2013年09月15日

《パラスとケンタウロス》と『変身物語』(1) これまでのこと

いろいろ書きかけばかりですが、今回からしばらくルネサンス期フィレンツェのボッティチェリ(Botticelli)が描いた《パラスとケンタウロス》(Pallas and the Centaur)と呼ばれている絵と、二千年前の詩人オウィディウス(Ovidius)の『変身物語』(Metamorphoses)との関係についてまとめていこうと思います。

ボッティチェリの神話画は不思議な描写ばかりで、これらはどうやら古典ギリシャ語やラテン語の言葉遊びで描いているためのようだと、このブログで以前から指摘しています。今回は《パラスとケンタウロス》の解釈を完成させたいと思います。

この絵は2年ほど前に一度考察しました。まず、この女性がパラスつまりアテナには思えなかったので、ケンタウロスと結びつきのある女神を探し、アルテミス(Artemis/Diana)ではないかと考えました。ケンタウロスが野蛮なケンタウロス族ではなく彼女の師匠であるケイロンだとしました。さらに彼女にはヨモギの葉がいくつか飾られています。ヨモギのラテン名はアルテミスに由来するアルテミシアです。これも彼女がアルテミスであることを示す記号ではないかと考えました。

そして最初に見つけた典拠となる文章が、ウェルギリウスの牧歌詩の一節でした。この詩の解釈を工夫すると、アルテミスとケイロンのことを描いているように思えました。ケンタウロスが苦悶の表情で足を曲げている様子や彼の乱れた髪、女神の額の飾りやツタで飾られた描写が、この絵の元になった文章であるように思えました。ここで女神がアルテミスであると確信をもったことで、今となってみればその確信は偽物であったのですが、とても重要な次の文章を見つけるきっかけとなりました。

二番目の典拠は、オウィディウスの『変身物語』にあるアクタイオン(Actaeon)の話です。その中にあるディアナ(アルテミス)の姿の描写の部分です。

Hic dea silvarum venatu fessa solebat
virgineos artus liquido perfundere rore.
Quo postquam subiit, nympharum tradidit uni
armigerae iaculum pharetramque arcusque retentos;
altera depositae subiecit bracchia pallae,
vincla duae pedibus demunt;

ここには珍しく槍をもったアルテミスが登場します。アルテミスは水浴びをするために身に着けているものを、侍女の手を借りて外していくのですが、その描写を言葉遊びで変換していくと、この絵の女神とケンタウロスの描写に近づけていくことができました。水の滴が女神の体を伝う描写のラテン語は流れるようなローズマリーと訳すことができ、この絵の不思議なツタの絡まった女神の描写に変換できます。他にも枝が生えているローブ、ゆるんだ弓と背負われた弓状の物なども『変身物語』から導くことができました。言葉遊びで変換されたこれらの言葉は、まさにこの絵の描写そのものになりました。

さらにもう一つ文章を見つけました。それは2世紀に書かれたパウサニアス(Pausanias)によるギリシャの観光案内『ギリシア案内記』(Ἑλλάδος περιήγησις)に記述されたプラクシテレスの作ったアルテミス像の紹介部分です。

τῆς πόλεως δὲ ἐν δεξιᾷ δύο μάλιστα προελθόντι ἀπ᾽ αὐτῆς σταδίους, πέτρα τέ ἐστιν ὑψηλὴ−μοῖρα ὄρους ἡ πέτρα−καὶ ἱερὸν ἐπ᾽ αὐτῆς πεποιημένον ἐστὶν Ἀρτέμιδος: ἡ Ἄρτεμις ἔργων τῶν Πραξιτέλους,
δᾷδα ἔχουσα τῇ δεξιᾷ καὶ ὑπὲρ τῶν ὤμων φαρέτραν, παρὰ δὲ αὐτὴν κύων ἐν ἀριστερᾷ: μέγεθος δὲ ὑπὲρ τὴν μεγίστην γυναῖκα τὸ ἄγαλμα.

