男性名詞Memmiusの呼格/属格単数。claraは形容詞clarus「はっきりした、明るい、傑出した、悪名高い」の主格/呼格/奪格女性単数、主格/呼格/対格中性複数、もしくは動詞claro「明るくする、明瞭にする、著名にする」の命令法二人称単数現在。propagoは女性名詞propago「取り木、挿し枝、子孫、世代」の主格/呼格単数、もしくは動詞propago「増殖させる、存続する」の一人称単数現在。talibusは形容詞talis「このような」の与格/奪格複数。inは前置詞「(対格)へ、の中へ」か「(奪格)の中に、において」。rebusは女性名詞res「物、物事・・・」の与格奪格複数。communiは中性名詞commune「共有財産、共同体、国家」の与格/奪格単数、もしくは形容詞communis「共有の、共通の、愛想のよい」の与格/奪格/処格単数、もしくは動詞communio「砦で固める、強固にする」の命令法二人称単数。deesseは動詞desum「不在である、欠けている、助力しない」の不定法現在。salutiは女性名詞salus「健康、無事、安全、挨拶、健康と安寧の神Salus」の処格/与格単数。

この文は前の文と対になっています。主動詞がなく、代わりに不定詞がありますが、これは前の文と同じようにpossumがあってそれが省略されていると考えます。Memmiは以前も出てきたルクレティウスの援助者のメンミウスのことです。Memmiは属格男性単数でpropagoを修飾しています。そして形容詞claraは主格女性単数で、名詞propagoを修飾しています。形容詞talibusは奪格女性複数で女性名詞rebusを修飾しています。前置詞inは奪格支配で、このtalibus rebusを目的語にしています。形容詞communiは与格女性単数として、女性名詞salutiを修飾しています。そしてそれぞれ次の意味のまとまりとなります。memmi clara propagoは主格で、「メンミウス家の有能な後継者が」となります。in talibus rebusは奪格支配です。resの意味がいろいろ考えられますが、「状況」という意味もあるので、「このような状況において」とします。政情不安な状況を指しているのでしょう。communi salutiは与格で、目的を表すとして「国家の安全のために」とします。deesseは「助力しない」として、それをnecで否定します。まとめると「メンミウス家の有能な後継者でもこのような状況においては国家の安全のために助力しないことはできない。」となります。国家の安全のために助力するということは、今まで二度もこの詩の中で兵役について触れてきたわけですから、戦場に赴くということになると思います。このメンミウス家の後継者というのが、ルクレティウスの支援者本人のことか、それともその子どものことかは分かりません。前の文と合わせて、これがウェヌスからマルスにこの国を平和にしてくださいと頼んでもらっている理由になります。

絵に合わせた解釈です。salusは安全、健康、挨拶を意味しますが、語頭を大文字で書くと健康の神の名前にもなります。彼女はギリシャ神話のアスクレピオスの娘ヒュギエイアに対応します。Wikipediaでこの説明を読むととても興味深い記述があります(Wikipedia ヒュギエイアから引用)

アスクレーピオス信仰が広がるにつれてヒュギエイアに対する信仰も強くなり、女性神格であったことも影響して後には女性の健康を守る神、特にいわゆる婦人病に関しては大きな権能を持つとされ、当時の女性の間に彼女の絵姿や小さな彫像を髪飾りにすることなどが流行した。

ここにヒュギエイアの髪飾りのことが書かれています。つまりSalusの髪飾りです。まさにこれは以前指摘したウェヌスの左肩の上の髪の中にいる人影です。彼女は幸福の女神Salusだったわけです。この部分は彼女を使って解釈していきます。communioには「愛想のいい」という意味があるので、communioとSalutiは本来の解釈と同じように結びつけられます。そしてこれを処格とすると「愛想のよいサルースのところに」となります。したがって、この文はウェヌスの周りを表していると考えられます。