彼女が全身を宝石で飾られていることなど、この部分を言葉遊びで変換したものもこの絵に表れてきます。これにより、一連の作品と同じように、古典の文書の中にしか残っていない古代の偉大な作品を当時のフィレンツェに甦らせることを、この絵を描いた目的の一つとしていたと考えることができます。

2年前はここまでが限界でした。これだけの記述があれば、十分だと思っていました。他は分からないので、残りは画家本人が考えた描写であるとしました。しかし、その後、《ヴィーナスの誕生》や《春(プリマヴェーラ)》のように詩全体が細かく絵の中に描かれていると解釈できることが分かってくると、この絵についてもその可能性があるかもしれないと思えてきました。この部分だけを選択し描写したと考えるよりも、アクタイオンの物語全体を絵にしたと考えた方が合理的でしょう。

まだ現時点では完全には解釈が終わっていませんが、今終わっている部分だけでも面白い結果が出てきました。ケンタウロスの表情は昔からラオコーン像に似ていることが指摘されていますが、その根拠と言える部分も見つかりました。またこの絵全体は薄く茶色に汚れて見えます。しかし、これは忠実に言葉遊びによる表現を描こうとしたためだと解釈できます。以前提示したケンタウロスがケイロンで後ろに見える船がアルゴ船だとする説は間違いだったと認めなくてはいけないでしょう。

同様に《ヴィーナスとマルス》(Venus and Mars)も以前ここで示した部分だけでなく、『物の本質について』(de rerum natura)の冒頭にあるヴィーナスを讃える文章全体を基に描かれているようです。これについてもある程度解釈はできていますが、《パラスとケンタウロス》の解釈が終わった後にここに書くことにします。



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2013年08月30日

地球ドラマチック「生きものはなぜ姿を変えるのか〜“変態”の不思議〜」について(1)

先日見た番組の感想。

番組名:
地球ドラマチック「生きものはなぜ姿を変えるのか〜“変態”の不思議〜」
ナレーター:渡辺徹
2012 BBC制作
チャンネル:Eテレ
放送時間:
8月17日土曜日午後7時00分〜午後7時45分
8月26日月曜日午前0時00分〜午前0時45分(再)
番組サイト:地球ドラマチック「生きものはなぜ姿を変えるのか〜“変態”の不思議〜」 – NHK

この番組は楽しみにしていた。このブログでアゲハチョウの変態について書いたりするくらい、興味がある分野である。さらに番組の中では、オウィディウスの『変身物語』にも触れている。これもこのブログで扱っている。そういうこともあって、なかなか楽しく見ることができた。しかし話が進むにつれて、何か論点が違うんじゃないかという思いを沸々と沸き上がってきた。これって生物の「変態」を詳しく説明する番組ではなかったのか。最後の考察部分では、まるっきり人間について語っているじゃないか。この違和感はどうして起きるのか?

まず、「変態」という言葉である。この番組のタイトルに出てくる単語であり、番組の中でしつこいくらい連呼され続ける言葉である。日本語で変態といえば、生物が形を変える現象を表す用語としての変態か、異常な性行動を示す変態のどちらかである。調べればさらに他の意味もあるが、性的な意味でのインパクトが強いせいで、生物の用語という文脈が無ければ、通常は性的に異常な人やその行動を表してしまう。この番組でも、45分の間、何度も出てくる「変態」が、ふとその意味で聞こえて失笑してしまう。この番組ではもちろん、生物が形を変える現象の意味で間違いない。そしてさらに番組を通してこの概念を拡大していく。しかし、明確な現象を表している用語の定義を変えることに強引さを否めない。どうしても番組内のこの言葉に違和感を覚えずにはいられない。

結局、この違和感は、このドキュメンタリーのテーマが、日本語の「変態」ではなく、原語である英語の「metamorphosis」であることからくるものだ。つまり、我々日本人からはこの番組は日本語の「変態」について考察しているふうに見えてしまうが、実はこれは英語の「metamorphosis」について考察している番組なのである。BBCが作った番組なのだから、確かにそうである。日本語の「変態」を対象にしていると思ってしまうと、その用語で呼ばれている生物の形を変える現象だけが重要な番組のテーマだと感じてしまう。そこに文学における「変身」の解説が出てきても、とても場違いな挿入にしか感じられない。しかし文学における「変身」も英語では「metamorphosis」であり、オウィディウスの『変身物語』も『Metamorphoses』(metamorphosisの複数形)という名前であり、カフカの『変身』も英語では『The Metamorphosis』というタイトルであることを知れば、この文学における「変身」の解説も、このドキュメンタリー内で一貫した「metamorphosis」という概念の解説であることがはっきりする。そして番組を通してみると、この文学における「metamorphosis」は、生物における「metamorphosis」と同等もしくはそれ以上に重要なものとして扱われていることが分かる。番組の中でも、ちゃんと「変態という概念には、二つの意味があると思います。生物学的な意味と小説などにみられる隠喩的な意味です。」と変態の定義が述べられている。しかし、どうしても日本語の「変態」に隠喩的な方の意味を乗せることができず、番組内でも変身や変化という言葉で言い換えてしまう。せっかく二つの意味があるとしたのに、「変態」という言葉が出てくるたびに、生物の用語としての意味に引き戻されてしまう。

日本語版のタイトルにも問題がある。「生きものはなぜ姿を変えるのか〜“変態”の不思議〜」。この言葉に誘導されて番組を見れば、生物の様々な変態を扱った番組だと先入観を持ってしまう。確かに、これは今まで見たこともない美しい映像で詳しく変態の様子を見せてくれる番組である。しかし全体を見終われば主旨はそれを超えた深いものであることが分かる。生物の変態に関する取材は、文学における「変身」とともに、最後の考察を導くための準備に過ぎない。この番組が最終的に言いたいのは、metamorphosisという概念を通して見た「人類とはいかなる存在なのか」である。

そもそも、このドキュメンタリーの主張そのものを日本語版が伝えようとしていない節がある。NHKのサイトにあるこの番組案内は次の言葉である。

地球ドラマチック「生きものはなぜ姿を変えるのか〜“変態”の不思議〜」

チョウやカエルなど、同じ生きものが成長の過程で全く違う姿に変わる“変態”。過酷な環境で生き残るための重要な戦略だ。変態がどのように起きるのか、最新科学でひも解く

毛虫からチョウへの変態。サナギの中をX線で観察すると、羽や足だけでなく、呼吸器などあらゆる組織がダイナミックに変化することがわかる。この大変身の背景には子孫を残すための重大な戦略が…。オタマジャクシは、より生き残る確率が高くなるよう、自ら変態するタイミングを決めるという。バッタの大群が畑を襲い、農作物を食べつくすのも変態のなせる技。さらに人間も“変態”する…!?(2013年イギリス)

完全に生物の用語としての「変態」についてだけ語られた番組案内である。タイトルだけでもそうだが、これでは実際見た内容の構成に違和感を覚えてもしょうがない。

ただ、これはBSでやっているドキュメンタリーではなく、子どもたちでも興味を持ってみることができるドキュメンタリー枠の番組である。最後の考察は哲学者の解説まで引用されるちょっと難易度の高いものである。だから、すっぱり生物の「変態」だけに限定し、分かる者だけ分かればいいと割り切る必要があったかもしれない。最新科学が映し出す様々な変態の映像は見る価値がある。実際、感動する。それだけでも心に刻まれれば、向学心の大きな糧になるだろう。内容に違和感を覚えてそれに疑問を持った者だけ、僕のように自分で調べて、その先を見ればいいのかもしれない。

BBCのサイトにあるこの番組の案内文を引用する。
BBC Four - Metamorphosis: The Science of Change

Metamorphosis seems like the ultimate evolutionary magic trick - the amazing transformation of one creature into a totally different being: one life, two bodies.

From Ovid to Kafka to X-Men, tales of metamorphosis richly permeate human culture. The myth of transformation is so common that it seems almost pre-programmed into our imagination. But is the scientific fact of metamorphosis just as strange as fiction or... even stranger?

Filmmaker David Malone explores the science behind metamorphosis. How does it happen and why? And might it even, in some way, happen to us?

しっかりと、文学におけるmetamorphosisについての説明があり、生物のmetamorphosisだけでなく、広い意味でmetamorphosisという概念を考察する内容であることがうかがえる。



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2013年06月17日

『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』を読んで

最近、この本を読んでいた。スティーヴン・グリーンブラット著『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』。2012年のピューリッツァー賞一般ノンフィクション部門を受賞した作品。紀元前に書かれ、世界から失われていたはずの『物の本質について』の発見とそれがもたらした世界の変化を描いた物語。著者のスティーヴン・グリーンブラットはシェイクスピアおよびルネサンスの研究家。