salus

この文の主語は本来の解釈と同じように、memmi clara propagoとします。ウェヌスの髪のそばにあるこの言葉から連想される物をいろいろ考えてみると、claraと呼べるものが見つかります。それはウェヌスの胸に飾られているおそらく水晶で作られた宝石です。一つの大きな玉の周りを小さな八つの玉が平面上に取り囲んでいます。この九つの玉には、白いハイライトが描かれ輝いている描写になっています。形容詞claraの一つの意味に「輝く」とあり、この描写と重なります。そしてこのハイライトをよく見ると人が写っているように見えます。これがmemmi propago「メンミウスの後継者」になるのではないでしょうか。つまり、これは密やかな犯行声明として意図的に、メンミウス主義者である落書きの首謀者とその協力者を自ら描き込んでいるということなのかもしれません。もしくは、ここにあるのは本来壁画ではないかと以前指摘しましたが、壁画であればこれは本物の宝石が埋め込まれたものと考えることもできます。それに落書きをしているメンミウス主義者である「私」がこの宝石の表面に映り込んでしまっているというわけです。例えば夜に明かりを持ってこの絵の場所に忍び込んで落書きをしているという設定が考えられます。この主語は単数ですが、ハイライトは複数あります。この矛盾の解決のためには、一人の人物が同時にそれぞれの表面に映り込んでいるか、または周りの玉に映り込んでいるのはメンミウス主義者ではなかったとか、考えればいいでしょう。とにかく、主語は「メンミウスの輝いている後継者が」となります。大きい宝石の中には胸のあたりに光を抱いた人物が描かれているように見えます。

memmiclarapropago

talibus in rebusも本来の解釈と同じ組み合わせです。resにはいくつもの意味がありますが、ここでは「作品」や「品物」という意味で考えて、このウェヌスの宝石を表しているとします。inという前置詞を表すために、宝石の中に人物が描かれていると考えるわけです。talis「このような」という言葉は日本語と同じように、文脈によって素晴らしいものを表すときにも、ひどいものを表すときにも使われますが、ここでは宝石を表すので、「これほど素晴らしい」と訳します。これをまとめると「これほど素晴らしい品物の中に」となります。

残るは動詞desseです。これは「不在である」と訳して、それをnecで否定して、結局存在することを表します。この文にも省略されているpossumがあるものとします。したがって、「不在であることができない。」となります。犯行声明であるならば、それこそ自己主張せずにはいられないということでしょう。もしくは鏡面になっているものの前で落書きをすれば、映り込みは必至だということでしょう。この文全体をまとめると、こうなります。

輝いているメンミウスの後継者が愛想のよいサルースのところのこれほど素晴らしい品物の中に存在しないことはできない。

bright successor of Memmius cannot be absent in the excellent thing near sociable Salus.


さて、これでルクレティウスの『物の本質について』の冒頭43行とボッティチェリの《ヴィーナスとマルス》の描写とを対応させることができました。まだいくつか根拠のほしい描写がありますが、それが今回の解釈の間違いによるものか、他の典拠となる文章があるためなのかはまだ分かりません。いくつかまだ誤訳も残っているでしょう。以前はマルスの腰布の端にあるキク科の植物の存在も示していましたが、今回はその解釈を使いませんでした。しかしやはりこの植物を表す記述は必要だと思います。

簡単にまとめます。この文章を絵として表現するためには、ちょっと複雑な設定が必要です。もともとこの絵はアナクレオンティアの古典ギリシャ語で書かれた蜂とクピドの詩を元に描かれています。それもわざと言葉遊びをした解釈になっています。本来その詩にはクピドと蜂とウェヌスしか出てこないのですが、この詩を絵として描くためにマルスと、マルスとウェヌスとの間の三人の子どもたちも加えられています。この詩には指を怪我したクピドが出てくるのですが、それがずれた解釈によってウェヌスの指の傷に変換されています。他にも、クピドはバラの中で休んでいるのですが、それはバラ色の敷布の上で寝ているマルスになっていたりしています。《ヴィーナスとマルス》の絵の世界には、このような解釈をずらして描かれた絵がまず存在しています。その絵に対してメンミウスの後継者が落書きをしながら、元の絵についての彼の解釈や、絵に対してとった自分の行動、書き換えたあとの絵の描写などを語っています。その語っている内容が、このルクレティウスの『物の本質のついて』の冒頭にあるウェヌスを讃えている部分を言葉遊びをしてできる解釈です。このミンメウスの後継者の話の内容はすべて絵として表現可能なものなので、それによって表されているものは修正された絵の内容となります。そして同時にその絵は当然私たちが見ている《ヴィーナスとマルス》というわけです。《ヴィーナスとマルス》という絵が表わしている意味はルクレティウスの詩とはまるっきり違いますが、その内容をラテン語で表せば、ルクレティウスの詩そのものとなります。