『物の本質について』は、古代ギリシャのエピクロス派の世界観をラテンの語の詩の形で表した作品である。エピクロス学派は唯物論、原子論、快楽主義、死後の世界の否定などがその特徴である。キリスト教と完全に相反するためキリスト教化された西洋において、その思想は中世には完全に失われてしまっていた。ただ他の古典の中などでルクレティウスの名前が引用されており、知識人たちはそれが過去に存在していた重要な作品であることを知っていた。

その作品が、歴代のローマ教皇の秘書であり、人文学者であったポッジョ・ブラッチョリーによって1417年に発見された。この発見にまつわるで出来事を、この本は多面的に描き出している。ペトラルカのように古い写本を求めて修道院の図書館を訪ねる人々の話や、そのままでは朽ち果ててしまう書物を生きながらえさせるため各地の修道院が黙々と続けていた写本のシステム、ポッジョが属していたローマ教皇庁の内幕など、様々な情報を示しながら、どうして彼がこの本と出会えたのかを明らかにしていく。

それにしても、この日本語のタイトルは、やはり大げさな感じがする。解説にも解説なのにちょっと皮肉っぽく書かれている。一冊の本で世界は変わるわけはないだろう。しかし、『物の本質について』を中心に置いて、中世から近代への動きを眺めてみると、確かに今までとは違った見方ができるようになる。写本され、出版され、広がっていったこの本が手本になっていたとすると、画期的な思想で世界を変えてきた科学者や思想家、芸術家や文学者の言動が、納得できるようになっている。そういう情報の並べ方をしたのだから当然そう感じられるのだろうが、とても面白い切り口である。当時この詩にしかエピクロス学派の詳しい思想はなかったのだから、この詩の内容が人々に知られるようになったかどうか、これほど分かりやすい境界線は見つからない。

原題は『the swerve』である。本文中ではこの語は「逸脱」と訳されている。これをそのまま日本語のタイトルとして採用してしまっていたら、何の本だか分からなかっただろう。和訳本のタイトルの方が、大げさだがこの本の内容を確かに分かりやすく表していると思う。しかしこの語 swerve は、この本を読み解くためのとても重要なキーワードである。原書ではそれをタイトルにすることで、そのことを力強く強調している。そしてこの言葉が表すものを理解していくことがこの本を読む醍醐味だといえる。残念なことに和訳本はその問いそのものを放棄し、その楽しみを読者から奪ってしまっている。著者が長い序文の中に「したがってこれは、世界がいかにして新たな方向へ逸脱したかの物語である。」とさらっと書いていても、「逸脱」という言葉が本文中の重要な場所で何度も繰り返し出てくるのに、原題のタイトルの和訳がこの語であることに気づかなければ、この本が伝えているいくつかの情報を見落としてしまう。

swerve はルクレティウスの使った用語であるラテン語の clinamen の英訳である。clinamen (動詞として現れるときは declino) は『物の本質について』の原子論の中に出てくる重要な概念である。原子がただ単純に規則的に運動しているだけならば、衝突することもなく、結びつくこともなく、この世界では何事も起きはしない。しかしこの世界は事象と物質に満ちている。その理由こそが、clinamen である。これは原子にまれに起こる無秩序な「斜傾運動」(岩波文庫刊樋口勝彦訳)のことであり、これにより、原子はぶつかり、結合し、世界中のあらゆる事象と物質を形作るとされる。原子論といえばデモクリトスのものがよく知られているが、この swerve は、ルクレティウスが伝えるエピクロス派原子論の重要な特徴である。さらに面白いことに、原子の swerve は人の自由意思の源であるとされる。

swerve(逸脱) についての説明はグリーンブラットのこの本の中に詳しく書かれている。しかし swerve がこの本のキーワードであることが、この和訳ではわかりにくいため、これらの言葉が『物の本質について』の主要思想の単なる解説にしかなっていない。それが分かればそれで十分かもしれないが、swerveが原書のタイトルであり、その訳がこの本の中では「逸脱」であると分かっていれば、すぐにこう気付くだろう。swerve(逸脱) が、中世のキリスト教社会に突然現れた美しく逸脱した『物の本質について』という本そのものも表し、そしてさらにルネサンス期以降、この本に影響を受けたキリスト教的価値観にとらわれない人々の自由意志の源として見事になぞらえているということを。

最後の章の一つ前である第10章の日本語の章名が「逸脱」である。英語だと複数形の Swerves である。後もう少しで読了というところで、この章名に辿り着くと感慨一入となる。ポッジョが見つけ出した一冊の「逸脱」が、人々を刺激し増殖し、たくさんの「逸脱」を生み出し、私たちの今いる世界を形作り始める。具体的には、ポッジョの仇敵ロレンツォ・ヴァッラ、『ユートピア』で有名なトマス・モア、そしてジョルダーノ・ブルーノが紹介される。ルクレティウスが古代から伝えてくれた画期的な世界観をもとに、それと相反する千年以上かけて社会全体に空気のように浸透しているキリスト教由来の常識や、自分自身の倫理観との妥協点を見つけながら、そして異端者であるとみなされてしまう破滅を際どく避けながら、人々が新しい世界観を手に入れていく様子が描かれていく。その中でブルーノの火刑という悲劇も起きてしまった。それを受け「死後の世界AFTERLIVES」というこれまた、意味深な言葉の最終章へと続き、この詩に影響を受けた世界を変えた人々を描いていく。

正直、『物の本質について』の内容は、今の私たちにとっては陳腐であったり、理解しがたい間違ったものに思えてしまう。大地が世界の中心であるとし、またそれが球形とは考えていない点で、今の私たちにとっての完全な答えではない。しかし神秘を使わず論理を駆使して、世界の事象を説明しつくしていく姿に圧倒される。素朴な観察の積み重ねによって二千年前にここまで到達できていたことに驚かされる。キリスト教に配慮する必要もないため、ためらいもなく小気味よく世界の本質を語っていく。気象現象や宇宙の成り立ち、神々を用いない人類文明の起源、恋愛を中心に人の心の様々な動きまでも、あらゆるものを思考の対象とし客観的に見つめていく。これを読むことで中世の人々もその態度を獲得できただろう。

久しぶりに楽しい読書体験ができた。きっかけは、この本がボッティチェリの作品と『物の本質について』の関係について触れているのを知ったためであるが、読んでよかった。ボッティチェリの作品への影響については、残念ながら従来の考え方を超えるものはなかった。しかし確かにこの『物の本質について』は当時のフィレンツェでも入手可能な状況にあったことがはっきりした。それが分かれば十分だったが、この本は期待以上のものだった。



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2013年05月29日

キアゲハの幼虫

IMAG1222.jpg今日の夕方、庭のミツバの葉を食べてた二匹のキアゲハの幼虫の写真。 キアゲハは飛んでるときは、普通のアゲハチョウとほとんど区別はつかないけれど、このように幼虫のときは、全く違う。 6cmぐらいの大きさで、黄緑色の地の色に、黒い帯がいくつも並んでいる。その黒のそれぞれの中に数個のオレンジ色の点が等間隔にある。みかんの木にいる目玉模様の幼虫とは違って、何か毒々しい配色になっている。 昔見かけたときはパセリを食い尽くされたが、今日はミツバの葉をがつがつ食べていた。


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2013年04月02日

《春(プリマヴェーラ)》と『祭暦』

《プリマヴェーラ》の描写と『祭暦』の記述との関係は19世紀末から指摘されていたことです。その5月2日の記述にこの絵の9人中6人が描かれています。ホーラの口からバラの息を出す記述はこの絵の描写を十分連想させてくれます。しかし、この絵の主役であるはずのヴィーナスがいないことや、完全な一致が見られないことなどから、ほんの少し参考にした程度で、出典そのものだとは考えられてきませんでした。

しかし、このように『祭暦』の記述を言葉遊びによって変換すると、この絵の描写を導き出すことができました。以前も花柄の服を着た女性が一人きりの季節女神ホーラであることを同様に『祭暦』の文章の言葉遊びから説明しました。

当然、他の記述もこの絵の描写に変換できないか考慮する価値があるでしょう。実のところ、ホーラが一人であると解釈した頃いろいろ挑戦してみましたが、そのときは難しすぎて解けませんでした。でもこの前の解釈で十分確信が持てたので、再度『祭暦』の5月2日の記述を解釈することにしてみました。

該当する部分は『祭暦』の第5巻213-228です。この部分が意味的に一つの段落になっていて、ゼフュロスから婚資に贈られた庭園の美しさを記述してあるところです。

saepe ego digestos volui numerare colores
nec potui: numero copia maior erat.
roscida cum primum foliis excussa pruina est,
et variae radiis intepuere comae,
conveniunt pictis incinctae vestibus Horae
inque leves calathos munera nostra legunt.
protinus accedunt Charites nectuntque coronas
sertaque caelestes implicitura comas.
prima per immensas sparsi nova semina gentes!
unius tellus ante coloris erat.
prima Therapnaeo feci de sanguine florem,
et manet in folio scripta querella suo.
tu quoque nomen habes cultos, Narcisse, per hortos,
infelix, quod non alter et alter eras.
quid Crocon aut Attin referam Cinyraque creatum,
de quorum per me volnere surgit honor?