上記の古典ギリシャ語の詩とラテン語の詩は以下の詩のことです。この二つの詩がこの絵の典拠と言えます。

Ἔρως ποτ΄ ἐν ῥόδοισι
κοιμωμένην μέλισσαν
οὐκ εἶδεν, ἀλλ ΄ ἐτρώθη
τὸν δάκτυλον. Πατάξας
τὰς χεῖρας, ὠλόλυξε·
δραμὼν δὲ καὶ πετασθεὶς
πρὸς τὴν καλὴν Κυθήρην,
ὄλωλα, μῆτερ, εἶπεν,
ὄλωλα,κἀποθνήσκω.
Ὄφις μ΄ ἔτυψε μικρὸς,
πτερωτὸς, ὃν καλοῦσι
μέλισσαν οἱ γεωργοί.
Ἡ δ΄ εἶπεν · εἰ τὸ κέντρον
πονεῖ τὸ τῆς μελίσσης,
πόσον δοκεῖς πονοῦσιν,
Ἔρως, ὅσους σὺ βάλλεις;

 

AEneadum genitrix hominum divumque voluptas
Alma Venus: caeli subter labentia signa
Quae mare navigerum: quae terras frugiferenteis
Concelebras: per te quoniam genus omne animantum
Concipitur. visitque exortum lumina solis.
Te dea te fugiunt venti: te nubila caeli:
Adventumque tuum: tibi suaves daedala tellus
Submittit flores: tibi rident aequora ponti:
Placatumque nitet diffuso lumine caelum.
Nam simul ac species patefactast verna diei
Et reserata viget genitabilis aura favoni
Aeriae primum volucres te diva: tuumque
Significant initum perculsae corda tua vi.
Inde ferae pecudes persultant pabula laeta:
Et rapidos tranant amneis: ita capta lepore
Te sequitur cupide: quo quanque inducere pergis.
Denique per maria: ac monteis: fluviosque rapaces :
Frondiferasque domos avium: camposque vireteis
Omnibus incutiens blandum per pectora amorem    
Efficis: ut cupide generatim secla propagent.
Quae quoniam rerum naturam sola gubernas:
Nec sine te quicquam dias in luminis oras
Exoritur: neque fit laetum: neque amabile quicquam:
Te sociam studeo scribendis versibus esse:
Quos ego de rerum natura pangere conor
Memmiadae nostro: quem tu dea tempore in omni
Omnibus ornatum voluisti excellere rebus.
Quo magis aeternum da dictis diva leporem:
Effice ut interea fera munera militiai
Per maria: ac terras omneis sopita quiescant.
Nam tu sola potes tranquilla pace iuvare
Mortales : quoniam belli fera munera Mavors
Armipotens regit: in gremium qui saepe tuum se
Reiicit aeterno devictus volnere amoris:
Atque ita suspirans tereti cervice reposta.
Pascit amore avidos inhians in te dea visus:
Eque tuo pendet resupini spiritus ore.
Hunc tu diva tuo recubantem corpore sancto
Circunfusa super suaveis ex ore loquelas
Funde petens placidam Romanis incluta pacem.
Nam neque nos agere hoc patriai tempore iniquo
Possumus aequo animo: nec Memmi clara propago
Talibus in rebus communi deesse saluti.



posted by takayan at 03:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | ヴィーナスとマルス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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