この部分の日本語での内容を高橋宏幸氏訳の国文社刊『祭暦』から引用すると次のようになります。

何度も私は、いったい何色あるのかと、並んだ花を数えたいと思いましたが、できませんでした。数が及ばないほどたくさんだったのです。朝露の滴が葉からこぼれ落ち、色とりどりの草花が日の光に暖められるや、ただちに彩り鮮やかな衣を身にまとった季節女神ホラたちが集まり、私からの贈り物を籠に摘んでゆきます。それにすぐさま優雅の女神カリスたちも加わって、冠を編み、編んだ冠を神々しい髪に結ぼうとします。私がはじめて数え切れないほど多くの民族のあいだに新しい種子を蒔き広めました。それ以前の大地にはただひとつの色しかありませんでした。テラプネの町の美少年の血から咲かせたのも私が最初です。それで嘆きの言葉が花びらに残っているのです。ナルキッススよ、あなたの名も丹精した庭に見られます、おまえ自身がおまえと別人でないおまえの相手となった不幸な者よ。クロコスやアッティス、それにキニュラスの息子のことをどうして語る必要があるでしょう。彼らの傷を讃える花は私の力で育つのです。

このままではカリスたち(三美神)ぐらいしかこの絵の描写に生かせる部分はないでしょう。

このラテン語を、この絵に合うように言葉遊びをして訳してみると次のように変換できます。以前訳した部分もありますが、それも少し修正しています。

度々私は撒き散らした物をひっくり返したので、
色を数えることができませんでした。大げさな大きな写しが不完全にあります。
まず複数の葉とともに露のある場所に白髪があります。
あらゆるcoma(髪、葉など)が枝によってぬるく(冷静に、冷たく)なりました。
ホーラの飾られた服に巻き付けられた物が集まっています。
彼ら(ホーラと胎児)は粗末な帯や急拵えの籠に私たちの贈物を集めています。
神聖な(空色の)comas(髪、葉、羽根飾りなど)にかぶさろう/混ぜ合わそうとしている物が、丸いものや散らばる物をくっつけています。
私は新しい若木を無数のつぼみとともに撒き散らしました。
一つの色で着色された表面が不完全にあります。
まず、メヒシバ(sanguine)のところでスパルタ人(ヒァキントス)の花を咲かせました。
そしてその葉のところには嘆きの言葉が残っています。
うぬぼれやさん!あなたもまた飾られた庭という名のものを持っています。
それは何も生み出しません。あなたはあなた以外の者ではありませんが、同時にあなた以外の者になっています。
私がクロッカスやアッティスから作り出したかもしれないもの(サフラン/クロッカス、スミレ)、そしてキュラニスの息子(アドニス/フクジュソウ)、
それらのめしべのところで尊敬する人は私とともに飛んでいます。

これだけではわかりにくいですが、こう訳すと絵の描写を説明できるようになります。詳しいことは後日書きますが、この中でとくに重要なものをいくつか上げておきます。

 

roscida cum primum foliis excussa pruina est

pruina は白霜のことですが、詩的表現では白髪という意味もあります。この絵の中で白髪の者はいません。しかしそれぞれの頭を見ていくと、クピドの目隠しの帯が頭の後ろで揺れていて白髪のように見えます。そして彼の顔の周りに露のような丸い小さな塊が描かれています。他の場所には白い小さなつぼみが描かれていますが、特にこの場所のものが球形になっていて、葉に付いている本物の露として描かれているように見えます。

この訳は次のようにしました。「まず複数の葉とともに露のある場所に白髪があります。」

pruina

 

inque leves calathos munera nostra legunt.

これは以前訳したものですが、主語を修正します。中央のマイアが妊娠しているという結論を先日導いたので、ホーラのお腹も無視することはできないでしょう。バラの蔦でできた帯も、裾をたくし上げて作った籠も出っ張ったお腹を使って花を支えています。この文の動詞は三人称複数なので、ホーラとお腹の子どもの二人を主語にするとうまく解釈できるようになります。

このように訳してみました。「彼ら(ホーラと胎児)は粗末な帯や急拵えの籠に私たちの贈物を集めています」。つまりお腹が大きく描かれている理由は、記述の通りに主語を複数にするためだということになります。

それにしても左肘の内側にこっそりある焦げ茶色の物体は何でしょう。もっと解像度の高い画像があれば判別できるかもしれませんがよく見えません。僕の説を裏付けるにはこの物体も言葉遊びで解決できなくてはいけないのですが、現時点では分かりません。

munera

 

unius tellus ante coloris erat.

下の図はフローラの透明な服にある草の模様です。一見向こう側にある植物の影のように見えますが、ちゃんと見ると服に描かれている模様としか考えられません。ホーラの服に描かれているカラフルな模様とは対照的な存在です。存在さえ気付かれないかもしれません。さらによく見ると、右のふくらはぎの後ろに色の付いた花があります。これは隙間から地面にある花が見えてるだけかもしれませんが、未完了過去が示す不完全な描写だとみなしてもいいでしょう。訳は次のようにしました。「一つの色で着色された表面が不完全にあります。 」

uniuscoloris

prima Therapnaeo feci de sanguine florem,
et manet in folio scripta querella suo.

この2行は、ヒァキントスの血から花のヒアシンスが生まれたという神話を踏まえた記述です。《プリマヴェーラ》には確かにヒヤシンスが描かれています。この絵に描かれている植物について研究した Mirella Levi D’Ancona の著作『BOTTICELLI’S PRIMAVERA : a botanical interpretation including astrology, alchemy and the medici』でも確かに指摘されています。下の図は花柄の服を着た女神の進んでいく足先にあるヒアシンスです。

この文の sanguine は sanguis の単数奪格で、sanguis の意味は「血」の意味です。この絵を見回して血らしい描写が見つからないので、この単語の別の意味となるかどうか調べてみると、イタリア語の辞書に sanguine という単語があり、その意味の一つとして雑草のメヒシバがあります。そう言われれば、花の周りにはたしかに雑草が描かれています。なおこの植物は先のD’Ancona の研究には指摘は無いようです。本来の訳ではこの奪格は起点の意味で訳されていますが、この絵では奪格の別の用法である処格的な場所を示す意味で使われたと考えることができます。

次の行は本来の解釈ではそのヒヤシンスの花びらに嘆きの言葉が刻まれているという内容の文です。ヒヤシンスの花びらに字を刻むのは読みにくいとは思いますが、そういう神話になっています。実際、この花を見ても何も描かれてはいません。でも葉を見ると何か白い模様があります。下の白いバラを描くときに、筆がすべった後のようにも見えます。folio は folium の単数奪格で、folium の意味には「葉」という意味もあるので、葉に文字があるという解釈も成り立ちます。

この2行は次のように訳しました。「まず、メヒシバ(sanguine)のところでそのスパルタ人(ヒァキントス)の花を咲かせました。 そしてその葉のところには嘆きの言葉が残っています。 」

ところで、この嘆きの言葉は何でしょう。ヒァキントスの物語は、オウディウスの『変身物語』10巻の162行から219行に記述がありますが、215行目にこの言葉が書かれています。

ipse suos gemitus foliis inscribit, et AI AI

つまり、ラテン語でその言葉は「AI AI」です。葉のシミを見ると丸いものと棒状のものが描かれています。棒状のものはアイ「i」に見えなくもないでしょう。丸いものは、Aの小文字というよりは、オー「O」のように見えます。そこでイタリア語で感嘆詞を調べると、辞書には「Oh」や「Ohi」がありますが、「Ohi」の別表記として、「Oi」というのもあります。もう少し解像度の高い画像があればきっとはっきりするでしょうが、これは「OI」が描かれていると考えて間違いないと思います。

hyacinth

 

とりあえず、こんなところです。最後に紹介したヒアシンスの嘆きの言葉は、この絵が言葉遊びで描かれていることの分かりやすい根拠になるでしょう。分かってしまえば、それ以外に考えることはできません。

以上のように、『祭暦』の上記の部分を別の解釈にすると、《プリマヴェーラ》のいくつかの描写を説明できるようになります。



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